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2012年4月 7日 (土)

突風と満員電車

 昨日、4月3日は、激しい突風。職場で帰宅を急ぐようにというアナウンスがあったこともあって、予定を切り上げて15時30頃に出る。東京駅のホームは満杯。乗車の列に並んでいたが、前の右側の列に4・5歳の男の子二人を連れた女性がいた。前から三人目くらいか、十分にすわれる位置にいて「子供がいるのです」と声を出しておられたにもかかわらず、座れず。電車はぎゅうぎゅう。子供をおしのけて座る人がいる。すごいものである。
 私は、声をかけて席を譲りますといったが、私の席は少し離れた奧で、また子供を抱えているのを第一とされたようで、途中までずっと一人の子供を抱えて立っている。少し、席が空いた後、みかねた若い女性が席をゆずって、やっと今度は座られたが、子供はこわがっている。少しひどいと思う。「我関せず」という訳。
 集団の肉体的圧力はすさまじい。我々は、毎日、この身体競争ですり減らされ、誇りを失い、屈託と不信を心の中に抱え込まされる。これでは、ものごとを正面から考えるのをさけるだろう。社会の表層は競争であるというのは、資本主義社会の本質的現象であるが、これが満員電車の身体的苦役であるというのは、日本の首都、東京に独特の風景である。先日、京都の朝の地下鉄に乗ったが、めずらしく混んでいたものの、東京のようなことはない。日本社会は、こういう風に人々をすりへらすことによって、競争だからしょうがないという諦めと恭順をやしなうことによって成り立っている。集団の中で諸個人をすり減らす力をもった巨大都市。これは東アジア的な風景であろうと思う。
 「交通戦争」という言葉ができたのは、1960年代ではないだろうか。集団の中で個人が身体的にもみくちゃにされるという意味では、たしかに戦争である。これは道徳の劣化という現象をもたらすが、毎日毎日、混んだ電車に乗らされていては、劣化するのも当然である。こういう集団都市、中枢都市を膝下におく社会。歴史家としては、これは奈良時代、平安時代以来のことだと余計なことをいいたくなるが、客観的には人間の都市動物化あるいは飼い慣らしというものだと思う。東京が「文化はてるところ」といわれるのは、根本的にはこのためである。怒り心頭に発する。


 堀田善衛は、『乱世の文学者』というエッセイ集で、人間に「幸福への意思」があるというのは信じられない。人間は「不幸への意思」によって突き動かされているといっているが、そのように人間がうち砕かれるのは、動物的競争にさらされるためである。そのもっとも直接的なのが、満員電車での押し合いと宙づりであるが、動物的欲求によって人々に矛盾をもちこむシステム一般ということになれば、その形態は無限である。

 その基礎にあるのは、いわゆる「性別役割分担」という、男女間の矛盾を拡大するシステムである。このシステムの中から生まれる「不幸への意思」の総量が、瘴気のように社会に立ちこめる。

 私は、二〇世紀思想における最大の達成をフェミニズム思想であると考えている。そしてその達成の中心にいるアメリカのラディカルフェミニズムが好きである。フェミニズムが「世界の中心」アメリカで成熟したということには独特の歴史的意味があるように思う。社会が男権主義的に編成されていることに対する徹底的な批判こそが自由にとって根本的である。これは単に政治的な「男支配」の問題でもなく、そこにおける「第二の性」、女性の不幸という問題でもない。社会の男権主義的編成ということ、それ自体ではない。この男女役割分担意識は、特別な冨なり、社会的地位をもっていない人々に、その不幸を「自業自得」と思いこませる機能をもっている。
 男女が自然の身体的接触への欲求をもち、ペアをつくっても、その相互関係には「男女役割分担」という強いヴェールがかかってくる。家族にとっては経済生活、日常生活の一体化が基本的な関係であるが、そこで最初から男の役割がきめられ、女の役割が決められているというのは、その役割がうまくいかない場合、必然的に男女のあいだの葛藤をみちびきだす。たとえば男としての「家計を豊かにする役割」を担えないというのは、男が自分に誇りがもてないという結果をもたらし、他方で、ペアをなす女が「女としての家事役割」を果たしていないではないかという不満を導びく。「家庭の豊かさ」というものを獲得できない条件は、本質的に社会的なものであるが、それが個々のペアの葛藤の中で、ここのペアの不具合の責任に帰されるということになる。「自業自得」。そもそも男女の関係は自業自得のところが多いだけに、そしてそれが日常的・身体的な葛藤であるだけに、この葛藤が男女の意識を強く規定する。こういう「男女役割分担」の意識は、特別に幸運だったり、特別に豊かであったりする諸条件がある場合を除いて、実際上、男女を不幸にする。これはきわめてストレスの強い原則で、人間に対する呪縛性の強いイデオロギーである。これが現代に固有に本質的なものであり、19世紀思想は、すべてそれを正面から理論的、構成論的にとらえることができていなかったというフェミニズム的な経済・社会分析に、私は賛成である。


 現実には、「家庭の豊かさ」というものは、その家庭が個別で獲得できるものではない。また獲得すべきものでもない。ヨーロッパ。たとえばハリー・ポターの作者の貧乏子連れシングル生活のことで有名になった、イギリスにおける住居保障・社会保障をみれば、それは空論ではないのである。それを「空論」というのが、日本社会における「無教養」の標識になっているのは、よく知られているであろうが、「家庭の豊かさ」というものは社会によって、できるかぎり平等に保障されなければならないものである。それは端的に言えば、子供のためであって、子供ができるかぎり平等な条件の中で成長していくこと、あまりに不利な条件をもたされることが適当ではないことは、良識ある社会においては誰でも認めることだろう。
 実際、人類における家庭と社会=共同体の関係は、長くそのようなものであったと思う。ところが現代社会は、それをすべて個々の家庭の責任であるかのように描き出した。これは、社会のもっている個々人への保障と責任を基本的な点ですべて放りだした社会システムである。人々を不幸に追い込むイデオロギーを社会的な雰囲気とし、人々を押しつぶすことによって、システムを維持する社会は、おそろしい。

 今日は、もう4月6日。今日、ひょんなことで、青柳和身『フェミニズムと経済学』(お茶の水書房)を、少し安く譲ってもらったので、夜11時、帰宅の電車で読んでいる。なつかしいボーヴォワールの『第二の性』を経済学的に検討するという本。いつ通読できるだろうか。

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