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2012年8月

2012年8月25日 (土)

春名風花ちゃんと大野更紗さん

Huukatyann120825_132516  娘に教えられて読んだ春名風花ちゃんの本。これは本当に面白かった。小学生がネットワーク世界のなかで有効な活動ができることの証明。このスピード感がなんともいえない。言葉使いも目を見はる。私はやはり家族に教えられて、大野更紗さんの『困っている人』を読み、大野さんのツウィッターをよく読む。そこでも同じような速さと言葉を感じる。
 「一体、これは何だろう」。
 まず風花ちゃん。こういう形での「電脳」的空間が子供たちの世界のなかに生まれるのは必然なのだと思う。一つ突き抜けているようにみえる。
 ここ10年、新しい虚実、清濁のすべてをふくむ電脳空間のなかにたたき込まれた若い人たちは、本当にたいへんだったのだと思う。彼ら、彼女らにとってはどういうことかわからない世界が急速に心身を浸していったという経験でなかったのではないかと思う。我々の世代は、19世紀的な知のなかで、それを継承することで生活を作ってくることができた。我々にはその苦しさがわからなかったのではないかと思う。
 彼ら、彼女らが、あとから追っかけてきた風花ちゃんのような世代をみて、自分たちの世代の苦しさが何のためにあったのかを、感じる、悟るということがあるといいと思う。
 ともかく、こういう能力と生活の仕方が、中学生ぐらいからは一般的なものになるというのが「先進国」の普通の風景になる時代は近いのではないかと思う。
 私は、それだから、それに対応できる知識空間を、ネットワークの深部に保障していくことは知的生産に携わるものの社会的責務なのだと考えてきた。ネットワーク空間の「清浄性」を維持しようという力学はつねに働くし、それはそれ自身としては自然なことではあるが、普通の学者としては、何よりのその深部に新しい知の岩盤を作り出すことこそが第一の役割であろうと考えてきた。ネットワークの中枢に確実な「自由の知」を置くことによって、自律的にネットワークの「晴れ上がり」を実現すること。そういうことを考え、そういうことを期待してきた。
 しかし、彼ら、彼女らにとっては、その前の問題があるのだろう。彼らにとって、精神の活動が頭と手先の肉球との関係のみでなく、全身的なものとなり、安定的なものとなるためには、別のものが必要になるのではないかと思う。その第一の条件は心身の健康であり、私は、彼ら彼女らが、まずはそれに恵まれるように願うが、その先にあるのは、彼ら、彼女らが一種の「演劇的な知」を身につけるということなのかもしれないと思う。
 私は「演劇的な知」という言葉を、最近、友人の渡辺淳氏のホームページで知ったが、ネットワーク世界の仮面性というものは、自己を演者として相対化することを強制するのではないかと、従来から考えてきた。そんなことを、このブログでも書いたと思う。「演劇的な知」によって浸透された人間関係。つまり、他者との関係を、舞台の上での平等な「演者」としての同朋性によって定常化し、自己規律していく社会関係というのは、いわゆる社交関係である。社交が「上流社会」のものであるのみでなく、社会全体の関係に平均的なものとなっていく。つまり「社会」が「社交世界」になっていくためには、社会の豊かさが必要になる。演劇は富を必要とするというのは昔からのことであろう。社会関係の演劇化が社会の豊かさによって保障されそれが社会の豊かさの同朋的な共有の関係の発展に反作用すること。「演劇的な知」が、社会の変化のために前進的な役割を発揮するようになればよいのであろうと思う。
 「演劇」の別サイドには、「瞑想」が必要になる。そして、「瞑想」も富を必要とする。「瞑想」にとって必要な富とは、生活のなかにある「物」の定常性であろうと思う。私はその意味で、19世紀のイギリス社会主義の重要な潮流にW・モリスがいたことの意味がきわめて重要であると考えている。W・モリスの『ユートピア』は私の愛読書、モリスが考えたことは、結局、「物」、工芸品のもっている「瞑想」的な意味であって、これがアールヌーヴォーの世界に連なっていく(よくは知らないのだが、おそらくそうなのだと思う)。生活の芸術化である。私は、「演劇」と「瞑想」の下部に潜在する生身の生活に価値をおくが、しかし、それが、「演劇」と「瞑想」におおわれることも大事だと思う。

 ともかくも「演劇」と「瞑想」、そのすべての前提としての「健康」によって社会が満たされ、それを内包する「富」が、社会を基底から変化させることを期待する、そのような明るさが、交通関係から生産諸関係のスタイルに全面的に入り込んでいくことを期待する。

 しかし、以上に述べたことは、以前から考えていたことの繰り返しであり、ある意味では自明なことである。
 わからないのは、この日本の列島、「先進国」の空間で展開しているネットワーク空間の意味するものではなく、やはり世界と世界史である。歴史家には一言でわかっていただける言葉でいえば、板垣雄三氏がこだわり続けている問題としての「N地域」「イスラム」の問題である。ユーラシア中央部から東南アジアまで展開している、この世界の苦しさがどうなっていくのかがわからない、これこそが世界史の中心的問題になっていることはわかるのだが、その意味、その世界史的な因縁と未来を明瞭に考えることができない。今年の歴史学研究会大会での長沢栄治氏の報告が活字になったらよく考えよう。
 しかし、大野更紗さんの本とページを読むと、そこにこの「世界」がすけてみえる感じがする。彼女のビルマとの関係、そして闘病からの復帰はあわせて本当に感動的だ。日本社会のなかで苦しい経験のなかで展開しているネットワーク世界の向こう側に「アジア」がみえる。
 これは我々の社会にとって、そしてこの社会を担っていく位置にいる若い人たちにとって、本当にどういう経験なのであるか。これは私にはわからない。このユーラシアの端っこの列島の過去にとらわれて仕事をしている歴史家には、「とてもわかることではないのですん」。

2012年8月22日 (水)

73本郷の角でビッグイッシュウを売っているIくん。『歴史のなかの大地動乱』発刊

 本郷の角でビッグ・イッシュウを売っているI君。本郷の角で売っているということでブログに載せていいかと許可をいただいた。本郷三丁目の角を通って東大に通っている方、ビッグ・イッシュウはたいへんに面白い雑誌ですので一度彼から買ってみてください。300円。そのうち160円が販売者の収入になります。
 彼も休みがおわって今週から立っている。夏は街路樹の下に売庭を移している。街路樹が役に立つことを実感。私も、信号が変わるまでは街路樹の下で立ち話である。ともかく熱い。職場までたどり着くと汗びっしょりになる。
 学校までの途中で、M先生に声をかけられる。彼は麦わら帽をかぶっていて格好がよい。東大の教職員ができるだけ沢山ビッグイッシュウをI君から買ってほしいという話をする。
 M先生からは江戸時代の歴史の細かな諸問題に興味をもつ学生が多いという話。どういう傾向なのだろうか。私にはまだよくわからない(文末に、いま考えた試論)。そこで江戸時代というのを「封建制の成立」という理解をいまでもする人がいるが、私見では「日本俗物社会の成立」といいかえた方がよい。細かなことに興味をもつのは、日本的俗物性の淵源探索かという反応をする。そこで例によって時間切れ。
 江戸時代研究者にはいったい何をいっているのだと思われるであろうが、これは私の持論。成沢先生の『政治のことば』(講談社学術文庫)の解説に、この私見を「ひそかに」あらわしてしまった。
 封建制という問題を理論的な理解として議論するでもなく、馬鹿の一つ覚えのように繰り返すか、代替理論を提示する責任意識もない歴史家は問題が多い。
 
 『歴史のなかの大地動乱』が発売になっている。下記は、全体の構成。小見出しも入れてある。
 論文の場合は、もっぱら分析なので、ずるずると書いていく。昨年書いた「下地」論は、200枚近かったから、ずるずるをどんどんつなげていくという感じであった。その意味では論文の執筆の方が無駄は少ない。調べたことは全部書いてしまうし。この「下地」論というのは「下地中分」という言葉を学校で習ったことを記憶されている方もあるかもしれないが、ようするに利用・耕作に準備された土地、そういうものとして占有された土地という意味で、日本前近代の土地所有論にとっては緊要な意味をもった言葉であると考えている。いまでも醤油のことを「お下地」という人がいると思う。これは味の準備、下ごしらえというような意味である。漆塗りの下地という言葉もある。これも同じ意味である。つまり「下地」というのは自然としての大地そのものを表現する言葉ではない。つまり、網野善彦さんのいう「無縁」なものとしての「土地」を表現する言葉ではない。平安時代以降になると「地」という言葉がむしろのその意味になるというのが網野さんの創見。これは長く本当かと疑っていたが、「地」に対する「下地」という言葉を発見してみて、網野さんの勘のよさにあらためて驚愕した。
 今回の新書の基礎にこの問題が座っている。つまり、奈良時代までは、この関係は「な」ー「くに」であったらしい。自然神としての大己貴、オオナムチの語幹は「な」。これはツングース系の言葉で大地という意味。それに対して、「くに」というのは区画された土地という意味。大国主命、オオクニヌシは、これに対応する。オオナムチからオオクニヌシというのは自然神が国家神・文化神化することの語彙的な表現である。
 このような土地範疇が、「地」ー「下地」の土地範疇に変わっていくのが、9世紀・10世紀ごろというのことになる。網野さんは、このような具体論には踏みこんでいないが、大枠の図式をだしてくれている。


