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2012年6月

2012年6月28日 (木)

火山・地震64仙台でボランティアー宮城資料ネットワーク

Cimg057920shukushou  仙台で宮城資料ネットのボランティアに参加している。この写真は宮城資料ネットの事務局のある東北大学の文化系総合棟11階からの眺望。写真では明瞭でないかもしれないが、海の水平線がみえる。ビルが立て込む前は全面に水平線がみえたはずである。総合棟の高さは仙台城と同じということである。昨日は多賀城にいって、奧の東門近くで、散歩中の女性に教えられて、やはり海の水平線を撮影する。いわでもがなのことだが、少し山に登れば水平線のみえる生活であったということを考えて置かねばならないのだということを実感する。
 第一日目午前中の仕事は、仕事は、石巻の相川小学校の校務書類の最終整理の段階のところで御手伝い。ボランティアの方々に教えられて、たとえば校庭使用許可、給食記録、出勤簿、石巻漁協の寄付金とその使途の一件書類、さらに教育委員会からの通達書類などのファイル最終整理である。
 相川小学校は石巻でも奥の方。3,11では全員裏山に避難することができたという。創立が明治5年4月。しかし、明治29年の三陸津波で一切が流失したということで、津波についての防災教育の伝統が強かったということだった。子供たちは全員無事。
 しかし、三階建ての小学校で、水が三階の屋上を越えたということである。これらの書類は一階にあったということであるが、津波のどろが全体をおおった。それが書類のすみずみにまで入り込んでいる。最初はどろだらけのところを3月からはじめて、だいたいクリーニングがすんだところである。エタノールでの消毒、カビをとるところから初めて、何度もクリーニングをかけても、微細な砂はのこっている。作業をしていると、机の上に細かな砂がたまってくるのに驚く。
 だいたい整理を終えつつあり、学校に返却するところまでもってきたということであるが、当初の状態を想像すると、いまでも防塵マスクとビニールの使いすて手袋で作業をすることが必要であるということを実感する。カビのいろいろな色のよごれはとてもとれない。それにしても大量の細かな書類である。これだけの書類を学校が作っているのに驚いた。ここまで書類が必要かとも思うが、しかし、それと現状復元・保守を行うという仕事は別のことであるとボランティアの責任のOさんがおっしゃるのに納得。それにしても、これだけの書類があるということは、教育史の側から検討した方がよいかもしれないと思う。小学校でどの程度の書類をどう作っているかの各国比較というような仕事があってもよいのではないか。そのためにも、この整理資料は使えるだろうなどということを考える。私の分担分にはなかったg、が、子供たちの残した資料はさすがに楽しい。

 第一日目、昼過ぎからの仕事は、いたんだ文書の現状記録と再整理。以前にいちど封筒に入れて整理されていた文書が津波にあって、しばらく放置されていた文書である。封筒に入れて整理されていた文書であるが、驚いたのは文書が封筒に癒着している場合があったこと。また封筒の中に入っているのに、水をかぶったことによって、破損が進み、カビが繁殖している。んでいる。注意して封筒から出し、癒着を外せない場合は切り抜き、すべて新しい封筒に切り替える。その写真もとっていく。
 ボランティア二日目は、あるお宅から出た襖内文書の整理、紙継目と紙の張り重ねを慎重にみきわめて、必要なところを外し、襖内文書になる前の原型に復元する中間的な作業である。宮城ネットワークの研究者と作業になれたボランティアの人々の指示にしたがって作業。さすがに疲れた。それでも家族できたので、人手の助けにはなった。Mちゃんに感謝。しかし、それにしても、必要な作業のうち1000分の1にも達していないと思う。
 市民ボランティアの方のいまの責任者のOさんは、昨年の秋のネットワーク代表の平川先生の市民講座での呼びかけをきいて参加されたという紳士。リタイアされた方や主婦の方。6・7人のメンバーで支えてくださっている。週3・4日あるいは毎日。ボランティアの方々の話を聞いていると頭が下がる。本当にありがたいことだと思う。
 ボランティアのIさんがおっしゃっていたこと。仙台に津波ということはまったく考えていなかった。そもそも、仙台が海が近いという意識そのものがなかった。そこで水平線がみえるという話がひとしきり話題となる。Oさんは、仙台城と同じ高さから仙台の街区をみながら仕事できるのは楽しみの一つとおっしゃるが、その位はいいことがなければという話になる。
 海の歴史を大事にして歴史像を作っていくということは、同時に水平線の眺望というものの意味を考えていかねばならないということなのだということを実感する。この写真には写っていないが、仙台市内のもっとも高いビルからは3,11の津波がみえたということであった。慶長津波などの時は、仙台城からもみえたものであろうか。
  明日は午前中で失礼して、石巻にまわる予定。

