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2012年5月

2012年5月30日 (水)

歴史学研究会大会出席の電車で益田さんを読む

 26,27.土日は歴史学研究会。会場は府中の東京外国語大学。
 土曜日午前中、総会にでようと思ったが、やや遅くなってしまい、周辺を歩いた。私はすぐ側の国際キリスト教大学の出身なので、さすがになつかしく、「永遠の今」という感じである。しかし、「永遠の今」という「生の哲学」の決めフレーズは、年をとってくると、「生」の生き生きした時の流れよりも、重荷の変わりなさを表現するような言葉であるように感じる。同じような間違いと同じような人格をもって経過してきた「時間」なるものの感覚である。とくに一種の頭脳労働をやっていると、自分の中で時が過ぎ去らない、未処理物が堆積していることの内覚であるようにさえ感じる。
120526_115336  多磨墓地周辺から野川公園まで歩き、大学の裏門まででてしまった。野川の橋にはキチンとした記憶が残っていないが、その先の、先輩・友人のたまり場となっていた下宿は、たたずまいが残っていた。そここに友人がいるような感じさえする。馬鹿なことをつぶやくようだが、内覚が同じであるのは悪いことばかりではない。
 歴史学研究会編で『震災・核災害の時代と歴史学』がでて会場で販売されている。私も書いているが、矢田俊文氏の論文が、歴史地震の研究は歴史的景観、歴史地形の復元のために必須であることを強調しているのに強い印象をもつ。国土をよく知るということが歴史学の基礎ということはわかりきったことだが、「書斎派」で、そういう経験を積み上げてこなかった私には耳がいたい。矢田さんは津波による海岸地形の変化を早くから追求しているだけに説得性がある。たしかに歴史地震の研究は、地形の変遷の研究や気候学との連携をふくめるときわめて重要になってくる。
 行きの電車で益田勝実氏の『国語教育論集成』(筑摩文庫益田勝実の仕事5)を読む。6月に国語の先生方を前に講演をすることになっており、以前から読み通す予定であったものを、ともかくもすべて読み通す積もりで読んでいる。
 この『国語教育論集成』は益田さんが何を考え、実践者として、どこを重点として生きてきたかを知るためにも必須の本である。これは、この文庫が編まれるまではなかなか見ることのできなかった文章であるから、この文庫の意味はきわめて大きいと思う。編者は(元)法政二高の幸田国広氏。歴研で、やはり(元)同高校の長坂伝八氏に久しぶりにあって、感動したと伝える。
 第一の収穫は、益田さんの柳田国男の読みの深さを再認識したこと。右にふれた矢田氏の発言との関係で、益田さんが引用している柳田国男の『雪国の春』に収められた「草木と海と」という文章の一節を引用しておきたい。

 「歴史以後にも日本の海岸は大変な変化をした。土が流れて磯を埋めた区域が、落込んだ部分(埋め立て)よりはずっと広かったかと思ふ。浪速から中国へかけての新田には中世まで白帆の船の走っていたところが多い。大小の島々は堤に繋がれて陸地となり、その陰をいまは汽車が往来している。しかしこれと同時に砂浜の威力も段々に怖ろしくなった。風は昔も強く吹いたのだが、吹きよせて積み上げる砂小石は、近代に入って益々増加した」。

 益田さんは、柳田の「経世済民」の志向に全面的に賛同している。それはやはりその通りなのかもしれないと思う。私も歴史学の研究者として「保守主義」ということを考える上で、柳田の位置が大きいことがよくわかる。

 歴史学研究会の全体会では、渡辺治氏が、「九条の会」への「保守」の人々の参加の意味がどこにあるのかを論じた。大江健三郎さんなどがいわゆる新自由主義による社会の破壊に対して、抵抗する動きをするのは当然であるが、新自由主義が保守の人々に強い危機感をあたえている状況は、身に迫っていくる問題である。興味深く聞いた。アラブ史の長沢さんの報告にも感銘。できれば時間をとってメモを残したい。
 それにしても「新自由主義」という言葉はどうにかならないものかと思う。アメリカのイラク・アフガン攻撃を主唱したネオリベラルの翻訳語なのであるが、これは彼らの自称であって客観的な規定ではない。
 

2012年5月29日 (火)

地震火山65地震学の方々と

 24日(木曜日)は、幕張で地震研の都司先生、平田先生と座談会。
 都司先生は、膨大な江戸時代史料は地震学と防災にとって必須なものと強調される。調査経験を語られる中で、地震・津波の調査に行くと鹿島社にぶつかることが多い。鹿島社に先行されている。ここで地震・津波があったのをいまごろ気づいたかといわれている感じがするという述懐が印象的。
 平田先生は、地震学は自然科学であり、細かく細かくなってきた。阪神大震災後に蓄積された地震の膨大な精密な情報、そして3,11の後の日本の地盤の揺れの驚くべきデータの解析は、研究をさらに細かく細かくしているが、社会的災害の問題を考えることが、広い視野を確保するために必須になっているとおっしゃる。


 私は、歴史学の枠組みの中でまず議論がされなければならないこととしては、第一には政治史と地震・噴火の密接な関係、第二には神話と地震・噴火の問題があると御報告。前者は、歴史学研究会から発刊された『震災・核災害の時代と歴史学』に載せてもらった「地震・原発と歴史環境学ーー九世紀史研究の立場から」という文章と同趣旨。つまり、大仏建立には河内大和地震の影響があり、背後には長屋王の怨霊の問題があった。そして九世紀陸奥海溝地震と前年の播磨・京都地震も、伴善男の怨霊に帰せられた可能性があるという話である。
 また、歴史学界では阪神大震災の経験から各地で地震に際しての歴史史料のレスキューと保存のために行動するネットワーク組織が形成されている状況を報告し、歴史学者は、その第一の職能的な義務として現在に伝わった歴史史料、広い意味での歴史的文化財や歴史的環境を将来につないでいくということをおわされていること、そして、東北の平川新氏がいう防災の基本は歴史史料の保存と解析にあるという問題を御紹介。都司先生も平田先生も、その体制を強化しなければならないとされていた。


