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2012年7月

2012年7月31日 (火)

東大教職員の賃金減額

 東大でもいま給料を減額するという話がでていて、だいたい、役員・教授が4パーセント減額(役員は年間75万、教授は45万)、准教授が3パーセント、助教が1パーセント減額、43歳掛長が2,5パーセント減額云々というカット案が決定されている。大学法人の賃金は大学にわたされた運営費交付金の中から配分されるが、減額分の交付金は返却するという話である。
 問題はそのやり方と理由で、若い人や職員からの不満は大きい。とくに職員は大学の意思決定に直接に参加する制度がない。大学の意思決定は評議会と部局教授会で行われるという仕組みはまだまだ生きていて、職員と学生の参加の制度的権利は認められていない。これが1960年代から70年代にかけて全国の大学で大問題となり、東大でも、いわゆる全構成員の自治の方向に行こうという合意はあったはずなのだが、これは実現していない。そして職員の賃金は低い。そういう状態の中で「非常勤職員」が増大させられ、若手の研究者は採用が少なく、しかも任期制が増えているのだから、諸方に矛盾が蓄積している。昔から基本問題の壁というのは変わらないものだと思う。
 私だと、このまま行けば、50万弱ほどの減額かということになる。これは困ることに変わりはないが、教授というのは三分の一は管理職的な側面があるし、大学執行部の意思決定には教員としての責任がある。
 必要があって意見を聞いてみると、まず管理職の給料をもっとへらせというのが若い人や職員の意見である。たとえば、だいたい助教は600万、掛長は600万という賃金だが、おのおの7万、15万と減額となると、生活にかかわってくる。これは痛い。なぜ、もう少し上を切らないのか。教授の賃金減額率と理事役員の減額率が同じなのは了解できない。全体の減額をもう少し上の方にあてられないか。役員・部局長は30人前後以上はいたはずだし、教授は1000人いるのだから、ということになる。ともかく、職員は、どこまで昇格しても(運営費交付金の使途決定をふくむ)基本的な意思決定に参加できないのだから、もう少し考えてほしいというのは当然だと思う。
 もう一つの減額の理由というのが納得できかねるものである。それは「東日本大震災復興への対処の必要性に鑑み」というものである。これ自体にはある意味で自然なことであると思うが、けれども、今問題になっているように、消費税は、消費税増額分が福祉に行くとは限らない。それと同じで運営費交付金の国庫返却に使途指定ができるとは思えない。そうすると現在の政府の「復興」についての金の使い方、そしてその背景になる予算思想全体を信頼せよということになるが、私は現在の内閣を信頼できない。なかなか、こういう理由をかかげるというのも勇気のいることだと思うが、そう思ってかかげているとは思えないのが大学の見識にかかわるところである。
 そして、震災ということになれば、東大はまずは原子力発電の動向について大きな責任がある大学であって、いうところの「原子力ムラ」の中心である。これだけ重大な事態を引き起こしたのだから、なにか一言あってしかるべきであるが、一言もない。大学は部局の集まりで部局・部門の自治は最大限尊重されるが、大学として大震災や原発震災にどうかかわるかは、明瞭になっていないと、私は感じる。それは学者の集団としては努力くらいはするのが当然であろう。職員の賃金を下げようというのならば、学者らしい態度と論理を貫かなければ申し訳ないと思うのが自然な心情であろうと思う。
 そもそも、昨年、2月に元東大総長の有馬氏が呼びかけて、経団連・東電・関電などの会長・社長が参加して「原発ルネサンス懇談会」という会議が発足している。そののちに三月、東日本太平洋岸地震と原発震災が発生して、この懇談会は名前を変えたが依然として続いている。私は、その改称する前の第一回の会議の様子をビデオですべてみたが、会員には東大現総長浜田氏、京大前総長尾池氏、早稲田前総長白井氏などが参加していた。東電の勝俣会長が実際上の中心になっているような様子であった。これをみて、「原子力ムラ」などといっていられない。大学の全体が原発の体制に呑み込まれているというのが正確なところであると思ったことは記憶に新しい。
 東大が「秋入学」などということをいいだしたのは、賛否は別として間の悪いときにあたったものである。大震災発生時に、大議論が必要なので、少なくとも、この秋入学の議論は先送りするとするべきであったと思う。それ以前に議論すべきことは山積している。

2012年7月30日 (月)

神話論、津田左右吉と三木清

120729_185508  この写真は昨日の夕方の自転車。谷間の上の月。

 哲学者の三木清は、その畢生の書『構想力の論理』を第一編「神話」から説き起こしている。私は、この三木の仕事と、有名な津田左右吉の記紀神話批判のことを考えるたびに、自分の祖父のことを思い出す。祖父は東京の大田区で小さな塗装業、ペンキ屋を営んでいたが、俳人でもあって郷土史にも強い興味をもっていた。私が高校生の頃であったと思う。日のあたる二階の一隅で話していたら、急に祖父があらたまった調子で神武天皇はいなかったということを聞くが本当かと聞かれた。そして人間のもとは猿だったというが本当かとも聞かれた。
 孫の思うよりも、祖父としては軽い質問だったのかも知れないが、その言い方から、私は、明治生まれの祖父が「神武天皇」の実在を当然のこととして生きてきた、それが実在しないというのはどういうことなのか、という少し切迫した調子を感じた。そしてその頃、ならい覚えていた第二次大戦を遂行したイデオロギーとしての「皇国史観」と神話の関係について話した記憶がある。
 津田左右吉の『古事記』『日本書紀』に対するテクストクリティークを代表する代表作、『日本古典の研究』は、「神武天皇」が神話であって、当時信じられていたような実在ではないことを至極当然のこととして淡々と論じ尽くしており、この本の全体には、一種の数学のような透明な合理主義がつらぬいている。誰でも、その筋道をたてた自由闊達な語り口に馴れてしまえば、この本はきわめて読みやすいものである。
 それだけに、この本が国家的なタブーにふれ、戦争の時代、右翼の政治家や軍部から集中攻撃をうけ、発禁となったという事情もわかるようなことを感じるのは、歴史の研究をしようという学生なら(おそらく)誰でも知っていることであろうが、その意味を実感するためには、実際に津田の記紀批判を半分でもいいから読み通してみることが必要だと思う。歴史家は、(私だけかもしれないが)、普通、あまり合理主義的な考え方はしないので、是非読んでおくべき本の一つである。私は津田のリベラリズムと合理主義が好きである。ただ、我々の世代だと、津田はもう古い、津田は日本文化論である、近代合理主義は駄目だというような傾向があって読んでいない人も多いのだということに、最近、気がついた。
 三木の神話論は、津田のものとはまったく違う印象の本で、津田左右吉とくらべてその重い語り口に惹かれるのはやむをえないことだと思う。いま、自分のもっている『構想力の論理』を見ると、一応は通読をした跡があるが、よくはわからなかったはずである。ただ、『構想力の論理』が第一編「神話」からとき起こされ、徐々に話がいりこでくる論理の重さには記憶が残っている。三木を読むときにはいつでもそういう気持ちになるので、実際には、そういう気持ちの記憶が残っているだけかもしれないが、『構想力の論理』を読み、三木の獄死のことを考えるというのが一つのくせになっているので、『歴史のなかの大地動乱』を書くために神話について考えることが必要になって、最初に取り出したのはやはり三木のこの本であった。これは、歴史学の立場から、神話論の参考になるものがないかという実務的な関心ではあるが、この年齢(つまり三木が、これを書いた時よりずっと上)になって読んでみると、これを三木が書こうとした意図がよくわかるような気がする。
 それは人間の歴史の内部で動く非合理なるものの正体を見ようとしたということだと思う。三木の神話論には、ナチスのローゼンベルグの『二十世紀の神話』の名前も(名前だけ)でてくるが、三木は神話のもつ強い力を意識しながら、『構想力の論理』を書いたのである。私は、これは必要なことだと思う。社会は、そもそも合理的に進むものではないという覚悟と予備知識をもっていなければ、結局、どのような仕事も成就しないということを、三木の論理の紡ぎ出し方をみていると思うのである。
 ともかく、三木清の議論のレヴェルにふさわしい神話論を考えたいということで、この間やってきたが、先日のブログに書いたように、これまで意識していなかったボーヴォワールの神話論がでてきて、なかなか考えることが安定しない。