2012年6月17日 (日)

日記。成沢光著『政治のことば』と『平安遺文』の学恩ということ。

Cimg0316  これは千葉公園の大賀ハス。先週の火曜?。今はもっと咲いているはず。今日は日曜なのに所用ででるが、その途中、自転車をオーバーホールに出す途中で見に行くつもり。

 成沢光さんの『政治のことば』が文庫になるので、その解説をせよということで、やっと書き終わる。『かぐや姫と王権神話』で、『政治のことば』の「マツリゴト」論、「イキホヒ」論に依拠して議論したのが、成沢さんの目にとまって、解説を依頼されたもの。

 この本は1984年の出版だが、収録された論文は平凡社の『月刊百科』で読んだのだから、もう30年近く前に読んだことになる。それ以来、頭の中に、この本の趣旨が根をはってきたのだから、その解説を依頼されるというのは、光栄なことである。

 しかも先週、わざわざ成沢さんと編集の人が職場にきてくれて、はじめてお目にかかる。「先生の御考えは、私の頭の中に移っています。よく知っています」ということであるが、直接におめにかかるのは、何とも奇妙な感じである。編集者の方からメールで依頼をうけ、御引き受けしたところ、その後、先生ご自身からメールが来たときも奇妙な感じであった。電脳とネットワークを通じて連絡がある前に、活字を通じて、同じ情報が、私の頭の中に存在していたのだが、それが電子情報をつうじて再会し、さらに直接にお目にかかるという訳である。そして頭の中にある思考もそれを還元すれば電子情報なのであるから、これはどういうことなのであろう。ともかく御会いしたこともないのに、懐かしいというか、光栄というか。

 私は、ずっと丸山真男の「歴史意識の古層」というエッセイの批判をしようとしていて、その根拠が成沢さんの仕事と石母田正さんの仕事、そして黒田俊雄さんの仕事である。昨日は、その最終確認のために「古層」論文ののっている丸山の『忠誠と反逆』を探したが、でてこない。これまでも『忠誠と反逆』を探すとでてこないことがあったが、これは別分野の本の置き場所がはっきりせず、しかも、この本は、時々、使うのででてこないらしい。これは本棚の抜本的な片づけをするほかないときめ、Mちゃんに分給を払って片づけを開始したら、でてきた。そこでこの本は、私の頭の中では関係している黒田俊雄著作集のそばにおくことにした。そして『政治のことば』もそこにおくことにした。視線がそこを通るたびに、批判の課題を思い出すことにしたい。

 下記は、解説の一節。

『政治のことば』はけっして読みやすいという本ではないが、読者は、この筋を頭に入れていただいた上で、まず第四章の第一論文「『権利』『権力』について」からお読みいただくのがよいかもしれない。そこには、明治初期に作られた「権利」という言葉が「イキホヒの利」、恣意的な利益主張というニュアンスをもち、だからこそ、それに対して「義しい務」という言葉が対置されたという目をみはるような説明がある。こういうニュアンスはいまだに私たちの社会生活を呪縛している。

 この解説をPCの「先輩研究者」というフォルダーに保存したら、竹内理三先生の追悼文集に書いた「『平安遺文』の学恩ということ」という文章があった。いろいろなことを思い出した。下記のようなもの。

 『平安遺文』の学恩ということ
               保立道久
 『平安遺文』二七一五号文書の勝尾寺文書は、「村の人々・座につくはかりの人々」という村座の記事によって有名なものであるが、その直前に次のような一節がある。