 なお、最近の落雷・竜巻についても話題。私は、日本の神話の神々、自然神のトップはタカミムスヒという神で、彼は雷神。これはギリシャ神話のゼウスや北欧のオーディンが雷神であったこと、そして中国の神々も雷神であったことに対応している。これは自然界の激しい運動の中心には雷神がいるというのが神話的な考え方を示すが、これは当時としては、それなりに合理的な考え方というべきであることを説明。
 つまり、これは人々はが自然の現象の原因と結果を取り違えるためである。つまり、落雷は大地を震動させるが、そこから雷は大地を震動させる力をもつものだ、地震の原因は雷電にあるのに違いないということになる。また噴火の時には、火山雷が鳴り響き、火山性の地震が発生するが、これは事実としては噴火の結果なのにも関わらず、噴火を目撃した人々は、そうではなく、雷電が黒雲を呼び、地震を目覚めさせて、山を内側から破砕し、中の溶岩を噴出させるというように感じる。
 最近の落雷・竜巻をみていると、こういう雷・地震・噴火の三位一体の考え方というのは、日本列島に棲むものにとって非常に根が深い自然観だというように感じる。その意味でも、神話のもっている意味を、一つの自然観の問題としては、考えておいた方がよい、神話というものをもう少し文化の問題として大事にする方がよいと思うようになったと述べた。

2012年5月20日 (日)

『中世英仏関係史』とエリザベス女王

Cimg0311  これは自宅の卯の花。卯の花垣とはいかないが、ずっと前に、千葉の少し奥の方までいって、ウツギの枝を切ってきて、挿し木にしたものである。平安時代農業史にとっては、卯の花の季節性が重要というのが戸田芳実さんの意見で、ともかく卯の花を垣根にほしいと思ったことがなつかしい。この花をみると、いつも、早く仕事を片づけて、どうにかして経済史に戻ることを考える。
 久しぶりに自転車で出る。公園を通って、国道の脇を抜け、花見川の自転車ルートに降りてくる。
 昼食をしながら、『中世英仏関係史』(朝治啓三、渡辺節夫、加藤玄編、創元社、2012年4月)を読む。ヨーロッパ史の勉強は、我々の世代の「日本中世史」研究者で一般的な、大塚久雄先生の諸著作、森本芳樹氏の著作、M・ブロックの『フランス農村史の基本性格』『封建社会』、そしてブローデルを少しというところ。マルクス、ウェーバーその他、教養書を別にすれば、それだけしか読んでいない。この本は正確に読まねばならない。
 ヨーロッパの王家と貴族のヨーロッパ全域にわたる結合関係、親族関係を、1066年のノルマン・コンクエストから百年戦争が終わってから、1500年くらいまで、イギリスとフランスの関係が、ほぼ現国境を中心とした二国間関係に落ち着くまでの諸問題を扱った集団著作である。ノルマンディからガスコーニュまでのフランス西部の領有者、プランタジネット家がイングランド王を兼ねるという体制を、最近は「アンジュー帝国」というということで、「中世ヨーロッパ」を、新制ローマ帝国、カペー王朝、アンジュー帝国という三つの帝国を中心において見ていこうという趣旨になる。「一国史的にヨーロッパをみることはできない」という通説破壊の迫力は、「日本史」の場合よりも強力で実質的であり、説得性が高い。渡辺節夫さんからいただく。ありがたく勉強をしようと思う。
 渡辺さんは「制度・理論よりも人的要素が重視される時代」として、この時代を描いているが、前近代では日本も同じはずである。日本「中世」史の研究者でそういう方法を主張する人は少ないが、私は、「人的要素」で政治史を考えるのが正統だと思う。

 ただ、結局、それを前提にした上で、貴族範疇をどう処理するかというのが、基本問題。日本には「封建社会」は存在しなかったから「封建貴族」ということはできないが、もちろん、貴族範疇は必要というのが、私の立場。そもそも黒田俊雄氏のいわゆる権門体制論というのは、日本における貴族範疇論として提出されているものであり、そのレヴェルで支持し、あるいは批判する必要がある。
 問題は、「封建貴族」という範疇は、ブロックによっても、権力の地域分裂が前提になって、王も貴族も動き、その動く宮廷に全貴族が集うという独特な体制を前提にしていることである。そして、本書によれば、このような動く宮廷は、王国のみでなく、それを前提とした帝国構造の中で存在しているものであるというのである。ブロックを読んだ記憶では、動く宮廷というのは素朴な組織というイメージだったように覚えているが、とんでもないということになる。

 それに対して、動かない王が前提になる日本のような場合に、何をどう考えるか。それがヨーロッパ的な「封建貴族」とどう違うか、違いをどう理論化するかというのがむずかしいのだろうと思う。こういうことを考えるのに、ブロックにもどるほか何も知らないというのは、やはりおぼつかない話なので、この本を読んで勉強しようと思う。
 結局、どの時代でも、どの地域でも、まずは政治史と国家論を見なおさなければ、その基礎をなす経済史を、現在の歴史学のレベルで構成的に取り上げることはできないのだと思う。

