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2012年4月16日 (月)

アーレント『人間の条件』と「瞑想社会論」

 今、総武線の中。日曜だが、自宅ではできない文書のドキュメンテーション作業があって、職場環境が必要で出勤途上。その方が仕事が早く、そもそも、作業で作ってきた頭のモメンタムをすぐに動かした方が、合理的。
 昨日は、家でできる公務の作業に目途がついた段階で、和室の整理。3・11で和室の本棚も倒れて、必要な整理をしていなかった。和室には、日本史のほかの本をおいてある。いわば方法論部屋。この一年、この部屋にいる余裕がほとんどなく、念願にしている歴史学方法論の再検討作業ができないままでいた。やっと「地震論」が終わったこともあって、この部屋の整理にかかる。まずは座机と座机の上の本棚の整理にかかった。

 座机の前に板を積んで簡易本棚を作っているが、それが1年前の地震で崩れた後に整理をしていなかった。この板本棚は煉瓦で台をつくってそこに板を横たえただけで、三段の棚になっている。地震の時にくずれてしまうということもあって、妻には不評だが、当面は、これで行かざるをえない。ただ、今回は、下から二段目を煉瓦三個分の幅にして、そこには文庫本をいれることにし、その上の三段目には新書・選書をおくことにした。こうなると軽い本ばかりで、しかも座机の上なので、大きな被害をあたえることもないとは思う。
 実際にやってみると、文庫本と新書が目の前に並ぶというのは別の効果もある。文庫にはどちらかといえば、古典的なもの、新書には自然科学をふくめた他分野のものが並ぶということになり、見通しがよくなる。とくに歴史学方法論に広い意味でかかわるものを机の前一列に並べると、何か仕事の枠がみえてきたような感じがする。

 よかったのは、ハンナ・アーレントの『人間の条件』がでてきたこと。先回、歴科協の会で久しぶりにあったT氏から藤田省三さんのアーレントについての座談のメモをみせてもらった。私は、藤田さんの仕事は、「支配原理」を大学の時代に読み、『安楽』も読んだが、全体としてはよい読者ではなく、真面目に読んではいない。ただ、石母田正さんが亡くなった後の追悼会の時(もう何年前になるのだろう)、懇親会の席が隣りになり、藤田さんから「今の若い人は、どう石母田さんを読むのですか」と聞かれて、「読みません」と答えたところ、藤田さんがぎょっとした顔をされたということがあった。
 私の発言の趣旨は、「読みません。石母田さんの仕事はすでにすべて読んで受けとめています。歴史学はそういう風に進んでいます」という今から思えば、これまた思いこみの強い言葉であったが、その信条を御説明したのを覚えている。「そうですか」ということだったが、その後、石母田さんの仕事の「国地頭論」に本格的に関心するということがあったのだから、その時の私の余計なミエをはったとでもいうのだろうか。しかし、その時の感じで、藤田さんが石母田さんを敬愛しているということがよく分かり、それ以来、何となく親しい感じをもっていた。T氏のメモには、藤田さんが石母田さんについて語っているメモもあって、二人の関係がよくわかったのもありがたかった。

 そういうことで、藤田さんがアーレントの『人間の条件』を高く評価している理由のようなものを考えていて『人間の条件』をこのまえから探していたのである。佐藤和夫氏などの訳した未定稿の大冊はあったのだが、肝心のこれがでてこなかった。

 いま、総武線の帰り。疲労もあって、気も散り、何よりも面倒な「離れ付箋」の処理があって思ったほど作業が進まなかった。

 さて、『人間の条件』はきちんとは読んでいないのだが、ところどころ線が引いてある。私は、国際キリスト教大学の出身なので、いわゆる「ソ連型」社会主義(あるいはいわゆる現存社会主義、自称社会主義)は、特殊な全体主義であるという論理を単にアメリカイデオロギーというのではなく(それもあったが)、それを静かに指摘するキリスト教神学の影響を知らず知らずに受けていたと考えている。いわゆる「現存社会主義」がたいへんに問題の多い、どうしようもないシステムであるというのは大学時代からそう考えていたが、それは全体主義というほかないものであると論文や講演で述べたのは、歴史学研究会の60■周年の講演会でのことであったと思う。その時に想起したのが母校での経験であり、そして(その時も十分には読んでいなかったが)アーレントの仕事であった。
 他方、歴史学方法論で、私がともかくあるところまで考えを詰めたのは労働論である。ところが、これもアーレントのいう活動(action)、労働(labour)、仕事(work)の区別にかかわる。藤田さんのアーレント評価が、ここにあることもいうまでもない。
 西洋哲学史をさかのぼり、アリストテレスから始める、アーレントの議論は労働論を素材として哲学史を切ったという意味で根本的なものであることは衆目の一致するところだろう。それが歴史語義論を素材としているという意味でも歴史家としては興味があることである。私などは三木清のアリストテレス論を思い出してしまうが、哲学の議論としても重要なものであることがよくわかる。それが一九世紀思想を越えた諸問題を追究していることは事実だと思う。これをともかく読み抜いて批判することが歴史学方法論にとっては本源的な問題と考えている理由である。そもそも、歴史学方法論において、どうしてもたたいておく必要のあるハイデカーとの関係でもアーレントを読むことは必須であると位置づけている。

