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2012年5月 7日 (月)

入来院遺跡の保存と稲垣泰彦・石井進

 5月5日(土)。職場で私物を片づけた帰り。総武線の中。
 机の中から下記のような鹿児島県入来院の景観保存問題についての要望書がでてきた。そのころの学会誌をみても記録されていないようなので掲載しておく(以下、子供にいれてもらう。ありがとう)。

入来院史跡保存に関する要望書

鹿児島県薩摩郡入来町一帯は、周知のように中世以来近世まで脈々と続いた在地武士入来院氏の支配の舞台となった場所であり、かつて米国イエール大学教授朝河貫一氏が『ドキュメンツ・オブ・イリキ』として入来院関係文書を翻訳・解説されてから、世界的にも注目を浴びてきました。欧米における日本中世と武士団についての在来の知識は、その主要部分を「入来文書」と朝河氏の研究に負っているといっても決して過言ではありません。
「入来文書」をひもとくならば、われわれはそこに日本武士団の構造や農村支配の様態、農民の村落生活の実態にいたるまでを比類ないまでに詳細に知ることが出来ます。しかしそれにもまして重要なのは、当地に残る領主居館址や家臣団の屋敷・農民の屋敷・寺社・墓地等々のまことに豊富な遺跡・遺構が、生き生きと過去を再現してくれることであります。それらは、「入来文書」とあわせてまさに他に類例を求められぬ貴重な史的価値を有しております。
ところが現在計画中の国道三二八号線の拡張工事にともない、領主居館址・馬場・船着場・家臣団屋敷などをはじめとする主要な遺跡に大がかりな破壊の危険がせまっていると伝えられております。われわれは上述した当地の重要性にかんがみ、このような史跡破壊をともなう計画の進行に強い危惧の念を表明せざるをえません。この計画原案に対し、地元で史跡保存をよびかけている方々の、計画線を「麓」集落の東方に変更するようにとの要望に、われわれも全面的に賛成いたします。この案であれば、貴重な史跡の破壊を最小限にくいとめることが可能だと考えるからであります。
今回の計画原案をみとめて取りかえしのつかぬ史跡破壊の事態を招くことにならぬよう、我々日本史研究に携わる者はこゝに関係当局の責任ある解決を強く要望するものであります。
昭和五十年六月二十三日

東京大学  教授   阿部 善雄
東京大学  助教授  石井  進
東京大学  教授   稲垣 泰彦
東京大学  教授   弥永 貞三
京都大学  助教授  大山 喬平
大阪大学  教授   黒田 俊雄
早稲田大学 教授   竹内 理三
神戸大学  教授   戸田 芳美
一橋大学  教授   永原 慶三
北海道大学 助教授  義江 彰夫
殿

 呼びかけ人の方々のうち、御元気なのは大山さんと義江さんだけだ。
 いままで忘れていたが、このとき、私は史料編纂所に入ったばかりの時で、同室の稲垣泰彦先生から、この保存問題についての声明への賛同署名を集め、文化庁や鹿児島県などに送る作業をする事務局をやれといわれた。その事務局書類一括が袋に入ってでてきた。
 中をみるといろいろ入っていて、署名の集約は稲垣さんに送れということになっているが、署名を送ってくれた人の中には、村井章介・保立道久の連名宛てに送ってくれた人もいるので、そのころ史料編纂所にいた村井章介氏と事務局を一緒にやったらしい。またこの声明を起草したのは石井進さんであったことが、石井さんの几帳面な字でかかれた原案がでてきたことからわかる。また、現地の保存要望の中心となった本田親虎氏から石井さんへの礼状も袋の中に残っている。思い出してみると、この署名運動の代表は稲垣さんだが、実際の実務は石井さんであった。石井さんが古文書の部屋に来て稲垣さんに頼み、その後に、打ち合わせのようなことをしたのを思い出した。このころの稲垣さんは、有名な池田荘の保存問題で重要な経験をされた後で、遺跡保存問題を重視しておられたように記憶する。
 本田さんからの礼状は石井さんあての私信であるが、事務局にまわった公的なものであり、内容も史料的な意味があるので、ここに記録しておきたい。