2012年7月26日 (木)

昼のカレーとボーヴォワールの神話論

120725_112642  今日は、医者。北部診療所で血液検査の結果がでたが、きれいなものですということで、先週からの疑いが消える。その足で自転車。写真は、花見川サイクリングルートの上流部。樹木に囲まれたルートはさすがに気持ちがいい。
 昨日、午前中は編纂の引き継ぎ仕事。朝方に起きて校正仕事をしていたので茫々となる。昼御飯のカレーの時に、文学部の西洋史のFさんと偶然一緒になる。ちょうどもっていたボーヴォワールの『第二の性』について話題になる。彼の観測だとサルトル、ボーヴォワールへの関心が戻ってきているのではないかということで、この前もR大学の学生がジャン・ジュネを読んでいるのをみて驚いたとのこと。世代的な感じからすると、これはほっと安息するような状況の動きである。
 ボーヴォワールは、おそらく高校か浪人のころに、新潮の生島訳で最初の一・二冊を読んだ。古い歴史学研究会の縁で知っている女性から教えられて入手した『フェミニズムと経済学ーーボーヴォワール的視点からの『資本論』再検討』を読んでいて、『第二の性』を探したが、自分の本と連れ合い分をあわせても一・二冊しかなく、どこかでなくしたことを知って、新訳を買ったが、これが『決定版第二の性』(新潮文庫、第二の性を原文で読み直す会訳)というもので、私たちが読んだ以前の生島訳とは構成が違うことを知って驚く。生島訳では原書と編別順序が違っていて、私が読んだ(のであろう)、最初の一・二冊には「体験」の部分で、肝心の原書第一部の方法論部分はあとの方にまわされていた。そこに書かれたボーヴォワールのエンゲルス批判には記憶があるが、おそらくこの方法論部分は、読んでいたとしてもそこらへんだけであったように思う。
 サルトル、ボーヴォワールは、キチンと読んだ訳ではないまま、一種の卒業意識があって、読み返すことがなかった。そのうちに考えてみたいので、三木清の『構想力の論理』を読んでいたら、サルトルがでてきてたいへんに驚いて、ハイデカー問題もあるので、サルトルを読み直さないとということになり、白水社のサルトル全集の何冊かをを探したら、これもでてこない。『存在と無』の文庫本を買ったのが二・三年前か。ようするに宿題なので、真面目に、これまでの自分のふつつかさを反省しつつ、勉強をする積もりである。
 昨日は、昼過ぎ、岩波の編集者に『歴史のなかの大地動乱』の再校を返すので、F先生が戻られた後は最後の校正。先生にも読んでいただくことを約束する。そもそもボーヴォワールをもっていたのは、この『歴史のなかの大地動乱』の母権制神話から「祟り神」への変化の部分を考えるのに、ボーヴォワールの神話論が有効だと考え、それをゲラに書き込んだため、あまり突然だという連れ合いの意見によって削除したが、その再点検のためであった。ともかくもボーヴォワールの母権制神話論は興味深い。神話論はエリアーデの本を一冊もっていたので、それを読んですませていたが、かくてはならじである。
 以下、一部引用。Mちゃん、入力ありがとう。

 しかし、もっと一般的に男の心にあるのは、自分の肉体的条件に対する反抗である。男は自分を失墜した神だと思っている。男の宿命的な不幸は、輝かしい天空から墜落して、母親の腹という混沌とした闇に入れられたことだ。男が自分の姿を認めたがっているあの火、活発で純粋なあの息吹、女はこれを大地の泥に閉じこめる。男は<一者><全体><絶対精神>のように、純粋な<イデア>として必然でありたいと思う。それなのに、限られた身体のなかに、自分が選んだわけではなく呼ばれたわけでもない時間と場所のなかに閉じ込められて、役立たずで、場所塞ぎで、不条理だ。肉体の偶然性は男の存在そのものの偶然性であり、男は見捨てられて、許しがたい無根拠性のなかで、この偶然性にさらされる。偶然性は男を死にも捧げる。子宮(墓のように閉ざされた秘密の子宮)で作られるあのぷるぷるとしたゼラチン質のものは、ぶよぶよして粘り気のある腐肉を連想させるので、男はぞっとして顔をそむけずにはいられない。発芽でも醗酵でも、生命が作られつつあるあるところはどこでも、嫌悪感を引き起こす。生命は崩壊しながらでなければ作られないからだ。粘液状の胎児は、死の腐敗に終わる過程の始まりである。男は無根拠性と死が嫌いだから、自分が生み出されたことが気にいらない(305頁)。

 したがって、神話とは男によって利用されるものである、ということで大半の説明がつくと言える。女の神話は贅沢品である。女の神話は、男が生活必需品を緊急に手に入れる必要にせまられずにすむようになるとき、はじめて出現する。関係が具体的に経験される度合いが高いほど、観念化される度合いは低い。古代エジプトの農民、ベドウィンの農民、中世の職人、現代の労働者は、仕事と貧しさにせまられて、妻である特定の女とあまりにもはっきり限定された関係をもたざるをえないため、女を吉なり凶なりのオーラで飾り立てる余裕などない。黒なり白なりの女性像を仕立てあげたのは、夢想する暇ができた時代や階級である。しかし、贅沢にも効用がある。こうした夢想は否応なく利害に左右されているのだ。たしかに、大部分の神話は、男が自分の実存と自分を取り巻いている世界に対して示す自発的な態度に根ざしている。しかし、経験を超越的な<イデア>へと乗り越えること、それは家父長制社会は法律や慣習をイメージ豊かな感覚的な方法で個人に押しつけた。神話のかたちをとることによって、集団的な要請が個々の意識に浸透していったのだ(515頁)。

 カレー屋を出る時、今度は法学部の西洋法制史のN先生とばったり。私は、来年、定年ということをお伝えすると、「編纂という高貴な仕事、ご苦労様でした」といわれる。そういうようにいわれたことは、ここしばらくないので、その事情と、日本史学界の状況が話題となる。

2012年7月23日 (月)

