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2012年7月10日 (火)

70地震火山芳賀幸四郎先生の『禅入門』と国会事故調査委員会

 これは先週の金曜日(20120706)、国会事故調査委員会の内容が報道された日に書いた。載せるのが前後した。
 Cimg0735 夏になった。自転車にのっていて、夾竹桃とひまわりをみる。この写真は千葉動物公園の裏手の並木。冬にとって今年新年のブログ(賀状)に載せた写真と比べるといかにも夏である。
 芳賀幸四郎さんの『禅入門』は、もっともわかりやすい禅の入門書。先生は、父の死後、私が中学高校時代をすごした母の実家の近所に住まれていた。歴史学をやり大学院に進みたいということを母に話したところ、知っている人を通じて、先生のところに参上する話しをしてくれた。大学院進学という無理をいっただけに、それにしたがっておそるおそる参上。さらに芳賀先生の御紹介で静嘉堂文庫に米山寅太郎先生をたずねた。思い出すと汗顔の至りの部分があるが、芳賀先生のどっしりとした印象、米山先生の落ち着いた学者の印象はよく残っている。
 本書には、禅がデモクラティックであり、科学的であり、現世的であり、ヒューマニスティックな実践の教えであるということがわかりやすく書いてあり、その通りと思うことが多い。「病い」の多い現代にとって必要な修養のあり方だと思う。
 ただ、結局、この本の「そういうことではいけない」という指摘にもかかわらず、座ることはないままできた。「大疑団、大噴志、大信根」の道は維持してきたとは思うが、読み直すと、なんとも自分が駄目であることを実感する。老僧も科学を大事にされたが、しかし社会科学というものにしたがっていながら、忍辱と安息の道を辿るのはなかなかむずかしい(ということにする)。自己の馬鹿さ加減の上に、さらに社会科学にもとずいて飼ってきた「不正不義に対するにくしみ」(芳賀先生の言葉)という猛牛を牧することはなかなかむずかしかった。今のところ、座る代わりに自転車である。
 
 国会事故調査委員会の報告がでる。政府はこれまで明瞭に「人災」であることを認めていなかったから、それを人災であるとし、危険性についての認識がなく、またシビアアクシデント対策の必要は指摘されていながらさぼったこと、さらに東電が現在でも事故原因をもっぱら津波によるものとして地震による破壊がそれに先行していたことを認めず、「塀」を高くすれば平気だという議論に矮小化していたことなど、基本部分で明瞭な報告である。
 しかし、これらはすべて指摘されていたことで、やっと政治家以外の委員会を設置してそれが公的なものになるというのは、現在の民主党および原発推進の政党の政治家は給料を返却するべきものと思う。信じられない人々である。宗教者ならぬ俗人の学者は、この種の怒りというものと、どうつきあったらよいものであろうか。
 地震による破壊の先行という根本的な事実問題について報告が正確に述べたのは、地震学の石橋克彦氏が委員に入っていたからであると思う。石橋克彦氏の著書『原発震災』(七つ森書館)をいただいた時のブログに書いたが、同書のプロローグは、「津波の前に地震動で重大事故が起こった可能性」についての詳細な分析である。しかも、それは東電の公表資料にもとずいて、福島第一原発の揺れの加速度時刻歴波形のグラフを作成し、その地震動の強さと継続時間を算出し、それにもとづいて津波以前に原発の機器の重要部分が破壊されていたことを、ほとんど否定が困難な精度で示している。そして問題を津波の高さのみに帰そうという一部の曖昧な主張を退けている。この指摘が、調査委員会の報告に入ったことによって、事故原因についての東電の自己弁明のためにする議論が排除されたことが決定的な意味をもったのではないかと思う。石橋先生の御仕事の意味は大きい。
 ともかく、私は昨年から石橋氏の『大地動乱の時代』(岩波新書)と論文「文献史料からみた東海・南海巨大地震」(『地学雑誌』一〇八号4)をよむことを仕事の中で繰り返していた。これまで自然科学者の仕事を追跡したことはなかっただけに印象がきわめて強い。とくに後者の論文で『類聚三代格』と『三代実録』の史料にそくして、仁和地震を論じた部分には驚いた。私は、この史料を読んでいて、どう読むべきかを迷って、この論文を入手し、はじめて読んだのだが、史料読みの鋭さに教えられた。地震を追究する自然科学者の目と熱意があるからこそ可能になったのだと思う。これを読んで、私も地震論を本格的に追究しようということになった。ともかく、8/9世紀地震論にとっては決定的な論文である。なお、この仁和地震によって、八ヶ岳の山体崩壊がおきたのではないかという推定が、この論文でされている。これは、河川工学の井上公夫氏によって現地調査の結果、確定した。つまり、この山体崩壊が、千曲川に広大な土砂ダムを造りだし、それが決壊したことで、長野県の更埴郡まで当時の条里が水没したことが論証されている。石橋氏は、これを推定して、この仁和地震が南海・東海連動地震という性格をもっていたことを推定しているが、ご自身が作られた図表では、東海への連動は推測事項としての扱いをしていた。しかし、この井上氏やそれに対応する信州の考古学者たちの仕事によって、東海への連動はほぼ確定したといってよい。
 話がずれたが、しばらく前、歴史科学協議会が石橋先生をまねいて、歴史家と一緒のシンポジウムを開いたが、その時に久しぶりに御会いしてたいへんな御様子をうかがっただけに、本当にご苦労さまであるという感がする。この時のシンポジウムに人が100人も集まらなかったのは本当に驚いた。これは現在の状況に歴史学の若手(というよりも昔にいう「中年」をふくむ)が積極的な興味を表せなくなっていることの表現であるように感じた。私などはショックであった。歴史学がはやく現代性を取り戻してほしいと思う。
 昨日、岩波の編集者に、新書『歴史のなかの大地動乱』の初校ゲラを戻して、ようやくほっとする。来週には公務のゲラがでてくる可能性があるが、昨日からゲラ境期である。昨夕、久しぶりに床屋に行き、みっともないほど長かった髪をようやく切る。つかれていて今日は休み。朝から自転車。先々週、東北にいっている間に、オーバーホールをしてもらったので、さすがに廻りがいい。
 昼間入った喫茶店で、読売新聞を読むと、「地震によって津波の前に破壊されていた可能性がはじめて指摘された云々」ということが書いてあった。これは石橋先生の指摘以外にもあり、少しでも真剣に取材をしていればすぐに分かったはずである。たしかに新聞には、少なくとも新聞の「社説」にはのっていなかったろうという意味では「はじめて」なのであろうが、これを「はじめて」のことにしたのは、あなたがたの責任ではないか。不勉強なジャーナリストというものはどうしようもない。お馬鹿の政治家が多数の国にはこういうジャーナリストがはびこるわけだ。

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