 堀田善衛の「ヨーロッパ、ヨーロッパ」というエッセイに、エリザベス女王がベルリンの壁を訪れた時のエピソードがある(『天上大風』)。「壁」をイギリス女王にみせることを政治儀式にしようとしたドイツの首相エアハルトなどの目論見に反して、女王は壁の前で車を降りたものの、すぐに車内に戻ってしまい、しばらく壁の前で「儀式」ができると考えて、車から降りて集まり始めた彼らが、予定外の女王の行動にあわててびっくりして、あたふたする様子がテレビで映ったという。堀田は、「女王の方は誰にとっても、言うまでもなく東西両ドイツの人々にとっても愉快でないものを前にして、長い時間、あるべきではないと、英国の女王として判断をしたものであったろう」と解説している。そしてそれをみている様子を儀式にするという政治的な利用を拒否するという小気味よい女王の行動を堀田は褒めている。
 関係するのは、その後のことで、以下は、堀田の文章を引用する。「女王が市中に戻って、ベルリンの市民に向けて、演説というよりも、挨拶をしはじめた。もとより英語である。その挨拶もケネディのそれのような、角もあれば険もあるといったものではなく、ドイツ国民の幸福を祈るというほどのものであった。ところがそのおわりのところで、今度は私がびっくりした。女王が、いまでもはっきり覚えているが、『ーFrom now on, I am going to  Hanover, my home town. いまから私はハノーヴァーに行きます。私の故郷の町です』といったのであった。現在の英王家がドイツのハノーヴァー家に出自していることは、私も知らぬではなかったが、”マイ・ホームタウン”には、やはりびっくりさせられたのであった」「そうして、聴衆であったドイツ人諸君も、女王のこの最後の言葉を歓呼して、躍り上がって迎えていた。この女王の振る舞い方、エティケットには、つくづくと感心をさせられた。それだけに、壁が一層醜くみえた」というのである。たしかにこういうのがヨーロッパなのだと思う。

2012年5月18日 (金)

「森の水車」「ムラの鍛冶屋」と「黒の小川」

 いま総武線。帰り。
 先日からボン大学のタランチェフスキ氏がきていて、今日は二度目の昼食を一緒。
 帰りに本郷の角で、彼にもI君からビッグイッシュウを買ってもらう。ドイツではホームレス支援の雑誌を定期的に買っているが、フィフティ・フィフティというとのこと。作成組織が半分、販売者が半分もらうという意味。ビッグイッシュウと同じである。
 朝、地下鉄で柏の理系研究所のN先生に久しぶりにお会いする。以前も気象の歴史的変化が話題だったが、今度も、そこ。ただ、今回はやはり原発事故が自然科学への不信を呼んでいることを深刻に考えているという話に展開。理系でも、歴史や文系の人の意見をもっと聞かなければならないという雰囲気があるように思うとおっしゃる。
 「そういうことだと、原発はやめないというのが最初の意見」と申し上げると、自然系はそういうことを考えたり、いったりする風習がないということ。東大の前の総長の小宮山宏氏は、工学部だが、21世紀半ばには原発から離脱するという戦略を書いていたから(『地球環境維持の技術』岩波新書)、自然系には若干でもそういう雰囲気があるのではとお聞きすると、そうでもないということ。
 私の持論、つまり「東大でも、理系の各学部で、たとえば地震研と工学部原子力で意見を調整してくれないとどうしようもないのではないか。そうすればその中に人文社会系もはいっていける。同じ大学なのに部局相互で意見の調整ができなければ、大学が不信を呼ぶのは当然」という持論を申し上げる。そこで時間切れ。それでも地下鉄から東大まで色々な話はできるものである。
 地下鉄であったときは、まず気候の話。竜巻のことを聞くのを忘れた。それから、二三日前にタランチェフスキ氏と話した話に話題が飛んだ。原発の話になってしまって、それも時間切れ。その話というのは、ドイツは小規模電力を水車と牧畜業から発生する屎尿のガスから作るシステムが動いているという件。これに太陽熱を組み合わせて地域によってはいいところまで行っているという話である。

 以下、タランチェフスキとの話に戻る。タランチェフスキ氏の話を聞いたとき、これはずっと昔に大塚久雄先生に聞いた話を思い出させるというのが私の反応。つまり、パンを作るための製粉のミル=「森の水車」を「村の鍛冶屋」が世話をするというのが「局地的市場圏」の基礎にあるのだというのが先生のよく話されたこと。しかし、タランチェフスキ氏は精密な水車のためには鍛冶が必要とおっしゃる。
 これは以前にもこのブログで書いた。「森の水車」「村の鍛冶屋」の歌は、日本の近代においても下からの生業圏を作り出そうという発想があったことを示すのだと言うことを先生はいわれていたと思う。不肖の弟子は、まだ、先生の著作集を繰って、それがどこに書いてあるかを確認していない。タランチェフスキの話で、「森の水車」「村の鍛冶屋」は結びつくものなのだというのをはじめて考えた。
 もちろん、パン・製粉・ミルというのはブローデルも述べている。ミルがヨーロッパの工場の代名詞になるのは、そのためであるとあったと思う。ブローデルは、地域社会では、いわゆる価値法則が貫徹しているともいっているから、なんだ、そんなに大塚先生の「局地的市場圏論」と違わないじゃないかというのが、一つの感想である。
 話が飛んだが、その関係で、以前読んだ『世界』(2010年1月号)の茨城大学の小林久氏の「小水力発電の可能性ー温暖化・エネルギー・地域再生」という分析のこともメモしておきたい。以下、引用。

 「日本にムラの機能が発生したのは、集団的利水行動(灌漑)によるところが大きい。水のエネルギーとしての利用にも地域性がある。日本の水の利用は主に産業・商業用取水として発達した。江戸時代には、撚糸、線香・火薬製造、製薬、たばこ刻み、砕石・陶土粉砕、都市部での精米・製粉などに水車が利用された。ただし、これらの産業・商業も水力利用の効率化や大規模化が求められるほどに、集積したり、発達したりすることはなかった。水田に水を汲み上げる揚水水車は、美しい田園風景の構成要素として多くの人に共感がもたれている。しかし、田園の中の水車は日本の基幹的な水力利用の風景ではなかったといってよい。日常的に必要となる精米や製粉などの動力はおもに人力でまかなわれた。一方、ヨーロッパでは、酒食とするムギを食べるためには、よく粉砕し、ふるい分ける作業を行わなければならなかった。粉砕・篩い分けのためには複雑な道具の発達が求められた。さらに、これらの道具を効率的に使うためには、畜力・風力・水力などの動力を利用することが求められるようになった。MILLはMILLSYONEから派生した製粉場を意味する英語であるが、今日でSTEEL MILLのように工場を示す詞として使われている」