 しかし、私は、アーレントの仕事をそのまま認めてよいとは考えない。それをそのまま認めていては社会科学者の一分が立たない。とくにアーレントが労働(labour)、仕事(work)の区別の議論を自分の独創であるかのようにいうのは、アーレントの経済学への無理解を示すように思う。アーレントが経済学的な議論には満足できないというのはよくわかるが、これはいわばハイデカーからの脱却が十分ではないのではないかというのが、私の観測。
 アーレントの見解に反して、社会科学は、経済学的な価値論レヴェルにおける労働の二重性論から出発して行かざるをえないはずである。つまり、labour抽象的人間労働とwork具体的有用労働の区別であって、これが基本的に重要なことは、右の歴史学研究会の60■周年のシンポジウムでの講演でも述べた通りである。歴史学などの社会科学にとって問題なのは、やはり労働の二重性論から精神労働と肉体労働の対立論に進み、社会の敵対的構成にまで進んでいく体系的な歩みなのではないだろうか。アーレントの議論は、「哲学的、あまりに哲学的」で、これでは現実の社会構造を社会の基礎から解いていくということにはならないと思う。

 もちろん、アーレントの仕事の意味は大きい。彼女の問題にしたレヴェルは価値論レヴェルを越えたものである。それはむしろ精神労働と肉体労働の対立という現実の現象としての支配、精神性の剥奪という意味での人間の物化をはらむ社会的分業の現実論にかかわってくる。精神労働と肉体労働の対立論、そしてそれに関係するレヴェルでの「都市と農村」論、さらにアーレントが展開した「公的領域と私的領域」論が、経済学のレヴェルではとけていないことは事実である。これはきわめて大きな問題である。私は、これをどうにかするというのがフェミニズムの議論とならんで、20世紀思想の最大の問題であったと思う。
 私の関心は、むしろアーレントの「活動」論にある。アーレントは、活動と観照(「瞑想」)を対をなすものと考えている。そして社会生活が「活動」を中心とするものとなり、「劇(act)」となる時に、社会の中に「永遠性」、「無世界性」、網野さんの言い方では「無縁」の自然そのものが立ち現れると述べているように思う。それによって永遠への観照・瞑想が復活するという訳である。それにそって、労働(labour)、仕事(work)が永遠の相の中で位置づけられねばならない。私は、こういう考え方に賛成である。

 私は、この本、『人間の条件』が好きである。20世紀思想のうちで現実との緊張関係をもって体系的な思索を展開したのが、ボーボワールとアーレントであるというのは、ある種の必然なのかもしれないと思う。この文庫本には中年になったアーレントの写真が載っている。右の佐藤和夫氏の訳した大冊にのっているおそらく20歳前後のどこにでもいるような「夢見がちな少女」としてのハンナの写真と比べると、ナチスに追われた時代の苦闘が反映しているような中年の顔。彼女は普通の学者ではない。彼女の文章は強く訴えるものをもっていると思う。

  アーレントの言葉は力強い。たとえば、
 「科学者の政治的判断を信じないほうが賢明なのは、科学者は、言論がもはや力を失った世界の中を動いているというほかならぬ、この事実によるのである」。
 「世界を、人々が結集し、互いに結びつく物の共同体に転形するためには永続性がぜひとも必要である」「公的空間は、死すべき人間の一生を越えなくてはならないのである」。
「人間事象の領域で許しが果たす役割を発見したのはナザレのイエスであった。たしかに、イエスは、それを宗教的な文脈の中で発見し、宗教的な言葉で明確にした。だからといって、それを厳密に世俗的な意味で真面目に考えなくてもいいということにはならない。許しというのは活動からかならず生まれる傷を治すのに必要な救済策である」。

 今は月曜。銀杏は緑。歴史学の公的空間は永続性をもったものとして成立しているはずではあるが、さてそこに「人々が結集し、物(史料)の共同態がある」かといえばそれは疑わしい。

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