はじめにーー地震学と歴史学 
・本書の構成
・東日本太平洋岸津波と九世紀陸奥沖海溝津波(貞観津波)
・関東大震災を予測した今村明恒
・今村の歴史地震研究
・「地震活動の旺盛期」-八・九世紀
Ⅰ大地動乱の開始ーー七・八世紀 
(1)東北アジアの大地動乱・温暖化・パンデミック
(イ)最初の一撃は韓半島
(ロ)気候温暖化と旱魃・飢饉
(ハ)東北アジアのパンデミック
(2)最古の地震・噴火記録
(イ)『隋書』の記す阿蘇火山
(ロ)筑紫地震(六七九年)
(ハ)南海地震(六八四年)
(ニ)伊豆神津島の大噴火(六八四年)
(3)八世紀初期の地震と長屋王の悲劇
(イ)丹後地震と遠江・三河地震
(ロ)藤原不比等は天智天皇の子か
(ハ)「長屋王の時代」の地震
(ニ)地震の責任は王にある
(ホ)長屋王、怨霊となる
(4)大仏建立の理由―河内・大和地震  17
(イ)河内大和地震(七三四年)
(ロ)高市皇子の陵墓の鳴動
(ハ)聖武の決意「責め予一人にあり」
(ニ)経典にみる地震と大仏建立
(ホ)美濃地震(七四五)と紫香楽京撤退
(5)八世紀後半の火山噴火と神火
(イ)大隅海中の火山噴火ーオオナムチの神
(ロ)称徳天皇と火山・怨霊・神火
(ハ)日本と新羅の運命の分かれ道
Ⅱ大地動乱の深化と桓武の遺産ーー九世紀前半
(1)桓武天皇の残したもの
(イ)早良親王の死と霧島岳御鉢の噴火(七八八年)
(ロ)平安京遷都と長岡京地震
(ハ)桓武の蝦夷戦争の実態
(ニ)不思議な遠地津波
(ホ)有史初の富士大噴火(八〇〇・八〇二年)
(2)平城・嵯峨天皇と北関東地震の衝撃
(イ)桓武の「徳政」は本当か?
(ロ)高志内親王と兄弟の天皇たち
(ハ)嵯峨天皇と北関東地震(八一八年)
(3)淳和天皇と京都群発地震
(イ)淳和天皇と高志内親王山陵の「不穏」
(ロ)京都群発地震(八二七年)と恒貞の誕生
(ハ)出羽秋田地震(八三〇年)と蝦夷
(ニ)陵墓の「物恠」と淳和の退位
(4)仁明天皇とモノノケ・地震・噴火
(イ)仁明天皇の即位と皇太子問題
(ロ)北方の火山噴火(八三七・八三九年)
(ハ)鳥海山・大物忌神の祟り
(ニ)伊豆神津島の大噴火(八三八年)と火山の女神
(ホ)神津島噴火の「神院」
(5)地震の再開と神話の復活
(イ)阿蘇神霊池の涸渇と北伊豆地震(八四一年)
(ロ)恒貞廃太子事件(八四二年)と怨霊
(ハ)仁明天皇四十算賀と神話の復活
(6)地震に追われた王―文徳天皇
(イ)出羽庄内地震(八五〇年)
(ロ)東大寺大仏の仏頭落下(八五五年)
(ハ)文徳陵を襲う地震神
Ⅲ陸奥沖海溝津波(貞観津波)と清和天皇
(1)飢饉・疫病と応天門放火事件
(イ)清和宮廷と神話の復活
(ロ)「神仏習合」と祟り神・疫神
(ハ)貞観の飢饉と神泉苑御霊会の挙行
(ニ)富士の噴火(八六四年)と神宮
(ホ)阿蘇神霊池の噴火と応天門炎上事件
(2)陸奥海溝地震の前兆
(イ)清和天皇と妻・高子
(ロ)別府鶴見岳・阿蘇の噴火(八六七年)
(ハ)天文は変を告げ、地理は妖を呈す
(ニ)播磨地震と京都群発地震(八六八年)
(3)陸奥海溝津波の襲来
(イ)陽成の誕生と伴善男の怨霊
(ロ)陸奥海溝津波(貞観津波)の襲来
(ハ)陸奥海溝津波(貞観津波)の被害と震源
(ニ)清和天皇―「責め深く予にあり」
(4)祇園会の開創の由来
(イ)祇園会の開始と伴善男の怨霊
(ロ)山崎断層と広峯の牛頭天王
(ハ)「国家の大禍」と神国の祈り
(5)陸奥海溝地震の余波
(イ)「自余の国々」の地震、大和国
(ロ)肥後地震の誘発
(ハ)北辺の神、鳥海山の噴火(八七一年)
(6)大地に呪われた清和天皇
(イ)大極殿の炎上と神火
(ロ)出羽蝦夷の大反乱
(ハ)南関東地震(八七八年)
(ニ)出雲・京都群発地震(八八〇年)と清和の死
(ホ)南海・東海連動地震(八八七年)と光孝天皇の急死
Ⅳ神話の神々から祟り神へー地霊の深層
神話と国土観
(1)日本神話における雷電・地震・噴火
(イ)雷電・地震・噴火の三位一体
(ロ)雷神―タカミムスヒと小童
(ハ)地震神とスサノヲ・オオナムチ
(ニ)噴火の女神ーイザナミとオオゲツヒメ
(ホ)根の堅すの国
(2)祟り神・疫神・死霊
(イ)災害の三位一体と疫気
(ロ)地震神・スサノヲから疫神・牛頭天王へ
(ハ)火山と古墳の死の女神ーイザナミ
(ニ)「温気」「疫気」「粉土の鬼気」
(3)龍神と怨霊信仰―歴史の前進
(イ)自然神の変容――河音能平学説
(ロ)龍神の形象化
(ハ)灌漑の神としての龍神
(ニ)疫神を食う龍神
(ホ)火山の龍体の女神
(へ)龍と怨霊に守られた村
(ト)再出発ー河音の仕事から
終章、君が代の時代と東北アジア
(1)君が代の時代と陸奥の復旧
(イ)大地動乱の五〇年
(ロ)君が代の歌声
(ニ)東北の復旧と蝦夷の人々
(2)東北アジアにおける「地震活動の旺盛期」の終わり
(イ)陸奥沖海溝地震から韓国慶州の地震へ
(ロ)一五世紀奥州津波と韓半島の地震
(ハ)東北アジアにおける地震旺盛期の終り

 以上を作ってみると、三階層の見出しで、処理をするというのが基本であることがよくわかる。最初はもう一階層とってあったが、編集の永沼氏にみてもらった時、すぐに一階層多いといわれたのが編集者とのやりとりでは一番印象的であった。第三階層目を固めていって、むしろ上からの構成を組み直す作業と、その両方をやりながら徐々に文章ができてくる。歴史の叙述というものはそういうものだと思う。
 基本は三階層目。つまり事実レヴェルの叙述を積み木細工のように組み上げてゆく。最近の学生の中で、歴史学を面白がる人がいるというのは、あるいは積み木細工がすきであるということで、子供っぽいのかもしれない。私は歴史学を趣味にするとか、トリヴィアリズムなどというと、気持ちの片方でかちんとくる「戦後歴史学」旧世代であるが、これは「子供っぽい」ということなので、旧世代的に反発するべきことではないのかもしれない。「子供っぽい」というのは、自分をふくめてのことである。念のため。

2012年8月20日 (月)

ビッグ・イッシュウにダライラマのインタビュー

Darairama120820_155902  ビッグイッシュウの197号。ダライラマのインタビューである。国際ストリートペーパー(INSP)のインタビューに応じたものの転載という。連れ合いが千葉でかってくる。わが家はだいたい同じ号が二冊あるが、本郷のI君はいまお休み。
 この写真は表紙。記事の中には各国のストリートペーパーを両手にもったダライラマの写真があって感じがいい。私のような、保守的、ナショナリスティクな「個人=社会主義者」にとっては、ダライラマのような人物が望むような社会体制こそが、あるべき社会体制であると思う。それはこと新しくいうべきことでもないが、それを超えてダライラマの活動をみていると、どうしてもユーラシアというものを考えさせる。
 いわれていることはすべて正論である。驚いたのは最近のツイートでラマが「宗教を排して、精神的・論理的なことについて考えるべき時がきた。ますます私はそう確信する」と発言しているとのこと。この発言の真意を尋ねるインタビュアーに対して、ラマは「人々は、仏や神に祈りを捧げながら、現実の生活では何のためらいもなく、正しくないことを行い、嘘をつき、汚職や弱い者いじめ、不正を行ったりしています」といい、「『私は仏教徒だ』などと自分を意識した時、それらの言葉によって距離が生まれてしまいます。そこで私は自分自身にこのようにいいます。『そんなことは忘れてしまえ。私は人間で、70億人のうちの一人にすぎないのだ』と」といっている。不幸・幸福などということはあるが、「『70億人のうちの一人にすぎないのだ』というのももう一つの現実です」ということである。
 私も自分の立場や経験を頭におくことによって人との距離を造ることがあるが、たしかに「そんなことは忘れてしまえ」である。「古くから伝えられている精神的な教えや、自然の法則は、個人にとって計り知れないほどの大きな恩恵です」という意味での「精神的・論理的なこと」を大事にすることを優先させなければならない。
 ダライラマがそのほかにいっていること。まず中国とチベットの現状については、「過去数十年、中国のような一党独裁政権は本当に多くの残酷な行為を行い、国民の生活を恐怖と不信で支配しました。中国政府はつねに真実を隠してきました。ですが、私は、13億人すべての中国人が真実を知る権利をもっていると思います。(中略)検閲は間違った行為なのです。けれども検閲は毎日行われています。中国の温家宝首相は、中国にとって政治的改革と、西洋諸国のような民主主義が必要であることをたびたび述べています。しかし、政治的改革にも民主主義的考え方にも、自由と、検閲のない情報と透明性がふくまれているはずです。いつかはものごとが変わることを願っています」と述べている。「社会主義」経済でもっとも大事な鍵は、企業の「営業上の秘密」の廃止であるというのがレーニンがいったことだが、その前に政府の情報公開がなくしては、社会主義の「社」の字もない。全体主義もいいところである。もちろん、日本の政府の中央官庁も「秘密」だらけであることは、今日の東京新聞のトップ記事。人のことは笑えない。
 近年の世界的な不景気、政府の行う「緊縮政策」をどうみるかについては「現在の困難な状況を生みだしたのは、過去の政府や一部の企業だったりします」と、これも正論である。
 私は「大企業性悪説」はとらない。大企業の内部も分解すれば職能専門組織である。東電をみていたって、ともかくも専門家集団である。その専門家集団が、狭い利益と経過からはなれて、横に連携し、各地域のコミュニティと連携するという形で、社会化し、大企業は大企業の「外皮」をはずしていかなければならない。それでも大企業的な組織形態は簡単には消滅せず、最終的には職能団体の非政府的調整者としての機能に純化していくのだろうと考えている。大企業のような形でのゼネラリスト的な企業形態は現代経済の中では必要なものだと思う。大企業が大企業としての社会的責任を果たして行動していれば、実際上、大きな問題はないと思う(現在の株主資本主義の問題は大きいとしても)。
 とはいっても、現状、大企業の誤りと貪欲の影響は社会的に巨大になる。それは誰でもわかっていることである。昨日の夜、NHKのETV8で、福島の原発下請け企業と、その労働者の状態についてのドキュメンタリーをやっていた。不況にひきつづく原発震災の中で、ある小さな建設業が原発の下請け仕事をやるという判断をして、地域の若い人をふくめて仕事を確保している。放射線の被曝量がオーバーした後は、何の保障もない。この苦労をどうするのだろう。社長は我々も被災者なのだがといっていた。川内村の豊かな自然も映しだされた。こういう画面をみていると怒るよりもしんとしてしまう。これについては私は怒る権利はないと思う。それにしても本当にひどい話だ。たまったものではない。

2012年8月18日 (土)

