地震火山68石巻をたずねて
6月29日金曜、宮城資料ネットのボランティアを11時過ぎに失礼して、石巻にむかう。資料整理に参加した文書・アーカイヴの出所は3件とも石巻だったので、その土地をみることが目的。相川小学校は遠いので無理であったが宮城資料ネットがレスキューにかかわった本間家住宅のある門脇地区などはみることができた。 これは石巻の鹿島社のある「日和山」(標高60メートル余)の上からの海側の眺望。昼食をしたところの話では、日和山の北側、つまり石巻の駅付近の街区は、山の陰になっていたために津波の高さは2メートル弱であったという。そのためであろう、立て替えや修繕は目に付くものの、石巻駅付近の街区は、ともかく町の外観は平常をとりもどしているようにみえた。
日和山は鹿島御児神社の神地。延喜式内社で、葛西氏が城をかまえていたという。これは日和山から下へおりたところ。
本間家の土蔵の建物は残っていたが、ほかは一面の空地。すさまじいものである。宮城資料ネットのホームページによると、土蔵の再建費用を集めつつあるとのこと。
浄土宗の寺院がたっていたが、本堂は柱だけになっていて、向こう側に空がみえる。空地を海近くまで歩き、今度は北上川にそって、東へ、陸側に歩いていく。北上の河口部をみることができた。平泉には何度も行き、北上川という名前も親しいが、これまで下流部をみたことがなかった。国土をろくに歩いたことがない歴史家というのは、つくづく駄目だという反省。
石巻は東北を代表する漁港。しかし、再建は大変だろうというのが現地をみて身に迫る。私は歴史の研究を漁業から始めたが、徐々にそこから離れてきた。それは論文を一本書いて、その後が続かなかったためであるが、ようするに海というものを実際に見て、考えるという経験が欠けていたのだろうと思う。東北の「復興」のためには、おそらく、漁業というものを、この列島の経済と社会の中にどう位置づけるか。漁業を中心産業にしなければならないという社会的合意をつくるということが重要なのだと思う。ヨーロッパでは漁業は国の援助も大きく、職業としてはきわめて高級で給料も高いというのは有名な話。日本でも、そうしなければならないはずである。その意味では「復興」ということはこの列島の全体にかかわることである。
もう一つは、無記名の商品、アノニマスな商品ではなく、その自然との関係、生産と流通のルートをしっている商品が増えるということが商品生産のあり方を変えていくはずであるという問題。実は、北上川の対岸の川口町二丁目は生活クラブでいつも東北の海産物、練り物を送ってもらっていた高橋徳治商店がある。昨年から東北のことを考えるのに、要石にしている記憶が、この高橋徳治商店の練り物とオリモ漁協の生産物であった。商品と市場の向こう側にある現場をしっているということが、どのように商品経済を変えていくのかということが経済学理論でどうなっているかを知らないが、分業の地域性がみえることは、グローバル商品とはまったく違う関係であるはずである。高橋徳治商店の社長は社屋の近くの避難所の住宅の会長として頑張り、同社の雇用を維持するためにも頑張ったときいた。東松山の方に工場を再建中であるというが、地域には偉い人がいるものである。
河口部から、北上川をさかのぼり、まずMちゃんのご希望の石森章太郎の漫画館に行く。漫画館は潜水艦のような流線型で、高さも高く、目立つ建物である。見物をしていると、そばの一行が、津波の時に、ここに40人が逃げ込み、命が助かった。最初は館長が一人で居残っていたが、避難の人を呼び込んで30人近くになり、さらに河を流れていく人を助け上げて40人になったという話である。こういうことが各地であったのだろうと思う。
さらにさかのぼって、「住吉」大島神社に行く。社務所の窓にワープロの説明文がはってあり、それによると、貞観年間、863年に勲九等をうけている式内社である。本来は牡鹿湊伊原津にあり、住吉になったのは江戸のことと説明がある。神社の前が「袖の渡し」という場所で、義経が渡し賃として「袖」をやぶってわたしたという伝説があるとのこと。渡場の河の中に大きな石があり、それが「巻石」と呼ばれていたのが、石巻の地名語源になったという話である。 さて、この場に銅像があり、「石母田正輔像」とあったので、念のために撮影したのが、この写真。帰宅すると、今谷明氏が洋泉社からだした本が届いていて、歴史家・石母田正の評伝が載っている。あるいはということでみてみると、石母田正氏のお父さんの名前が石母田正輔。この銅像は石母田さんのお父さんであった。石母田さんが、石巻の名家の出身であることは知っていたし、何となく顔も似ているので、あるいは関係があるかと思って写真をとったのだが、まさにその通りであった。石母田さんは、第二次大戦前に反戦運動をやって高校を退校処分になった。天皇主義の父は激怒したが、しかし、息子にはいわずに、高校に抗議にいった。「そういう信条に関係することで処分をするとは何事か」と抗議したということ。私たちの世代の歴史家では(私もそうだが)石母田さんの仕事にひかれて歴史学に入った人は多い。奇遇である。
帰りの石巻駅で、『大津波襲来、石巻地方の記録』など二冊の写真集を買って、新幹線の中で読みながら帰った。昨年から、東北へ一度は行かねばならないと思うまま、仕事の関係で、とても行けなかった。ともかくも一部だけをみてきたが、しかし、本来、もっと面的に歩かなければならない。写真集をみていて感じることが多い。石巻の歩いたところ、そして大島神社が津波の濁流に呑み込まれている写真はすさまじいもの。石母田さんのお父さんの銅像は水没したが、流れなかったということになる。
いま、月曜日、総武線の中、帰宅途中である。
いま火曜日。総武線の中。帰宅途中。昨日・今日、写真を処理して、載せる時間がなかった。
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