地震火山66大飯原発再稼働と『方丈記』の若狭の津波
若狭大飯原発の再稼働の「決断」なるものがなされた。こまったことである。一度、選出されれば何をやってもよいというのは、なったら儲けものという心根のように思える。
「おびただしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる」(『方丈記』)。
この『方丈記』の一節は、平安時代の末期、一一八五年(元暦二)七月九日に起きた地震についての『方丈記』の記述であるが、この地震については、西山昭仁氏の二本の論文、①「元暦二年(一一八五)京都地震の被害実態と地震直後の動静」(『歴史地震』一四号、一九九八)、②「元暦二年(一一八五)京都地震における京都周辺地域の被害実態」(『同』一六号、二〇〇〇)がある。
これによって地震の震源が琵琶湖西岸の断層帯にあったこと、さらにその南につづく山科盆地でも大きな揺れがあったこと、つまり、だいたい、琵琶湖西岸断層帯から醍醐断層と南北につづく長大な断層帯が揺れていることが推定されている。
西山論文は、平安時代以前の地震について、文献史料から地震の被害・震度分布・震源などについて具体的に論ずることに成功したほぼ唯一の論文で画期的なものである。
ただ、残念なことに比叡山の山頂が巨大な揺れに襲われたことはわかるものの、比叡山の東、つまり琵琶湖西岸そのものの揺れについては文献史料の残りが悪く、西山氏は論文を発表された段階では、その点が弱点であることを自認していた。
ところが、最近行われた琵琶湖西岸断層帯の南部に属する堅田断層のボーリング調査・ジオスライサー調査によって、まさにこの時期に堅田断層で断層運動があったことが確認された(金田平太郎など「群列ジオスライサー調査に基づく琵琶湖西岸断層帯南部の最新活動期」『歴史地震』二三号、二〇〇八)。
これによって西山論文の結論は鉄案になったが、それを前提とすると、右の『方丈記』の一節、「海は傾きて陸地をひたせり」という記事についての新たな視野が可能になる。
つまり、この地震で津波が発生したというのは、『方丈記』と『平家物語』しかなく、『平家物語』はそのままとれないとすれば、『方丈記』しかないことになる。しかし、『方丈記』はこの地震の三〇年近く後に執筆されたもので、いわゆる一次史料でない。
ただ、北近江までを揺らすような強い断層運動があったことが確定すると、この地震の時の貴族の日記に「美濃・伯耆などの国より来る輩曰く、殊なる大動にあらず」(『忠親記』)という記録が残っていることが重大になる。これは日記の記主が京中の噂を記したもので、この地震がどの範囲の国を揺らしたか、つまりこの地震の震度分布についての京都の住人の観測を示しているものである。近畿に近い地方では相当に揺れたが、京都にやてきた人の噂を聞くと、揺れが少なかった地域は美濃・伯耆以遠であったという訳である。
ここで伯耆があがっているのが重要で、これは日本海側の様子に着目した観測が京都で行われていたことを示している。逆にいえば、日本海側の伯耆と美濃の間の諸国、つまり越前・若狭・丹波・丹後・但馬・因幡の諸国では、有感地震の震度を超える地震、つまり震度3を越える場合があったという推定がなりたつことになるのである。
そうだとすると、この地震によって、津波が来た可能性があるのは、太平洋側ではなくて、越前・若狭・丹後あたりであることになる。現在のところ、これは推論に過ぎないが、そう考える理由は、一五八二年の「天正地震」でも、京都・近江が大きく揺れるとともに丹後・若狭・越前を津波が襲っていることにある。
この「天正地震」については、今年に入って、敦賀の外岡慎一郎氏が的確な考察を発表している(「『天正地震』と越前・若狭」『敦賀論叢(敦賀短期大学紀要)』二六号、二〇一二)。こういう研究を急がねばならないと思うのだが、この地震の震源は美濃から尾張・伊勢にかけての養老断層である。これに対して、『方丈記』に記録された地震の震源は、もっと若狭・丹後に近い。こうなると、平安時代末期にも若狭で津波が起きた可能性があるのではないかということになる。
日本の古典、『方丈記』に若狭の津波が描かれていたということになると、若狭湾の原発をどう考えるかは、一つの文化問題となるように思う。
このブログでは、個別の史料についての歴史学固有の分析にかかわること、つまり歴史学のオリジナリティにかかわることはできるかぎり書かないという方針であることは何度か述べた通りです。これは学界での学説発表の現状からして守るべきものであると考えています。そうでないと現在の状況では、じっくりとした研究を不安定にする結果を導きかねません。
ただ、地震・津波について論ずることは必要であり、とくに今の状況ではほかの仕事をさしおいても急を要すると考えています。そして、これはすぐに活字媒体でだすことの一部の要約ですので例外としています。
ただ右の『方丈記』の解釈をふくめて、ここでの見解は、学界での検証をへていないものでないことは御断りしておきます。また、逆に、このブログに書いた私見を学界の研究者が御覧になった場合、それは注記する必要はありません。もう年のですので、いわゆるオリジナリティがどうこうということはまったくありません。ただ、若い方の研究の先を越したことになっていたら御許しください。
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