かの畠はあけとりて、われつくりて、ちしをもんてハ、あふらかゐて、す正・二月のおこなゐ、又まいやのたうみつのみあかし、けたいすへからず、

 右は『平安遺文』の第四版(一九七五年)によったものであるが、だいたいの意味は、畠を「上取」って自作し、その地子で油をかって、修正会、修二会などに使用せよということだろうか。ところが、三版(一九七〇年)では、傍線部のところは、「あふらかゐてす、正二月のおこなゐ」となっている。竹内先生は、だいたい四版に際して、点の位置を「す」の後から前に訂正したことになる。
 私は、一九七三年に国際キリスト教大学を卒業し、都立大学の大学院で、戸田芳実氏の指導をうけた。実は、進学の前後に戸田さんの下宿にうかがった時、ちょうど戸田さんは、この文書の点の打ち方についての竹内先生あての葉書を書いていたのである。このころ、戸田さんは『箕面市史』の関係で、勝尾寺文書を読んでいたはずだから、その中で気づいたのだろう。戸田さんは、その葉書を見せてくれ、もし指摘が正しければ『平安遺文』の学恩に少しでも酬いることになるといっていた。結果からみると、竹内先生はこの時の戸田さんの意見を容れられたことになる。
 学部時代、大学には専任教官はいなかったが、日本の前近代史を研究したいと考えた私は、最初は近世史の研究書を読み出した。しかし、卒論を書くには、ともかくも史料を読まねばならないこと、一人で近世文書を読むのは無理とすると、中世の活字になっている史料を読むほかないことはすぐにわかり、図書館の棚にならんでいた『平安遺文』に目をつけた。大学四年の夏に石母田さんの『中世的世界の形成』を読み、そこに使用されている史料を『平安遺文』から拾い読みしたのである。そして、私が中世文書の読み方を教わったのは、その頃、歴史学研究会の委員をやっていた渡辺正樹さんである。歴研の事務所に電話して渡辺さんを紹介してもらい、電話で話して、高田馬場の駅の裏手の喫茶店であうことを約束し、『平安遺文』を目印にして会ったことをおぼえている。その時に渡辺さんから読んでごらんといわれた、『平安遺文』第一巻の近江国大国郷の土地売券類を素材として、私は卒論を書いた。
 こういうことだから、大学院に進学することを許可された直後に、戸田さんが『平安遺文』の読みの訂正を報告する葉書を書いているのをみて、私はまったく感心してしまったのである。そして、こういう形で研究を始めた私は、その後、長く、『平安遺文』の研究さえできれば十分という感じ方から解放されなかった。後に、私は、史料編纂所の古文書部に就職したが、その直後に、古文書の部屋でもった古文書集の編纂についての勉強会で、編年文書さえあれば十分というような極論をいって笑われたのも、そのせいだったと思う。さすがに、現在の調査・研究段階で所蔵者別の文書集の編纂が不可欠な意味をもつことは、すぐに理解したが、自分の研究では、『平安遺文』を扱っていればよいという根本気分は、その後も長く続いた。
 私がこういう感じ方から離れることができたのは、『鎌倉遺文』の出版が相当の冊数まで進み、発刊されるごとに『鎌倉遺文』の全体を読む習慣がついてからのことであった。『平安遺文』の世界から離れて徐々に「中世史らしい」研究に近づくようになったのにも、先生の学恩を受けていることになる。
 また、私が史料編纂所に入所したころは、竹内先生はまだ御元気で、時々古文書の部屋にも来られていた。古文書部の諸先輩は竹内先生のことを本当に敬愛していて、史料編纂所時代の竹内先生のエピソードをよく聞かされた。私自身も、編纂していた『大徳寺文書』一二巻の二九八三号文書の「作不」という字が読めずに困っていた時のことが忘れられない。笠松さんから、これは先生にうかがえばすぐわかるからといわれて、ちょうど部屋にこられた先生に、私は、緊張してうかがった。先生がすぐに読んでくれたこと、そして、笠松さんがあたかも自分で読んだかのように自慢そうだったのをよくおぼえている。
 もちろん、笠松さんに読んでもらった字は数え切れず、そのため、私は、編纂というものは「一字一宿」の恩義ということだと思い定めたのだが、それにしても、誰でも思うことではあるけれども、『平安遺文』『鎌倉遺文』に対する恩義ということになると、その総字数からいっても計算することができない種類のものになるのである。

2012年6月13日 (水)

