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2012年4月28日 (土)

ゲド戦記の翻訳と「燃える木」

Dscn2403  "A Wizard of  Earth Sea"、アーシュラ・K・ル・グィンのアースシーシリーズの第一巻、いわゆる『ゲド戦記』の第一巻、邦訳名『影との戦い』(岩波書店)の清水真砂子氏の翻訳で疑問があるのは、ゲドが師匠のオギオンから杖=Staff=スタッフをあたえられるところの翻訳である。
 
 そこはこうなっている。
"There," said Ogion, and handed the finished staff to him."The archmage gave you yew-wood, a good choice and I kept to it. I meant the shaft for a long-bow, but it's better this way. Good night, my son".

 ここのところの清水氏の翻訳は下記のようになっている。
「さあ、どうじゃ。」とオジオンは言って、できあがった杖をゲドにさしだした。「大賢人さまがそなたにイチイの木を下さったんじゃ。よい品でな、わしが大切に預かっとった。大弓の矢柄にとも思ったが、これにしてよかったわ。では、おやすみ」

 私は、この本を、最初、清水さんの翻訳で読んだので、清水さんの翻訳にはあまり違和感はない。よい翻訳だと思う。しかし、この部分は、このファンタジーの全体の理解にも関わってくるので、直すべきだと思う(あるいは最新版ではなおっているのかもしれないが、そこまでは追っていない)。
 
 こういう本を歴史家で読む人は少ないかもしれないので、前後の脈絡を説明しておくと、大賢人というのは、正規の師匠であって、その師匠からゲドという若いWizardは、「イチイの木でできた杖」を受けとった。しかし、その杖は、ゲドが異郷で追われ、傷ついたときに、失われてしまった。傷ついた、この若い魔法使いが助けをもとめて飛び帰ったのは、故郷の山であった。故郷で最初に師事し、育てられた本来の師匠、オギオンの山の上の家であった。敗北し、心身を破壊されたゲドは、そこでオギオンによって立ち直った。そして旅立ちの日の前に、オギオンは雪の降る谷間にでかけて、杖にするためのイチイの木をきってきて、それを午後一杯かけて「杖」に作り、それをあたえたというのである。それをあたえるときの場面が上記の部分である。

 清水氏の翻訳では、正規の師匠である大賢人は、ゲドに「杖」を与えながら、それが失われることを予測して、しかもそのゲドが最初の師匠のところに立ち戻ることを予測して、イチイの木をあたえてあり、オギオンは、その木を谷間に植えて大事に管理していたが、予測通りに、ゲドが戻ってきたので、大賢人との約束通りに、それを杖にしてゲドにあたえたということになる。
 けれども、上記の部分は、正しくは下記のように訳すべきであると思う。
原文をもう一度掲げる。

"There," said Ogion, and handed the finished staff to him."The archmage gave you yew-wood, a good choice and I kept to it. I meant the shaft for a long-bow, but it's better this way. Good night, my son".

 「これを」といって、オギオンはできあがった杖をゲドに手渡した。「大賢人の杖と同じイチイの木の杖だ。そなたにはイチイの木がえらばれている。わしもそれが正しいと思う。昔は、おまえに長弓の矢柄をあたえることになるのかと思ったこともあったが、結局、こういうことだったのだろう。おやすみ、我が子よ」。

 少し、直訳からずらしたが、もっと直訳すると、下記のようになろうか。

 「これを」とオギオンは言って、できあがった杖をゲドに手渡した。「大賢人はおまえにイチイの木(の杖)をあたえた。その選択は正しく、私はそれにしたがった。私は、おまえに長弓の矢柄をあたえようと考えていた。けれども、結局、これがよかったのだろう。おやすみ、我が子よ」。

 清水さんの翻訳には三つ誤りがあって、第一は"a good choice"というのを 「よい品でな」と訳したことで、これは字義通りに「よい選択」で問題ない。つまり、大賢人がイチイの木を杖の素材として選択したのは正しいということである。第二は"kept to it"を「わしが大切に預かっとった」と訳したことで、keepを預かる、保つという意味で読んだということになる。"kept to"というのは、辞書によると、判断を維持するというようなことで、"stick to"と同じような意味である。
 第三は、"I meant the shaft for a long-bow"の部分で、この部分を清水さんは、「大弓の矢柄にとも思ったが」と翻訳して、オギオンは谷間で切ってきたイチイを「杖」にするのではなく、つまり「杖」をゲドに与えるのではなく、武器をあたえようと考えたという翻訳になっている。これは微妙なところではあるが、杖をなくしたWizardにはまず杖を与えるのが必須であるし、ゲドがオギオンの家にたどり着いて、すぐに、オギオンーゲドの師弟関係が他に優先することが確認されているのであるから、木を切りに谷間に降りていくオギオンは最初から「杖」のための樹の枝を切りにいったと考えるほかない。
 そうだとすると、この部分は、オギオンは、ゲドが大賢人が「杖」を与えられた後に、特別な贈り物として「長弓の矢柄」を与えることになるかもしれないと考えていたと翻訳するほかないと思う。辞書によると"meant for"は、「物をーーに与えるつもりである」という意味で、"a new building meant for wheat storage"などという例文がある。ようするに、オギオンはゲドが何らかの戦いに面することを予測し、戦いのための武器を与えることになるのではないかと考えていたということなのではないだろうか。meantは明瞭な過去であろうと思う。

 今日、やや憂鬱なこともあって起床が遅くなり、ペーパーバックを読んでいて、このことを書こうと思って再確認。以上の訂正が正しいかどうかは別として、これを書いていて思ったのは、「翻訳というのは、ともかく原文があるので、読者に決定的なダメージを与える訳ではない。これに対して、編纂というのは、原史料から活字に起こすことなので、ダメージは大きいことになる」ということ。ゴールデンウィークに入って、しばらく編纂仕事からは解放である。

 またもう一つ考えたこと。先週、上智大学の北條勝貴氏に「樹霊はどこにゆくのか」(『アジア民族文化研究』などをいただいて、あらためて考えたが、私は、「樹木と光」ということに興味があって、ル・グウィンのファンタジーにある「杖」の様子を、そのイメージを考える参考にしていたように思う。「杖」が強い光を放つ、あるいは「杖」の上に闇を照らす光が生じるなどいうイメージである。アースシーシリーズには、光をおびた杖、燃える杖が飛翔して、閉ざされた門を打ち開くなどというイメージもある。その意味では「杖」のイメージは矢のイメージに繋がる。
 ようするに、これは「燃える樹木・枝」のイメージであるが、最初の写真は、一昨年、奈良女子大学の小路田泰直氏に案内してもらって生駒神社に行った時、階段をあがっていった右手にあった落雷を受けた樹の写真である。これを霹靂樹といい、そこに雷神が宿ったことは「腰袋と桃太郎」(保立『物語の中世』)などで述べた。日本においても雷神がすべての原点にすわるのだと思う。そして、ホトケとは熱気のことであるというのは、同じく『物語の中世』におさめた「ものぐさ太郎論」で述べたことであるが、ホトケの熱気の原型も雷神である可能性が高いように思う。これは宮田登『日本の民俗学』(講談社学術文庫』97頁)で述べた柳田・有賀・藤井などの「ホトケ」論争にふかく関わってくる。

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