大企業の内部留保金を復興債に

 東日本太平洋岸地震・津波の復興のための大企業の莫大な内部留保を引き当てに国債発行という議論が昨年は各方面であったはずである。この提案はどうなっているのであろう。経済学者は本気になってそれを主張すべきではないのだろうか。一体、東大の経済学部は何をやっているのかというのが、最近の怒りである。
 この提案は無視されて「消費税を増税し、それによって社会福祉の予算を確保する、日本の国家財政は赤字である」という動きになるのは本当にあきれてしまう。ようするに人の不幸を目にして、自分の「もっている」ものはつかわず、人の不幸を種にして他人からもっと巻き上げようということである。もし個人がこういう行動をしたら、彼は社会のつまはじきになるだろう。
 『文藝春秋』(2012年5月号)の富岡幸雄「税金を払っていない大企業リスト」の論文は問題の所在を示している。富岡氏は元国税庁、中央大学名誉教授であるというが、富岡論文は日本の財政の欠陥は特定の大企業や高所得資産家に対する優遇税制にあるとする。そして、この論文の結論に記されている提案の第一は「大企業の内部留保金を復興債に」というものである。これは正論であると思う。
 いまでも経団連が主張し、マスコミがそれをそのまま振りまいているのは、日本の企業に対する法人税は高いという論調である。しかし、これは社会保険料の企業負担率の問題を入れれば話が違ってくるというのは昔からいわれていた。ところが、事態はもっと進んでいて、富岡氏はさらに労働者賃金の配分額を入れれば、企業が「税・保険料・賃金」というレヴェルで企業の社会的負担率を比較するとデンマーク・スウェーデン・イギリス・フランス・ドイツ・アメリカと続き、日本はこれら主要先進国の比率を5ポイント前後も下回る最低レヴェルであるとしている。
 その上、日本の大企業(資本金100億円以上)は法定税率30パーセントの半分の負担率であり、法定税率を支払っているのは中小企業だけである。これは事実の問題であって、日本の大企業が「法定税率が高い」と称するのは、チーティングをした上でさらに節税しようという主張である。節税をしようというのは企業としてある意味で自然なことであるが、1990年代から比べると労賃を切り下げている。国税庁の「民間給与実態統計調査」によれば、1997年と2007年の民間給与総額を比較すると、労働者数が136万人増加しているにもかかわらず、給与総額は220兆円から200兆円に減り混んでいる。これが労働市場において労働基本法を無視した非正規雇用を本格化したためであることはいうまでもない。こういう状態で法人税率が高いと称するのは、私などには「嘘は大きな方がよい」という居直りがあるようにみえる。嘘を嘘と自覚して操作できるのは、自分たちは別の人類である、身分が上だと思っている証拠である。経済界のメンバーが戦争体験者を中心にしていた時は、いろいろあったとしても、これだけひどいことはなかった。最近の経団連のメンバーの発言を聞いていると、みじめ
なものである。彼らのいうのは、「このままでは不安である。このままでは負けてしまう」という不安感である。「保護してくれなければ外国に資本をうつすほかない。何でそれが分かってくれないんだ」という訳であるが、そこには、最初から、「自分たちは自分たちをまもる権利がある。国民はその義務を理解しないのはおかしい」という論調がある。そこに自分たちは国民とは別の特権身分集団だという底意があらわれているのがみじめである。それはただ露骨に人をおどかしていることであるという自覚がない。
 こういうことが実際にあるのだというのも歴史の勉強である。個人の間では許されないような嘘が国家レヴェルになると不問に付されるというのが政治経済の疎外の客観構造である。嘘は社会を腐敗させる。「嘘をついてはいけない。我々が働くのは社会のためである」という個人が大多数になることによって社会から嘘を無くしていく。その際にまず潰すべきなのは「大うそ」である。それによって社会を普通の個人関係における倫理レヴェルで組み直すこと。この徹底的な「個人=社会」主義が必要なのだと思う。嘘のない社会にするという単純な理想は国家関係を個人と個人の倫理に同じ論理が通るものとするということである。個人は平等である。最初から得な人と損な人がいる社会は身分社会であって、個人中心の社会ではない。これこそが究極の個人主義であり、それを信条として維持したいと思う。
 とくに問題だと思うのは、大企業の内部留保の問題である。現在の大企業の内部留保は1986年の120兆円から2007年には350兆円と3倍増になっているという。この350兆円というのは、日本の国家予算が200兆円余であるから、それを優に超過する巨大な金額である。そして、この計算は企業の財務資料から推計可能な額にすぎないから、海外子会社やタックスヘイブンを使った取引その他その他を入れれば更に巨額にふくれあがる。この内部留保のもとは、決して企業がもうかったからではないのは、この間の経済情勢をみていれば明らかなことで、それは(1)労賃の切り下げ、(2)下請けに対する単価切り下げ、(3)金融投機による儲けである。たとえば(1)については右の国税庁の「民間給与実態統計調査」に明らかである。
 これはタコが自分の足を食っているのと同じことである。富岡は「日本の企業は付加価値の配分がおかしくなっている。従業員への賃金は上げず、国にもあまり税金を払わず、ひたすら株主への配当と内部留保の増大に狂奔している」「この巨額の内部留保金を、復興資金や設備投資、雇用・仕事造りへ活用し、日本経済の活性化に活かされることを望む」としているが、事実をベースに考えれば誰でも納得できる話であると思う。
 ここら辺が常識のはずなのであるが、歴史学者は、どの時代の研究を専門としていても、こういう常識の線にそっては進まないような政治の構造を文化と歴史の側から説明する仕事を義務としてもっている。その義務を認識していないでもすむ天才的歴史家がいることを知ってはいるが、私のような「小人」歴史家は、この義務によって尻をたたかれないと「閑居」を決め込むことになる。
 歴史の現段階のあり方からみて、こういう構造が容易にはかわらないものだと思う。それはこのような動向が金融資本主義の情報化の中で、グローバルな富裕層が形成され、彼らが「株主」への還元を企業努力の第一にせよという集団的・国際的な圧力をかけているからである。これは日本だけで起きているのではないから、そう簡単にはかわならない。いわゆる「株主資本主義」であるが、こういう世界的な致富のシステムというのは世界史的にも始めてのことであろう。世界的な富裕層がネットワークで結びついて、私利を追究しているというのは怖ろしい。ネットワーク帝国である。「まさかそんな」という話であるから、その本質がはっきりするまでは、なかなかかわらないものだと思う。
 歴史家として興味深いのは、何といってもアメリカー日本関係である。もっとも「新しい」国家と、現存、もっとも「古い」起源をもつおそらく世界誌上最後の「王制」を残した国が太平洋を間において連携している訳である。それにしても、この日本国家のアメリカへの国家的従属が「株主資本主義」による経済的一体化、経済的な従属を基礎にもっているということが、これだけ明瞭になるとは思ってもいなかった。我々の若い時にはアメリカへの従属などというと、それはナショナリズムだと嘲笑されたものだが、アメリカー日本関係が、日本の経済に「誰がみても」破壊的な影響をおよぼしているのである。「日本で健全なナショナリズムを維持することが世界に対して何を意味するか」ということを、もう一度考えなければならないと思う。
 もう一つは今月の『経済』の大木一訓「内部留保の膨張と21世紀日本資本主義」論文によれば、このような巨額の内部留保は日本資本主義に特殊なものであるということである。大木によれば、こういう種類の内部留保は欧米企業では考えられないという。つまり欧米企業の会計報告では冒頭に企業利益の報告があった後、第二項目にRetained Earningsの報告がある。株主配当を支払った後、企業内に残された収益で、前年度のRetained Earningsの使途とともに報告される。日本の大企業のように内部留保を会計表のあちこちにため込んで使途不明のままにするというのはありえない。
 大木は、このような日本資本主義の「特徴」を明治以来の利権的・強権的な権力ー資本構造に求めているが、それはその通りだと思う。ただ、これは「伝統」「歴史」がどのように最新式のシステムに組み込まれるかという論理を明瞭にして論ずることが必要である。そうでないと、結局、日本資本主義の「集団的性格」、「無責任構造」というような超歴史的な図式に流れてしまう。

 もちろん、集団主義が問題のキーであることは事実である。そこには「不安だから貯蓄をしておかないと」という集団的な不安の論理がある。組織をまもる、集団をまもるという論理である。それをみている国民の側も、ややもすると、自分たちの家庭や組織をまもるという気持ちの枠内で、そういう不安を理解し、「同情」してしまう。これは私的な家計と公的な経営を同一視してしまう、異なるレヴェルのものを同じ論理で考えてしまうという錯覚である。日常性の構造のなかで、巨大な組織と利害の動きを考えてしまう錯覚。我々は「兆円」どころか「億円」という数字も実感をもって考えられないから、ついつい日常の論理でものごとを考えてしまう。問題は、この錯覚を利用するステレオタイプな論調が強い影響を持ち続けていることである。そこにふみこめるレトリクで考えることが必要なのだと思う。

 日本の大企業中枢がやっていることはそんなに「同情」するべきことではない。巨大な経済の動きを日常的な個人と個人、自分の家庭を考える同調論理で考えることは本質的にできない。彼らの利害と普通の国民の利害は違うのだ。それは数字に明かであって、それは時間の経過とともに否が応でも明瞭になってしまうだろう。それを明瞭にするのが出発点である。経済界の身分的特権意識をこれだけみせられると、私はそう思う。

 前近代専門の歴史家としては、これは、結局、身分というものをどう考えるかという問題に関わってくるとと思う。身分意識に対する徹底的批判を日本の歴史をつらぬく問題として系統的に、根っこから明らかにしていくこと。
 身分というのは、結局、Aという人物をBという人間が特定の身体的な特徴、扮装や屋敷・居所、所持品、財産などの外在的な見かけによって、Aを意識し、それにしたがって呼称をあたえることによって発生する。そのためにはまずAが、そういう呼称を自分でも信じ込むことが必要であるが、それがBの隣人・仲間たちによって承認されることが必要になる。これはAとB近縁集団の関係になるが、これがAの近縁集団にも広がって、AダッシューBダッシュの集団間関係が形成される。集団関係というのは、本質的にこういう身分関係として現象するのである(と思う)。問題は、この身分のもつ言葉と文化が複雑で「深淵」にみえるところにまで発展することだ。だから身分論というのはつねに、その複雑な全体を明瞭な部分にまで解析し、身分の虚偽性を明らかにし、「王様は裸だ」といって上位者の権威を嘲笑することから出発する。
 私は、これまで身分論を、ある種類の応用問題と考えてきた。身分論の代表は黒田俊雄氏の議論で、それはさすがに重々しい問題の捉え方をもっているが、十分には理論的でない。それ以外の身分論は、どれも小細工か、方法的に曖昧でいい加減であると考えてきた。安良城盛昭氏の身分論に対する反発も大きかったかと思う。しかし、「社会構成論と東アジア」(『歴史学をみつめなおす』)で論じた所有関係の集団的性格と私的性格の弁証法の問題をとくためには、やはり身分がキーになるのかもしれないと考え始めた。身分制の諸特徴によって区別され、無限の色合いと相違をもった世界史上の諸社会構成。
 最後は、やや意味不明な文章、申し訳ないが、ともかくも、日本社会に蔓延する特権的な身分意識に辟易するものとして、身分問題を考え直してみたいと思う。前近代史の研究者としては、それを通じて現代をみることが可能だと思う。

2012年8月16日 (木)

鉢かづきの民話から長谷寺の夢へ

 昨年、京都橘大学の田端泰子先生の退職記念の講演会での講演。田端先生の講演のうまさに舌をまく。ちゃんと話の行く先を意識し、そこに話をつけていく。

 そういうことが私はできない。

■京都橘大学女性歴史文化研究所第二〇回シンポジウム「日本中世における女性の生活と表象」
Tale of Hachikaduki and  Nyobo's Dream in Hasedera-temple 
『女性歴史文化研究所紀要』20号、2012年3月