地震火山66大飯原発再稼働と『方丈記』の若狭の津波

 若狭大飯原発の再稼働の「決断」なるものがなされた。こまったことである。一度、選出されれば何をやってもよいというのは、なったら儲けものという心根のように思える。

「おびただしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる」(『方丈記』)。

 この『方丈記』の一節は、平安時代の末期、一一八五年(元暦二)七月九日に起きた地震についての『方丈記』の記述であるが、この地震については、西山昭仁氏の二本の論文、①「元暦二年(一一八五)京都地震の被害実態と地震直後の動静」(『歴史地震』一四号、一九九八)、②「元暦二年(一一八五)京都地震における京都周辺地域の被害実態」(『同』一六号、二〇〇〇)がある。
 これによって地震の震源が琵琶湖西岸の断層帯にあったこと、さらにその南につづく山科盆地でも大きな揺れがあったこと、つまり、だいたい、琵琶湖西岸断層帯から醍醐断層と南北につづく長大な断層帯が揺れていることが推定されている。
 西山論文は、平安時代以前の地震について、文献史料から地震の被害・震度分布・震源などについて具体的に論ずることに成功したほぼ唯一の論文で画期的なものである。
 ただ、残念なことに比叡山の山頂が巨大な揺れに襲われたことはわかるものの、比叡山の東、つまり琵琶湖西岸そのものの揺れについては文献史料の残りが悪く、西山氏は論文を発表された段階では、その点が弱点であることを自認していた。
 ところが、最近行われた琵琶湖西岸断層帯の南部に属する堅田断層のボーリング調査・ジオスライサー調査によって、まさにこの時期に堅田断層で断層運動があったことが確認された(金田平太郎など「群列ジオスライサー調査に基づく琵琶湖西岸断層帯南部の最新活動期」『歴史地震』二三号、二〇〇八)。
 これによって西山論文の結論は鉄案になったが、それを前提とすると、右の『方丈記』の一節、「海は傾きて陸地をひたせり」という記事についての新たな視野が可能になる。
 つまり、この地震で津波が発生したというのは、『方丈記』と『平家物語』しかなく、『平家物語』はそのままとれないとすれば、『方丈記』しかないことになる。しかし、『方丈記』はこの地震の三〇年近く後に執筆されたもので、いわゆる一次史料でない。
 ただ、北近江までを揺らすような強い断層運動があったことが確定すると、この地震の時の貴族の日記に「美濃・伯耆などの国より来る輩曰く、殊なる大動にあらず」(『忠親記』)という記録が残っていることが重大になる。これは日記の記主が京中の噂を記したもので、この地震がどの範囲の国を揺らしたか、つまりこの地震の震度分布についての京都の住人の観測を示しているものである。近畿に近い地方では相当に揺れたが、京都にやてきた人の噂を聞くと、揺れが少なかった地域は美濃・伯耆以遠であったという訳である。
 ここで伯耆があがっているのが重要で、これは日本海側の様子に着目した観測が京都で行われていたことを示している。逆にいえば、日本海側の伯耆と美濃の間の諸国、つまり越前・若狭・丹波・丹後・但馬・因幡の諸国では、有感地震の震度を超える地震、つまり震度3を越える場合があったという推定がなりたつことになるのである。
 そうだとすると、この地震によって、津波が来た可能性があるのは、太平洋側ではなくて、越前・若狭・丹後あたりであることになる。現在のところ、これは推論に過ぎないが、そう考える理由は、一五八二年の「天正地震」でも、京都・近江が大きく揺れるとともに丹後・若狭・越前を津波が襲っていることにある。
 この「天正地震」については、今年に入って、敦賀の外岡慎一郎氏が的確な考察を発表している(「『天正地震』と越前・若狭」『敦賀論叢(敦賀短期大学紀要)』二六号、二〇一二)。こういう研究を急がねばならないと思うのだが、この地震の震源は美濃から尾張・伊勢にかけての養老断層である。これに対して、『方丈記』に記録された地震の震源は、もっと若狭・丹後に近い。こうなると、平安時代末期にも若狭で津波が起きた可能性があるのではないかということになる。
 日本の古典、『方丈記』に若狭の津波が描かれていたということになると、若狭湾の原発をどう考えるかは、一つの文化問題となるように思う。

 このブログでは、個別の史料についての歴史学固有の分析にかかわること、つまり歴史学のオリジナリティにかかわることはできるかぎり書かないという方針であることは何度か述べた通りです。これは学界での学説発表の現状からして守るべきものであると考えています。そうでないと現在の状況では、じっくりとした研究を不安定にする結果を導きかねません。
 ただ、地震・津波について論ずることは必要であり、とくに今の状況ではほかの仕事をさしおいても急を要すると考えています。そして、これはすぐに活字媒体でだすことの一部の要約ですので例外としています。
 ただ右の『方丈記』の解釈をふくめて、ここでの見解は、学界での検証をへていないものでないことは御断りしておきます。また、逆に、このブログに書いた私見を学界の研究者が御覧になった場合、それは注記する必要はありません。もう年のですので、いわゆるオリジナリティがどうこうということはまったくありません。ただ、若い方の研究の先を越したことになっていたら御許しください。

