著書

twitter

公開・ダウンロード可能論文

無料ブログはココログ

« 日記。成沢光著『政治のことば』と『平安遺文』の学恩ということ。 | トップページ | 地震火山68石巻をたずねて »

2012年6月28日 (木)

火山・地震64仙台でボランティアー宮城資料ネットワーク

Cimg057920shukushou  仙台で宮城資料ネットのボランティアに参加している。この写真は宮城資料ネットの事務局のある東北大学の文化系総合棟11階からの眺望。写真では明瞭でないかもしれないが、海の水平線がみえる。ビルが立て込む前は全面に水平線がみえたはずである。総合棟の高さは仙台城と同じということである。昨日は多賀城にいって、奧の東門近くで、散歩中の女性に教えられて、やはり海の水平線を撮影する。いわでもがなのことだが、少し山に登れば水平線のみえる生活であったということを考えて置かねばならないのだということを実感する。
 第一日目午前中の仕事は、仕事は、石巻の相川小学校の校務書類の最終整理の段階のところで御手伝い。ボランティアの方々に教えられて、たとえば校庭使用許可、給食記録、出勤簿、石巻漁協の寄付金とその使途の一件書類、さらに教育委員会からの通達書類などのファイル最終整理である。
 相川小学校は石巻でも奥の方。3,11では全員裏山に避難することができたという。創立が明治5年4月。しかし、明治29年の三陸津波で一切が流失したということで、津波についての防災教育の伝統が強かったということだった。子供たちは全員無事。
 しかし、三階建ての小学校で、水が三階の屋上を越えたということである。これらの書類は一階にあったということであるが、津波のどろが全体をおおった。それが書類のすみずみにまで入り込んでいる。最初はどろだらけのところを3月からはじめて、だいたいクリーニングがすんだところである。エタノールでの消毒、カビをとるところから初めて、何度もクリーニングをかけても、微細な砂はのこっている。作業をしていると、机の上に細かな砂がたまってくるのに驚く。
 だいたい整理を終えつつあり、学校に返却するところまでもってきたということであるが、当初の状態を想像すると、いまでも防塵マスクとビニールの使いすて手袋で作業をすることが必要であるということを実感する。カビのいろいろな色のよごれはとてもとれない。それにしても大量の細かな書類である。これだけの書類を学校が作っているのに驚いた。ここまで書類が必要かとも思うが、しかし、それと現状復元・保守を行うという仕事は別のことであるとボランティアの責任のOさんがおっしゃるのに納得。それにしても、これだけの書類があるということは、教育史の側から検討した方がよいかもしれないと思う。小学校でどの程度の書類をどう作っているかの各国比較というような仕事があってもよいのではないか。そのためにも、この整理資料は使えるだろうなどということを考える。私の分担分にはなかったg、が、子供たちの残した資料はさすがに楽しい。

 第一日目、昼過ぎからの仕事は、いたんだ文書の現状記録と再整理。以前にいちど封筒に入れて整理されていた文書が津波にあって、しばらく放置されていた文書である。封筒に入れて整理されていた文書であるが、驚いたのは文書が封筒に癒着している場合があったこと。また封筒の中に入っているのに、水をかぶったことによって、破損が進み、カビが繁殖している。んでいる。注意して封筒から出し、癒着を外せない場合は切り抜き、すべて新しい封筒に切り替える。その写真もとっていく。
 ボランティア二日目は、あるお宅から出た襖内文書の整理、紙継目と紙の張り重ねを慎重にみきわめて、必要なところを外し、襖内文書になる前の原型に復元する中間的な作業である。宮城ネットワークの研究者と作業になれたボランティアの人々の指示にしたがって作業。さすがに疲れた。それでも家族できたので、人手の助けにはなった。Mちゃんに感謝。しかし、それにしても、必要な作業のうち1000分の1にも達していないと思う。
 市民ボランティアの方のいまの責任者のOさんは、昨年の秋のネットワーク代表の平川先生の市民講座での呼びかけをきいて参加されたという紳士。リタイアされた方や主婦の方。6・7人のメンバーで支えてくださっている。週3・4日あるいは毎日。ボランティアの方々の話を聞いていると頭が下がる。本当にありがたいことだと思う。
 ボランティアのIさんがおっしゃっていたこと。仙台に津波ということはまったく考えていなかった。そもそも、仙台が海が近いという意識そのものがなかった。そこで水平線がみえるという話がひとしきり話題となる。Oさんは、仙台城と同じ高さから仙台の街区をみながら仕事できるのは楽しみの一つとおっしゃるが、その位はいいことがなければという話になる。
 海の歴史を大事にして歴史像を作っていくということは、同時に水平線の眺望というものの意味を考えていかねばならないということなのだということを実感する。この写真には写っていないが、仙台市内のもっとも高いビルからは3,11の津波がみえたということであった。慶長津波などの時は、仙台城からもみえたものであろうか。
  明日は午前中で失礼して、石巻にまわる予定。

« 日記。成沢光著『政治のことば』と『平安遺文』の学恩ということ。 | トップページ | 地震火山68石巻をたずねて »

火山・地震」カテゴリの記事