武田清子先生
久しぶりに自転車で。千葉の青葉の森公園から星久喜の都川支流の自転車ルートにでて、もどって、都川水の里公園の休み所でおにぎり・きゅうりで昼食。目の前では「里の田」を耕耘機で代掻きをしている。雷雨の予報があるので、適当に切り上げて帰る予定。
4月28日の朝日新聞に母校の国際キリスト教大学の武田清子先生の御元気な写真。もう94歳になられたと知る。私は国際キリスト教大学の出で、大学時代は先生をアドヴァイザーとしていて心配をかけた。毎学期、成績のチェックに面談がある。ギリギリの成績で卒業したので、怖い先生であった。ICUから都立大学大学院にまわったので、武田先生から都立の戸田芳実先生に紹介状のようなものがまわり、ブリリアントなところのある子であるというように書いてあったと戸田先生に聞き恐縮した。そのほか、ほめようがなかったのだろう。
ブログには書きにくいような迷惑をかけた。その上、先生は社会科学研究会リベルテというクラブの顧問で、私はその部員だったので、この点でも御世話をかけた。一昨年だったと思う。クラブの同窓会で久しぶりにお会いした。昨年の同窓会は予定と重なって失礼をした。大学紛争の時代であり、ICUは「革マル」が強く、このクラブは、結局つぶされてしまった。私がほぼ最後である。長い伝統のあるクラブなので申し訳ないように思う。
先生は神戸女学院の御出身。ただ、お母さんに「あなたは我が強いから宗教が必要です。これからは英語が話せて海外で交流できるようになったほうがよろしい」といわれて神戸女学院に行き、洗礼をうけて留学したという話ははじめて聞く。一度、御宅にうかがったことがあるが、個人的な話はまったくお聞きしたことがない。
先生の恩師は、ラインホルト・ニーバー。私も大学時代にはニーバーを読んだが、十分残っていない。先生の授業も真面目にきかなかったように思う。ただ、先生の配慮で(ときいている)ICUに授業に来てくれた一橋の種瀬茂先生の授業で『資本論』を読んだ。種瀬先生が武田先生と話されている様子を覚えている。そういえば、そのすぐ側に大塚久雄先生の研究室があったのである。先生たちの研究室は狭かった。そして、もう御一人、武田先生の推薦で、天理大学の宗教史の先生が来られ、授業をうけた。『古事記』『日本書紀』の講義で、これはともかくも勉強をしたという感じが残っている。けれども、授業を最後まではキチンとはきかず、先日のブログに書いた羽仁五郎の「神話学の課題」を種にして感想文をかいてすませた。ノートをなくしてしまい、かつ先生の御名前も失念している。これが苦い記憶である。
朝日には、日米開戦の後に、ニーバーから保証人になるからアメリカにとどまるようにといわれたが、最後の交換船で帰国した。「日本は負けるとわかっていました。灰になるのなら、そこにいなければならない。愛国心というより、アイデンティティの問題でした」とある。御一人で生活されていると伺った。御元気ですごされるようにと思う。
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