2012年6月 8日 (金)

地震火山神話の講演

Cimg0313  この写真は卯の花。花期は終わっているが、2メートル以上の高さがある。東大の懐徳門という門のところにある。昆虫学の人が観察をしていたので聞くと、これだけ大きいのは珍しいとおっしゃる。ミツバチ・マルハナバチ・クマバチがよくあつまるということ。卯の花垣がならんでいた時代には、相当の蜜があつまったのであろうか。以下は、昨日から今日の朝の電車にかけて書いたもの。

 今、東北新幹線の中。宇都宮に向かう途中である。朝早く目が覚めてしまい、『方丈記』の地震記事について締め切りの過ぎた原稿を書いていて、疲労。新幹線の中で書きつぐつもりでいたが、それに必須の西山昭仁氏の論文をファイルごと家に置き忘れてきたことに気づく。
 『歴史地震』にのった西山氏の論文二本のうち一本しかコピーがなく、昨日、地震研にいってコピーさせてもらう。『方丈記』は高校時代に母や妹と一緒に読んだことがあり、また堀田善衛の『方丈記私記』もよく読んだので、ともかく歴史学からの感想をふくめて書いているのだが、不消化のまま頭が熱い。
 宇都宮では「地震火山神話」についての講演である。パワーポイントを用意してあるが、それを見なおすことにする。私は講演はうまく行くときと、まったくうまく行かないときがある。うまい、うまくないといっても主観的なことであるが、考えてみると、うまく行かない時の条件は三つ。第一は(これが一番多いのだが)「意あまって」という奴で、とくにその「意」を講演や授業の冒頭にいって、それへの聴衆の反応がよくわからない場合に話の接ぎ穂を失うことが多い。第二は疲れている場合であって、慌ただしく仕事をしている時のエアポケットのようなものに入ると「語ろう」というエネルギーがでてこない。今日は注意しなければならない。第三はいうまでもないことながら、話がよく練れていないときである。私は講演は、だいたい原稿を書いている、または書いたことについて話すことが多いのだが、書いて分かったと思っていても、話すと、曖昧なところ、筋の通らないところでつっかえることが多い。わかりにくさというのは書き言葉の状態だと、どうにかごまかせるのである。とくに困るのは、すでに原稿を書いてあるが、書き終えた時の感情・感覚を忘れている時で、エーとどうだったんだっけということでつっかえることが多い。これも今日に当てはまるので注意しなければならない。

 今、帰宅途中。駅について珍しく自転車に乗る元気がなく、コーヒー。原稿の締め切りが重なっているのが意外と負担になっているようである。一つは上記の『方丈記』。もう一つが、ある文庫本の解説というもので、これが頭の隅にある。二つも三つものことを同時進行させるのが、そろそろ無理なのかもしれない。
 講演の最後で疲れて御心配をかけてしまった。しかし、国語の先生方なので話しやすく、かつ歴史学と国語・国文学で一緒にできることは多いのではないかという年来の意見を聞いていただけたのがありがたかった。また、このブログを細かく読んでいただいているのに驚く。御質問で「富士の九世紀貞観噴火の溶岩を富士吉田市では「まるひ」といっている」ということを教えていただく。過分の紹介と、講演後の応答をいただき光栄であった。ありがとうございました。

 下記が講演の要約。
(1)本来の神話は益田のいうように呪術の克服の最初であり、人間の発見であり、「大きな自然・自然神との人間の空想による戦い」である。
(2)記紀神話はたしかに政治的な創作物であるが、独特な文学的叙述の中には自然神の体系が反映している。そこには雷神=タカミムスヒ、地震男神=スサノヲ、火山女神=イザナミの三位一体の関係が隠されている。
(3)人々の神話的な観念の中では、噴火・地震・津波などの災害が中心的な位置を占めており、そこには巨人伝説や墳砂と火山などの日本の風土にそくした多様な形象を含んでいた。これは、歴史文化において、学校教育において自然科学的な知識とあわせて記憶され伝えられる必要がある。
(4)九世紀の大地動乱と国家・社会の構成的な矛盾の中で「自然神の祟り神」化といわれる事態が起き、自然神の三位一体は(1)龍の三位一体と(2)地域のアジールの地主神の体系に変化していった。この時代の激しさが道真の文学や『竹取物語』など、この列島の歴史文化の新たな段階を作った。
(5)地球科学による自然の運動法則の解明を前提として、文理融合の原則にたった協同的研究を進める必要がある。その場合、歴史学と文学の間での神話を素材とした研究議論は最初の重要な仕事の一つとなる。
(6)歴史学研究と言語・文学史研究、そして教育は、東日本大震災と核災害の重層の中で、古典の現代性を取り戻し、「民族の遺産の国民への浸透」という益田の問題提起にもどってともに考えるべきことが多い。