「鉢かづきの民話から長谷寺の夢へ」 保立道久(東京大学史料編纂所教授)
 きょうは「鉢かづき」の話をさせていただきます。「鉢かづき」の話は、皆さんもご存じでしょうが、念のためご紹介しますと、それは次のような物語でした。
 河内国の交野に住む長者夫婦には子どもがなかったのですが、奈良の長谷観音に祈願して娘が生まれます。ところが、娘が十三になった時、風邪をこじらせて母親が死んでしまう。その時、母は、「ああ情けない。可哀想に。せめて十七・八まで大事に育てて、良い縁に結ばれるのをみてから死にたかった」といいながら、傍らに置いてある手箱を姫の頭に載せて、その上から肩まで隠れてしまうような大きな「鉢」をかぶせる。この鉢が姫の頭にくっついてしまい、それも口実になりまして、姫は後添いの継母に「かたわもの」「人間じゃあない」と苛められ、家を追い出される。そして、着物を剥ぎ取られて、賤しい帷子(いまでいえば短い夏の浴衣)ひとつを着せられて、道に捨てられてしまう。さまよったあげく、河に身投げした姫は、鉢のなかに空気が入って水に浮いたため、流れていき、漁師に助けられた…というふうに、室町時代の『御伽草子』には出てまいります。
 姫は、命が助かった後、結局、「山蔭中将」という貴族の家の「湯殿の火」を焚く下女として雇われることになります。ところが、湯殿の世話をするなかで、その家の息子と恋に落ち、二人で家出しようとした時、頭の鉢が落ちて、割れてしまう。中からは美しい着物や金銀財宝があらわれ、それで着飾った鉢かづきは、天女のように美しく輝き、遂に幸せな結婚にいたった、という話です。
 最近の大学生はこの話をほとんど知りませんが、おそらく皆さんがた、少しお年ですので、ご存じであろうと、安心して話をさせていただきます(笑)。
 さて、この「鉢かづき」の物語は、姫の誕生から、母親が死に、父の後添いの継母に捨てられて、最後は幸せな結婚に至るという、とても素朴な童話に見えます。それ以上のものがあるようには見えないかもしれません。しかし、実はこの物語は相当に大きな謎を含んでいます。今日はその謎をご一緒に考えていきたいと思うのですが、本来、物語というものは普通の話として始まって、そのふくむ謎というものは、最初はよく見えないもので、だんだん謎が謎になっていくというものだと思います。その順序で御話しをした方がよいとも思うのですが、ただ、そういう順序で話していると、講演ではなかなかわかりにくいと思います。そこで、今日は、謎が明らかになる最後の結論の部分から、逆にさかのぼっていくというかたちでお話しすることにします。
 さて、この物語の結論は、先ほど申しましたように、山蔭中将の末息子と結ばれて、二人で家出しようとした時、まさにその時に、鉢かづきの鉢が割れて、中から十二単の小袖や金銀財宝が出てくるというものです。その後、二人は結婚することになりますが、結婚式の時に鉢かづきの美しさは「天女のようだ」といわれます。この物語では「まったく天女がこの地上にあらわれたかのように美しい」というふうに出ていますが、普通、これはあくまでも比喩として読みます。『御伽草子』の原文でも、「ひとへに天人の影向もかくやと思ひ知られけり」(天人があらわれるのも、こういう感じかもしれない)と、比喩のように語られていると思います。
 しかし、『御伽草子』で「姫君は河内の交野の人にてましますか。さればこそただ人とは思わぬものを」(姫君は河内の交野の人なのですか。ああ、だから、なんとなくただの人間とは思えなかった)という言葉を付け加えていることが問題です。姫君が交野の出身ということが明らかになると、やはりただ者ではなかったという反応がでてくるわけです。
 これはどういうことか。実は、この言葉の意味するものは、「交野」という地名から解くことができます。交野は、現在の枚方の辺りですが、平安時代の始め、九世紀、桓武天皇などの天皇たちが天を祀った場所として知られています。桓武直系の天皇たちは、ここにしばしば行幸し、狩りもしました。つまり、交野という土地は、九世紀を通じて、天皇家にとって最も天に近い場所であったということになります。実は、桓武は、この土地で大きな火を焚いて天に即位を報告していますが、それにならった天皇もいます。
 また『伊勢物語』という、やはり九世紀の話の中に、「交野を狩りて天の川のほとりに至る」として、在原業平の和歌「狩り暮し棚機つめに宿からむ天の川原にわれはきにけり」が出ています。「棚機つめ」は「天女」のことです。交野の地域には、現在でも「天之川」という川が流れていまして、室町時代までは和歌の地名・歌枕としてよく知られていました。『竹取物語』の例を挙げるまでもなく、平安時代の初めには、天女がそこここでもてはやされましたが、交野は、その天女が降りてくる場所であると語り伝えられていたわけです。
 したがって、鉢かづきについて山蔭中将が、「姫君は河内の交野の人なのですか。だから、ただの人とは思えなかった」と言ったというのは、物語の趣旨としては、鉢かづきが天女の血をひいているということを本気で言っていることになります。山蔭中将が「あなたは天女だったのか」と言って、驚いたということです。
 さて、謎は謎を呼ぶと言うことですが、鉢かづきが天女であるということは、実は、鉢かづきがその家に住み込んだことになっている貴族の山蔭中将にも関わる話でした。つまり、山蔭中将というのは決して架空の人物ではありません。平安時代の初めの九世紀に生きていた藤原山蔭という人のことです。そして、彼は、この「鉢かづき」の物語ができた室町時代においても有名な人物だったのです。山蔭の血統は、宮廷の中で非常に重要な家柄でして、後醍醐天皇の書いた『建武年中行事』という、宮廷儀式を記録した本によりますと、山蔭の子孫は六月・十二月の天皇家の月例祭(月次祭)の夜に湯殿(お風呂)の祭祀に奉仕する家柄だったとされています。
 原典には、「山蔭の中納言の子孫なる蔵人、御湯の事をつかうまつるなり。その人なければ、外せきにも末なる又えたり」(もし山蔭の子孫がいなければ、山蔭の子孫を母方に持つ蔵人にお風呂の世話をさせなさい)というふうに出ています。
 しかも、どういう仕事をするかというと、お風呂に入る時に「あまの羽衣」(御ゆかたびら)を天皇に着せたり脱がせたりする役割をしていたということです。そもそも天皇の身辺を清め、身の周りの掃除をし、湯殿の世話を行い、さらにはトイレの世話をするのは、男の蔵人がやることになっていまして、山蔭中将という貴族は、九世紀の清和天皇の蔵人頭(蔵人の長官)を務めたという履歴を持っていますから、山蔭中将自身、天皇の身辺の掃除やお風呂・トイレの世話をしたはずです。
 重要なのは、山蔭の血をひく貴族たちが、天皇が湯殿に入る時に御ゆかたびら(あまの羽衣)を差し出す世話をした、ということです。つまり、山蔭の家は、室町時代の人たちにとっては「天皇にあまの羽衣を着せたり脱がせたりする家」だということになっていた。そうすると、山蔭の家に嫁に入った鉢かづきが天女であったという伝説は、この「あまの羽衣」に関係して語られ続けてきたのではないか、ということになるわけです。鉢かづきが天女であるということはすぐにそこに結びつく訳です。
 この山蔭の息子としては中正の家系が語られます。注目すべきは、中正の子どもに時姫という人がいて、この時姫が藤原兼家の妻となり、有名な藤原道長や道長の姉の詮子を産んだことです。『源氏物語』などが好きな方ならばよく御承知の通り、詮子は、一条天皇を産んで、国母(天皇の母)となりました。ようするに、平安時代の宮廷において山蔭の系図は、いわば天皇のお祖母さんの家柄だったわけです。これを物語の解釈にもどしますと、『御伽草子』の設定では山蔭の息子、つまり中正と鉢かづきが結婚したということになります。ですから、あくまでも物語の設定ではということですが、鉢かづきは一条天皇の曾祖母ということになります。
 いままで、「鉢かづき」の物語は、このようなかたちで語られたことはありませんでした。しかし、物語はこういうふうになっていったのです。山蔭流藤原氏は、いわば国母の母(グレートマザー)の家柄になりまして、鉢かづきが天女であるというのは、「このグレートマザーの家は天女の血をひいている。つまり、天皇は天女の血をひいている」という伝説だったということになります。
 平安時代の物語のひとつとして『山蔭中納言物語』という物語があったことが知られています。これは伝わっておりませんが、山蔭という名前には、「あまの羽衣」を差し出すというイメージがくっついていたということになると、私はこれが「鉢かづき」の物語の原形だったのではないかと思っています。平安時代には、「鉢かづき」の物語は、最初は、天皇家に関わる言説として語られていたのではないか、と考えるわけです。
 さて、そう考えますと重要なのは、鉢かづきが長谷観音の申し子(お母さんが長谷観音に「子どもが欲しい。娘が欲しい」と祈って生まれた子ども)だということです。そして実際に、山蔭中納言の家というのは、長谷観音と非常に本来深い関係のあった家柄なんですね。つまり、山蔭は奈良の長谷観音に深い関係を持っていまして、長谷寺の霊験記には、山蔭の父親が九州へ船で行く途中、山蔭が船から落っこちてしまった、驚いた父親が長谷観音に祈ったところ、山蔭は海の中から亀の背中に乗って出てきたというエピソードが語られています。そのため山蔭は長谷寺に奉仕を重ね、お寺を建てたり、仏像を寄進したりしたといわれています。
 そもそも『山蔭中納言物語』というのは、このように長谷寺に奉仕し、そのおかげで山蔭の家が繁栄し、しかも長谷寺から天女を自分の家の嫁さんとして授かった、という話だったのではないかと思います。
 もうひとつの可能性は、京大のそばの吉田神社には山蔭が日本の料理の神様ということで祀ってあります。あそこは、長谷寺の霊験記によりますと、本来、山蔭のお屋敷だった場所ですから、吉田神社は本来、山蔭流藤原氏の氏神神社だったということになります。ところが、山蔭流藤原氏は、先ほど申しましたように、一条天皇のお祖母さんの家柄ということですので、一条天皇が即位した後、公祭の対象となり、平安時代以降、「二十二社」に列せられていきます。吉田神社の南には一条天皇の母・詮子の離宮があったといわれていますが、それはこういう因縁であったということになるでしょう。
 そうしますと、「鉢かづき」の物語は意外に京都に縁が深いということがおわかりいただけると思います。おそらく鉢かづきは、吉田神社の辺りにあった山蔭の邸宅に住み込んだというイメージなのです。
 
 徐々に物語をさかのぼっていきますが、鉢かづきは、諸国を放浪して京都にやって来ました。どういうわけで山蔭のところに住み込んだかと申しますと、湯殿の火焚きとして住み込んだわけです。湯殿の火焚きとしてお風呂の世話をして、そこで主人の息子と結ばれたということでして、「(山蔭の末っ子の息子が兄たちに遅れて)さよ更けてはるかになりて、ひとり湯殿へ入らせ給ふ。かの鉢かづき“御湯うつしさふらふ”と申す声やさしく聞こえける。「御行水」とてさしいだす手足の美しさ尋常げに見えければ--“やあ鉢かづき、人もなきに、何かは苦しかるべき、御湯殿してまいらせよ”」ということで、鉢かづきは湯殿の垢すりとして、人の背中を流したと語っています。
 これが縁になって結婚することになったわけですが、先ほど申しましたように、山蔭の家は天皇家の湯殿の世話をする家柄ですから、その家の湯殿に奉仕をするということは、王家の湯殿に直結する。つまり、山蔭の湯殿に入ったら煙が立ち込めていて、その煙を向こうに越えたら天皇家のお風呂がある。そういう感じです。そいう形で天女が、山蔭の家を通じて、やって来た。そして、その子孫から天皇の息子が生まれた、ということになっているわけです。
 
 ただ、最初に鉢かづきが住み込んだ時の身分は非常に低いものでした。山蔭の家にはたくさんの人が勤めていたと思いますが、その最下層の人、最も下の身分の人だったのです。したがって、息子と近づいた後、鉢かづきの最大の危機は、「湯殿の奉行」(管理人の男)が近寄ってきた時でした。「もの言ふ聲色、笑ひ口、手足のはづれの美しさは、これに疾くから住ませ給ふ御女房衆も究てこれには劣りなり」(鉢かづきは御女房衆よりも誰よりもきれいだ)ということで、管理人の男が近寄ってきたのですが、「近づきてかの人と契らばやと思へども、顔を見れば濛々として、口より下は見ゆれども、鼻より上は見えもせず、傍輩衆にも笑われ、なかなかはづかしやと思ひも寄らぬぞことはりなり」(近づいて鉢かづきと契ろうと思ったけれども、顔を見れば濛々として、口より下は見えるけれども、鼻から上は見えない。こういう女性と近づいてしまっては仲間に笑われてしまう。あまりにも身分が低すぎたので、管理人の男は鉢かづきに何もしなかった)ということが語られています。
 ここには、山蔭の家に仕えている従者たちの身分がはっきり出ています。まず山蔭がトップにいて、その息子たちがいて、その下には女房たちがいます。女房にならぶのは、当然、侍です。侍と女房が家の中心にいて、その下に「湯殿の奉行」のような雇い人がいるのですが、この雇い人には男も女もいました。しかし、鉢かづきはそれよりさらに下の身分です。そういう女性たちは下人(下男・下女)で、仕事に即していいますと、女性については「水仕」(水汲み女)と呼ばれました。鉢かづきは、まさに水仕で、同時に湯殿の世話をするということだったと思います。
 
 こういう水仕の姿を中世の絵巻物のなかで最もよく示すのが、『男衾三郎絵詞』という鎌倉時代の末頃に書かれた絵巻物です。図1にその一部を示しましたが、ここに描かれている女性について、「この女性は本来、この家の娘である。ところが、そこに継母が入ってきて、身分をどんどん抑える」というように詞書きでは解説されています。お姫様ですから、最初は足まで届く長い髪があったのですが、それを背中の中途で切り捨てられ、それによって「端物」(=半物)の身分に落とされます。女房と同じ長い髪だったのが、背中の中途まで切られると端物になりまして、「湯殿の奉行」と同じような雇い人になるのですが、図1の女性の髪はさらに肩上まで切られています。昔の人にとって、中国はモダーンな国だったのですが、中国みたいな新しい髪をしている人を「唐髪」(モダンガール)といったりしましたが、肩上まで切られると「子の日」といいました。「子の日」というのは、子の日の松のことです。つまり、松の葉っぱのようなかたちの髪の毛になってしまった。ここまで下げられますと、まさに最下層まで突き落とされた「水仕」という姿になるわけです。
 この『男衾三郎絵詞』には、「元結際」で髪を切られ、しかも人間の水を汲むのではなく、「遠侍の厩の水」を汲む「水仕」になっていった、というふうに出てまいります。
 着ている服は、麻衣で、馬の鞍の下に置く、非常に目の粗い、ムシロのような着物です。これひとつ着たきり雀にさせられる、というかたちで突き落とされたわけです。
 中世の女性たちには身分があります。平安時代の物語を読んでいますと、みんな女房やお姫様だったと思いがちですが、当然ながら、みんなお姫様や女房だったわけではありません。女房は、袴を着て、長髪で、プリーツスカートを流したような裳というものを後ろ腰につけますが、庶民になりますと、裳ではなく、エプロンを後ろにまわしたような褶というかたちになります。そこまでは普通の庶民ですが、さらに下女になりますと褶ではなく、着たきりの姿になり、髪は断髪になっていきます。
 ですから、『枕草子』には「似げなきもの」は「下衆の紅の袴」というのが出てきます。「下衆女が袴を着るのは似つかないから、やめたほうがいい」という意味です。清少納言はなかなか口の悪い人でして、「短くてありぬべきもの」は「下衆女の髪」とも書いています。また、『源氏物語』には「汚げなる褶引き結ひつけたる腰つき」(庶民の女性たちは、裳ではなく汚い褶を腰につけていて、なんとなく汚らわしい)というのが出てまいります。
 やはり昔ですから、身分制の社会であることを明瞭に指摘しておく必要があります。そもそもこういうことを知ったうえで読まなければ、「鉢かづき」の物語が本当に意味するところはわかりません。鉢かづきは、ただの下女ではなく、朝夕、行水のお世話をし、差し出された足を洗ってあげる作業をし、ただの「水仕」ではなく、垢すりをしたり、そのために蔑視をされたりする、最下層の女性として住み込んだのです。
 