火山地震72ボランティアとして少し働いて。

6月27日から3日間、ボランティアに参加しました。第一日目午前中は、石巻の相川小学校の校務書類の最終整理の御手伝い。午後は、いたんだS家文書の封筒の交換と現状記録(カメラ、新封筒記入)。二日目と三日目午前は、K家の襖内文書の解体と整理。そして三日目午後は早く失礼して石巻の津波跡を廻りました。その実際の中身は、自分のブログ(「保立道久の研究雑記」)に書きましたので、それを御参照いただければ幸いですが、なによりも平川新さんと宮城資料ネットの方々は本当にたいへんであることを実感しました。敬意を表したいと思います。またとくに、認識を新たにしたのは、市民ボランティアの方々の実力でした。現在の責任者のOさんは、昨年の秋、平川先生の市民講座での呼びかけをきいて参加されたという紳士。リタイアされた方や主婦の方が、週3・4日あるいは毎日、6・7人のメンバーで支えてくださっている。作業の指導は研究者とともにボランティアの方々からうけた。御話を聞いていると頭が下がる。参加についての御礼をいわれたが、むしろ職能の問題としては、こちらから感謝しなければならないことで恐縮する。
 家族で行ったので、娘がボランティア活動の中にとけ込み、細かな作業に集中しているのが楽しい経験であった。作業拠点は東北大学国際災害科学センターのおかれている文化系総合研究棟の11階。その窓からは水平線がみえることがひとしきり話題となる。ボランティアのIさんがおっしゃるには、「仙台に津波ということはまったく考えていなかった。そもそも、仙台が海が近いという意識そのものがなかった」。そして、Oさんは、仙台城と同じ高さから仙台の街区をみながら仕事できるのは楽しみの一つとおっしゃるが、その位はいいことがなければという話になる。
 歴史学の社会的な職能のために動いてくれる市民との関係は、歴史学にとって何よりも大事だと思う。(遺跡保存などもふくめ)史料保存は、歴史学の社会的責務である前に歴史学にとっての職能的な利害そのものである。職能的な利害のために必要な時間をさくことは研究者としての責務である。すべての研究者は少なくとも給料を保証されている場合は、おのおのの条件の中で資料をレスキューするという職能的な義務の一端を担うべきである(若干でも金も時間も)。これを曖昧にするのは研究者としての地位を既得権化するものではないか。私は、本質論としては「原子力ムラ」なるものを笑ってはいられないと思う。そういうことではアカデミーにおける歴史学の陣地をまもることもできないだろう。
 そして日本の歴史文化の中では、歴史学の職能的な利害の擁護は、研究者としての給料分の義務的な仕事であり、社会的な責務であるとともに、つねに歴史学の学問的課題に直結してくる。歴史学研究の課題意識の設定においては、史料保存を中心とする歴史学の職能的役割を中軸にすえることが正統的なあり方として維持されねばならないことは明らかである。
 この点で、たいへんに気になるのが、江戸時代研究者の大多数が、阪神大震災後に組織され、現在にいたっている資料レスキューの動きを全体としてどう考え、どう位置づけているかが部外者にはみえてこないことである。
 歴史学と被災史料という問題を考える場合に、第一に必要なのは、災害、地震、津波などそれ自体についての研究の開拓であろう。これは歴史学の側では、長く、ほぼ北原糸子氏の一人の肩にかかっていたというのが実際である。私も三・一一を経て、八・九世紀研究には地震・噴火についての本格的な研究は今津勝紀・宮瀧交二氏などの二・三の論文を除けば、まったく存在しないことを知って、急いで研究にとり組んだという経過であって、大きなことはいえないが、それほどひどくはないとはいえ、江戸時代の災害史研究も遅れていることは否定できないだろう。何よりも、この研究課題の設定と議論が急がれなければならないと思う。
 第二には、被災史料の史料論であろう。今回の経験でも襖内文書は通常では保存されないような珍しい文書や書状をふくんでいるように感じた。襖内文書は、史料の悉皆調査によっても光が当てられることがなかったはずである。各地での経験を交流し、記録方式などを確定していくべき必要は高いように思う。とくに襖内文書は断片化している場合が多く、保存のためにも編纂が必要になる場合が多いことに注意しておきたい。大量・多様な被災史料の調査・記録・研究において、史料論の発展が図られるべきことは、それ以外にも多いのではないだろうか。被災史料の保存にかかわる文化財科学の方法論議や実践が必要となっていることもいうまでもないだろう。
 そして第三に強調しておきたいことは、大量の史料の被災が、歴史史料のデジタル化の必要を白日の下にさらしてしまったことである。江戸期史料はなにしろ大量であって、そのデジタル撮影、デジタル編纂ということになれば、大問題である。これまで歴史学における情報化、知識化が「古代・中世」を中心に進展してきたのは十分な理由があったと思う。しかし、デジタル化をどう考えるか、それを歴史学の方法論の問題としてどう受けとめるかは、それが史料保存という歴史学研究にとって本質的な問題から発している以上、回避することはできないものと思う。もちろん、これは江戸期の歴史研究者自身によって検討すべき事柄であることはいうまでもないが、しかし、『新修日本地震史料』に結実している地震学が主導した江戸期の地震史料の悉皆調査・翻刻のプロジェクトが、歴史学の側からの全面的な協力を必要としていることは明らかで、これは列島社会の安全に直結している。
 歴史学全体にとっても正念場である。

 上記は、宮城資料ネットのニュースに書いたもの。先日の朝日新聞に小熊英治氏が首相官邸前の集会を見に行っての感想を書いていた。目立たないのは学生であるとあった。しかし、学生の状況は大学の状況を反映しており、大学の状況の根っこには学者の「安穏」の雰囲気があると思う。上には、江戸時代史の研究者の動きが外からはみえないと書いたが、それは学界、あるいは教育基本法のいう「学術の中心」としての大学の状況全体にかかわっていることは御断りをしておきたい。そして学術全体の不活性というものがあるといわざるをえないようにも思う。これをどう考えるかはなかなか重たい問題である。

2012年7月17日 (火)

昨日、7月16日の集会にいってきた

 福島の原発災害と東北の津波災害については国家保障と東電による全面賠償を実現するほかないと思う。災害の多い、この列島の国家・政府が、国家保障の体系をもっていないのは決定的な問題である。阪神大震災の時に、現地で永井路子さんと一緒の講演会で話した時、「国家保障が実現するのは必然である」と述べたが、これは(若干の進展はあったものの)、結局、実現せず、苦い記憶になっている。この講演準備ではじめて地震について歴史史料によって考えたのだが、しかし、十分なことができず、その後に研究を継続しなかったことなど悔いが多い。
 これは長期にわたる課題となるだろうが、歴史家としてもできることを考え、実行したいと思う。妻は、先週金曜日、国会周辺にいって様子をみてきた。途中で咳きがひどくなって、帰ってきたが、たいへんな人だったということ。昨日、『大地動乱』の校正のメドをつけたので、今日7月16日、代々木公園で行われる集会に、私も一緒に様子をみに行く。いま総武線の中。
 様子をみにいくというのは変かもしれないが、多くの人々の動きに参加し、そのマッスの一人となることは自然なことだと思う。もちろん、人がどんなに集まっても、現在の政府中枢は無視するであろうことはわかっている。普通の国家であり、普通のマスコミ・ジャーナリズムがあれば、仕事の時間をけずって行こうとは思わない。しかし、なにしろ普通の国家ではないのであるし、ともかく、福島の人々が集会にも来るということであるから、それだけでも参加しようと思う。福島の状況は。人ごととはとても考えられない。人ごとではない以上、何をするかということを考えるのは自然なことであると思う。
 
 災害史の北原糸子さんの意見を読み、聞いていると、「災害」に対して義捐金と公共事業および貸し付けで処理をするという体制が明治の濃尾地震以降にできあがっていったらしい。共同体的な相互扶助のシステムが広がっていくということではなく、さまざまな行政手段で災害・被害の個々に対応するというシステムができあがっていき、国民としての共同性は十分には形成されないままということであったのではないかと思う。いわば災害対応の「分節化」である。もちろん、行政と全国的な義捐金のシステムで、当時としては、相当のことができたのは事実だが、そのために、逆に根幹の国家保障には及ばないということになった。
 ヨーロッパでは相当の国家保障があるにもかかわらず、なぜ、日本でそれが実現しないかは日本社会論にとって本質的な問題であると思う。これはなぜ国土計画・都市計画が不在であり、「乱開発」がもたらされるかという問題と裏腹の関係にある。そして、いわゆる「私有財産」の保障はしない、「私有財産の自由」のという日本イデオロギーが根本にある。正確につめてみたことはないが、これは資本主義一般の問題ではなく、日本資本主義に特徴的な論理である。
 昨年から、地震、津波、台風、竜巻、集中豪雨、土砂崩れその他、その他、多くの事件が起きているが、それらは個々の「不運」ということで処理されている。しかし、同じ国家共同体に属している人間が自然との関係で偶然的被害をうけた場合には、統一的に保障を行うという制度思想があっていいのではないか。憲法のいう「健康で文化的な生活」というのは、そこに及ぶはずのものである。協同主義というものがあるとしたら、これはその一つの制度的根幹であるはずである。
 前近代史の研究者からいえば、共同体というものの、最低の条件は、自然の「災害」に対して協同の対応をとるということにある。日本国憲法の下では法的には日本国民は共同体であるはずのものである。それ故に、国家補償があって当然ということであるはずであるが、それがないということは、現在の日本の国家共同体は共同体というべき実質がない、あるいは現実にはきわめて薄いということを意味する。国土と共同体を大事にしようとする以上、共同体の実態を形成するためにこそ、国家保障制度の形成は必然的な過程であると思う。
 人は、結局のところ、対象的自然(外的自然)に同じ人間として向き合うということで、同じ類的な存在であること、共存在であることを確認し、それによって共同体に帰属するのだと思う。理屈っぽい言い方は御勘弁ねがうとして、以上、ともかく今日の大集会にでてみたいという訳である。