 益田さんの『国語教育論集成』に、講演(授業)は必ず10分は時間を残し、要約をすることとあるのをみて要約を用意していった。これはたしかに正しいと実感。

 授業ではなく、先生方への講演というのは、ようするに仲間への話なので、やりやすかった。そして、内観というか、視線をつねに脳の内側にむけておいて、目の前にあるメモに触発されながら、意識の中に浮かぶことを紡ぎだすように語っていくというやり方で話が進めていいのがありがたい。ずるずると話が繋がっていくのでお聞きになる方は聞き難かったかと心配だが、パワーポイントというのは、そういう講演の時は使い勝手のよいものだと実感する。
 

2012年6月 5日 (火)

国語教育と歴史教育ー益田さんの意見にふれて

 朝の総武線。今週は栃木で高校の国語の先生方に「地震・火山神話の復元」という話をする予定。副題は「ー益田勝実氏の仕事にふれて、歴史学の側から考えたこと」とさせてもらった。
120605_130932masuda  益田さんの『国語教育論集成』(筑摩文庫)を読んで、たいへんに驚いたのは、「原爆雨にさらされて神話を教える。これは一体なんだ」(益田)という一節だった。私は、まず、この本を、必要上、「海さち山さち」という論文から読み出したのだが、その最初にこうあったのに驚いたのである。
 この文章は、益田さんの神話論にとって、その初心を語るという意味で重要なものである。その最初は、益田さんが戦地へ『古事記』をもっていって背嚢にいれて読んでいたという話から始まっている。そして、「戦後」になって、神話を考えることになり、「原爆雨にさらされて神話を教える。これは一体なんだ」(益田)という記述があるのである。戦場で『古事記』を読み、戦争から帰ってきて、原爆実験があり、原爆雨がふるなかで、神話を考えるという状態に、御自分がいることに驚き、「これは一体なんだ」と自問自答されているのである。
 この本には、菊村到が新聞記者であったころ原発問題にふれた文章を教材としてどう取り上げるかという試みもある。そこには、「根底からの原子力と国民生活の関係を考えての批判」を重要だとして、次のようにそれが紹介されている。

「原子力の平和利用というものの、それは核の軍事的利用の下準備でもありうる。第一に使用後の燃料廃棄物が有害で、その完璧な処理法はまだ発遣されていないから、必ず放射能公害を引き起こす、という立場からの反対です。これは、全国の原子力発電所での小規模に生じた炉の故障や放射能汚染の問題として、いまだにたまる一方で、有効な処理法が世界的に発明されないでいる燃料廃棄物の処理問題として、その後、ますます深刻にもなっています」

 これは30年前、1981年の文章であるが、私などの世代にとっては常識的な見方であった。もちろん、いわゆる戦後派知識人が「原発の夢」に踊っていたというような見方もある。私とてそんなことはまったくなかったという考え方は取らないが、しかし、益田さんがいうような意見が一九六〇年代から七〇年代には一般的であったことを忘れてはならないと思う。もちろん、それを「国民の常識」にできなかったのは世代的な責任であるが、これが無責任な推進者とのつばぜり合いであったこともいうまでもない。