拝復 先生方は夏休みで、いろいろとご計画もあられることでしたろうに、当地の問題で諸種の雑用に多大の時間と労力とを御費消いただきましたことを、恐縮に存じますと共に、心から感謝申しあげております。第二次二七〇名連記という、すばらしい要望書は二十五日に参りました。この日は当地「麓上」(フモトカミ)の諏訪講の日ですが、一年ごとの廻り神は昨年八月に拙宅に来られましたので、拙宅ではこの日に、諏訪神社の祭典を行ない、講中の人々を呼んで直会をした次第です。要望書包は朝届きましたので、私は早速お諏訪様の御前に備えて拝みました。
 当地の諏訪講は四十年ばかり前までは藩政時代の通りのしきたりを守って
二十三日に注連下し(神官が来て門口と井戸に注連を張り、その祭りをする)、二十四日贄川(にえがわ、入来川で講員全員が鮎を取り神祭に使用する)、二十五日お講(諏訪神社の祭と頭屋での祭、講中の飲食、遷座)となって、三日も要したのでしたが、戦後は簡素化して、二十五日だけになっています。それでも二キロばかりを歩いて高い山中の神社まで供物の米や野菜、果物などを持って登るのは年よりどもには少々重荷になります。
 二十五日は終日このようなことで過ぎましたので、二十六日に当地道路問題での委員会を開き、今次の要望書を見せましたところ一同驚くとともに感激を新たにした次第でした。そして現地のわれわれよりはよその先生方の方がはるかに遺跡保存にご熱意があるようだから、現地の者としては全く恥ずかしいことだと口々にいい、私の方から特に石井さんをはじめ、雑務に当たって頂いた先生方によろしく御礼申し上げてくれとのことでした。
 ほんとうにありがとうございました。この大勢の先生方の御声援がどんなに大きな力を持つものかはこれからはっきりすることと信じます。
 実は数日前、当県議土木委員長原田健二郎氏を訪問しまして道路問題につき善所方お願いしましたところ、原田県議が次のようなことを話して下さいました。
「過日上京、建設省に行ったところ、道路局長から次のようにいわれた。『鹿児島の国道問題につき、大学の先生方など大変まじめな方々から史跡保存についての要望書が来ているから、現地でもよく留意して遺憾な点がないようにして頂きたい』・・・共産党などの反対とはちがうから・・・といわれました」とのことでした。
去る二十三日は文化庁文化財調査官の中野浩氏が来町されましたので、史跡を案内いたしましたが、その折「先日石井君が見えて、入来のことを話してくれましたよ」と話されました。そして
 「要望書や陳情書は上の方に出した方が効力があります。
1. 建設大臣か道路局長
2. 九州地方建設局長(福岡市)
には必ず出した方がいいでしょう」と御注意ありました。
 それで右の件はよろしく願い上げます。
3.文化庁長官  へも
 鹿児島県内のそれぞれの所へは当方で提出することにします。今日は県議会や議長、町議会や議長に提出すべく手配しました。
 去る二日に村井章介さん方八人の東大の方々が城山の藪の中野拙宅に御来訪下さいました。拙宅は入来小学校の裏門前ですから、麓の中でも一番の山の中で、さぞびっくりされただろうと思います。拙宅にはこれまで豊田武先生や本田安次先生などをはじめ義江さん等数多くの著名な方々がおいで下さいましたが、その度に藪中の陋屋は全く汗顔のいたりで、恐縮の連続でした。村井さん方は入来院墓地や黒武者、堂園などを案内しました。黒武者にあった黒武者門の跡家も、当地方では最も代表的な農民の家作りとして保存すべき建物でしたが、これも昨年新しく改築されましたので、石井さん方ごらんの当時よりは大分様子が変わりました。同封の写真は黒武者でのものです。永原先生が黒武者門をとりあげて講じて下さってから、黒武者は中世史のメッカみたいになり、来る人も来る人も、黒武者を見たいと申されます(中略)。
以上雑事を書き並べましたが、このたびの史跡保存運動についての石井さんのお骨折は、とても大変なものだったろうと、改めてここに厚く御礼申しあげます。
 先づは御礼まで、東大の方にもよろしく申し上げて下さいませ。
 残暑尚厳しい折柄ご自愛を祈ります。
敬具
 八月二十七日
本田親虎
石井進様
 玉床下

 7/8年ほど前に、私も入来をたずねたが、そのころには稲垣さんはもちろん、石井さんも、本田さんもなくなっていた。

 いま、月曜日、総武線の車中。石井さんの声明(案)、署名の御願い(案)は小学館の原稿用紙に書かれていた。石井さんが小学館の『中世武士団』を書いたのは、ちょうど、私が史料編纂所に入ったしばらく後であるから、この原稿用紙は、『中世武士団』執筆のためのものであろう。
 『中世武士団』については、戸田芳実氏の批判的コメントを聞いていたこともあって、ずっと批判的であった。そもそも戸田さんはこの小学館のシリーズの「社会集団」というくくりそれ自身に批判的であった。戸田さんのいう「歴史学は社会学的になってはならない」という議論である。この戸田さんの言葉は網野さんが「社会学的というのみで悪いかのような言い方は社会学の人の前でいえる言葉ではない」と批判し、学界では、一般にも評判が悪い。しかし、私は、歴史学は、その方法を社会学に借りるわけにはいかないと思う。

 それ以来、この本をどう位置づけるかということが頭の隅に懸かっていたのだが、二・三年前、ようやくその『曾我物語』の読みに賛成できないという意見を固めた。その趣旨にそって、先日、『歴史地理教育』に院政期における東国の平氏についての文章を書いたところである。石井さんを意識することは、そのほか今でも多い。
 研究者同士の関係では、ようするにほとんど時間はたっていないのだと思う。そこでは、往事茫々ということは本質的に存在しない。これはいわゆる「永遠の今」であるが、それは「生の哲学」的なロマンではなく、直接的な「生」の感覚の経験では、頭の中に古い物が、そして未処理のものごとがそのまま滞留しているということである。人間もかわらない(私の慌て者のところもかわらず。その文章でもうっかり「大宮」を忻子としたが、東洋文庫の解説通り多子であるのにうっかり早とちりをした)。
 ほぼ30年以上経って、やっと処理できそうな気になっているが、「頭の中にこそ執拗に古いものが残る」というのは、冷厳な事実なのだと思う。研究史から受け継いだ古いものを破砕すること。

 閑話休題。
 その深層レヴェルで考えると「意識変革」を先行させるということは人間にとって本質的に無理なのだと思う。社会全体によるすり込み、新生児のころからのすり込みの力はすさまじい。そこから抜け出すためにはなによりも現実と挫折の経験が必要である。これを考えると、我々の世代までなら通じた言い方だと、「生の哲学」ではなく、マテリアリズムということを考えざるをえないのである。

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