小選挙区制と身分意識
卯の花、小選挙区制と比例代表制
この写真は花見川の自転車コース。稲毛浜に近いところの道ばた。戸田芳実さんに「新暦五・六月の花期には、ときに枝全体をおおうほどの白い花を密生させる」という解説がある(戸田芳実「律令制からの解放」『日本中世の民衆と領主』)。まさに、こういう花の様子を解説しているのだと思う。
卯の花のこういう様子を示す和歌史料もあったと思うが、戸田さんの議論では卯の花垣は、四月氏神祭りの聖なる場を示すもので、平安時代から田堵と呼ばれた百姓の自立的な居宅所有権を象徴するものであったという。
戸田さんの「10~12世紀の農業労働と村落」(『初期中世社会史の研究』)には、
「神まつる卯月になれば卯の花の 垣根も小忌の衣きてけり」 という和歌を引いてある。白い忌衣をきているというのはいかにもの表現である。長くつらなる卯の花垣の全体に卯の花が咲いている情景をみてみたいものだと思う。 別の話に飛ぶ。
風が吹けば桶屋がもうかるの類だといわれるかもしれないが、この間の、この国の問題は、すべて小選挙区制からでてきていると思う。私が大学時代のころにも、田中角栄による小選挙区制導入の動きがあって、それは角マンダー(角栄の怪物)といわれて潰れた。けれどもその時から自民党を中心とした政治家の中では、小選挙区制の導入というものがしつこく議論されて、結局、本来は反対していたはずの社会党内閣なるものの時に、小選挙区制が導入されてしまった。
そんなことがなければ、現在のように、原発政策を維持するという立場に、国会議員の大多数が立っているというようなことはなかったろう。普通の人々の間では、ともかくも原発は卒業した方がよいというのが多数意見である。そして、卒業するのならば、できるだけ早い方がよいというのも明らかなことである。それ故に、それをどう実現するかということを考えるのが政治家の役割であるはずである。もちろん、さまざまに処理すべき問題はあるが、原則は単純な話である。支配的政党がそれを実際に考えているとは思えない。こういう普通の意見と国会議員の意見の分裂というのはどういうことか。
彼ら、国会議員の大多数は「当面の間、原発を維持する」ということをいうことによって責任を放棄し、実際には原発を推進するという立場である。ようするに、これは、「国民は何も知らない」と考えているのである。つまり「僕の方が大所高所からみているのだ」という訳である。こういうのは一種の身分意識である。「撰ばれたから、この職務をしている」のではなく、「撰ばれたのは私がかしこいから、偉いからだ」というもっとも世俗的な錯覚である。
私は、30代から40代の始めに、学界をあげて問題になった「中世」遺跡の保存問題で、国会に陳情に通ったことがある。網野善彦さん、石井進さん、大三輪龍彦さんなどを担いで、学界をあげて署名活動をして、国会請願をした。その時に、さまざまな伝手をたよって、自民党・新自由クラブ・日本社会党・日本共産党などのすべての政党の議員に御願いをしてまわった。相当数の国会議員(というよりも秘書)にあったが、「ああ、この人たちは何だろう」と思った。
もちろん、何人かの議員の方は議員自身が対応してくれた。現地では二つの遺跡とも日本共産党ががんばってくれ、また新自由クラブの田川さんなどは、遺跡の現地まで来てくれてありがたかった。田川さんの秘書は破壊の時にもきて抗議してくれた。この時、私は良識的な保守の政治家の大事さを知ったように思う。
ただ、多くはそうではなかった。印象的であったのは、文教委員の自民党議員のところを廻った時に、遺跡調査を簡単にして、はやく着工できるようにしてほしいという「建設」側の陳情と間違えられたことである。その議員秘書は、議員の娘さんだったが、彼女曰く、「普通はそういう陳情なものですから失礼しました」ということで、絶句した。もう一つは、社会党で、途中までは話にのってくれるのだが、遺跡のある現地の社会党が保存の方向でまとまらない。先生と一緒に直接にいって説得したいということであった。そこで私も旅費を遣って、現地までいって、社会党の「支部」の人々がいる場所にいったのだが、遺跡保存の話などにはならずに、勝手な話をしている。当時は国鉄分割・民営化に社会党が乗ってしまってからしばらく後のことで、それがよかったかどうかというような話が、私のような部外者の前で始まって驚倒した。ようするに、自民党も社会党も請願者は「仲間」だと思っているのである。国民、あるいは学界のような他者、主権者に対応するということではないのである。これは、結局、議員の自己意識を反映している。頼まれるのは「俺が、私が偉いからだ」という訳だ。偉さを認めているのは「仲間」だけだろうに。
どうにかして比例代表制によって意見の多様性と柔軟性を反映するところに変更しないと、こういう身分意識はきえない。小選挙区制は、明らかに、そのような身分意識を拡大した。
これを後押しした政治学の人々から反省の弁を聞いたことがないが、これも、本当は俺が正しいのだという身分意識なのだろうか。これが丸山真男門下なのだから恐れ入る。私にはまったくわからない。厚顔な学者というのは語義矛盾だろうに。
私は歴史学の立場から、「封建社会」というものは日本では存在しなかった。それ故に日本の歴史社会をの分析において封建制範疇は放棄した方がよいという意見であるが、「身分的構造」を唾棄すべきものと考える立場は変わっていない。こういう身分意識を社会の中から追い出していくことの必要性はまったく変わっていないと思う。封建制範疇を放棄するのは、今の言語状況で、昔と違って、こういう身分意識を「封建的」とか、「封建遺制」とか批判することに有効性がないからである。そうではない言葉を獲得するにはどうしたらよいかということについては、私はまだ分からないことが多い。しかし、人のせいににしてはいけないことはわかっているが、こういうことを考えるとき、政治学や法学の人々が頼りにならないのは困ったものである。
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