7月7日(土曜日)は、シモン君が成田からスイスに帰るので、私たちの千葉の家で一泊。ただ、私は、ある企画で北原糸子、平川新、成田龍一氏と歴史地震についての座談会。夜遅くなって帰る。シモン君と家族は、近くの大銭湯にいっていた。
北原先生とは初対面。津田塾のご卒業ということで、『千年王国論』の翻訳をされている理由がわかった。天衣無縫の方、雰囲気といい、はっきりとした断言といい米田佐代子さんを思い出す。災害史という分野の重大性を実感する。座談会後、食事。北原さんからうかがった、ここ30年ほどの地震学の研究の状況と、交流の御話は私にとってかけがえがない。
平川さんが、(1)地震と噴火にかかわる民衆智の復元、(2)歴史地震論をサイエンスのレヴェルにもっていく方法、(3)そういう中で自分が何ができるかという座談会の締めのような結論をいわれる。その説得力は高く、感心してしまう。6月末には東北大学で御会いしたのだが、一週間も間をおかずに今度は学問の話しである。
座談会は成田さんが司会。話の筋を通してくれるのはさすが近代史研究者である。原発の問題に深い憂慮と関心を学術的な問題として詰めていこうという強い方向性をお持ち。
私は、江戸期から、近代まで、これだけ通史的に意見が一致する議論をしたのは、歴史学者としてはじめてのことであるという感想をもつ。「通史的な視野」を研究生活の中で、本当にもっているのかを内省。個人としてはなかなかショックな話で、自分の座談の曖昧さもふくめて、日曜日は、状況の受けとめができず、時間を空費。自転車ででて、娘の勧める田中芳樹の薬師寺涼子シリーズ『魔境の女王陛下』と『東京バンドワゴン』2冊、そしてボーボワールの『第二の性』をもってでて読む。田中芳樹氏は、原発のことを本当に怒っていると。いろいろ、ゆっくり考えるべきことが多い。
いま、朝の総武線。下記は、この3月頃、PCの地震学の方からのメールにこたえた手紙。
歴史地震の検討をしたいので、歴史史料の読み方や史料批判をめぐる問題について意見を聞きたいというメールをいただきました。先端的な研究をになう若い地震学研究者から、そういう問い合わせをうけることは光栄です。同時に、御返事をかこうとして、私は昨年から歴史地震の研究をはじめたものにすぎませんから、はて、適任であるかどうかに若干の疑問をいだきました。
今日は、京都での文書調査にでかける途中ですので、新幹線の中でゆっくり考える時間はあり、昨年からのわずかな経験ですが、それをふりかえって手紙をかくことにいたししました。京都での調査は、府立総合史料館での『東寺百合文書』の調査になりますが、いま思いますと、平安時代からの文書をふくむ、この日本でも有数の文書の中に、地震・津波関係の史料が何カ所に登場するか、知識がないことにきづきました。
これは東京に戻ったら調べてみようと思いますが、おそらく、きわめてわずかの量にとどまるに違いありません。ともかく私の専攻する平安時代から室町時代にかけては、地震・津波の史料は、きわめて少数で、それを発見することは、それ自体で一つの事件であったのです。
私が、はじめて地震史料にふれたのは、もうずっと前、たしか網野善彦氏が私の勤務する史料編纂所に内地留学で来られたころだと思いますが、網野さんが『近衛家文書』の影写本をくっていて、三重の桑名のそばにある益田荘という荘園の文書に、平安時代の地震史料をみつけた時のことでした。この文書の存在は、網野さんが、当時、史料編纂所にいらした山本武夫さんに伝え、山本さんが論文で取り上げられています。これは平安時代の南海トラフ地震にかかわる希有にして貴重な文書で、網野さんにそれをうかがった時、そういう史料の発見ということもあるのだと興奮したことを覚えています。
歴史史料における地震・津波史料の発見というのは、少なくとも室町時代までは、このようにほとんど偶然のことであると思います。それ故に、必要なのは、地震・津波史料が発見されたら、それをすぐに地震学研究者が知ることができる仕組みであろうと思います。それは石橋克彦氏が代表の科研で作成され、静岡大学の小山真人先生の研究室で管理されている「古代・中世、地震・噴火データベース」のようなものが、地震学と歴史学の共有のものとしてもつべき機能の最大のものであると思います。
地震学と歴史学の学際的な協力が、データベースとネットワークに依拠すべきものであることはいうまでもありません。歴史地震学は、それによってのみ、現在の研究状況に不可欠な厳密性と理論的な発展を保障され、必要な社会的役割がはたせるものと思います。そして、そこで問われているのは研究者の集団、学界としての社会的役割ですから、単純な意味での個人業績というものはなくなるはずだと思います。