 こういう中で19世紀半ばに水力利用の技術は発電とむすびついた。そして「森の水車」の伝統、小規模発電の伝統は、現在にも続いており、ドイツの小規模発電の根っこにはそれがあるというのである。さらに具体的な指摘があって、きわめて面白い論文である。
 これをタランチェフスキ氏に話したのだが、彼にとっては、これは常識らしい。彼がいったことで重要だったのは、彼の故郷には、もう一つ「シュバルツ・バウ」、つまり「黒い小川」というものがある。これは牧畜と結びついた皮革産業、なめし革などの工程による小川の汚染で、激しい臭いがするが、この臭いは故郷を思い出させる。日本のある平野を調査していたときに、同じ臭いを嗅いで懐かしさにうたれたが、それが日本では差別にむすびつく場合があるのを知って驚愕したということであった。ドイツの風景としての「森の水車」「村の鍛冶屋」「黒い小川」という訳である。
 日本にも水力利用の伝統はあったのだが、地域における小規模利用の根っこは、明治期の国家資本主義の中で崩れたということであろう。すべて生産諸力は風土に結びついているから、現代の環境問題と自然力利用を見なおすためには、実際に前近代の伝統を想起し、保守することが、少なくとも文化の上では必要なのだと思う。

 今は翌日の出勤の総武線。タランチェフスキ氏と、昨日、食事をしたのは、こちらから別件で質問をした。「王様は一人か」という問題である。
 ミットカイゼル、ドッペルカイゼルということはしばしばヨーロッパではあるという意見を聞いたので、それをさらに具体的に教えてくれと頼んだ。
 これは別の機会があろうが、ここでメモだけしておく。
 私は、日本は複数王制の国家であると考えていて、たとえば道長は後見王であると書いたことがある。また清盛も頼朝も覇王(あるいは覇王のなり損ない)と考えている。これを無思想・没概念な自己流でなく議論するのにはどうしたらいいかというのが年来の疑問。そこでタランチェフスキ氏の意見に飛びついた。ただ、具体的にお聞きしたところ、ブルンナーから読まねばならぬということで、すぐに追いつけそうにない。
 しかし、いまやっていることで「清盛=後見王」ということは明瞭にいっておく必要があるので、勇気づけられる。高橋昌明氏は「六波羅幕府」論ということをいうが、これは、平家政権も頼朝政権も「武家政権」であるというのと概念論としては大きく変わることではない。そこで「清盛=後見王」論ということになるのだが、昌明氏と一致するのは、頼朝より、清盛の方がまだいいという点。
 ここで時間切れ。

この写真は一月にベン・シャーン展に行ったとき、葉山の美術館の前。

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2012年5月16日 (水)

網野善彦氏の『日本中世に何が起きたか』が再刊

 網野さんの『日本中世に何が起きたか』が洋泉社新書y』で再刊になる。解説を頼まれて書いた。

 網野さんの仕事は、いま、原発震災を目の前にして、読み直されねばならないと思う。

 本書でもそうであるように、晩年の網野は、「二一世紀の人類社会は、未経験の”壮年時代”に入ろうとしている。ここを無事に乗り切るためには、”無主・無縁の自然”を見つめることを中心に人類史をふり返るほかない」と述べて倦まなかった。
 たしかに、いま日本列島の自然と社会は、これまで経験したことのない時空に入ろうとしている。二〇一二年三月一一日の東日本太平洋岸地震は、地震による福島第一原発の爆発をともなう大震災となった。この事態の本質は、同年八月、福島県二本松市のゴルフ場が東京電力に対して放射能の除染を求めた訴訟に対して、東電側が「放射性物質は、そもそも無主物であったと考える」として拒否したことに象徴されている。「無主・無縁の自然」にあいた「穴」から様々な「物」がみえる時代になったのである。
 洋泉社MC新書の解説で述べたように、網野は、本書において、「無縁論」の原点から出発して、何をどう考えてきたかを情熱的に述べている。再読してみると、いま現在を歴史の深みから考えるためにこそ、網野善彦の「無縁論」はあったといっても過言ではないように感じる。
 網野が第一部の「境界に生きる人々」において、「日本の社会に宗教がない」といわれることをどう考えるべきかという論点を提出していることも重大だろう。網野は、この論点を十分に展開する前に世を去り、網野が、「人間の力を超えた自然の力について、われわれが認識を深めることと、宗教の問題は深い関わりがあると思います」と述べたことの意味は、まだ解かれていない。これをふくめて人類史における人間の力を超えた自然=無縁の自然をどうとらえるかについて考えるべきことは山積している。網野の終生のテーマであった「海」にそくしていえば、すでに「海は広いな大きいな」ではすまない時代に入っているのである。網野の仕事は、この時代の省察を迫られている人々にあらためて訴えるものをもっていると思う。
 二〇一二年五月一一日      保立道久

2012年5月13日 (日)

