昼のカレーとボーヴォワールの神話論
今日は、医者。北部診療所で血液検査の結果がでたが、きれいなものですということで、先週からの疑いが消える。その足で自転車。写真は、花見川サイクリングルートの上流部。樹木に囲まれたルートはさすがに気持ちがいい。
昨日、午前中は編纂の引き継ぎ仕事。朝方に起きて校正仕事をしていたので茫々となる。昼御飯のカレーの時に、文学部の西洋史のFさんと偶然一緒になる。ちょうどもっていたボーヴォワールの『第二の性』について話題になる。彼の観測だとサルトル、ボーヴォワールへの関心が戻ってきているのではないかということで、この前もR大学の学生がジャン・ジュネを読んでいるのをみて驚いたとのこと。世代的な感じからすると、これはほっと安息するような状況の動きである。
ボーヴォワールは、おそらく高校か浪人のころに、新潮の生島訳で最初の一・二冊を読んだ。古い歴史学研究会の縁で知っている女性から教えられて入手した『フェミニズムと経済学ーーボーヴォワール的視点からの『資本論』再検討』を読んでいて、『第二の性』を探したが、自分の本と連れ合い分をあわせても一・二冊しかなく、どこかでなくしたことを知って、新訳を買ったが、これが『決定版第二の性』(新潮文庫、第二の性を原文で読み直す会訳)というもので、私たちが読んだ以前の生島訳とは構成が違うことを知って驚く。生島訳では原書と編別順序が違っていて、私が読んだ(のであろう)、最初の一・二冊には「体験」の部分で、肝心の原書第一部の方法論部分はあとの方にまわされていた。そこに書かれたボーヴォワールのエンゲルス批判には記憶があるが、おそらくこの方法論部分は、読んでいたとしてもそこらへんだけであったように思う。
サルトル、ボーヴォワールは、キチンと読んだ訳ではないまま、一種の卒業意識があって、読み返すことがなかった。そのうちに考えてみたいので、三木清の『構想力の論理』を読んでいたら、サルトルがでてきてたいへんに驚いて、ハイデカー問題もあるので、サルトルを読み直さないとということになり、白水社のサルトル全集の何冊かをを探したら、これもでてこない。『存在と無』の文庫本を買ったのが二・三年前か。ようするに宿題なので、真面目に、これまでの自分のふつつかさを反省しつつ、勉強をする積もりである。
昨日は、昼過ぎ、岩波の編集者に『歴史のなかの大地動乱』の再校を返すので、F先生が戻られた後は最後の校正。先生にも読んでいただくことを約束する。そもそもボーヴォワールをもっていたのは、この『歴史のなかの大地動乱』の母権制神話から「祟り神」への変化の部分を考えるのに、ボーヴォワールの神話論が有効だと考え、それをゲラに書き込んだため、あまり突然だという連れ合いの意見によって削除したが、その再点検のためであった。ともかくもボーヴォワールの母権制神話論は興味深い。神話論はエリアーデの本を一冊もっていたので、それを読んですませていたが、かくてはならじである。
以下、一部引用。Mちゃん、入力ありがとう。
しかし、もっと一般的に男の心にあるのは、自分の肉体的条件に対する反抗である。男は自分を失墜した神だと思っている。男の宿命的な不幸は、輝かしい天空から墜落して、母親の腹という混沌とした闇に入れられたことだ。男が自分の姿を認めたがっているあの火、活発で純粋なあの息吹、女はこれを大地の泥に閉じこめる。男は<一者><全体><絶対精神>のように、純粋な<イデア>として必然でありたいと思う。それなのに、限られた身体のなかに、自分が選んだわけではなく呼ばれたわけでもない時間と場所のなかに閉じ込められて、役立たずで、場所塞ぎで、不条理だ。肉体の偶然性は男の存在そのものの偶然性であり、男は見捨てられて、許しがたい無根拠性のなかで、この偶然性にさらされる。偶然性は男を死にも捧げる。子宮(墓のように閉ざされた秘密の子宮)で作られるあのぷるぷるとしたゼラチン質のものは、ぶよぶよして粘り気のある腐肉を連想させるので、男はぞっとして顔をそむけずにはいられない。発芽でも醗酵でも、生命が作られつつあるあるところはどこでも、嫌悪感を引き起こす。生命は崩壊しながらでなければ作られないからだ。粘液状の胎児は、死の腐敗に終わる過程の始まりである。男は無根拠性と死が嫌いだから、自分が生み出されたことが気にいらない(305頁)。
したがって、神話とは男によって利用されるものである、ということで大半の説明がつくと言える。女の神話は贅沢品である。女の神話は、男が生活必需品を緊急に手に入れる必要にせまられずにすむようになるとき、はじめて出現する。関係が具体的に経験される度合いが高いほど、観念化される度合いは低い。古代エジプトの農民、ベドウィンの農民、中世の職人、現代の労働者は、仕事と貧しさにせまられて、妻である特定の女とあまりにもはっきり限定された関係をもたざるをえないため、女を吉なり凶なりのオーラで飾り立てる余裕などない。黒なり白なりの女性像を仕立てあげたのは、夢想する暇ができた時代や階級である。しかし、贅沢にも効用がある。こうした夢想は否応なく利害に左右されているのだ。たしかに、大部分の神話は、男が自分の実存と自分を取り巻いている世界に対して示す自発的な態度に根ざしている。しかし、経験を超越的な<イデア>へと乗り越えること、それは家父長制社会は法律や慣習をイメージ豊かな感覚的な方法で個人に押しつけた。神話のかたちをとることによって、集団的な要請が個々の意識に浸透していったのだ(515頁)。
カレー屋を出る時、今度は法学部の西洋法制史のN先生とばったり。私は、来年、定年ということをお伝えすると、「編纂という高貴な仕事、ご苦労様でした」といわれる。そういうようにいわれたことは、ここしばらくないので、その事情と、日本史学界の状況が話題となる。
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