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2012年6月17日 (日)

日記。成沢光著『政治のことば』と『平安遺文』の学恩ということ。

Cimg0316  これは千葉公園の大賀ハス。先週の火曜?。今はもっと咲いているはず。今日は日曜なのに所用ででるが、その途中、自転車をオーバーホールに出す途中で見に行くつもり。

 成沢光さんの『政治のことば』が文庫になるので、その解説をせよということで、やっと書き終わる。『かぐや姫と王権神話』で、『政治のことば』の「マツリゴト」論、「イキホヒ」論に依拠して議論したのが、成沢さんの目にとまって、解説を依頼されたもの。

 この本は1984年の出版だが、収録された論文は平凡社の『月刊百科』で読んだのだから、もう30年近く前に読んだことになる。それ以来、頭の中に、この本の趣旨が根をはってきたのだから、その解説を依頼されるというのは、光栄なことである。

 しかも先週、わざわざ成沢さんと編集の人が職場にきてくれて、はじめてお目にかかる。「先生の御考えは、私の頭の中に移っています。よく知っています」ということであるが、直接におめにかかるのは、何とも奇妙な感じである。編集者の方からメールで依頼をうけ、御引き受けしたところ、その後、先生ご自身からメールが来たときも奇妙な感じであった。電脳とネットワークを通じて連絡がある前に、活字を通じて、同じ情報が、私の頭の中に存在していたのだが、それが電子情報をつうじて再会し、さらに直接にお目にかかるという訳である。そして頭の中にある思考もそれを還元すれば電子情報なのであるから、これはどういうことなのであろう。ともかく御会いしたこともないのに、懐かしいというか、光栄というか。

 私は、ずっと丸山真男の「歴史意識の古層」というエッセイの批判をしようとしていて、その根拠が成沢さんの仕事と石母田正さんの仕事、そして黒田俊雄さんの仕事である。昨日は、その最終確認のために「古層」論文ののっている丸山の『忠誠と反逆』を探したが、でてこない。これまでも『忠誠と反逆』を探すとでてこないことがあったが、これは別分野の本の置き場所がはっきりせず、しかも、この本は、時々、使うのででてこないらしい。これは本棚の抜本的な片づけをするほかないときめ、Mちゃんに分給を払って片づけを開始したら、でてきた。そこでこの本は、私の頭の中では関係している黒田俊雄著作集のそばにおくことにした。そして『政治のことば』もそこにおくことにした。視線がそこを通るたびに、批判の課題を思い出すことにしたい。

 下記は、解説の一節。

『政治のことば』はけっして読みやすいという本ではないが、読者は、この筋を頭に入れていただいた上で、まず第四章の第一論文「『権利』『権力』について」からお読みいただくのがよいかもしれない。そこには、明治初期に作られた「権利」という言葉が「イキホヒの利」、恣意的な利益主張というニュアンスをもち、だからこそ、それに対して「義しい務」という言葉が対置されたという目をみはるような説明がある。こういうニュアンスはいまだに私たちの社会生活を呪縛している。

 この解説をPCの「先輩研究者」というフォルダーに保存したら、竹内理三先生の追悼文集に書いた「『平安遺文』の学恩ということ」という文章があった。いろいろなことを思い出した。下記のようなもの。

 『平安遺文』の学恩ということ
               保立道久
 『平安遺文』二七一五号文書の勝尾寺文書は、「村の人々・座につくはかりの人々」という村座の記事によって有名なものであるが、その直前に次のような一節がある。