Cimg0746_3  左の写真は大江健三郎氏。いま集会で大江さんの次の落合恵子さんの話しを聞いている。「生存」ということを訴えている。次は沢地久枝さんである。そしてその次ぎは瀬戸内寂聴さん。寂聴さんはお元気。私の敬愛する和尚さんとも縁が深いので、お元気そうな様子に励まされる大江さんの話はよく聞こえず。女の人の声の方がよく通る。
120717_183655_2  最後は福島の武藤類子さん。武藤さんは福島の賠償訴訟団の代表。今月号の世界の文章を共感をもって読んだ。ただ残念ながら、武藤さんの話は、私たちのいたところからは話がよく聞こえなかった。しかし、ともかく、福島の状態の解決と補償・賠償に集中して議論をしたいものだと思う。右の本は武藤さんの本だが、そこに「事故はいまだに終わらない。福島県民は核の実験材料にされるのだ。ばくだいな放射性のゴミは残るのだ。私たちは棄てられたのだ。私たちこそが、『原発いらない』の声を上げようと、声をかけあい、誘いあって、この集会にやってきました」とある。もっとも大変な状態に置かれている福島の人々だけに「原発いらない」という声をあげてもらっている訳にはいかないと思う。
 
 行進に参加するのはご勘弁を願って、アルバイトから帰ってきた娘を東京駅で拾って、いま、帰りの総武線の中。東京駅の混雑はもの凄い。集会に17万集まったといっても、東京駅近辺の人の動きの何分の一か。国会議員の多くは、そういうように考えるのであろう。集会などに集まる人々の人数はたかがしれているという訳だ。
 けれども、休日に首都中枢が、これだけ混雑するというのは、日本に独特のこと、あるいは東アジアに独特な現象である。国土計画・都市計画にそって各地域で過ごせるゆったりとした空間があれば、こうはならない。乱開発の結果の一極集中である。こういう群衆都市であるからこそ、都市防災ということを本格的に考えると、その前提として、国家補償制度を本格的に議論していくことが必要なのだと思う。
 一極集中と都市群衆を作り出してきたこれまでの政治家が、これに無自覚なまま、集会に集まる市民は、都市群衆の全体からくらべれば少数であるといって高をくくっているとしたら、それは困ったことだ。

2012年7月16日 (月)

71地震火山箸墓古墳の赤色立体図と火山

 ようやく、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)の校正を終えたが、この箸墓古墳の形はやはり火山の形であるというように考える。
Hasihakas  これは、6月5日に橿原考古学研究所が発表した箸墓古墳の赤色立体地図。この効果は見事なものである。校正を終えた『歴史のなかの大地動乱』では百舌鳥耳原中陵の略図を自分で書き起こして図版としたが、これを使った方がよかった。「前方後円墳は火山の形」というのは、『かぐや姫と王権神話』で書いたことであるが、『歴史のなかの大地動乱』でもそれを繰り返した。
 この赤色立体図をみると、前方後円墳は最初はまず後円部を作るのではないかと思える。最初からこの形を構築するのではあるまい。まず円墳状の基体をつくるのではないか。これは工法の上で論証できるかどうかが問題だが、しかし、古墳祭祀にもそれが関係するのではないかと思う。
 これらをふくめて、机辺にいろいろなものが積んであり、一つ一つ確認をしながら片づけていく。私の部屋の「上司」であった稲垣泰彦さんについて奥さまが、研究テーマが代わる時は、机の廻りにおいてある本やノートを一挙に片づけて次のテーマにむかうので、それは見ていても見事なものであったとおっしゃっていたが、なかなか見事には切り替えられない。上記のように、まだ頭が地震と噴火、そして8・9世紀にくっついていて、なかなか離れない。
 『写真でみる京都自然紀行』(京都地学教育研究会編)もその一つ。この本は京都府立洛東高校の西村昌能先生からいただいたが、西村先生からは石黒耀『死都日本』が面白いとうかがっていた。この小説は地質学者の間では有名ということであるが、先日注文したら、今日、届いた。『日本書紀』『古事記』のイザナミの出産は火山爆発の表象であるという記述は興味深いもの。肝心のところのみに目を通したが、次の執筆にむけて読む積もり。
 Cimg0738 以上、メモ。片づけで最初にやったのが、この種の『大地動乱』の執筆のメモや原稿を閉じるのに使っていたファイル。中身を処理し、廃棄しようとして、このごろ、ホチキスの針を外してから、紙ゴミのみの袋に弁別していれるので、ホチキスを外した。ふと、裏側を表にして再利用できるのではないかということでやってみた。題の側に紙止めのバーが来ているのはそのため。こうやれば、ファイルを、再利用できる。記念に残す。
 次ぎに手がとまったのが2007年5月号の『UP』。松浦寿輝氏の文章。哲学の井上忠氏の授業の記憶についてふれたもの。中身は半分も分からないが、重要ということだけは分かる話を論理的に聞かされ続けるという経験についてふれたもの。そういう授業に憧れてきた。たしかにパワーポイントを使ってわかりやすい授業をするのは大事だが、それはできそうにないし、松浦氏は別の理想をもっているという話である。
 たしかにその通りなのであるが、私は、そういう授業はできないようである。いわゆる講演でお年の方々や社会人を前にすると自然にはなせるのだが、学生相手だととくにむずかしいことが多い。今年、J大学でやった授業がうまく行かなかったのはショックで、それ故に逆に講演では必ずパワーポイントを用意することにした。歴史学は、史料から離れることができないし、他方で筋がいる。とくに授業で話していると一つ一つの史料に頭が粘着していき、相手が学生の場合は、その史料のニュアンスをわかってほしいという感情が動き出し、話の筋が曖昧になっていってしまう。その両方をみたすのには、やはりパワーポイントでまとめておき、学生の顔をみずに頭の中に浮かんできたことを話し続けるというのが有効であると考えた。
 以前に『中世の愛と従属』で自分評をしたように「論理実証分裂主義」がなおっていない。一方では個別史料の解釈にとらわれてしまい。他方で論理となると一般化しすぎるということである。

 結局、歴史学者として、体系をもちえていないのだろうと思う。網野善彦さんの著作集の月報がでてきて、そこにウィスコンシン大学の大貫美恵子さんの文章があり、網野さんの講演の様子が書かれていた。それを読んでも耳がいたい。
 その他にもいろいろ出てきたが、そろそろ、頭を切り換えねばならない。

2012年7月10日 (火)