武田清子先生

Takedakiyoko_2   久しぶりに自転車で。千葉の青葉の森公園から星久喜の都川支流の自転車ルートにでて、もどって、都川水の里公園の休み所でおにぎり・きゅうりで昼食。目の前では「里の田」を耕耘機で代掻きをしている。雷雨の予報があるので、適当に切り上げて帰る予定。
 4月28日の朝日新聞に母校の国際キリスト教大学の武田清子先生の御元気な写真。もう94歳になられたと知る。私は国際キリスト教大学の出で、大学時代は先生をアドヴァイザーとしていて心配をかけた。毎学期、成績のチェックに面談がある。ギリギリの成績で卒業したので、怖い先生であった。ICUから都立大学大学院にまわったので、武田先生から都立の戸田芳実先生に紹介状のようなものがまわり、ブリリアントなところのある子であるというように書いてあったと戸田先生に聞き恐縮した。そのほか、ほめようがなかったのだろう。
 ブログには書きにくいような迷惑をかけた。その上、先生は社会科学研究会リベルテというクラブの顧問で、私はその部員だったので、この点でも御世話をかけた。一昨年だったと思う。クラブの同窓会で久しぶりにお会いした。昨年の同窓会は予定と重なって失礼をした。大学紛争の時代であり、ICUは「革マル」が強く、このクラブは、結局つぶされてしまった。私がほぼ最後である。長い伝統のあるクラブなので申し訳ないように思う。
 先生は神戸女学院の御出身。ただ、お母さんに「あなたは我が強いから宗教が必要です。これからは英語が話せて海外で交流できるようになったほうがよろしい」といわれて神戸女学院に行き、洗礼をうけて留学したという話ははじめて聞く。一度、御宅にうかがったことがあるが、個人的な話はまったくお聞きしたことがない。
 先生の恩師は、ラインホルト・ニーバー。私も大学時代にはニーバーを読んだが、十分残っていない。先生の授業も真面目にきかなかったように思う。ただ、先生の配慮で(ときいている)ICUに授業に来てくれた一橋の種瀬茂先生の授業で『資本論』を読んだ。種瀬先生が武田先生と話されている様子を覚えている。そういえば、そのすぐ側に大塚久雄先生の研究室があったのである。先生たちの研究室は狭かった。そして、もう御一人、武田先生の推薦で、天理大学の宗教史の先生が来られ、授業をうけた。『古事記』『日本書紀』の講義で、これはともかくも勉強をしたという感じが残っている。けれども、授業を最後まではキチンとはきかず、先日のブログに書いた羽仁五郎の「神話学の課題」を種にして感想文をかいてすませた。ノートをなくしてしまい、かつ先生の御名前も失念している。これが苦い記憶である。
 朝日には、日米開戦の後に、ニーバーから保証人になるからアメリカにとどまるようにといわれたが、最後の交換船で帰国した。「日本は負けるとわかっていました。灰になるのなら、そこにいなければならない。愛国心というより、アイデンティティの問題でした」とある。御一人で生活されていると伺った。御元気ですごされるようにと思う。

2012年5月 7日 (月)

入来院遺跡の保存と稲垣泰彦・石井進

 5月5日(土)。職場で私物を片づけた帰り。総武線の中。
 机の中から下記のような鹿児島県入来院の景観保存問題についての要望書がでてきた。そのころの学会誌をみても記録されていないようなので掲載しておく(以下、子供にいれてもらう。ありがとう)。

入来院史跡保存に関する要望書

鹿児島県薩摩郡入来町一帯は、周知のように中世以来近世まで脈々と続いた在地武士入来院氏の支配の舞台となった場所であり、かつて米国イエール大学教授朝河貫一氏が『ドキュメンツ・オブ・イリキ』として入来院関係文書を翻訳・解説されてから、世界的にも注目を浴びてきました。欧米における日本中世と武士団についての在来の知識は、その主要部分を「入来文書」と朝河氏の研究に負っているといっても決して過言ではありません。
「入来文書」をひもとくならば、われわれはそこに日本武士団の構造や農村支配の様態、農民の村落生活の実態にいたるまでを比類ないまでに詳細に知ることが出来ます。しかしそれにもまして重要なのは、当地に残る領主居館址や家臣団の屋敷・農民の屋敷・寺社・墓地等々のまことに豊富な遺跡・遺構が、生き生きと過去を再現してくれることであります。それらは、「入来文書」とあわせてまさに他に類例を求められぬ貴重な史的価値を有しております。
ところが現在計画中の国道三二八号線の拡張工事にともない、領主居館址・馬場・船着場・家臣団屋敷などをはじめとする主要な遺跡に大がかりな破壊の危険がせまっていると伝えられております。われわれは上述した当地の重要性にかんがみ、このような史跡破壊をともなう計画の進行に強い危惧の念を表明せざるをえません。この計画原案に対し、地元で史跡保存をよびかけている方々の、計画線を「麓」集落の東方に変更するようにとの要望に、われわれも全面的に賛成いたします。この案であれば、貴重な史跡の破壊を最小限にくいとめることが可能だと考えるからであります。
今回の計画原案をみとめて取りかえしのつかぬ史跡破壊の事態を招くことにならぬよう、我々日本史研究に携わる者はこゝに関係当局の責任ある解決を強く要望するものであります。
昭和五十年六月二十三日

東京大学  教授   阿部 善雄
東京大学  助教授  石井  進
東京大学  教授   稲垣 泰彦
東京大学  教授   弥永 貞三
京都大学  助教授  大山 喬平
大阪大学  教授   黒田 俊雄
早稲田大学 教授   竹内 理三
神戸大学  教授   戸田 芳美
一橋大学  教授   永原 慶三
北海道大学 助教授  義江 彰夫
殿