かの畠はあけとりて、われつくりて、ちしをもんてハ、あふらかゐて、す正・二月のおこなゐ、又まいやのたうみつのみあかし、けたいすへからず、

 右は『平安遺文』の第四版(一九七五年)によったものであるが、だいたいの意味は、畠を「上取」って自作し、その地子で油をかって、修正会、修二会などに使用せよということだろうか。ところが、三版(一九七〇年)では、傍線部のところは、「あふらかゐてす、正二月のおこなゐ」となっている。竹内先生は、だいたい四版に際して、点の位置を「す」の後から前に訂正したことになる。
 私は、一九七三年に国際キリスト教大学を卒業し、都立大学の大学院で、戸田芳実氏の指導をうけた。実は、進学の前後に戸田さんの下宿にうかがった時、ちょうど戸田さんは、この文書の点の打ち方についての竹内先生あての葉書を書いていたのである。このころ、戸田さんは『箕面市史』の関係で、勝尾寺文書を読んでいたはずだから、その中で気づいたのだろう。戸田さんは、その葉書を見せてくれ、もし指摘が正しければ『平安遺文』の学恩に少しでも酬いることになるといっていた。結果からみると、竹内先生はこの時の戸田さんの意見を容れられたことになる。
 学部時代、大学には専任教官はいなかったが、日本の前近代史を研究したいと考えた私は、最初は近世史の研究書を読み出した。しかし、卒論を書くには、ともかくも史料を読まねばならないこと、一人で近世文書を読むのは無理とすると、中世の活字になっている史料を読むほかないことはすぐにわかり、図書館の棚にならんでいた『平安遺文』に目をつけた。大学四年の夏に石母田さんの『中世的世界の形成』を読み、そこに使用されている史料を『平安遺文』から拾い読みしたのである。そして、私が中世文書の読み方を教わったのは、その頃、歴史学研究会の委員をやっていた渡辺正樹さんである。歴研の事務所に電話して渡辺さんを紹介してもらい、電話で話して、高田馬場の駅の裏手の喫茶店であうことを約束し、『平安遺文』を目印にして会ったことをおぼえている。その時に渡辺さんから読んでごらんといわれた、『平安遺文』第一巻の近江国大国郷の土地売券類を素材として、私は卒論を書いた。
 こういうことだから、大学院に進学することを許可された直後に、戸田さんが『平安遺文』の読みの訂正を報告する葉書を書いているのをみて、私はまったく感心してしまったのである。そして、こういう形で研究を始めた私は、その後、長く、『平安遺文』の研究さえできれば十分という感じ方から解放されなかった。後に、私は、史料編纂所の古文書部に就職したが、その直後に、古文書の部屋でもった古文書集の編纂についての勉強会で、編年文書さえあれば十分というような極論をいって笑われたのも、そのせいだったと思う。さすがに、現在の調査・研究段階で所蔵者別の文書集の編纂が不可欠な意味をもつことは、すぐに理解したが、自分の研究では、『平安遺文』を扱っていればよいという根本気分は、その後も長く続いた。
 私がこういう感じ方から離れることができたのは、『鎌倉遺文』の出版が相当の冊数まで進み、発刊されるごとに『鎌倉遺文』の全体を読む習慣がついてからのことであった。『平安遺文』の世界から離れて徐々に「中世史らしい」研究に近づくようになったのにも、先生の学恩を受けていることになる。
 また、私が史料編纂所に入所したころは、竹内先生はまだ御元気で、時々古文書の部屋にも来られていた。古文書部の諸先輩は竹内先生のことを本当に敬愛していて、史料編纂所時代の竹内先生のエピソードをよく聞かされた。私自身も、編纂していた『大徳寺文書』一二巻の二九八三号文書の「作不」という字が読めずに困っていた時のことが忘れられない。笠松さんから、これは先生にうかがえばすぐわかるからといわれて、ちょうど部屋にこられた先生に、私は、緊張してうかがった。先生がすぐに読んでくれたこと、そして、笠松さんがあたかも自分で読んだかのように自慢そうだったのをよくおぼえている。
 もちろん、笠松さんに読んでもらった字は数え切れず、そのため、私は、編纂というものは「一字一宿」の恩義ということだと思い定めたのだが、それにしても、誰でも思うことではあるけれども、『平安遺文』『鎌倉遺文』に対する恩義ということになると、その総字数からいっても計算することができない種類のものになるのである。

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