70地震火山芳賀幸四郎先生の『禅入門』と国会事故調査委員会

 これは先週の金曜日(20120706)、国会事故調査委員会の内容が報道された日に書いた。載せるのが前後した。
 Cimg0735 夏になった。自転車にのっていて、夾竹桃とひまわりをみる。この写真は千葉動物公園の裏手の並木。冬にとって今年新年のブログ(賀状)に載せた写真と比べるといかにも夏である。
 芳賀幸四郎さんの『禅入門』は、もっともわかりやすい禅の入門書。先生は、父の死後、私が中学高校時代をすごした母の実家の近所に住まれていた。歴史学をやり大学院に進みたいということを母に話したところ、知っている人を通じて、先生のところに参上する話しをしてくれた。大学院進学という無理をいっただけに、それにしたがっておそるおそる参上。さらに芳賀先生の御紹介で静嘉堂文庫に米山寅太郎先生をたずねた。思い出すと汗顔の至りの部分があるが、芳賀先生のどっしりとした印象、米山先生の落ち着いた学者の印象はよく残っている。
 本書には、禅がデモクラティックであり、科学的であり、現世的であり、ヒューマニスティックな実践の教えであるということがわかりやすく書いてあり、その通りと思うことが多い。「病い」の多い現代にとって必要な修養のあり方だと思う。
 ただ、結局、この本の「そういうことではいけない」という指摘にもかかわらず、座ることはないままできた。「大疑団、大噴志、大信根」の道は維持してきたとは思うが、読み直すと、なんとも自分が駄目であることを実感する。老僧も科学を大事にされたが、しかし社会科学というものにしたがっていながら、忍辱と安息の道を辿るのはなかなかむずかしい(ということにする)。自己の馬鹿さ加減の上に、さらに社会科学にもとずいて飼ってきた「不正不義に対するにくしみ」(芳賀先生の言葉)という猛牛を牧することはなかなかむずかしかった。今のところ、座る代わりに自転車である。
 
 国会事故調査委員会の報告がでる。政府はこれまで明瞭に「人災」であることを認めていなかったから、それを人災であるとし、危険性についての認識がなく、またシビアアクシデント対策の必要は指摘されていながらさぼったこと、さらに東電が現在でも事故原因をもっぱら津波によるものとして地震による破壊がそれに先行していたことを認めず、「塀」を高くすれば平気だという議論に矮小化していたことなど、基本部分で明瞭な報告である。
 しかし、これらはすべて指摘されていたことで、やっと政治家以外の委員会を設置してそれが公的なものになるというのは、現在の民主党および原発推進の政党の政治家は給料を返却するべきものと思う。信じられない人々である。宗教者ならぬ俗人の学者は、この種の怒りというものと、どうつきあったらよいものであろうか。
 地震による破壊の先行という根本的な事実問題について報告が正確に述べたのは、地震学の石橋克彦氏が委員に入っていたからであると思う。石橋克彦氏の著書『原発震災』(七つ森書館)をいただいた時のブログに書いたが、同書のプロローグは、「津波の前に地震動で重大事故が起こった可能性」についての詳細な分析である。しかも、それは東電の公表資料にもとずいて、福島第一原発の揺れの加速度時刻歴波形のグラフを作成し、その地震動の強さと継続時間を算出し、それにもとづいて津波以前に原発の機器の重要部分が破壊されていたことを、ほとんど否定が困難な精度で示している。そして問題を津波の高さのみに帰そうという一部の曖昧な主張を退けている。この指摘が、調査委員会の報告に入ったことによって、事故原因についての東電の自己弁明のためにする議論が排除されたことが決定的な意味をもったのではないかと思う。石橋先生の御仕事の意味は大きい。
 ともかく、私は昨年から石橋氏の『大地動乱の時代』(岩波新書)と論文「文献史料からみた東海・南海巨大地震」(『地学雑誌』一〇八号4)をよむことを仕事の中で繰り返していた。これまで自然科学者の仕事を追跡したことはなかっただけに印象がきわめて強い。とくに後者の論文で『類聚三代格』と『三代実録』の史料にそくして、仁和地震を論じた部分には驚いた。私は、この史料を読んでいて、どう読むべきかを迷って、この論文を入手し、はじめて読んだのだが、史料読みの鋭さに教えられた。地震を追究する自然科学者の目と熱意があるからこそ可能になったのだと思う。これを読んで、私も地震論を本格的に追究しようということになった。ともかく、8/9世紀地震論にとっては決定的な論文である。なお、この仁和地震によって、八ヶ岳の山体崩壊がおきたのではないかという推定が、この論文でされている。これは、河川工学の井上公夫氏によって現地調査の結果、確定した。つまり、この山体崩壊が、千曲川に広大な土砂ダムを造りだし、それが決壊したことで、長野県の更埴郡まで当時の条里が水没したことが論証されている。石橋氏は、これを推定して、この仁和地震が南海・東海連動地震という性格をもっていたことを推定しているが、ご自身が作られた図表では、東海への連動は推測事項としての扱いをしていた。しかし、この井上氏やそれに対応する信州の考古学者たちの仕事によって、東海への連動はほぼ確定したといってよい。
 話がずれたが、しばらく前、歴史科学協議会が石橋先生をまねいて、歴史家と一緒のシンポジウムを開いたが、その時に久しぶりに御会いしてたいへんな御様子をうかがっただけに、本当にご苦労さまであるという感がする。この時のシンポジウムに人が100人も集まらなかったのは本当に驚いた。これは現在の状況に歴史学の若手(というよりも昔にいう「中年」をふくむ)が積極的な興味を表せなくなっていることの表現であるように感じた。私などはショックであった。歴史学がはやく現代性を取り戻してほしいと思う。
 昨日、岩波の編集者に、新書『歴史のなかの大地動乱』の初校ゲラを戻して、ようやくほっとする。来週には公務のゲラがでてくる可能性があるが、昨日からゲラ境期である。昨夕、久しぶりに床屋に行き、みっともないほど長かった髪をようやく切る。つかれていて今日は休み。朝から自転車。先々週、東北にいっている間に、オーバーホールをしてもらったので、さすがに廻りがいい。
 昼間入った喫茶店で、読売新聞を読むと、「地震によって津波の前に破壊されていた可能性がはじめて指摘された云々」ということが書いてあった。これは石橋先生の指摘以外にもあり、少しでも真剣に取材をしていればすぐに分かったはずである。たしかに新聞には、少なくとも新聞の「社説」にはのっていなかったろうという意味では「はじめて」なのであろうが、これを「はじめて」のことにしたのは、あなたがたの責任ではないか。不勉強なジャーナリストというものはどうしようもない。お馬鹿の政治家が多数の国にはこういうジャーナリストがはびこるわけだ。

69地震火山、北原先生との座談会と若い地震学者への手紙

 7月7日(土曜日)は、シモン君が成田からスイスに帰るので、私たちの千葉の家で一泊。ただ、私は、ある企画で北原糸子、平川新、成田龍一氏と歴史地震についての座談会。夜遅くなって帰る。シモン君と家族は、近くの大銭湯にいっていた。
 北原先生とは初対面。津田塾のご卒業ということで、『千年王国論』の翻訳をされている理由がわかった。天衣無縫の方、雰囲気といい、はっきりとした断言といい米田佐代子さんを思い出す。災害史という分野の重大性を実感する。座談会後、食事。北原さんからうかがった、ここ30年ほどの地震学の研究の状況と、交流の御話は私にとってかけがえがない。
 平川さんが、(1)地震と噴火にかかわる民衆智の復元、(2)歴史地震論をサイエンスのレヴェルにもっていく方法、(3)そういう中で自分が何ができるかという座談会の締めのような結論をいわれる。その説得力は高く、感心してしまう。6月末には東北大学で御会いしたのだが、一週間も間をおかずに今度は学問の話しである。
 座談会は成田さんが司会。話の筋を通してくれるのはさすが近代史研究者である。原発の問題に深い憂慮と関心を学術的な問題として詰めていこうという強い方向性をお持ち。
 私は、江戸期から、近代まで、これだけ通史的に意見が一致する議論をしたのは、歴史学者としてはじめてのことであるという感想をもつ。「通史的な視野」を研究生活の中で、本当にもっているのかを内省。個人としてはなかなかショックな話で、自分の座談の曖昧さもふくめて、日曜日は、状況の受けとめができず、時間を空費。自転車ででて、娘の勧める田中芳樹の薬師寺涼子シリーズ『魔境の女王陛下』と『東京バンドワゴン』2冊、そしてボーボワールの『第二の性』をもってでて読む。田中芳樹氏は、原発のことを本当に怒っていると。いろいろ、ゆっくり考えるべきことが多い。
 