 この本、パラパラめくっていて、最初は、上記のようなところから読み出したのだが、本論の国語教育論は教育現場と教育手法に入り込んだ本格的なものであり、勉強になった。益田さんの国語教育、そして「古典文学の学習」についての期待はきわめて高い。つまり、「古典文学の学習」は「現代人と歴史との内面的なつながり、現代人と民族の文化伝統との内面からのつながりの実体験が可能な、唯一の教育の場となり、そこから他教科の今後のあり方にも指針を与えるものとなりうる」(「古典文学の教育」(1969年)ものであるというのである。歴史学は歴史科学・社会科学であって、直接にそのようなものとはなりえないと述べてある。そして「哲学」「論理学」の教育を中学・高校でやるべきであるとい御主張も印象的なものであった。たしかに、哲学と「国語」は、こういう問題をめぐる「唯一の教育の場」であるのかもしれない。
 その上で、益田さんが「現在、いったい、どれほどの若者が、高等学校で<古典>を学ぶことの積極的意義を感じているか。国語教師であるわたしたちは、その点、虚心坦懐に実情を把握してかからねばなるまい」(「古典の文学教育」1967年)と述べているのも、印象的であった。これは歴史学・歴史教育ではどうなのかという問題に直結する。益田さんの本は、身に迫っては考えてこなかった授業というものがどういうものでなければならないのかについて個人的にも反省をさそうが、歴史教育のもっている困難の全体のことも考えさせる。
 昨日日曜、歴史教育の方と勉強会があり、そこで歴史教育のカリキュラム・教授法が国語・数学とくらべてはっきりと遅れている。ただの物知りを(少数)作るほかの機能をもっていないという意見をきいた。これは社会科教育の中でも歴史教育のもっている困難に関わるのだろうと思う。
 つまり、歴史学の対象は無限に多様であり、歴史に面する社会の意識のありかたも無限に多様であり、さらに歴史学そのものも方法論的に多様であるだけでなく、全体像を出しえていない。そういう中で「余談」あるいは「人格」自身で子供たちの興味を引き止めておくほかないというのが教室の実態であるというのは、否定できない側面なのではないかと感じる。
 私見では、教材を教師・学者の協同で作っていくということは前提であるが、その上で、多様な教材と教育実践をそのまま電子化してネットワークにおいて蓄積していくという方策をとるほかないのではないかと思う。これは悪くいえば、教材のPPT化であって、教育の技術化になる危険性があるかもしれないが、しかし、終局的にはそのようにならざるをえないのではないかと思う。
 歴史学者からいえば、教材は厳密に学術的な調査のもとに、というよりも史料そのものに根づかねばならないものである。そして、そのような教材は教師が厳密に史料自身から教材を組み立てるほかないということである。歴史学の成果は、その際、もちろん参考になるが、しかし、それを教材とする以上、カリキュラムの中心となるトピックを支える史料は(二次史料であっても)、かならず教師が確認しなければ、授業の迫力というものはでてこないのではないか。そういう迫力を背景にもつ教材を画像・史料入りの電子データとして多様・大量に作り出すということにならざるをえないのではないかと思う。もちろん、教科書も重要であるが、教科書には検定もあり、紙数の制約もあって最終的な解決にはならない。
 もちろん、すべての教師個々人がすべての教材について史料あたりをしなければならないというのではない。史料あたりをした教材を教師の専門的なネットワークが共有するということである。最初はスライドシェアのようなソーシャルメディアを使って、試みを初めて見たらどうだろうかと思う。

2012年6月 2日 (土)

小選挙区制と身分意識

卯の花、小選挙区制と比例代表制
120531_115517  この写真は花見川の自転車コース。稲毛浜に近いところの道ばた。戸田芳実さんに「新暦五・六月の花期には、ときに枝全体をおおうほどの白い花を密生させる」という解説がある(戸田芳実「律令制からの解放」『日本中世の民衆と領主』)。まさに、こういう花の様子を解説しているのだと思う。
 卯の花のこういう様子を示す和歌史料もあったと思うが、戸田さんの議論では卯の花垣は、四月氏神祭りの聖なる場を示すもので、平安時代から田堵と呼ばれた百姓の自立的な居宅所有権を象徴するものであったという。
 戸田さんの「10~12世紀の農業労働と村落」(『初期中世社会史の研究』)には、