これについて意外な経験であったのは、昨年の東日本太平洋岸地震の後、地震津波の研究にとり組むべきだと考えた直後、右のデータベースで「津波」を引いたところ、室町時代、一四五四年(享徳三)に大規模な奥州津波が存在したということを知った経験でした。これは産総研の宍倉先生などが確定した室町時代の津波痕跡砂層に対応する文献史料である可能性はきわめて高いものであると考えています。ご存じと思いますが、それは「十一月廿三、夜半ニ天地震動。奥州ニ津波入テ、山の奧百里入テ、カヘリニ、人多取ル」(西暦、一四五四年一二月二一日)というものです。
そして、その後、この直後、つまり、約一月後、西暦一四五五年一月二四日(朝鮮暦、端宗王二年十二月甲辰)に、朝鮮の南部、慶尚道・全羅道などで大地震があって、多数の圧死者がでていることを『大日本地震史料』で確認しました(『朝鮮王朝実録』)。
このことは地震学と歴史学の学際的協力のあり方、データベースのあり方について、三つのことを示唆していると思います。
第一には、地震・津波のデータとその分析は、地域史的な諸情報と結合されなければならないということです。九世紀の陸奥沖海溝地震と一五世紀の奥州津波のデータを連続して分析することがどうしても必要であるということです。このデータが、たとえばGISの上で並んでおり、そのそばに活断層についての地質学的な諸情報や歴史的な諸事件についての諸情報が並んでいるのが理想的でしょう。これによって歴史地震についての諸情報が公共化され、研究者の誰でもがすぐに確認できれば研究のスピードは強化されるでしょう。この研究のスピードが、ある場合には人命にかかわるという痛切な経験を私たちはしました。
つまり、東日本太平洋岸地震の繰り返しという側面があったとわれていますが、文献歴史学の側には、この九世紀地震についての専論は一本もありませんでした。もし、それがあって、この九世紀地震についての情報の発信を強化することができていれば、沿岸地帯における防災の体制や教育に若干であれ実際上の変化がありえたかもしれません。大量現象として考えるのならば、それが何人かの人々の命を守る知識として働いた可能性は現実に存在したと思います。たんに研究上の問題ではなく、地域的な地質情報と歴史情報の可視化が、その地域における防災・地理・地質・歴史の教育にとっても、地域の文化にとってもきわめて大きな意味をもつであろうことはいうまでもありません。
第二に、我々にとってもう一つの根源的な問題としては、これによって歴史地震学の方法論が厳密化するであろうことです。そのキーは、地質情報と考古情報の連携にあります。歴史地震学のような膨大な資源と広汎な研究領域を必要とする学問分野を前にすると、歴史学ができる文献史料の分析は、作業としてはあくまでも初歩的なものにすぎないことが明らかです。むしろ歴史学の関係分野では、これは考古学の側での地震痕跡の分析と蓄積の体制を学際的に進めていくことが決定的な位置をもつと思います。つまり、日本の各地で、毎年、多数の遺跡が発掘されますが、そこで十分な地震痕跡の調査体制がとられているかどうかは、現在の考古学の発掘調査体制がおかれている予算・人員の削減という状況の中で、やはり危ういものがあります。本来は、この地震列島における考古学的な発掘は、どのような規模のものであっても地震学者の実地検分をへるべきものであるという原則さえ必要なものであるというべきでしょう。自然科学的な厳密性を確保するためには、地質情報を確実に集積することが最大の保障であることは見やすいことです。東北大学の方々と産総研の方々が行った九世紀陸奥沖海溝地震についての地質学的な調査を手本とし、きっかけとして、この地震列島のどこでも均質なデータを蓄積することが急務であることを社会的にも明瞭にうちだすことが必要であると思います。
第三は、地震データの国際性ということです。地震研の平田直先生は、マグニチュード9という超巨大地震の分析のためには、グローバルな視野にたった研究が真に必要な段階になっていると発言されています。上記のような奥州津波と韓国の大地震がほとんど時間をおかずにおきているという事実は、まさにそれを示すものであると思います。その意味で上記のデータベースは東アジアの地震史料とのリンクをもたなければなりません。
その場合のキーは、地震史料の多い中国史の地震データをどう位置づけるかということになります。昨年、東大の海洋アライアンスが東日本太平洋岸地震について開いたシンポジウムで報告したとき、文学部中国史の小島毅先生が来てくれて、その後に一緒に食事をし、中国の地震の話しを伺いました。彼によると中国の地震史料はきわめて多く、政治社会の動きに大きな影響をおよぼしてきたということです。同じく中国史の経済学部の小島浩之先生も同じことをおっしゃっていました。日本の歴史地震学がこのデータ群への十分な視野をもつべきことは明らかであると思います。