 しかも、鉢かづきは、鉢が取れないのですから、顔が見えません。ですから、「不思議なもの」というように見られていました。山蔭中将の家に住む時に、「あなたはどんな能力がありますか」と聞かれて、鉢かづきが「和歌を詠む」と答えると、「それなら何の能力もない。おまえは何の能力もないのだから、湯殿の水汲みだ」ということになるのですが、山蔭中将は「人のもとには不思議なる者のあるもよきものにて候」(社会は広いのだから大きな家には不思議なものがあっても当然のことだ)と言って、雇ってあげた、というふうに出てまいります。
 ただ、そういうかたちで迎え入れられた鉢かづきですから、「明けぬれば見る人笑ひなぶり、にくがる人多けれども、情をかくる人はなし」ということで、笑い物になって生活していたことになります。こういう描写は『ものぐさ太郎』『一寸法師』『小男の草紙』でも同じでして、『小男の草紙』では「これに置き申し、京中の笑い草にせばや」(京都中の笑い物にして楽しもう)と言っています。こういう人は現実にいたのでして、たとえば一休禅師の年譜には土岐氏という大名の家に、「猿」というあだ名の道化がいたとでてきます。満座の人が、この猿をなぐさみものにするので、一休が逆に人々をやりこめたという、いかにも一休らしいい話なのですが、ともかくもこれが現実だった訳です。
 しかし、息子は、その鉢かづきのなかに美しさと教養を見てとりました。お風呂で垢すりをさせながらという訳ですが、話に救いがあるのは、それまで彼女は顔を誰にも見られたことがないところまで相手にされていなかった。性的な意味でも相手にされていなかったということでしょうか。いわば絶対的な秘面といってもよい訳です。
 こういう秘面ということで思い出していただきたいのは、平安時代の貴族の家の女房たちも秘面の風習をもっていたことです。ところが宮中にでると顔をみせなければならない。つまり彼女らは絶対的な秘面の権利をもっていなかった訳です。清少納言は、「宮中に女房として仕えるのは、人に顔を見られるから嫌だ」と言っています。したがって、顔を見られていない、いわば処女性というような意味では、鉢かづきは絶対的な強さを持ち、それを維持して、山蔭の家で仕えていた、という話であるわけです。
 
 さて、さらに物語をさかのぼりますと、山蔭の家にたどり着く前は、鉢かづきは放浪の乞食でした。京都では現在でも、禅僧の方々が鉄鉢を持って寄進を募ることがありますが、あれは昔は乞食の人なら誰もがやったことでありまして、かつては乞食のことを「はちひらき」とか「鉢婆」などと言っておりました。鉢は乞食が持つものでしたから、鉢かづきは、まさに乞食の姿をしていたわけです。しかも、その鉢は体にくっついていて、「体ごと鉢」という姿でした。『御伽草子』の「花世の姫」という物語では、山姥について、「額に皺を畳み上げ、頭は鉢を敷きたるが如し」(髪が汚れて板のように垂れ下がり、あたかも鉢のようにみえる)というふうに出てまいります。その意味では、鉢かづきは、まさに乞食そのものの姿であっただろうと思います。
 図5『法然上人絵伝』巻一四に描かれた女性たちは、頭に笠を被り、笠の中に被衣という上っ張りを着ています。この上っ張りを頬の辺りまで持ちあげますと、もう顔は見えません。さらにその上から笠を被っていますから、いよいよ顔は見えないわけで、こういう笠を「市女笠」といいます。つまり、市場に女が出て行く時はこれを被れ、というのが市女笠であって、普通の女性が外に出る時はそういう姿をしていたのですが、鉢かづきは、その代わりに鉢を被っていました。
 図5の女性三人のうち、一番右の女性は顔が出ています。これはお付きの女性の姿で、この女性は長髪を着物で隠すようにして主人の後を歩いています。これがお付きの女性の普通の歩き方でした。鉢かづきの場合、このレベルよりさらに身分は低いのですが、鉢を被っているので、主人同様、顔は見えない。その意味では、絶対的な秘面を維持していることになります。
 
 このようにして、鉢かづきは、顔を誰にも見せないまま世の中を動き回り、最後には幸せになったということですが、この話の一番最初に遡りますと、先ほど申しましたように、鉢かづきが十三の頃、母親が死んでしまいました。父親は、最初はやさしくしていましたが、継母を迎えて、心も変わり、継母と一緒になって鉢かづきを追い出してしまいます。
 こういう継子いじめの物語は、平安時代、鎌倉時代、室町時代を通じて、大変多いようです。これについては私もまだ意味がよくわかりません。なぜ当時の人たちは継子いじめの物語をこれほど多くつくったのか、私にはよくわからないのですが、ただ、逆にそういう思い込みがあるからこそ、娘を残したまま死んでしまう母親は相当厳しい心境にならざるを得ない、ということは言えるだろうと思います。ですから、母親は死ぬ時、「肩の隠るる程の鉢」を鉢かづきに被せました。これは要するに、鉢かづきの顔を誰にも見せないという決意表明なのです。
 この時、鉢かづきは十三歳ですから、普通は裳をつけて、成女式(女性になったという、めでたい式)を行い、成女式を過ぎますと、しかるべき身分の女性は顔を隠すようになります。しかし、鉢かづきの母親は、この成女式を鉢を使っておこなった、ということです。「おまえ、かわいそうに」と言って、姫君を近づけて、緑のかんざしを撫であげ、鉢の中に巻き込んで、鉢を被せたというように語られています。
 つまり、十三歳というのは、一般的に初潮の時期でありまして、そのまま十七・八まで男を近づけないようにする。娘の不幸を予測し、娘の性を防衛し、結婚を拒否させるという母親の意思がここに現われているわけです。
 
 さて、母親はみずからの死の時に、そういうかたちで鉢かづきの幸せな結婚を用意したわけですが、ここで何よりも問題なのは、鉢かづきが鉢を被る前に手箱を頭に載せられて、その上から鉢を被せられたという点です。
 手箱というのは、女性の財産です。それを十三歳になった娘にあげた。つまり、母親・主婦としての地位を娘に渡してしまった。この「手箱をあげた」ということが非常に重要だろうと思います。手箱をあげて鉢を被せた時、母親は「さしも草 深くぞ頼む観世音 誓いのままにいただかせぬる」(長谷の観音にお誓いしたとおりに鉢を娘に被せます)と詠んで、「つゐに空しくなり給ふ」ということで、死んでしまいます。
 
 長谷寺にいらした方は多いと思いますが、実は長谷寺は平安時代に子授けの寺として一番有名な観音信仰の寺でした。特に有名なのは平安時代の末の鳥羽天皇の頃、美福門院が長谷観音にこもって、胎内の女子を男子に変えるように頼み、そうして生まれてきた男の子が近衛天皇だったという話で、『長谷寺霊験記』に出てまいります。
 ですから、長谷観音というのは、子授けの観音であり、とくに男の子を授けてくれる観音なのですが、子どもだけでなく、いろいろなものを授けてくれます。一番有名なのはわらしべ長者がわらを授けてもらう話で、二番目に有名なのは手箱です。『長谷寺霊験記』によりますと、「女性が長谷の観音におまいりをして夢を見ると、手箱をいただいた夢を見る」という話が二つ出てまいります。ですから、長谷観音というのは、まさに「誓いのままにいただかせぬる」というかたちで手箱を授けてくれる観音寺ということになっているわけでして、この点からも、「鉢かづき」の物語は、要するに長谷寺霊験記、つまり長谷寺という神様がいかに偉いかということを物語る話であったと言えるように思います。
 
 話は少し変わりますが、私は、「鉢かづき」の物語をいまの若い人たちがほとんど知らないというのは非常にまずいことだと思います。いまの世界や日本の児童文学は非常に豊かなものだと思いますが、このままでは、日本の伝統社会の中で育まれてきた気持ちやシステム、厳しい身分制の存在などをみんな忘れてしまうのではないかと考えています。それはけっして狭い意味でのナショナリズムでいうのではなく、たとえば、そういう子供は、アラブのチャドルの風習などをみると、自分にはまったく関わりのないことだと思うと思うのです。あれは野蛮な風習だというようにみてしまうと思います。自分たちの国も同じであったということを知らないというのは、他の国の歴史的な風習に対する無知に結びつきます。
 その意味でも、『御伽草子』や民話の位置をよく考えなければいけないと思ってきたのですが、これを明瞭に伝えるためには、どういう仕組みの話なのかということをはっきり認識しておく必要があって、今まで御話ししたようなことを『物語の中世』(東京大学出版会)に「秘面の女と鉢かづきのテーマ」という題で論文として載せた後も、私はこのことをずっと考えてきました。
 