「神まつる卯月になれば卯の花の 垣根も小忌の衣きてけり」

 という和歌を引いてある。白い忌衣をきているというのはいかにもの表現である。長くつらなる卯の花垣の全体に卯の花が咲いている情景をみてみたいものだと思う。

 別の話に飛ぶ。
 風が吹けば桶屋がもうかるの類だといわれるかもしれないが、この間の、この国の問題は、すべて小選挙区制からでてきていると思う。私が大学時代のころにも、田中角栄による小選挙区制導入の動きがあって、それは角マンダー(角栄の怪物)といわれて潰れた。けれどもその時から自民党を中心とした政治家の中では、小選挙区制の導入というものがしつこく議論されて、結局、本来は反対していたはずの社会党内閣なるものの時に、小選挙区制が導入されてしまった。
 そんなことがなければ、現在のように、原発政策を維持するという立場に、国会議員の大多数が立っているというようなことはなかったろう。普通の人々の間では、ともかくも原発は卒業した方がよいというのが多数意見である。そして、卒業するのならば、できるだけ早い方がよいというのも明らかなことである。それ故に、それをどう実現するかということを考えるのが政治家の役割であるはずである。もちろん、さまざまに処理すべき問題はあるが、原則は単純な話である。支配的政党がそれを実際に考えているとは思えない。こういう普通の意見と国会議員の意見の分裂というのはどういうことか。
 彼ら、国会議員の大多数は「当面の間、原発を維持する」ということをいうことによって責任を放棄し、実際には原発を推進するという立場である。ようするに、これは、「国民は何も知らない」と考えているのである。つまり「僕の方が大所高所からみているのだ」という訳である。こういうのは一種の身分意識である。「撰ばれたから、この職務をしている」のではなく、「撰ばれたのは私がかしこいから、偉いからだ」というもっとも世俗的な錯覚である。
 私は、30代から40代の始めに、学界をあげて問題になった「中世」遺跡の保存問題で、国会に陳情に通ったことがある。網野善彦さん、石井進さん、大三輪龍彦さんなどを担いで、学界をあげて署名活動をして、国会請願をした。その時に、さまざまな伝手をたよって、自民党・新自由クラブ・日本社会党・日本共産党などのすべての政党の議員に御願いをしてまわった。相当数の国会議員(というよりも秘書)にあったが、「ああ、この人たちは何だろう」と思った。
 もちろん、何人かの議員の方は議員自身が対応してくれた。現地では二つの遺跡とも日本共産党ががんばってくれ、また新自由クラブの田川さんなどは、遺跡の現地まで来てくれてありがたかった。田川さんの秘書は破壊の時にもきて抗議してくれた。この時、私は良識的な保守の政治家の大事さを知ったように思う。
 ただ、多くはそうではなかった。印象的であったのは、文教委員の自民党議員のところを廻った時に、遺跡調査を簡単にして、はやく着工できるようにしてほしいという「建設」側の陳情と間違えられたことである。その議員秘書は、議員の娘さんだったが、彼女曰く、「普通はそういう陳情なものですから失礼しました」ということで、絶句した。もう一つは、社会党で、途中までは話にのってくれるのだが、遺跡のある現地の社会党が保存の方向でまとまらない。先生と一緒に直接にいって説得したいということであった。そこで私も旅費を遣って、現地までいって、社会党の「支部」の人々がいる場所にいったのだが、遺跡保存の話などにはならずに、勝手な話をしている。当時は国鉄分割・民営化に社会党が乗ってしまってからしばらく後のことで、それがよかったかどうかというような話が、私のような部外者の前で始まって驚倒した。ようするに、自民党も社会党も請願者は「仲間」だと思っているのである。国民、あるいは学界のような他者、主権者に対応するということではないのである。これは、結局、議員の自己意識を反映している。頼まれるのは「俺が、私が偉いからだ」という訳だ。偉さを認めているのは「仲間」だけだろうに。
 どうにかして比例代表制によって意見の多様性と柔軟性を反映するところに変更しないと、こういう身分意識はきえない。小選挙区制は、明らかに、そのような身分意識を拡大した。
 これを後押しした政治学の人々から反省の弁を聞いたことがないが、これも、本当は俺が正しいのだという身分意識なのだろうか。これが丸山真男門下なのだから恐れ入る。私にはまったくわからない。厚顔な学者というのは語義矛盾だろうに。
 私は歴史学の立場から、「封建社会」というものは日本では存在しなかった。それ故に日本の歴史社会をの分析において封建制範疇は放棄した方がよいという意見であるが、「身分的構造」を唾棄すべきものと考える立場は変わっていない。こういう身分意識を社会の中から追い出していくことの必要性はまったく変わっていないと思う。封建制範疇を放棄するのは、今の言語状況で、昔と違って、こういう身分意識を「封建的」とか、「封建遺制」とか批判することに有効性がないからである。そうではない言葉を獲得するにはどうしたらよいかということについては、私はまだ分からないことが多い。しかし、人のせいににしてはいけないことはわかっているが、こういうことを考えるとき、政治学や法学の人々が頼りにならないのは困ったものである。

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