石橋克彦氏が主唱しているアムールプレートの存在をどう考えるかについては、地震学の中ではまだ様々な意見があるということを側聞しています。しかし、ユーラシアプレートの側から、つまり日本を西側から押す力が、太平洋・フィリピン海のプレート沈み込みとともに、この列島における地震の発現機構において緊要な位置をしめることは認められていることだと思います。そしていわゆる揚子江プレートが小プレートとして存在することもいわれていますから、そうだとするとアムールプレート論も必要な状況であることは、(部外者の目からみますと)明らかなように思います。
中国の地震史料の点検と評価は、この問題に直結してくるのではないでしょうか。今後予想される「大地動乱の時代」が、この列島のみでなく、東アジア全域をおおうものになる可能性が、もし本当に高とすると、この問題に接近することは歴史地震学の大きな責務であろうと思います。
いま、新幹線は静岡に入ったところです。歴史学では東日本と西日本の社会構造や民俗の相違という問題がきわめて大きな問題として引き継がれています。昨日のブログでかいたのですが、私は三月一一日は、石橋克彦氏の『原発震災』をノートをとりながら読んで過ごしました。そして、いま、静岡を過ぎながら、石橋氏が深くかかわり、かかわっている駿河湾地震説、そして浜岡原発の問題が、この「日本列島史における東と西」という問題にオーヴァーラップして存在しているということに気づいて驚いています。
その意味では、地震学の若い研究者が、原発政策や原発問題への対処において赤裸になってしまった、この実に独特の性格をもった日本社会と学史のかかわりについてどのような感じ方をもっているのかを伺いたいという気持ちが生まれます。これはおそらく、地震学と歴史学の学際的な協同が実際にどうなっていくかを根底で条件付けるものであろうと思うからです。
石橋先生の『原発震災』を読んでいると、一九六〇年代末期が、地震の断層発現論とプレートテクトニクスの導入の中で、同時に現在の「予知」体制の基本が形成されるという古典時代であったことがよくわかりました。端的にいいますと、それを現在の地震学界の若い方々は、どう御感じなのかということです。ちょうどもってきたリルケの『フィレンツェだより』には、芸術家の諸世代について次のような文章がありますが、それは学者の諸世代にも敷衍できることであると思います。
いつも三つの世代が引き続いて経過する。第一の世代は神を発見し、第二の世代はその神に狭い神殿を建てて神をそこに繋ぎとめる。第三の世代はというと、それは貧困におちいり、神の家の石を一つ一つ抜き取り、それを材料にして見窄らしい不潔な小屋を建てようとする。それから更に新しい世代が現れて、再び神の探求に従事するのである。
私などは、第二次世界大戦後の歴史学の学史の中では、第三の世代として「みすぼらしい小屋」を建ててきた世代ですので、リルケの文章は衝撃的でした。分野は違いますが、若い学者の世代が、どのような新しい学術のレヴェルを作ろうとしているのかは、本当に身につまされる問題です。しかし、それはまだまだ慎重に議論する時間があると考える、あるいは、あることを期待することは許されるでしょう。そこで、御申し越しのことについて、私の狭い経験から申し上げられることに戻りたいと思います。
まず、七世紀から一〇世紀にかけての地震・噴火史料を詳細に読まれることをお奨めしたいと思います。漢文史料ですので、最初はなかなか取っつきにくいかもしれませんが、この漢文は日本的な変形漢文といわれるもので、返り点や送りがなをつけて読めますので、高校の教科書か受験参考書を引っ張り出し、辞書を引き引き読めばどうにかなるはずです。
それを地震学者としてどう読むべきかのお手本は石橋克彦氏の論文「文献史料からみた東海・南海巨大地震」(『地学雑誌』一〇八号、一九九九)でしょう。この論文は、八八七年のいわゆる「仁和地震」が南海・東海の連動地震であることを『類聚三代格』という、この時代の法令集の史料解釈からみちびきだしたものです。昨年、歴史地震の研究を始めた後に読んで、その法令にでる「三十余国」についての明解な解釈に教えられたものです。地震学者として、文献史料をどう読むか、明瞭な問題意識が、どれだけ史料解釈の幅を広げるかのお手本のようなものだと思います。私は、この論文を読んだ衝撃によって8・9世紀の地震論の研究を本格的に始めました。なにしろ歴史学の方では、八・九世紀に大量に存在する地震史料の精細な読みは昨年までほとんどなかったという実情ですので、これは歴史学にとっての反省材料であることもお伝えしておきたいと思います。石橋氏のこの史料解釈によって、南海トラフの地震・津波について論じる重大な基礎が形成されたことはいうまでもありません。