 そして、最後に申し上げたいのは、最近、鉢かづきの謎解きについて本にでもまとめてみようかと思い出したところで、もう一つの重大な謎に気がついたということです。その謎とは、単純に申しますと、なぜ長谷観音なのか、そもそも長谷観音とは何ものなのか、ということです。長谷観音は子授けの観音であったということですが、なぜそうなのか、なぜ、長谷寺が妃の出産祈祷が行われるような寺院なのかということです。
 ここからは鉢かつぎとはレヴェルの異なる、もう一つの謎の世界に踏み入ることになります。「鉢かづき」の物語の中に秘められた秘密、その中に入れ子のように潜んでいた謎、あるいは「鉢かづき」の物語を含んで存在している、もっと大きな謎の中に入っていくということになります。なにしろ最近、考え出したことで、謎が二つになることもあって、以下、少し話が入り組み、分かりにくくなると思いますが、ともかく、時間の関係もありますので、どんどん進むことにします。
 この問題を考える入り口は、やや意外かもしれませんが、平安時代の女房の書いた日記文学のひとつとして著名な『更級日記』の中の長谷詣の話です。まずは、系図を見ますと、『更級日記』を書いた菅原孝標の女は、長谷寺と深い関係があった山蔭の家柄と近い位置にいます。つまり、菅原孝標の女は、藤原兼家のもうひとりの奥さん(『蜻蛉日記』を書いた藤原道綱の母)の妹の子どもであり、摂関家の中枢部分にいた女性のひとりということです。
 そして、私は、知る限り誰もいってないことだと思いますが、この菅原孝標の女が書いた『更級日記』の話題の中心は結局、長谷詣の話なのではないかと思うのです。しかも、最初にまた謎の中心をいってしまいますが、それはアマテラスをめぐる物語でもあったと思うのです。話がわかりにくいと思いますので、ご勘弁願いたいのですが、『更級日記』は、実は、「最初はアマテラスという神をよく知らなかったような少女が、徐々にそれを知っていった。けれども、アマテラスから受けたお告げや託宣の意味を十分に知覚できないまま失敗してしまった」という、女性の悲哀の物語であるというのが私の意見なのです。
 これは「なのです」といってもすぐには了解できないことと思いますが、まず菅原孝標の女は、十四歳の頃、「天照御神を念じませ」という夢を見たといいます。けれども、この時は「人にも語らず、なにとも思はでやみぬる」(人にも語らず、何のことだかわからなかった)と、『更級日記』には書かれています。
 そして、二十六歳の時、母親に言われて、僧侶を初瀬(長谷寺)に代参させます。僧侶は菅原孝標の女のために祈ったわけですが、そのお坊さんの夢に女神が現われて、託宣をする。そして、お坊さんは、京都に帰ってきて、菅原孝標の女に、「鏡に映る二様の人生(「後悔の人生」「幸せの人生」)が見えました」と報告したといいます。これは童話にでもなりそうな話だと思いますが、この時に登場した女神については、「いみじうけだかう清げにおはする女のうるはしくさうぞきためへる」(麗しい着物を着た女性がお坊さんの夢に現われた)と書かれています。
 そして、ちょうど同じ時期に、この女性は「天照御神をお祈りしなさい」と言われた。そうすると、「いづこにおはします。神か仏か」と聞き返した、というふうに『更級日記』には出てまいります。すると、「神におはします。伊勢におはします。さては内侍所に守宮神となむおはします」と教えてくれた。「だけど、伊勢の国までは遠すぎてとても行けない。内侍(宮中)にも、どうやって御参りしていいか、わからない。空の光を祈ったらいいのか」などと菅原孝標の女は言ったといいます。戦前の国家主義教育をご存じの方だと信じられないことかもしれませんが、『更級日記』を書いた菅原孝標の女は、アマテラスのことをよく知らなかった。平安時代の女性たちは、どうやらアマテラスのことをよく知らなかったようなのです。御興味のある方は、溝口睦子さんが岩波新書で『アマテラスの誕生』というたいへんに興味深い本を書かれていますので、御参照下さい。溝口さんは、このアマテラスという女神は、本当は皇祖神などというものではなかったということを、(これ自身は歴史家にはよく知られたことですが)、新たな観点から、分かりやすく語られています。溝口さんは『更級日記』にはふれられていないのですが、実は、今日の話は、溝口さんの本を読んで組み立て始めたものなのです。
 話がずれましたが、もとに戻りますと、『更級日記』には、「この時に天照御神のことをもっとよく考えてみるべきだった」というふうに述懐されていまう。
 しかし、十分に僧侶のお告げのことを考えないまま、それから六、七年経って、彼女は三十二歳になった時に、その頃の天皇のひとりである後朱雀天皇の娘の祐子内親王の許に女房として出仕することになります。彼女は、それでいわば箔をつけたということなのでしょう、翌年、すぐ結婚をして、家に下がります。しかし、その結婚はそれほど華やかなものではなかったようで、沈鬱な雰囲気に襲われた彼女は、「長年月を無為に過ごすだけで、なぜ長谷寺に詣でなかったのだろう。もっと早く長谷寺に行ったほうがよかったのではないか。お坊さんを遣わせたけれども自分で行ったほうがよかったのではないか」と自省し、気持ちが暗くなっていたという訳です。ちょうどそのころ、家に下がったとはいっても、彼女は、ご主人の祐子内親王について内裏へ行く機会がありました。そこで彼女は、アマテラスを祀った内侍所に仕えている博士命婦(巫女)のトップに会って、初めてアマテラスのことを詳しく知るのです。
 それでも結婚生活は続き、中年になり、三十九歳になって、「いよいよ長谷寺に行かなければいけない」という決意を固めて、彼女は初詣に行きます。長谷に到着する前夜、やはり女神が現われて、「あなたは何しに来たのか。博士命婦とよく相談しなさい」というお告げがあった。少し敷衍しすぎるかもしれませんが、要するに、初めて長谷寺に参詣した彼女は、女神から、「おまえは宮中にいて、天照御神を祀る内侍所の博士命婦に相談して、女房生活を送りなさい。そのほうが絶対にいいことがあるから」と言われたということのように思います。
 この時、彼女は、長谷寺でおこもりをしますが、そこで夢を見ます。その夢の中で、やはり同じ女神が出てきて、「すは、稲荷より賜はるしるしの杉よ」と、杉を投げ与えられます。後になって彼女は、「こういうお告げを受けた以上、長谷から帰る時にすぐ伏見稲荷に寄ればよかった」とまたまた後悔していますが、結局、彼女はこうした長谷のお告げに従わず、宮中に出仕することもせず、結婚生活を続けて、五十一歳になって夫は死んでしまうということになります。
 自分の人生について『更級日記』には、お坊さんの夢に現われた「幸せの人生」と「不幸せな人生」という二つの鏡のうち、結局、「不幸せな人生」になってしまった、というふうに書かれています。その時に夢占いをする人から、「うまくやれば、高貴な人の乳母となって、内裏に登り、帝や后に保護されて幸せになれたかもしれない」と言われた、というふうに出てまいります。要するに、アマテラスと長谷寺への信仰を貫かなかったことへの反省が『更級日記』のテーマであるということです。

 さて、さらに話が旋回してしまい、もう整理して話す余裕もありませんが、あるいはご存じでしょうか、長谷寺の観音様のそばには雨宝童子という像があります。実は平安時代には、「長谷の観音はアマテラスと同体である。アマテラスの成り代わりが長谷の観音である。その証拠には、長谷の観音のそばに立っている雨宝童子は、アマテラスの心臓である」と考えられてきたわけで、いまでも長谷寺には雨宝童子がいますが、その上にはアマテラスと書かれています。
 十世紀頃の三重県にあるお寺の雨宝童子を見ますと、女性か男性かよくわからない、いわゆる両性具有の神秘的な感じのする像が多く、それは当時の人たちがアマテラスをどう考えていたかということをよく示すものになっています。このアマテラスに対する信仰、雨宝童子に対する信仰は、確実に長谷寺を中心にしています。内裏(宮中)であるよりも、まずは長谷寺にアマテラスがいたというわけです。つまり、『更級日記』で長谷寺参詣の夢に登場した女神は、アマテラス、あるいはその使者であった。『更級日記』を書いた菅原孝標の女は、そのようなアマテラスや長谷観音のお告げに沿って生きてこなかったことを後悔し、自分の悲運を嘆いた、ということなのだろうと思います。
 
 以上、お聞き苦しかったと思います。ただ、「鉢かづき」の物語は、最終的には長谷寺の物語として読んでいくべき物語であること、そして、その背景には、平安時代のことですが、長谷の観音が女性にとっての神として非常に重視されていたということがあった。そして、長谷の観音はアマテラスと同体であって、宮廷生活で立身をしていくためには長谷観音を信仰することが必要であると考えていた、ということがわかってくるわけです。これはまったく意外な話かもしれません。しかし私はここに、平安時代の女房世界の内部に存在した秘密を見ることができると思うのであります。平安時代の女房たちの希望--。はっきり言えば、それは、宮廷の中で立身をし、華やかな生き方をしていこうという気持ちであり、そういう気持ちを長谷寺とアマテラスは集めていったということになると思います。
 さきほども申し上げたように、一一世紀の平安時代半ばぐらいまでは、アマテラスはそれほど有名な神ではありませんでした。もちろん、『古事記』や『日本書紀』には、アマテラスは王家の祖先の神々として描かれていますが、社会的にはそれほど信仰の集中していた神ではありませんでした。むしろなんといいますか、神話とはいえないような演劇や物語で見栄えのする女神だったということもできると思います。女神というものを好むのは洋の東西をとわず、よくあることですから。そういうものとして八世紀の初めにはやったのだけれども、その後はなかば忘れられていた。少なくとも親しい神ではなかった。そうしたアマテラスへの信仰が拡大していく過程には、平安時代の女房たちの考え方や希望、野望、その人生があったのではないか、彼女らの盛んな長谷詣はそれを示しているのではないか、と私は考えているわけであります。その結果として作り出されていった宮中の巫女さんたちの世界がみえるようにも思っています。
 少しややっこしい、女房の立身の希望と蹉跌などという、なんとなく暗い話になってしまいました。ただ、もう一言つけくわえておきますと、以上は、溝口さんの『アマテラスの誕生』を読んだことをふくめて、実は、昨年、『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書)という本を書いた延長で考えていることです。その中で考えたのは、『源氏物語』に出てくる浮舟という女性がかぐや姫に自分をなずらえているのですが、彼女は「長谷の観音の賜へる人なり」といわれています。かぐや姫、浮舟、鉢かづきをつなぐ世界が長谷寺の問題からみえるのではないか。彼女らはみんな天女なのではないか。鉢かづきは長谷観音の申し子であり、天女であるということの裏側には、長谷寺を通じてアマテラス=天女のイメージがついてきているということにもなると思います。こういう天女のイメージ全体の中で、アマテラスをふくめてすべてを位置づけなおしてしまいたい。そうすると、話がなんとなく暗い宮廷ゴシップのような話にならずにすむかもしれないなどと思います。
 ともかく、やはり歴史は、現代から過去へ、室町時代から平安時代へ、平安時代から奈良時代へと遡るわけでありまして、こういうことを考えながら、少しずつでもこの国の歴史というものを紋切り型でなく考えていきたいという積もりでおります。
 以上で終わります。

なお、この講演のモトになっているのは、『物語の中世』にのせた論文である。図を見たい方は、そちらをどうぞ。ただ、長谷寺論は、そこではやっておらず、この講演ではじめてまとめた。これは相当ふかい問題と考えている。

2012年8月14日 (火)

マツリゴトは「祭事」ではないというのは常識だが、成沢光『政治のことば』

120814_082252  成沢光さんの『政治のことばー意味の歴史をめぐって』の解説を書いた(講談社学術文庫)。
 日本史の前近代の研究について法史の側から重要な貢献をしている研究者としては石井紫郎氏、政治史研究の側からは成沢さんだと思う。上記は成沢さんの名著、最近の若い研究者では読んだことがないという人もいて驚いた。とくに「古代」「近世」の人たちには読んでほしいものだと思う。あとがきには石母田正・藤田省三の両氏への感謝の言葉が載っている。
 先日、本になって成沢さんに連絡をとった。私などは、この本を前提に考えてきたことが多いので、感謝をしていただいて光栄であった。