 呼びかけ人の方々のうち、御元気なのは大山さんと義江さんだけだ。
 いままで忘れていたが、このとき、私は史料編纂所に入ったばかりの時で、同室の稲垣泰彦先生から、この保存問題についての声明への賛同署名を集め、文化庁や鹿児島県などに送る作業をする事務局をやれといわれた。その事務局書類一括が袋に入ってでてきた。
 中をみるといろいろ入っていて、署名の集約は稲垣さんに送れということになっているが、署名を送ってくれた人の中には、村井章介・保立道久の連名宛てに送ってくれた人もいるので、そのころ史料編纂所にいた村井章介氏と事務局を一緒にやったらしい。またこの声明を起草したのは石井進さんであったことが、石井さんの几帳面な字でかかれた原案がでてきたことからわかる。また、現地の保存要望の中心となった本田親虎氏から石井さんへの礼状も袋の中に残っている。思い出してみると、この署名運動の代表は稲垣さんだが、実際の実務は石井さんであった。石井さんが古文書の部屋に来て稲垣さんに頼み、その後に、打ち合わせのようなことをしたのを思い出した。このころの稲垣さんは、有名な池田荘の保存問題で重要な経験をされた後で、遺跡保存問題を重視しておられたように記憶する。
 本田さんからの礼状は石井さんあての私信であるが、事務局にまわった公的なものであり、内容も史料的な意味があるので、ここに記録しておきたい。

拝復 先生方は夏休みで、いろいろとご計画もあられることでしたろうに、当地の問題で諸種の雑用に多大の時間と労力とを御費消いただきましたことを、恐縮に存じますと共に、心から感謝申しあげております。第二次二七〇名連記という、すばらしい要望書は二十五日に参りました。この日は当地「麓上」(フモトカミ)の諏訪講の日ですが、一年ごとの廻り神は昨年八月に拙宅に来られましたので、拙宅ではこの日に、諏訪神社の祭典を行ない、講中の人々を呼んで直会をした次第です。要望書包は朝届きましたので、私は早速お諏訪様の御前に備えて拝みました。
 当地の諏訪講は四十年ばかり前までは藩政時代の通りのしきたりを守って
二十三日に注連下し(神官が来て門口と井戸に注連を張り、その祭りをする)、二十四日贄川(にえがわ、入来川で講員全員が鮎を取り神祭に使用する)、二十五日お講(諏訪神社の祭と頭屋での祭、講中の飲食、遷座)となって、三日も要したのでしたが、戦後は簡素化して、二十五日だけになっています。それでも二キロばかりを歩いて高い山中の神社まで供物の米や野菜、果物などを持って登るのは年よりどもには少々重荷になります。
 二十五日は終日このようなことで過ぎましたので、二十六日に当地道路問題での委員会を開き、今次の要望書を見せましたところ一同驚くとともに感激を新たにした次第でした。そして現地のわれわれよりはよその先生方の方がはるかに遺跡保存にご熱意があるようだから、現地の者としては全く恥ずかしいことだと口々にいい、私の方から特に石井さんをはじめ、雑務に当たって頂いた先生方によろしく御礼申し上げてくれとのことでした。
 ほんとうにありがとうございました。この大勢の先生方の御声援がどんなに大きな力を持つものかはこれからはっきりすることと信じます。
 実は数日前、当県議土木委員長原田健二郎氏を訪問しまして道路問題につき善所方お願いしましたところ、原田県議が次のようなことを話して下さいました。
「過日上京、建設省に行ったところ、道路局長から次のようにいわれた。『鹿児島の国道問題につき、大学の先生方など大変まじめな方々から史跡保存についての要望書が来ているから、現地でもよく留意して遺憾な点がないようにして頂きたい』・・・共産党などの反対とはちがうから・・・といわれました」とのことでした。
去る二十三日は文化庁文化財調査官の中野浩氏が来町されましたので、史跡を案内いたしましたが、その折「先日石井君が見えて、入来のことを話してくれましたよ」と話されました。そして
 「要望書や陳情書は上の方に出した方が効力があります。
1. 建設大臣か道路局長
2. 九州地方建設局長(福岡市)
には必ず出した方がいいでしょう」と御注意ありました。
 それで右の件はよろしく願い上げます。
3.文化庁長官  へも
 鹿児島県内のそれぞれの所へは当方で提出することにします。今日は県議会や議長、町議会や議長に提出すべく手配しました。
 去る二日に村井章介さん方八人の東大の方々が城山の藪の中野拙宅に御来訪下さいました。拙宅は入来小学校の裏門前ですから、麓の中でも一番の山の中で、さぞびっくりされただろうと思います。拙宅にはこれまで豊田武先生や本田安次先生などをはじめ義江さん等数多くの著名な方々がおいで下さいましたが、その度に藪中の陋屋は全く汗顔のいたりで、恐縮の連続でした。村井さん方は入来院墓地や黒武者、堂園などを案内しました。黒武者にあった黒武者門の跡家も、当地方では最も代表的な農民の家作りとして保存すべき建物でしたが、これも昨年新しく改築されましたので、石井さん方ごらんの当時よりは大分様子が変わりました。同封の写真は黒武者でのものです。永原先生が黒武者門をとりあげて講じて下さってから、黒武者は中世史のメッカみたいになり、来る人も来る人も、黒武者を見たいと申されます(中略)。
以上雑事を書き並べましたが、このたびの史跡保存運動についての石井さんのお骨折は、とても大変なものだったろうと、改めてここに厚く御礼申しあげます。
 先づは御礼まで、東大の方にもよろしく申し上げて下さいませ。
 残暑尚厳しい折柄ご自愛を祈ります。
敬具
 八月二十七日
本田親虎
石井進様
 玉床下

 7/8年ほど前に、私も入来をたずねたが、そのころには稲垣さんはもちろん、石井さんも、本田さんもなくなっていた。

 いま、月曜日、総武線の車中。石井さんの声明(案)、署名の御願い(案)は小学館の原稿用紙に書かれていた。石井さんが小学館の『中世武士団』を書いたのは、ちょうど、私が史料編纂所に入ったしばらく後であるから、この原稿用紙は、『中世武士団』執筆のためのものであろう。
 『中世武士団』については、戸田芳実氏の批判的コメントを聞いていたこともあって、ずっと批判的であった。そもそも戸田さんはこの小学館のシリーズの「社会集団」というくくりそれ自身に批判的であった。戸田さんのいう「歴史学は社会学的になってはならない」という議論である。この戸田さんの言葉は網野さんが「社会学的というのみで悪いかのような言い方は社会学の人の前でいえる言葉ではない」と批判し、学界では、一般にも評判が悪い。しかし、私は、歴史学は、その方法を社会学に借りるわけにはいかないと思う。