 いま、朝の総武線。下記は、この3月頃、PCの地震学の方からのメールにこたえた手紙。

 歴史地震の検討をしたいので、歴史史料の読み方や史料批判をめぐる問題について意見を聞きたいというメールをいただきました。先端的な研究をになう若い地震学研究者から、そういう問い合わせをうけることは光栄です。同時に、御返事をかこうとして、私は昨年から歴史地震の研究をはじめたものにすぎませんから、はて、適任であるかどうかに若干の疑問をいだきました。
 今日は、京都での文書調査にでかける途中ですので、新幹線の中でゆっくり考える時間はあり、昨年からのわずかな経験ですが、それをふりかえって手紙をかくことにいたししました。京都での調査は、府立総合史料館での『東寺百合文書』の調査になりますが、いま思いますと、平安時代からの文書をふくむ、この日本でも有数の文書の中に、地震・津波関係の史料が何カ所に登場するか、知識がないことにきづきました。
 これは東京に戻ったら調べてみようと思いますが、おそらく、きわめてわずかの量にとどまるに違いありません。ともかく私の専攻する平安時代から室町時代にかけては、地震・津波の史料は、きわめて少数で、それを発見することは、それ自体で一つの事件であったのです。
 私が、はじめて地震史料にふれたのは、もうずっと前、たしか網野善彦氏が私の勤務する史料編纂所に内地留学で来られたころだと思いますが、網野さんが『近衛家文書』の影写本をくっていて、三重の桑名のそばにある益田荘という荘園の文書に、平安時代の地震史料をみつけた時のことでした。この文書の存在は、網野さんが、当時、史料編纂所にいらした山本武夫さんに伝え、山本さんが論文で取り上げられています。これは平安時代の南海トラフ地震にかかわる希有にして貴重な文書で、網野さんにそれをうかがった時、そういう史料の発見ということもあるのだと興奮したことを覚えています。
 歴史史料における地震・津波史料の発見というのは、少なくとも室町時代までは、このようにほとんど偶然のことであると思います。それ故に、必要なのは、地震・津波史料が発見されたら、それをすぐに地震学研究者が知ることができる仕組みであろうと思います。それは石橋克彦氏が代表の科研で作成され、静岡大学の小山真人先生の研究室で管理されている「古代・中世、地震・噴火データベース」のようなものが、地震学と歴史学の共有のものとしてもつべき機能の最大のものであると思います。
 地震学と歴史学の学際的な協力が、データベースとネットワークに依拠すべきものであることはいうまでもありません。歴史地震学は、それによってのみ、現在の研究状況に不可欠な厳密性と理論的な発展を保障され、必要な社会的役割がはたせるものと思います。そして、そこで問われているのは研究者の集団、学界としての社会的役割ですから、単純な意味での個人業績というものはなくなるはずだと思います。
 これについて意外な経験であったのは、昨年の東日本太平洋岸地震の後、地震津波の研究にとり組むべきだと考えた直後、右のデータベースで「津波」を引いたところ、室町時代、一四五四年(享徳三)に大規模な奥州津波が存在したということを知った経験でした。これは産総研の宍倉先生などが確定した室町時代の津波痕跡砂層に対応する文献史料である可能性はきわめて高いものであると考えています。ご存じと思いますが、それは「十一月廿三、夜半ニ天地震動。奥州ニ津波入テ、山の奧百里入テ、カヘリニ、人多取ル」(西暦、一四五四年一二月二一日)というものです。
 そして、その後、この直後、つまり、約一月後、西暦一四五五年一月二四日(朝鮮暦、端宗王二年十二月甲辰)に、朝鮮の南部、慶尚道・全羅道などで大地震があって、多数の圧死者がでていることを『大日本地震史料』で確認しました(『朝鮮王朝実録』)。

 このことは地震学と歴史学の学際的協力のあり方、データベースのあり方について、三つのことを示唆していると思います。
 第一には、地震・津波のデータとその分析は、地域史的な諸情報と結合されなければならないということです。九世紀の陸奥沖海溝地震と一五世紀の奥州津波のデータを連続して分析することがどうしても必要であるということです。このデータが、たとえばGISの上で並んでおり、そのそばに活断層についての地質学的な諸情報や歴史的な諸事件についての諸情報が並んでいるのが理想的でしょう。これによって歴史地震についての諸情報が公共化され、研究者の誰でもがすぐに確認できれば研究のスピードは強化されるでしょう。この研究のスピードが、ある場合には人命にかかわるという痛切な経験を私たちはしました。
 つまり、東日本太平洋岸地震の繰り返しという側面があったとわれていますが、文献歴史学の側には、この九世紀地震についての専論は一本もありませんでした。もし、それがあって、この九世紀地震についての情報の発信を強化することができていれば、沿岸地帯における防災の体制や教育に若干であれ実際上の変化がありえたかもしれません。大量現象として考えるのならば、それが何人かの人々の命を守る知識として働いた可能性は現実に存在したと思います。たんに研究上の問題ではなく、地域的な地質情報と歴史情報の可視化が、その地域における防災・地理・地質・歴史の教育にとっても、地域の文化にとってもきわめて大きな意味をもつであろうことはいうまでもありません。
 第二に、我々にとってもう一つの根源的な問題としては、これによって歴史地震学の方法論が厳密化するであろうことです。そのキーは、地質情報と考古情報の連携にあります。歴史地震学のような膨大な資源と広汎な研究領域を必要とする学問分野を前にすると、歴史学ができる文献史料の分析は、作業としてはあくまでも初歩的なものにすぎないことが明らかです。むしろ歴史学の関係分野では、これは考古学の側での地震痕跡の分析と蓄積の体制を学際的に進めていくことが決定的な位置をもつと思います。つまり、日本の各地で、毎年、多数の遺跡が発掘されますが、そこで十分な地震痕跡の調査体制がとられているかどうかは、現在の考古学の発掘調査体制がおかれている予算・人員の削減という状況の中で、やはり危ういものがあります。本来は、この地震列島における考古学的な発掘は、どのような規模のものであっても地震学者の実地検分をへるべきものであるという原則さえ必要なものであるというべきでしょう。自然科学的な厳密性を確保するためには、地質情報を確実に集積することが最大の保障であることは見やすいことです。東北大学の方々と産総研の方々が行った九世紀陸奥沖海溝地震についての地質学的な調査を手本とし、きっかけとして、この地震列島のどこでも均質なデータを蓄積することが急務であることを社会的にも明瞭にうちだすことが必要であると思います。
 第三は、地震データの国際性ということです。地震研の平田直先生は、マグニチュード9という超巨大地震の分析のためには、グローバルな視野にたった研究が真に必要な段階になっていると発言されています。上記のような奥州津波と韓国の大地震がほとんど時間をおかずにおきているという事実は、まさにそれを示すものであると思います。その意味で上記のデータベースは東アジアの地震史料とのリンクをもたなければなりません。
 その場合のキーは、地震史料の多い中国史の地震データをどう位置づけるかということになります。昨年、東大の海洋アライアンスが東日本太平洋岸地震について開いたシンポジウムで報告したとき、文学部中国史の小島毅先生が来てくれて、その後に一緒に食事をし、中国の地震の話しを伺いました。彼によると中国の地震史料はきわめて多く、政治社会の動きに大きな影響をおよぼしてきたということです。同じく中国史の経済学部の小島浩之先生も同じことをおっしゃっていました。日本の歴史地震学がこのデータ群への十分な視野をもつべきことは明らかであると思います。
 石橋克彦氏が主唱しているアムールプレートの存在をどう考えるかについては、地震学の中ではまだ様々な意見があるということを側聞しています。しかし、ユーラシアプレートの側から、つまり日本を西側から押す力が、太平洋・フィリピン海のプレート沈み込みとともに、この列島における地震の発現機構において緊要な位置をしめることは認められていることだと思います。そしていわゆる揚子江プレートが小プレートとして存在することもいわれていますから、そうだとするとアムールプレート論も必要な状況であることは、(部外者の目からみますと)明らかなように思います。
 中国の地震史料の点検と評価は、この問題に直結してくるのではないでしょうか。今後予想される「大地動乱の時代」が、この列島のみでなく、東アジア全域をおおうものになる可能性が、もし本当に高とすると、この問題に接近することは歴史地震学の大きな責務であろうと思います。