 「マツリゴト=政事」とは「祭事」のことで、祭政一致の日本の「国体」をあらわすというのは、古く北畠親房が『神皇正統記』で述べたところであるが、今でも政治家などは、そう思っている人が多いようである。しかし、竹下登という総理大臣は、「政治」は「ツカサ々々」を束ねて粛々と「ご奉仕」する仕事であると称した。興味深いのは、本居宣長が、奉仕を「マツル」と訓読みすることに注目して「政とは奉仕事である」としていることで、あるいは竹下の口癖はそれをふまえていたのかもしれない。それはすでにわかることではないが、ただ、彼の奉仕の対象が天皇であったことだけは確実であろう。
 さて、政治学の丸山真男も、この宣長説にのっかって「政事の構造」を論じたことがある。丸山は、これを日本では古くから正統性と決定の次元は分離されていたという図式で説明する。そして、政治家は決定を「マツリゴト=奉仕事」という意識でやるから、最後までは責任を取ろうとせず、また天皇は正統性のレヴェルを保証する象徴にすぎないから、そこも無責任ということになっているという訳である。いうまでもなく、これが日本の政治の特徴、いわゆる「無責任の体系」の原型であるというのが丸山の「政事」論の主張である。
 日本人はこういう「語源」の説明が好きで、「ああそうか」と感心してしまう場合が多い。しかしこの種の言葉、本書のいう「政治のことば」の説明に簡単に納得してしまうのは一般にやや危ういことである。私たちは言葉を使っているつもりであるが、実際には、言葉は私たちの外にあって、私たちの心をしばっているのではないか。右にふれた丸山のエッセイも、着眼点はさすがであり、耳に入りやすいものではあるが、私のような歴史学徒からみると実証手続きが十分でなく、本当のところは、どうも落ち着かないところが残るのである。
 それと比べるとに対して、本書で展開された成沢光の「政事」論は歴史学者も了解することができる綿密な仕事である。くわしくはⅠ「古代政治の語彙」の考証を読んでいただくことになるが、次頁の図は、本書の描き出す政治意識の構造の全体を考える中で、私が描いたものである(図、省略、保立『かぐや姫と王権神話』参照)。これを簡単に説明すると、まず「イキホヒ」という言葉は、成沢によれば、「徳」と書く人徳や福徳の力が中核にあるが、さらに「威」と書くことの多い神威や武威もふくむ場合や、「権」と書く政治的な思量の力を意味する場合があって、それらが一種の呪霊的な力によって統一されているという。成沢は、これを『古事記』『日本書紀』などにそくして明解に説明している。
 このうちでもっともオリジナルなのは、最後の「権」という字についての指摘であろう。つまり成沢によれば、この字は「イキホヒ」と読むと同時に「ハカリゴト」とも読む。「ハカリゴト」とは思量・知謀の力であるが、政治は「ハカリゴト」の力であるというのである。そして、そういうことになると、問題の「マツリゴト」は、この「ハカリゴト」の下に位置することになるので、その証拠に「マツリゴトヒト」とは四等官のうちの三等官(「判官」)、役人でいえば下の方に属する。「マツリゴト」とは必ずしも高級な仕事ではなく、私なりにいいかえれば、釣り糸の「オマツリ」を処理するような煩瑣な手続きといえようか。そもそも「マツリゴト」の「マツル」とは「マツワル」と同系の言葉で、主人にマツワリツクように奉仕するのである。
 こういう風にみてくると、政事=祭事が祭政一致の日本の国体だなどというのはただの俗論であり、思いつきにすぎないことは明らかであろう。それは本居宣長以前、レヴェル以下のものであるということであるが、成沢が明らかにしたことは、明らかに、本居宣長(そしてそれに依拠する丸山)を越えている。つまり、「政事の構造」とは、王にとっては、マツリゴトは面倒な雑務という性格をもつのであって、そういうことは他人にやらせて、自分ではやらない。その代わりに、王のそばには、知謀をもってマツリゴトの処理をする「謀」担当者がいて、「政」担当の集団はそのさらに下にいるということになる。王は「無責任」というよりも、この重層的な仕組みによって責任を曖昧にしていくのである。成沢の指摘は、丸山のような説明図式ではなくて、具体的な仕組みに踏みこんだものであるということができるだろう。そして成沢によれば、その「共謀」を代表する地位こそが「摂政」であって、この役職は「政フサネオサム」と訓読みするのだというように敷衍されていく。それを漢字でかけば「総理」となるが、「フサネル」とは束ねる、つまり雑事を束ねて処理するという意味である。そもそも摂政任命の詔勅には「万機を摂政す」などとあるが、「万機」の「機」はマツリゴトと訓読みする。つまり「政を摂る」とは、諸々の「政=機」を総覧してハカリゴトをするという意味なのである。
 以上が、Ⅰ「古代政事の語彙」の紹介であるが、成沢の議論が見事なのは、これが歴史を貫通してⅣ「近代政治の語彙」と密接に関係していく点である。それを味わっていただくためには、読者は、まず以上を頭に入れていただいて、Ⅳの1「『権利』『権力』について」からお読みいただくのがよいかもしれない。そこには、明治初期に作られた「権利」という言葉の「権」が江戸時代においても、「イキホヒ」という意味を保持していたこと、それ故に「権利」とは「イキホヒの利」、恣意的な利益主張というニュアンスをもち、だからこそ、それに対して「義しい務」という言葉が対置されたという目をみはるような説明がある。私はこういうニュアンスはいまだに私たちの社会生活を呪縛していると思う。これはたとえば中学生が日本国憲法の勉強をする際にはかならず伝えるべき、最重要な政治思想史、法思想史の中心問題であると思う。
 そして、Ⅳの2「統治」は、上記のような「政事の構造」から、どのようにして啓蒙的な絶対君主制が生まれてきたかを、「統治」という新語が明治憲法に入るまでの経過にそくして解明している。「万機公論に決すべし」という五ヶ条誓文の一節は誰でも知っているだろうが、それは万機を「フサネオサム」役職、つまり「摂政」をおかずに、政府上層部の「公論」をもって政事を処理するという意味であった。そして、国家上層部内部の「公論」が各省(「司」)大臣制とそれを総括する「総理」という形で組織されるとともに、天皇の絶対的地位について「統治」という言葉が案出されたという。私は、冒頭にふれた「総理大臣」竹下の口癖は、こういう経過を無意識に継承したものではないかと思う。
 このように「古代」と「近代」を一貫して語るというのは、方法と全体像を重視する成沢のような立場ではじめて可能となるものであって、現在のところ、歴史学者にはむずかしい力業である。しかも私などにとっての驚きは、執筆の時期が「近代」の方が早いことである。著者の頭の中では、まず「近代政治の語彙」についての意見が半ばはできていて、それにあわせて「古代政治の語彙」について追究したという経過らしい。そして、このような現在と過去を歴史貫通的にとらえるという方法意識は、Ⅲ「近世都市意識の言語」も同じである。
 そのテーマは、ガラっと変わって江戸期に形成された時間意識、それに対応する労働観、身体観、都市空間論などであり、江戸期社会が都市による(人間自身の身体もふくめた)自然の集団的な平準化が進んだ社会であることを系統的に描き出している。これに対して、歴史学界では、今でも江戸時代を「封建社会」という風習があるが、私は日本社会は「封建制」社会であったことはないと考えている。それは封建制の概念論にかかわる問題であるが、なによりも、「封建制」ということによって、江戸時代と現代社会の共通性が曖昧になっているのが大きな問題である。むしろ本書がいうように、江戸期社会は現代日本の世俗秩序の起源に位置しているというべきものだと思う。とくに重要なのは、江戸期における社会集団の均質化が「文明化」と近代資本主義の展開を直接に支えたとする著者の観点であろう。従来の「封建社会から資本主義」というシェーマでは、多かれ少なかれ資本主義化の条件として「私的・近代的」な社会経済関係が探索される。しかし、そもそも資本主義は現実の社会関係としては、世界史上もっとも集団的な生産様式なのであるから、私にも、その移行は、江戸期都市社会における分節的な集団的構造が直接に編成替えされる過程が中心であったように思えるのである。
 問題は、このような都市的構造と「政事の構造」の関係であるが、著者はそれを歴史論の二冊目、『現代日本の社会秩序ー歴史的起源をもとめて』(岩波書店、一九九七)で追究している。これは本書の解説の範囲を越えているが、そこでは「なぜ学校の先生は”一糸乱れず静粛に整然と”生徒を集団行動させたがるのか」などという問いから発して、現代日本の世俗秩序の起源が語られている。そこに著者の現在から過去にさかのぼる方法の到達点が示されているが、これに対して、著者の歴史研究の初心を物語るのが第二章「国家意識と世界像をめぐって」である。ここには「蕃国と小国」「<辺土小国>の日本」の二本の論文がふくまれている。前者は『日本書紀』などで朝鮮諸国が「宝国」「金銀の蕃国」といわれていること、後者では日本を「辺土粟散の国」に過ぎないとする意識が末法思想や本地垂跡説の裏側にあったという意外な事実が印象深く描き出されている。
 この二つの論文は、私たちの世代の歴史研究者が東アジア世界論に接近していく上で大きな影響をもったものだが、前者はいわゆる仏教公伝記事、後者は道元と親鸞が切り口となっている。つまり、どちらも仏教の世界像が問題の中心なのである。著者が右の『現代日本の社会秩序』でも道元を取り上げていることをみると、どうも著者は、日本の前近代の思想においては、仏教がもつ位置を重く評価しているらしい。そして、これが同じ政治思想史にとり組みながら、丸山と著者の論調が大きく異なる原因になっているように、私は思う。丸山が重視する儒教にくらべて、東アジアの仏教はきわめて錯綜した問題で、そう簡単な図式化を許さないところがあるのである。
 とはいえ、残念ながら、古代から現代におよぶ著者の政治思想史の構想の中で、仏教がどういう位置にあるのかは、右の『現代日本の社会秩序』を読んでも、もう一つ不明であるというのが率直なところである。しかし、それは著者が扱ってきた問題領域があまりに広く、かつ著者の宗教観にもかかわって、やむをえないように感じる。これは、著者の体系が、ともかくも歴史学界によってもう少し理解され議論された後に辿りなおされなければならない問題なのだと思う。
 それにしても、本書の初版が発刊されてから、もう三〇年近くにもなる。学問というものは進まないものだと思う。もちろん、各分野ではいろいろなことが分かるようになったのではあるが、本書の扱っているような根本的な問題、歴史の各時代を通じた問題、あるいはいわゆる学際的な問題というのは容易に突破することができない。私は本書の中身のほとんどを、雑誌論文の形で読み、それはずっと頭の中にあって根を張り続けていたのだが、三・四年前、『竹取物語』の求婚者たちのイキホヒが著者のいう基準でかき分けられているのに気づいた時は本当に驚いた。そして実は、この解説は、その図が著者の目にとまったために私が書くことになったものである。
 先日、そのことではじめてお目にかかった時は、長い間の相談相手に初めてあったとでもいうべきか、非常に奇妙な感じがした。最近、著者は生命医療の問題に研究対象を三転され、すでに歴史研究の足は洗ったとおっしゃっているが、このご縁で実際に御話しをうかがうことができるようになり、この本がでたら飲もうということにもなっていて、人間をつなぐ時間というものの不思議さを感じている。
                  (東京大学史料編纂所教授)

2012年8月11日 (土)

『北から生まれた中世』、朝日新聞をやめた

 一昨日から入間田宣夫さんからいただいた論文集『北から生まれた中世日本』を通読している(高志書院、安斎正人・入間田宣夫編)。いま土曜、朝、6時過ぎに家を出て、自転車で花見川ルートの上まで行き、もどってきて、ファミリーレストランで朝食をしながら読み終えた。論文全部で一二本。ほとんど考古学の論文。これは見事な本である。日本列島の歴史研究にまったく新しい視野が「北から」開けつつあることがわかる。
 奈良・平安・鎌倉時代史の研究にとって、今後必須の本であると思う。入間田さんの年来の主張が、第一に考古学による北方史研究との間で響きあい、また第二に南方史との間で方法論的な一致を確保しつつあることを示している。できれば読書ノートを載せようと思うが、考古学の側からの論文に教えられることが多いのは当然としても、文献の側の小口雅史、小川弘和、簑島栄紀の諸氏の論文も見事である。
 昨年の三・一一東日本太平洋岸大震災は、災害史研究の焦点に北方史が浮上するという結果を否応もなくもたらしたが、それに対する準備が、三,一一前から北方史の研究においてはすでになかば整っていたことも、この本は示している。

 今月から朝日新聞をやめた。少なくともしばらくの間は、ということで商業新聞を東京新聞に変更した。親も朝日新聞であったから、朝日を約40年もとっていたということになるが、家族とも話して変更することにした。原発、消費税、TPPその他、読んでいると不愉快なのである。反省というものがないのかと感じる。こらえしょうがないということでもあろうが、自分たちで購読料を払っているのに、その新聞を読んでいて不愉快になるほど馬鹿らしいことはない。
 先月は東京新聞はサービス期間で、両方来ていたので読み比べていた。東京新聞はわが家の評判では、紙面の作り、土日の特集、読書欄その他、その他、「田舎っぽい」。と同時に何となく明るい感じがする。主張がストレートなのがよいと思う。変更しておいてよかったと思うのは、今日の朝の見出しである。「消費増税法が成立、民意が握る最終判断」とあった。もちろん、この間の法人税減税の停止がまず優先されるべきであるなどの当然の経済政策が主張されている訳ではないが、ともかく見出しだけでも正論である。
 朝日・読売・毎日などの全国紙、巨大マスコミは異様な論調統一である。こういうものについては買わないという形でしか対処できない。東京新聞は500円ほど安いので、その分を雑誌『世界』の費用の一部であると考えれば、まあ割りがあう。『世界』をほぼ毎月読むようになったのは、大学時代以来である。書評欄は朝日が充実しているし、土日の特集やパズルは家では需要が高い。書評は書評紙をとるというのが、今後の考え方かもしれない。

