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2012年6月17日 (日)

『平安遺文』の学恩ということ(竹内理三先生)

『平安遺文』の学恩ということ
               保立道久
 『平安遺文』二七一五号文書の勝尾寺文書は、「村の人々・座につくはかりの人々」という村座の記事によって有名なものであるが、その直前に次のような一節がある。
  かの畠はあけとりて、われつくりて、ち  しをもんてハ、あふらかゐて、す正・二  月のおこなゐ、又まいやのたうみつのみ  あかし、けたいすへからず、
 右は『平安遺文』の第四版(一九七五年)によったものであるが、だいたいの意味は、畠を「上取」って自作し、その地子で油をかって、修正会、修二会などに使用せよということだろうか。ところが、三版(一九七〇年)では、傍線部のところは、「あふらかゐてす、正二月のおこなゐ」となっている。竹内先生は、だいたい四版に際して、点の位置を「す」の後から前に訂正したことになる。
 私は、一九七三年に国際キリスト教大学を卒業し、都立大学の大学院で、戸田芳実氏の指導をうけた。実は、進学の前後に戸田さんの下宿にうかがった時、ちょうど戸田さんは、この文書の点の打ち方についての竹内先生あての葉書を書いていたのである。このころ、戸田さんは『箕面市史』の関係で、勝尾寺文書を読んでいたはずだから、その中で気づいたのだろう。戸田さんは、その葉書を見せてくれ、もし指摘が正しければ『平安遺文』の学恩に少しでも酬いることになるといっていた。結果からみると、竹内先生はこの時の戸田さんの意見を容れられたことになる。
 学部時代、大学には専任教官はいなかったが、日本の前近代史を研究したいと考えた私は、最初は近世史の研究書を読み出した。しかし、卒論を書くには、ともかくも史料を読まねばならないこと、一人で近世文書を読むのは無理とすると、中世の活字になっている史料を読むほかないことはすぐにわかり、図書館の棚にならんでいた『平安遺文』に目をつけた。大学四年の夏に石母田さんの『中世的世界の形成』を読み、そこに使用されている史料を『平安遺文』から拾い読みしたのである。そして、私が中世文書の読み方を教わったのは、その頃、歴史学研究会の委員をやっていた渡辺正樹さんである。歴研の事務所に電話して渡辺さんを紹介してもらい、電話で話して、高田馬場の駅の裏手の喫茶店であうことを約束し、『平安遺文』を目印にして会ったことをおぼえている。その時に渡辺さんから読んでごらんといわれた、『平安遺文』第一巻の近江国大国郷の土地売券類を素材として、私は卒論を書いた。
 こういうことだから、大学院に進学することを許可された直後に、戸田さんが『平安遺文』の読みの訂正を報告する葉書を書いているのをみて、私はまったく感心してしまったのである。そして、こういう形で研究を始めた私は、その後、長く、『平安遺文』の研究さえできれば十分という感じ方から解放されなかった。後に、私は、史料編纂所の古文書部に就職したが、その直後に、古文書の部屋でもった古文書集の編纂についての勉強会で、編年文書さえあれば十分というような極論をいって笑われたのも、そのせいだったと思う。さすがに、現在の調査・研究段階で所蔵者別の文書集の編纂が不可欠な意味をもつことは、すぐに理解したが、自分の研究では、『平安遺文』を扱っていればよいという根本気分は、その後も長く続いた。
 私がこういう感じ方から離れることができたのは、『鎌倉遺文』の出版が相当の冊数まで進み、発刊されるごとに『鎌倉遺文』の全体を読む習慣がついてからのことであった。『平安遺文』の世界から離れて徐々に「中世史らしい」研究に近づくようになったのにも、先生の学恩を受けていることになる。
 また、私が史料編纂所に入所したころは、竹内先生はまだ御元気で、時々古文書の部屋にも来られていた。古文書部の諸先輩は竹内先生のことを本当に敬愛していて、史料編纂所時代の竹内先生のエピソードをよく聞かされた。私自身も、編纂していた『大徳寺文書』一二巻の二九八三号文書の「作不」という字が読めずに困っていた時のことが忘れられない。笠松さんから、これは先生にうかがえばすぐわかるからといわれて、ちょうど部屋にこられた先生に、私は、緊張してうかがった。先生がすぐに読んでくれたこと、そして、笠松さんがあたかも自分で読んだかのように自慢そうだったのをよくおぼえている。
 もちろん、笠松さんに読んでもらった字は数え切れず、そのため、私は、編纂というものは「一字一宿」の恩義ということだと思い定めたのだが、それにしても、誰でも思うことではあるけれども、『平安遺文』『鎌倉遺文』に対する恩義ということになると、その総字数からいっても計算することができない種類のものになるのである。

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