 いま、新幹線は静岡に入ったところです。歴史学では東日本と西日本の社会構造や民俗の相違という問題がきわめて大きな問題として引き継がれています。昨日のブログでかいたのですが、私は三月一一日は、石橋克彦氏の『原発震災』をノートをとりながら読んで過ごしました。そして、いま、静岡を過ぎながら、石橋氏が深くかかわり、かかわっている駿河湾地震説、そして浜岡原発の問題が、この「日本列島史における東と西」という問題にオーヴァーラップして存在しているということに気づいて驚いています。
 その意味では、地震学の若い研究者が、原発政策や原発問題への対処において赤裸になってしまった、この実に独特の性格をもった日本社会と学史のかかわりについてどのような感じ方をもっているのかを伺いたいという気持ちが生まれます。これはおそらく、地震学と歴史学の学際的な協同が実際にどうなっていくかを根底で条件付けるものであろうと思うからです。
 石橋先生の『原発震災』を読んでいると、一九六〇年代末期が、地震の断層発現論とプレートテクトニクスの導入の中で、同時に現在の「予知」体制の基本が形成されるという古典時代であったことがよくわかりました。端的にいいますと、それを現在の地震学界の若い方々は、どう御感じなのかということです。ちょうどもってきたリルケの『フィレンツェだより』には、芸術家の諸世代について次のような文章がありますが、それは学者の諸世代にも敷衍できることであると思います。

 いつも三つの世代が引き続いて経過する。第一の世代は神を発見し、第二の世代はその神に狭い神殿を建てて神をそこに繋ぎとめる。第三の世代はというと、それは貧困におちいり、神の家の石を一つ一つ抜き取り、それを材料にして見窄らしい不潔な小屋を建てようとする。それから更に新しい世代が現れて、再び神の探求に従事するのである。
 
 私などは、第二次世界大戦後の歴史学の学史の中では、第三の世代として「みすぼらしい小屋」を建ててきた世代ですので、リルケの文章は衝撃的でした。分野は違いますが、若い学者の世代が、どのような新しい学術のレヴェルを作ろうとしているのかは、本当に身につまされる問題です。しかし、それはまだまだ慎重に議論する時間があると考える、あるいは、あることを期待することは許されるでしょう。そこで、御申し越しのことについて、私の狭い経験から申し上げられることに戻りたいと思います。

 まず、七世紀から一〇世紀にかけての地震・噴火史料を詳細に読まれることをお奨めしたいと思います。漢文史料ですので、最初はなかなか取っつきにくいかもしれませんが、この漢文は日本的な変形漢文といわれるもので、返り点や送りがなをつけて読めますので、高校の教科書か受験参考書を引っ張り出し、辞書を引き引き読めばどうにかなるはずです。
 それを地震学者としてどう読むべきかのお手本は石橋克彦氏の論文「文献史料からみた東海・南海巨大地震」(『地学雑誌』一〇八号、一九九九)でしょう。この論文は、八八七年のいわゆる「仁和地震」が南海・東海の連動地震であることを『類聚三代格』という、この時代の法令集の史料解釈からみちびきだしたものです。昨年、歴史地震の研究を始めた後に読んで、その法令にでる「三十余国」についての明解な解釈に教えられたものです。地震学者として、文献史料をどう読むか、明瞭な問題意識が、どれだけ史料解釈の幅を広げるかのお手本のようなものだと思います。私は、この論文を読んだ衝撃によって8・9世紀の地震論の研究を本格的に始めました。なにしろ歴史学の方では、八・九世紀に大量に存在する地震史料の精細な読みは昨年までほとんどなかったという実情ですので、これは歴史学にとっての反省材料であることもお伝えしておきたいと思います。石橋氏のこの史料解釈によって、南海トラフの地震・津波について論じる重大な基礎が形成されたことはいうまでもありません。
 その上で、いま必要なことは、さらに、この時代の地震史料全体を地震学の観点から精細に読むことであろうと思います。この時代の地震・噴火史料の位置づけについては、ご承知のように、この時期を「地震活動の旺盛期」とする今村明恒氏の先駆的な見解があり(今村「日本に於ける過去の地震活動について」(『地震』八巻三号、一二号、一九三六)、それに対する早川由起夫・小山真人両氏の批判があります。私は早川・小山両氏の批判にもかかわらず、この時期が「旺盛期」であるという今村の仮説は否定できない意味をもっていると考えていますが、たしかに、早川氏がいうように、この時期の地震史料の特徴は京都などの政治中心のみでなく、地方でおきた地震の相当数をカバーしていることです。つまり、早川氏の今村批判は、裏返せば、この時期の地震史料の残存のあり方の独自性は、プレート間地震と「内陸地震」の両方をカバーしていることにあるということを示したものとして受けとめることができます。
 それゆえに、この時代の歴史地震の知識をもつことは、地震学者がこの列島における諸形態の地震についての思考実験をする上で、もっとも適当な素材となるように思うのです。たとえば715年の遠江・三河地震をどう考えるか、八一八年の北関東地震や八七八年の南関東地震をどう考えるかなどなど、そのような思考実験は、地震学者でなければできないことであると思います。
 なお、この時期の地震史料を読むことは、中国の地震史料を「眺める」ためにも重要です。この時期の地震史料は、いわば中国の道教・儒教に根っこをもつような天文学・地質学的な用語にみちています。その分、読みにくくはあるのですが、それは中国史料を「眺める」ためにも必要であると考えておかれればと思います。
 もちろん、地震史料がもっとも多いのは江戸時代であり、それを読むためには、「崩し字」に馴れるという、また別の訓練が必要です。しかし、これについては、ご存じのように、宇佐美龍夫先生や都司嘉宣氏の努力が集積されている地震研の『日本地震史料』がありますので、まずは、それを活字で読むことから始められてはと思います。歴史学の側では、阪神大震災、東日本大震災で、大量の江戸期史料が消滅したことに危機感をふかめ、各地で歴史史料保存のネットワークが形成されていますから、原本史料については、そのような動きと連携することが可能であると思います。
 ともかくも、まずは七から九世紀の史料を基礎知識とすることをお奨めするのは、日本史の歴史史料を読むためには、いうまでもないことですが、基本的に漢文に馴れることが必要であるからです。