 それ以来、この本をどう位置づけるかということが頭の隅に懸かっていたのだが、二・三年前、ようやくその『曾我物語』の読みに賛成できないという意見を固めた。その趣旨にそって、先日、『歴史地理教育』に院政期における東国の平氏についての文章を書いたところである。石井さんを意識することは、そのほか今でも多い。
 研究者同士の関係では、ようするにほとんど時間はたっていないのだと思う。そこでは、往事茫々ということは本質的に存在しない。これはいわゆる「永遠の今」であるが、それは「生の哲学」的なロマンではなく、直接的な「生」の感覚の経験では、頭の中に古い物が、そして未処理のものごとがそのまま滞留しているということである。人間もかわらない(私の慌て者のところもかわらず。その文章でもうっかり「大宮」を忻子としたが、東洋文庫の解説通り多子であるのにうっかり早とちりをした)。
 ほぼ30年以上経って、やっと処理できそうな気になっているが、「頭の中にこそ執拗に古いものが残る」というのは、冷厳な事実なのだと思う。研究史から受け継いだ古いものを破砕すること。

 閑話休題。
 その深層レヴェルで考えると「意識変革」を先行させるということは人間にとって本質的に無理なのだと思う。社会全体によるすり込み、新生児のころからのすり込みの力はすさまじい。そこから抜け出すためにはなによりも現実と挫折の経験が必要である。これを考えると、我々の世代までなら通じた言い方だと、「生の哲学」ではなく、マテリアリズムということを考えざるをえないのである。

2012年5月 5日 (土)