その上で、いま必要なことは、さらに、この時代の地震史料全体を地震学の観点から精細に読むことであろうと思います。この時代の地震・噴火史料の位置づけについては、ご承知のように、この時期を「地震活動の旺盛期」とする今村明恒氏の先駆的な見解があり(今村「日本に於ける過去の地震活動について」(『地震』八巻三号、一二号、一九三六)、それに対する早川由起夫・小山真人両氏の批判があります。私は早川・小山両氏の批判にもかかわらず、この時期が「旺盛期」であるという今村の仮説は否定できない意味をもっていると考えていますが、たしかに、早川氏がいうように、この時期の地震史料の特徴は京都などの政治中心のみでなく、地方でおきた地震の相当数をカバーしていることです。つまり、早川氏の今村批判は、裏返せば、この時期の地震史料の残存のあり方の独自性は、プレート間地震と「内陸地震」の両方をカバーしていることにあるということを示したものとして受けとめることができます。
それゆえに、この時代の歴史地震の知識をもつことは、地震学者がこの列島における諸形態の地震についての思考実験をする上で、もっとも適当な素材となるように思うのです。たとえば715年の遠江・三河地震をどう考えるか、八一八年の北関東地震や八七八年の南関東地震をどう考えるかなどなど、そのような思考実験は、地震学者でなければできないことであると思います。
なお、この時期の地震史料を読むことは、中国の地震史料を「眺める」ためにも重要です。この時期の地震史料は、いわば中国の道教・儒教に根っこをもつような天文学・地質学的な用語にみちています。その分、読みにくくはあるのですが、それは中国史料を「眺める」ためにも必要であると考えておかれればと思います。
もちろん、地震史料がもっとも多いのは江戸時代であり、それを読むためには、「崩し字」に馴れるという、また別の訓練が必要です。しかし、これについては、ご存じのように、宇佐美龍夫先生や都司嘉宣氏の努力が集積されている地震研の『日本地震史料』がありますので、まずは、それを活字で読むことから始められてはと思います。歴史学の側では、阪神大震災、東日本大震災で、大量の江戸期史料が消滅したことに危機感をふかめ、各地で歴史史料保存のネットワークが形成されていますから、原本史料については、そのような動きと連携することが可能であると思います。
ともかくも、まずは七から九世紀の史料を基礎知識とすることをお奨めするのは、日本史の歴史史料を読むためには、いうまでもないことですが、基本的に漢文に馴れることが必要であるからです。
とはいっても、以上は、この一年の私の経験と専攻を条件とした、私自身のレヴェルに規制された初歩的な御勧めにすぎません。歴史学と地震学の全体的な協同という点からいえば、もちろん、今後とも、江戸時代史料の発掘と調査・分析が重要であることはいうまでもありません。地震学の立場から地震史料の蒐集と解読、データ化にあたられている宇佐美龍夫先生、都司先生の努力の意味はきわめて大きいものがあります。そして、前述のような地震史料のデータベースは、今後は、宇佐美龍夫先生、都司嘉宣先生の努力のあとを追って、大量の江戸期地震史料のすべてをデータベース化することが中心課題となると思います。
このためには人文社会系では扱いかねるような膨大な予算や人員が必要となりますが、これは日本社会にとって絶対的に必要な仕事です。地震学の研究や観測体制の整備に膨大な費用がかかることについて、社会的な疑問が提出されることがありますが、むしろ歴史史料もふくめてもっともっと負担が必要な国に我々は棲んでいるのだということを明瞭に主張するべきでしょう。これは長期的にみてけっして無駄にならないことですし、人類が、この列島の上に棲んでいく上で、いましかすることができない作業なのですから。
それにしても、歴史学の側としては、本来、もっと歴史学の側での組織的な協力があるべき中で、この作業を大きな個人的エネルギーもさいてになわれてきた方々の仕事の意味を痛感します。先日、みぎにふれた室町時代の奥州津波にかかわる史料について、都司先生の御話しをうかがいました。
長くなった手紙をそろそろ終えますが、戦前に発行された『大日本地震史料』には、前記の一四五四年(享徳三)十一月の奥州津波の関係史料として、
上総の御宿にある大宮神社という神社の史料に、この日の「夜子丑剋、大地震、ヨルヒル入」とあることが紹介されています。この史料の「夜昼入る」という文章が、万が一、津波と関係するものであるということになると、この奥州津波はまさに今回の東日本太平洋岸地震と同じように上総まで及んだということになります。その意味で、この史料は決定的な史料ですが、この史料は、現在の所在が不明となっているのです。都司先生は、その探索のために御宿まで行ったが、現状ではまったくわからなくなっているということでした。私は、千葉県に住んでいますが、このことをまったく知らず、また現在の仕事などの諸条件もあって、まったく史料救援の作業に参加することもしないでろ、都司先生の御話しを聞いていて申し訳ないという気持ちになりました。
そういう私がいうのは、おかしなことではありますが、歴史学に対する場合、ともかく歴史学の義務的な役割を十全に果たしてほしいということを要望する権利はあると考えていただいてよいのだと思います。
以上、御役に立てるかどうかですが、御研究の発展を祈ります。