 とはいっても、以上は、この一年の私の経験と専攻を条件とした、私自身のレヴェルに規制された初歩的な御勧めにすぎません。歴史学と地震学の全体的な協同という点からいえば、もちろん、今後とも、江戸時代史料の発掘と調査・分析が重要であることはいうまでもありません。地震学の立場から地震史料の蒐集と解読、データ化にあたられている宇佐美龍夫先生、都司先生の努力の意味はきわめて大きいものがあります。そして、前述のような地震史料のデータベースは、今後は、宇佐美龍夫先生、都司嘉宣先生の努力のあとを追って、大量の江戸期地震史料のすべてをデータベース化することが中心課題となると思います。
 このためには人文社会系では扱いかねるような膨大な予算や人員が必要となりますが、これは日本社会にとって絶対的に必要な仕事です。地震学の研究や観測体制の整備に膨大な費用がかかることについて、社会的な疑問が提出されることがありますが、むしろ歴史史料もふくめてもっともっと負担が必要な国に我々は棲んでいるのだということを明瞭に主張するべきでしょう。これは長期的にみてけっして無駄にならないことですし、人類が、この列島の上に棲んでいく上で、いましかすることができない作業なのですから。
 それにしても、歴史学の側としては、本来、もっと歴史学の側での組織的な協力があるべき中で、この作業を大きな個人的エネルギーもさいてになわれてきた方々の仕事の意味を痛感します。先日、みぎにふれた室町時代の奥州津波にかかわる史料について、都司先生の御話しをうかがいました。
 長くなった手紙をそろそろ終えますが、戦前に発行された『大日本地震史料』には、前記の一四五四年(享徳三)十一月の奥州津波の関係史料として、
上総の御宿にある大宮神社という神社の史料に、この日の「夜子丑剋、大地震、ヨルヒル入」とあることが紹介されています。この史料の「夜昼入る」という文章が、万が一、津波と関係するものであるということになると、この奥州津波はまさに今回の東日本太平洋岸地震と同じように上総まで及んだということになります。その意味で、この史料は決定的な史料ですが、この史料は、現在の所在が不明となっているのです。都司先生は、その探索のために御宿まで行ったが、現状ではまったくわからなくなっているということでした。私は、千葉県に住んでいますが、このことをまったく知らず、また現在の仕事などの諸条件もあって、まったく史料救援の作業に参加することもしないでろ、都司先生の御話しを聞いていて申し訳ないという気持ちになりました。
 そういう私がいうのは、おかしなことではありますが、歴史学に対する場合、ともかく歴史学の義務的な役割を十全に果たしてほしいということを要望する権利はあると考えていただいてよいのだと思います。
 以上、御役に立てるかどうかですが、御研究の発展を祈ります。

2012年7月 3日 (火)

地震火山68石巻をたずねて

 6月29日金曜、宮城資料ネットのボランティアを11時過ぎに失礼して、石巻にむかう。資料整理に参加した文書・アーカイヴの出所は3件とも石巻だったので、その土地をみることが目的。相川小学校は遠いので無理であったが宮城資料ネットがレスキューにかかわった本間家住宅のある門脇地区などはみることができた。
Cimg0668  これは石巻の鹿島社のある「日和山」(標高60メートル余)の上からの海側の眺望。昼食をしたところの話では、日和山の北側、つまり石巻の駅付近の街区は、山の陰になっていたために津波の高さは2メートル弱であったという。そのためであろう、立て替えや修繕は目に付くものの、石巻駅付近の街区は、ともかく町の外観は平常をとりもどしているようにみえた。
 日和山は鹿島御児神社の神地。延喜式内社で、葛西氏が城をかまえていたという。これは日和山から下へおりたところ。

Cimg0689 本間家の土蔵の建物は残っていたが、ほかは一面の空地。すさまじいものである。宮城資料ネットのホームページによると、土蔵の再建費用を集めつつあるとのこと。
 浄土宗の寺院がたっていたが、本堂は柱だけになっていて、向こう側に空がみえる。空地を海近くまで歩き、今度は北上川にそって、東へ、陸側に歩いていく。北上の河口部をみることができた。平泉には何度も行き、北上川という名前も親しいが、これまで下流部をみたことがなかった。国土をろくに歩いたことがない歴史家というのは、つくづく駄目だという反省。
 石巻は東北を代表する漁港。しかし、再建は大変だろうというのが現地をみて身に迫る。私は歴史の研究を漁業から始めたが、徐々にそこから離れてきた。それは論文を一本書いて、その後が続かなかったためであるが、ようするに海というものを実際に見て、考えるという経験が欠けていたのだろうと思う。東北の「復興」のためには、おそらく、漁業というものを、この列島の経済と社会の中にどう位置づけるか。漁業を中心産業にしなければならないという社会的合意をつくるということが重要なのだと思う。ヨーロッパでは漁業は国の援助も大きく、職業としてはきわめて高級で給料も高いというのは有名な話。日本でも、そうしなければならないはずである。その意味では「復興」ということはこの列島の全体にかかわることである。
 もう一つは、無記名の商品、アノニマスな商品ではなく、その自然との関係、生産と流通のルートをしっている商品が増えるということが商品生産のあり方を変えていくはずであるという問題。実は、北上川の対岸の川口町二丁目は生活クラブでいつも東北の海産物、練り物を送ってもらっていた高橋徳治商店がある。昨年から東北のことを考えるのに、要石にしている記憶が、この高橋徳治商店の練り物とオリモ漁協の生産物であった。商品と市場の向こう側にある現場をしっているということが、どのように商品経済を変えていくのかということが経済学理論でどうなっているかを知らないが、分業の地域性がみえることは、グローバル商品とはまったく違う関係であるはずである。高橋徳治商店の社長は社屋の近くの避難所の住宅の会長として頑張り、同社の雇用を維持するためにも頑張ったときいた。東松山の方に工場を再建中であるというが、地域には偉い人がいるものである。
 河口部から、北上川をさかのぼり、まずMちゃんのご希望の石森章太郎の漫画館に行く。漫画館は潜水艦のような流線型で、高さも高く、目立つ建物である。見物をしていると、そばの一行が、津波の時に、ここに40人が逃げ込み、命が助かった。最初は館長が一人で居残っていたが、避難の人を呼び込んで30人近くになり、さらに河を流れていく人を助け上げて40人になったという話である。こういうことが各地であったのだろうと思う。
 さらにさかのぼって、「住吉」大島神社に行く。社務所の窓にワープロの説明文がはってあり、それによると、貞観年間、863年に勲九等をうけている式内社である。本来は牡鹿湊伊原津にあり、住吉になったのは江戸のことと説明がある。神社の前が「袖の渡し」という場所で、義経が渡し賃として「袖」をやぶってわたしたという伝説があるとのこと。渡場の河の中に大きな石があり、それが「巻石」と呼ばれていたのが、石巻の地名語源になったという話である。
Cimg0725  さて、この場に銅像があり、「石母田正輔像」とあったので、念のために撮影したのが、この写真。帰宅すると、今谷明氏が洋泉社からだした本が届いていて、歴史家・石母田正の評伝が載っている。あるいはということでみてみると、石母田正氏のお父さんの名前が石母田正輔。この銅像は石母田さんのお父さんであった。石母田さんが、石巻の名家の出身であることは知っていたし、何となく顔も似ているので、あるいは関係があるかと思って写真をとったのだが、まさにその通りであった。石母田さんは、第二次大戦前に反戦運動をやって高校を退校処分になった。天皇主義の父は激怒したが、しかし、息子にはいわずに、高校に抗議にいった。「そういう信条に関係することで処分をするとは何事か」と抗議したということ。私たちの世代の歴史家では(私もそうだが)石母田さんの仕事にひかれて歴史学に入った人は多い。奇遇である。
 帰りの石巻駅で、『大津波襲来、石巻地方の記録』など二冊の写真集を買って、新幹線の中で読みながら帰った。昨年から、東北へ一度は行かねばならないと思うまま、仕事の関係で、とても行けなかった。ともかくも一部だけをみてきたが、しかし、本来、もっと面的に歩かなければならない。写真集をみていて感じることが多い。石巻の歩いたところ、そして大島神社が津波の濁流に呑み込まれている写真はすさまじいもの。石母田さんのお父さんの銅像は水没したが、流れなかったということになる。
 いま、月曜日、総武線の中、帰宅途中である。
  いま火曜日。総武線の中。帰宅途中。昨日・今日、写真を処理して、載せる時間がなかった。

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