地震火山64津田左右吉の神話論と国生神話・火山

 いま、5月5日土曜。総武線の車中。私物の整理があって職場へ。
 来週水曜日にJ大学での特講で神話論を約束してあり、地震・火山神話の読み直しをやっている。我々の世代だと、歴史の研究者は神話論というとまず津田左右吉である。『津田左右吉全集』は一巻の記紀研究しかもっておらず、そのうちに全巻を購入して通読する時間があればと思っている。
 この一巻の月報には、坂本太郎の文章と森於?の文章の二つがのっている。坂本太郎氏の文章には感心しないが、森於?の文章は印象に残る。
 「私どもが先生に歴史を学んだ時が日露戦争の直前で、日清戦争から十年、台湾領有についで朝鮮も併合し、満州に驥足を伸べ、日英同盟を締結し、軍国日本の意気大いに揚がり、世界の何大強国かの一つという自信にあふれ、青少年はまず大臣大将を理想とした時代である。ある日、先生は講壇で時勢を論じ、いわゆる愛国者とはまったく別ものの悲憤慷慨をされ、ポカンとしている小僧どもを前にして、「こんなことをやっていると今に日本は世界中から袋だたきにあうぞ」と叫ばれた」。
 津田左右吉の仕事にはいろいろな批判があるだろう。私が「古代」を専門にしていないためではあろうが、津田についての文章で評判のよいものを読んだことがない。たとえば、友人の小路田泰直氏の『邪馬台国と鉄の道』(洋泉社新書y)はたいへん興味深い本だが、津田を「歴史として書かれたことには、必ず根拠があり、書かれたことからその根拠となる事実を探りあてることこそが歴史学の課題だという常識」をもたない歴史家であり、記紀神話を知識人が構成したものだというのはおかしいと切って捨てる。
 もちろん、津田の仕事に、いわゆる「脱亜論」と同じ側面があったことは事実であり、それは小路田がいう通りである。津田について根本的に考えるためには、ともかくそれらをそれを考える『津田左右吉全集』を慎重に読み、史学史を実際に考える中で意見を固めるべきこともわかっている。
 けれども、所詮、すべてを読むことはできない歴史家が、好悪の感情に左右されることはやむをえないと居直らせてもらうと、私は津田の仕事が好きである。最近の研究者は、ほとんど津田のことを身近に感じることはないのだろうと思う。たしかに、津田の記紀研究はけっして読みやすいものではない。その文章も論文体というよりも、もってまわった論理の繰り返しが多く、何か、柳田国男の文章に似て独り言のようなトーンがある。しかし、細かなことを気にせずに読み始め、その調子になれてしまえばさっと読めるものである。そして、そこにみえてくるのは、たしかに、「悲憤慷慨」する津田の精神なのである。おそらく第二次世界大戦以前の読者にとっては、そのような「悲憤慷慨」をふくめて読みやすいものだったにちがいない。「皇国史観」の時代であり、神話が事実であるかのように扱う建前があった社会であるということを頭におきながらともかく読み通すという読み方がよいと思う。
 津田のいう記紀神話の政治性、あるいは構成された政治神話であるという断言は、単にテキストの外からもちこまれたものではない。津田は記紀神話には「民間説話」、本来的な小神話の世界が編成されていることを認めている。津田は、それを承認した上で、しかし、記紀神話それ自体は、きわめて政治的な編成をとっているもので、それにそのまま「民間説話」を読み込むことは無理であるという文献学的なスタンスをとっているのである。
 そして、津田が「民間説話などは、さういう未開人の真理、未開時代の思想、によって作られたものであるから、今日からみれば非合理なことが多いが、しかし、未開人においてはそれが合理的と考えられていた」(一巻、7頁)としていることは大事だと思う。津田は、そのような「未開人の心理上の事実」を「未開民族の風俗習慣」と共通するものとして(11頁)理解するという人類学的な方法を当然のこととして議論を展開しているのである。もちろん、そこには「未開民族」の心理を「小児の心理」と同一化してしまうという傾向性があり、いわゆる人類学的なイデオロギーの影響がある。また政治的な氏姓制度(と津田のいうもの)の直接的な反映を神話世界にみてしまうというのも、私には疑問がある。
 しかし、津田は、その立場から、『日本書紀』『古事記』にすぐにそのままの事実を求めがちな江戸時代の議論を批判する。神話を強いて合理的に解釈して、その背後に「事実」を求めようとする新井白石、そして、「『古事記』の記載を一々文字どほりにそのまま歴史的事実であると考えた」本居宣長に対する批判は鋭い。両者は異なっているようにみえるが、どちらもテキストに直接に「事実」を読み込もうとする学問外的性格をもっている。ようするにどちらも屁理屈であるといのである。私はたとえば西郷信綱氏の注釈をふくめて、最近になっても本居の古事記注釈を便利に使いまわすような神話論の傾向はとても納得できない。それは津田以前への後退であり、学問の頽廃だと思う。
 そして記紀神話の全体像がイザナミ・イザナキ、スサノオ、オオナムチ、「天孫降臨」神話などの諸構成部分をあつめて「構成された」ものであることは、たとえば松前健氏の仕事にも明らかで否定しがたい。津田の政治的「結構」論の基本が神話学研究で受けとめられていることを無視してはならない。もちろん、津田の「神代史の結構」、つまり記紀神話の構成論がすべて正しいということではないが、しかし、この記紀神話のもつ体系性が「結構」されたものであるという指摘はテキスト論的にも否定できないものだと思う。
 ただ、最近、神話を研究していて、津田の自然神論について考えることが多い。それは三宅和朗氏が、最近の神話研究が日本神話における「自然神」の存在を軽視する傾向は津田左右吉の議論に一つの由来があるとしていることに関わっている。これはたしかに三宅氏のいう通りであって、津田は、記紀神話の政治性を強調する作業をまず第一の仕事とし、それは正しい研究戦略ではあったが、しかし、記紀神話が前提とした「民間説話」(原神話)が自然神話としての一定の体系性をもっていたであろうことを直接の論及の対象としていない。
 たとえばスサノオがアマテラスに会いに高天原へ上る説話について、「この命を暴風雨の神とし、この話を自然神話として見ようという説がある」(429頁)として、それは無理であるとし、スサノオの物語自身は、「皇祖神に対して反抗的態度をとったものとして説かれている」のが本質であるといのは(446頁)、文献学的には正しいといわざるをえないだろう。そして、スサノオ暴風雨説に対する批判も説得的であると思う。しかし、スサノオが水神・海神であり、その関係で「穢の神」であり、「疫神」であり、同時に人間を穢や疫病から守る神である(西田長男)、そして小川琢治、吉田敦彦がいうように、ポセイドンと同じ地震の神であるというのは説得的なものである(WEBPAGEに載せた「海の神話」についての文章を参照してください)。そう考えれば、スサノオの神格に「民間説話」(原神話)が反映していることは否定できない。津田のいうように、スサノオとオオナムチが結合したのは、そのベースがあった上でのことではないだろうか。
 問題は、記紀神話が前提とした「原神話」が自然神話として、どのような体系性をもっていたと考えるかということになるのだと思う。そして、これは津田の文献学的な方法では解くことができない問題である。
 そういう意味での津田批判の第一の出発点は、ここ、つまり自然神としての地震神論にあると思う。そして第二の出発点は自然神としての火山神論である。これはいわゆる国生神話をどう考えるかということであるが、津田は「土地の起源が人の生殖として語られたことは(世界で)他に類例がない」(344頁)「国土が子として生まれるというのは当時の思想においても無理な考え方である」(563頁)としている。これは津田の記紀神話論を通読すればわかるように、津田の基本的な前提の一つであった。
 しかし、神話学の古典業績の一つ、松村武雄の『日本神話の研究』が、国生神話を、火山の爆発によって大地が生まれることを地母神の出産にアナロジーする神話であると捉えたことによって、この前提は成立しなくなっている。また、神話学の大林太良によっても、出産によって国や島が生まれるというスタイルの神話は、太平洋地域に広く分布しているという。大林太良の挙例の中では、「父なる天」と「母なる大地」の性交によって世界ができ、大地震によって地中から生まれた火によって、地上に木や植物が萌え出で、山々がそびえ立ったというインドネシアのセラム島の神話が重要であろう。大林のいう沖縄からインドネシア、ミクロネシアまで分布する「海中に火の起源を求める神話」とは、海底火山の噴火の経験の神話化なのではないだろうか。そして、この二つをあわせれば、日本神話における噴火の神が地母神イザナミであることは明瞭になるだろう。
 そして、自然神話論からの津田批判の第三は、津田が日本神話には「天空」の神話の要素が薄いと断定していることである。これについては、以前、勝俣隆の議論を紹介した。私は、勝俣の日本神話における「星」の位置の高さという議論に賛成である。
 以上、津田左右吉の仕事が乗り越えられなければならないことは明らかである。しかし、それは津田の仕事にもう一度内在することを必要としている。

 さて、以上は、昨日、考えたことだが、津田左右吉というと、我々の世代では羽仁五郎と連想して考える。羽仁に「神話論の課題」という論文があって、大学時代には一生懸命に読んだ記憶がある。昨夜、念のため久しぶりに『羽仁五郎歴史論著作集』を引っ張り出して点検してみようとしたが、私の本は線があまりに多く、汚くなったのでは廃棄したため、相方のものをみた。どこにそんなに引かれていたのかがわからないほど抽象的で乱暴なもので、読むのに疲れた。いわゆる「戦後歴史学」のもっとも悪い側面を羽仁が代表しているように感じる。歴史学にとっては一時期の羽仁の位置は大きかっただけに、個人的ないろいろな記憶もあり、夜、何となく悲しくなった。

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