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2012年5月20日 (日)

『中世英仏関係史』とエリザベス女王

Cimg0311  これは自宅の卯の花。卯の花垣とはいかないが、ずっと前に、千葉の少し奥の方までいって、ウツギの枝を切ってきて、挿し木にしたものである。平安時代農業史にとっては、卯の花の季節性が重要というのが戸田芳実さんの意見で、ともかく卯の花を垣根にほしいと思ったことがなつかしい。この花をみると、いつも、早く仕事を片づけて、どうにかして経済史に戻ることを考える。
 久しぶりに自転車で出る。公園を通って、国道の脇を抜け、花見川の自転車ルートに降りてくる。
 昼食をしながら、『中世英仏関係史』(朝治啓三、渡辺節夫、加藤玄編、創元社、2012年4月)を読む。ヨーロッパ史の勉強は、我々の世代の「日本中世史」研究者で一般的な、大塚久雄先生の諸著作、森本芳樹氏の著作、M・ブロックの『フランス農村史の基本性格』『封建社会』、そしてブローデルを少しというところ。マルクス、ウェーバーその他、教養書を別にすれば、それだけしか読んでいない。この本は正確に読まねばならない。
 ヨーロッパの王家と貴族のヨーロッパ全域にわたる結合関係、親族関係を、1066年のノルマン・コンクエストから百年戦争が終わってから、1500年くらいまで、イギリスとフランスの関係が、ほぼ現国境を中心とした二国間関係に落ち着くまでの諸問題を扱った集団著作である。ノルマンディからガスコーニュまでのフランス西部の領有者、プランタジネット家がイングランド王を兼ねるという体制を、最近は「アンジュー帝国」というということで、「中世ヨーロッパ」を、新制ローマ帝国、カペー王朝、アンジュー帝国という三つの帝国を中心において見ていこうという趣旨になる。「一国史的にヨーロッパをみることはできない」という通説破壊の迫力は、「日本史」の場合よりも強力で実質的であり、説得性が高い。渡辺節夫さんからいただく。ありがたく勉強をしようと思う。
 渡辺さんは「制度・理論よりも人的要素が重視される時代」として、この時代を描いているが、前近代では日本も同じはずである。日本「中世」史の研究者でそういう方法を主張する人は少ないが、私は、「人的要素」で政治史を考えるのが正統だと思う。

 ただ、結局、それを前提にした上で、貴族範疇をどう処理するかというのが、基本問題。日本には「封建社会」は存在しなかったから「封建貴族」ということはできないが、もちろん、貴族範疇は必要というのが、私の立場。そもそも黒田俊雄氏のいわゆる権門体制論というのは、日本における貴族範疇論として提出されているものであり、そのレヴェルで支持し、あるいは批判する必要がある。
 問題は、「封建貴族」という範疇は、ブロックによっても、権力の地域分裂が前提になって、王も貴族も動き、その動く宮廷に全貴族が集うという独特な体制を前提にしていることである。そして、本書によれば、このような動く宮廷は、王国のみでなく、それを前提とした帝国構造の中で存在しているものであるというのである。ブロックを読んだ記憶では、動く宮廷というのは素朴な組織というイメージだったように覚えているが、とんでもないということになる。

 それに対して、動かない王が前提になる日本のような場合に、何をどう考えるか。それがヨーロッパ的な「封建貴族」とどう違うか、違いをどう理論化するかというのがむずかしいのだろうと思う。こういうことを考えるのに、ブロックにもどるほか何も知らないというのは、やはりおぼつかない話なので、この本を読んで勉強しようと思う。
 結局、どの時代でも、どの地域でも、まずは政治史と国家論を見なおさなければ、その基礎をなす経済史を、現在の歴史学のレベルで構成的に取り上げることはできないのだと思う。

 堀田善衛の「ヨーロッパ、ヨーロッパ」というエッセイに、エリザベス女王がベルリンの壁を訪れた時のエピソードがある(『天上大風』)。「壁」をイギリス女王にみせることを政治儀式にしようとしたドイツの首相エアハルトなどの目論見に反して、女王は壁の前で車を降りたものの、すぐに車内に戻ってしまい、しばらく壁の前で「儀式」ができると考えて、車から降りて集まり始めた彼らが、予定外の女王の行動にあわててびっくりして、あたふたする様子がテレビで映ったという。堀田は、「女王の方は誰にとっても、言うまでもなく東西両ドイツの人々にとっても愉快でないものを前にして、長い時間、あるべきではないと、英国の女王として判断をしたものであったろう」と解説している。そしてそれをみている様子を儀式にするという政治的な利用を拒否するという小気味よい女王の行動を堀田は褒めている。
 関係するのは、その後のことで、以下は、堀田の文章を引用する。「女王が市中に戻って、ベルリンの市民に向けて、演説というよりも、挨拶をしはじめた。もとより英語である。その挨拶もケネディのそれのような、角もあれば険もあるといったものではなく、ドイツ国民の幸福を祈るというほどのものであった。ところがそのおわりのところで、今度は私がびっくりした。女王が、いまでもはっきり覚えているが、『ーFrom now on, I am going to  Hanover, my home town. いまから私はハノーヴァーに行きます。私の故郷の町です』といったのであった。現在の英王家がドイツのハノーヴァー家に出自していることは、私も知らぬではなかったが、”マイ・ホームタウン”には、やはりびっくりさせられたのであった」「そうして、聴衆であったドイツ人諸君も、女王のこの最後の言葉を歓呼して、躍り上がって迎えていた。この女王の振る舞い方、エティケットには、つくづくと感心をさせられた。それだけに、壁が一層醜くみえた」というのである。たしかにこういうのがヨーロッパなのだと思う。

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