 別に自分と同じ意見ではないから不愉快であるということではないつもりである。そうではなくて、記事に、そもそもこれは「意見」かと思わせるものが多いのである。これはむかしからそうかもしれないが、その程度が、最近、とくにひどいように思う。消費税の問題、TPPの問題などで、朝日・読売などの大新聞、全国商業紙には、実際上、論調の相違はない。これは多数政党の意見とほぼ同じであって、文句をつける場合でも同じ地盤にたってやっていることは読めばすぐわかる。こういう意見は、日本社会に生きていれば否応なく耳に入ってくるのであって、それはお金を払ってまで入手する意味はない。これはジャーナリズムに期待する異なった意見というものではないのである。
 そもそも、マスコミュニケーションというものは、自分と異なる意見を読むためにあるものだと思う。同じ意見を読みたければ別の手段はいくらでもある。自分の考え方を定めるための情報は、本がある。また現在では、ネットワークがあって、これは仕事の上でも、実に有用である。実際上、商業的新聞は、私などには不要なのである。
 新聞で、もっともよく読むのは投書欄である。一面の見出し、国際面の見出しに引かれて、様々な記事を読むことはあるが、ほとんど自分と同じ意見は期待しないで読むから、私は、仕事に関係する情報も読み逃すことが多い。妻にはいったいどこを読んでいるのだかといわれることが多いが、これはようするに同じ意見や仕事の上での情報をマスコミには期待していないのである。多くの人々も、自分とは異なる意見を知り、それを通じて自己の位置を感じるために、新聞というものを読んでいるのではないだろうか。
 異なった意見、多様な意見を知るため、あるいはそういうものがあるのだよと自分に言い聞かせるためには、「もの」として目の前に広げた新聞によって否応なく目に入ってくるというのがもっともよいのである。
 マスコミのジャーナリストは、自分たちの仕事がせいぜいその程度のものであるという見切りがないのではないか。マスコミの紙面の記事は、そもそも多様性の中での一つの意見としてしか、読者に期待されていないという認識がないのではないか。読者にはつねに読者としての確固とした意見があるのだ。ジャーナリストには「これは私の意見ですが、ご参考までに」というものだという意識がないのではないか。そういう感じ方なり、見切りがなければ公平な報道などというものはありえないと思う。
 新聞という「もの」を作る、意見の媒体を作っているというのは特殊な生活なのであろう。ともかく、「もの」に載せられた意見は注目すべきものであり、そして正しいのだというのは、もっとも簡単な錯覚である。意識が外化された形態をとると、活字の形になると、それだけで何か意味があるかのようにみえるというのは独特な近代的意識であると思う。新聞というのは、半分はその錯覚の上にのってやっている商売である。通常、人間は毎日の事柄について自分の意見を「もの」にして見えるようにする、公刊するということはしない。それゆえに「もの」になっている意識というのは、その「形」だけで重要なものであるかのように偽装できる。こういうものを毎日生産していると、これが錯覚の再生産というルートであることを忘れていく。そして、それが正当なる意見を代表し、生産しているかのような身分意識に日常的に連動していく訳だ。
 けれども、最近の新聞論調は、こういう身分意識が、実際上、もっとも通俗的な特権意識に通ずるものにまでなっていることを示している。全国紙の社説が、「強い」人々のいっていることを少しニュアンスをかえていっているだけというのは本当に重症である。「もの」を右から左に形を変えるだけで、自分の職業が十分成り立っていると思っているとしか思えない。ここには新聞が「自分の意見」を作っているという「労働」の感覚がみえないのである。働かずに、国の重要問題について安易な意見を繰り返していればよいというのはどうしようもない。

2012年8月 8日 (水)

三木睦子さんがなくなった。

 先週週末からやや調子を崩した。暑さに疲れたか、若干の倦怠感と見当識の喪失である。神話について考えてメモを作っていたが、西郷信綱さんの『古事記の世界』がでてこず、そこでつっかえた上に、そのまま丁度届いたサラ・パレッキの『BreakDown』を読んで疲れて週末に入ったのがよくなかったのかもしれない。読めない英語の本に引き込まれて集中してしまうと骨が疲れる。

 仕事の切れ目に環境と身体と頭が対応できていない。今日は火曜。朝、5時におきて自転車。30分でも気持ちがいい。

 三木睦子さんがなくなった。95歳になられていたという。
 もう25年前にはなるだろうか、御会いしたことがある。千々和到氏と一緒に事務所をたずねて、横浜市金沢区の上行寺東遺跡の保存問題で協力を御願いした。さばけた方、豪快な方という感じを受けた。話をきいてくれた上での判断は、保存問題はむずかしいう判断であったように思うが、遺跡保存の必要は明らかであるということで、協力を約してくれた。新自由クラブの田川誠一さんを紹介してくれたのも、千葉選出の衆議院議員(文教委員)であった臼井日出男氏を紹介してくれたのも三木さんであったと記憶している。田川さんは遺跡を実際にみにきてくれ、臼井さんは遺跡破壊の当日に電話で国会に請願がでているのだからストップせよと伝えよといってくれた。臼井さんは千葉が地盤なので、地域でもお会いしたことがある。
 上行寺東遺跡の保存運動は、当時の東京の中世史の研究者、中年から若手までが全力をあげてとり組んだもので、その中心は千々和到氏であった。宗教史と民衆史を架橋する先端にいて、板碑をはじめとする地域の石造文化財の研究を代表する研究者である千々和到氏が展開した遺跡保存の重要性の訴えは大きな説得力があった。彼の動きを歴史学研究会の中世史部会が支え、さらに石井進さんが文化財行政全般をサーヴェイする立場から参与し、山中裕先生が横浜市の文化財保護委員会の委員長として参与し、同時に網野善彦さんや大三輪龍彦さんが考古学との学際的な研究に視野を広げてくれた。
 私は、母の闘病という私的な事情があって、当初、ほとんど協力できず、千々和氏の大変な様子を職場の同僚としてそばみているだけであったが、三木さんのところに千々和到氏と同行したのは母の葬儀を終えてからしばらくしてではなかったろうか。私は、以降、国会請願の事務局というのを担当し、上行寺東遺跡の保存運動に協力することになった。
 この経験の中で学んだことは、歴史家は、歴史学界の職能的な利害、職能的な主張というものを何よりも大事にしなければならないということであった。千々和氏と同席して三木さんにあったときにも、そういうことをいったとを記憶している。
 三木さんは、95年、「女性のためのアジア平和国民基金」の呼びかけ人となり、後に「九条の会」の呼びかけ人となった。この「国民基金」と同じ形で発足したアジア歴史資料センターの設立の際に、学界側の内閣府への要請の交渉に参加したことがあるが、三木さんは「慰安婦」に対する国家賠償を否定した政府に抗議して、結局、「国民基金」の委員を辞任した。
 思想・信条という言い方をすると、私は三木さんとは思想を異にしているに違いないが、信条は共感するところが多い。憲法のいう思想・信条の自由は、「思想と信条」を区別しているのが重要であるというのが、私の持論。人間関係にとって、思想よりも信条の方が重要であるのに対応して、「政治」においては思想よりも信条の方が重要であると思う。この「思想・信条の自由」ということをどう考えるかという問題は、もう少しよく考えてみたい問題だが、ともかくも政治に何らかの形でかかわっている人で会ったことがある人というのはきわめて少ない訳だから、信条を同じくする人と「多少の縁」、というよりも「一度会ったことがある」という「少しの縁」を記憶しているのは自然なことである。田川さんや臼井さんの記憶も同じことである。三木さんも田川さんも臼井さんも広い意味での「保守」の政治家であるが、歴史家として「保守」が大事だと考えはじめたのは、そこにさかのぼる。
 三木さんは政治家ではないが、政治にかかわる人は、こういう「多少の縁」を膨大にもっているのだと思う。現代社会の対人関係は、「知人の知人は知人」という網を張ると、三回でどこまでも到達してしまうという網羅性をもっている。情報学はこういうことをThere hop論というのだと情報学のY氏に聞いたことがある。世界中の人間は「知人の知人の知人」という論理ですべておおわれてしまうのが情報学が対象とする現代世界空間の様相であるという訳である。ヘーゲル『法哲学』のいう市民社会のアトム化、そこにおける人間関係の無名性・匿名性ということは、他面で、その社会関係が、このような網羅性をもっていることを意味している。 こういう人間関係の網羅性のうちに地域のコミュニティが入っているのも自然なことである。普通、「知人の知人の知人」による世界の被覆は専門性集団を通じて実現するが、世界関係としてのこの網羅性の質を決めるのは、やはりコミュニティである。実際の人間としての成長の場の中に、どこまで匿名のアノニマスな関係が根ざしているかということである。そしてこれこそが「保守」の中枢でなければならない。「保守」の中枢に「地盤」がくるのは、それとして当然なことなのだと思う。
 保存運動のなかで御名前を思い出すことのあった政治家として稲葉修さんがいる。稲葉さんは、私が育った場所の向こう側の坂の上の住んでいて、保守政治家の中でも鋭い人であるという噂を聞いたことがある。いわゆる「懐刀」と聞いたことがある。祖父はあるいは面識があったのではないかと思う。こういう偶然の関係を入れれば、現代社会は何重にもわたる稠密なネットワークの中にあるのだと思う。「天網恢々疎にしてもらさず」。その網はさらにさらに深く広く広がるようになっている。それを「良き信条」を前提とした「無私」の関係をベースにできるかどうかに、「民主主義」社会の希望はかかっている。

 さて、昨日朝、総武線で書きだして、今も朝の総武線。私は、あの時期の遺跡の保存運動から歴史学の研究者としての生き方を決めてきた。上行寺の倉田正胤氏、そして細川涼一・飯沼賢司・大平聡・宮瀧交二・橋口定志氏などと一緒に遺跡に通い、横浜市との交渉にも参加した経験は何物にもかえがたい。これも信条をともにして一緒に行動したという関係である。信条というのは何らかの形で「行動」に直接する感情と経験である。
 
 以下、「思想と信条」ということについてのメモ。憲法論ではどういっているかしらべてみたいが、思想と信条は、たとえば仕事上の生活と私的生活に対比できると思う。思想は外に向かう言語の体系、信条は自己に内在する経験の体系。広い意味での思想、広い意味での信条は、その両方をふくむが、それは相互に区別される。思想の多様性、信条の多様性をかけあわせれば、「思想信条」の多様性は無限の数に達する。このような思想プラス信条という広い意味での思想は無数である。同一の思想というものはないのだ。同一の思想という幻想は右翼であれ、左翼であれ、全体主義への道である。社会・国家には公定の思想・哲学というものはありえない。

 世界はそれだけ広く深い。個々人はその個人の人生におうじてその個人でしか獲得できない真理を獲得して、それが伝えられるかそこで行き止まりになるかは別としてかけがえのないものを確保して死去していく。個人の尊厳とはそういうことである。

 もちろん、科学は絶対的真理を明らかにしうる。しかし、絶対的真理は個人や諸集団、国家・階級や職能集団の承認によって発生するものではない。それは歴史と時間の中で確定される。いわば「神の手」によって確定される。それは次の相対的真理へのステップであり、その意味では絶対的真理も、現実の状態としては、つねに動き、多様性の中にある。

 「政治」というのは、対人関係の中で生きること、関係を組織することだから、そこでは私的生活や人格がもろにでるものだと思う。彼らは人格で勝負をしているはずである。それは、本来、つねに何らかの信条にもとづいていなければならない。問題は、その中核には、人格と信条のレヴェルで形成された結社が必要であることである。思想・信条・結社の自由というものを、どのように関係させて考えるのか。「思想・信条」の問題は、ここに結びついていく。おそらくすべては「経験」と時間による検証という意味での「伝統」という問題に行くのだと思うが、どう考えたらよいのか、まだ筋道を通して考えたことがない。
 ともかくも、政治は信条にもとづかなければならない。信条をもった政治家かどうかは終局的には人々に記憶される、その政治家の顔を考えればわかる。三木さんの顔は、夫の三木武夫氏の顔とともに信条をもって政治にかかわった人の顔として時間を超えて残るに違いない。
 憲法上の自由を前提とした上でなら、右翼・左翼・反動・進歩のどれでも、信条で行動してくれれば、まだまだ健康なことだと思う。現在の日本の政治の問題は、それ以前のレヴェルにある。現代の多数党の政治は「虚偽」と「策略」にもとづいている。しかし、こういう状態だからこそ、上記のようなことを原理的に考えていきたいと思う。
 消費税問題に関係して、内閣不信任案が提出された。消費税というのは、私などの世代にとってはJ党の首相N氏が「この顔が嘘をつく顔にみえますか」といった上で、嘘をついて導入したものであり、現在のM党の首相N氏も五年前までは、そんなことはやらないといっていたことをやっているということがすぐに意識される。三木さんにお会いしたころ、その周辺の人々がN首相のことを本当に嫌っていたということを、いま思い出した。
 

2012年8月 2日 (木)

三木清『歴史哲学』とハイデカー

 防災研の地震情報をみていると、ここ4/5日、福島原発南の地層浅部の正断層地震が顕著に減少してきている。まっかだったものが、バラバラという感じになっている。これはどういう変化なのであろうか。それにしてもほっとすることではある。

 7月31日に岩波新書の『歴史のなかの大地動乱』が校了になって、一日、部屋の整理である。まだ片づかないが、地震学関係、奈良時代政治史関係の本を移して、次の本のセットに変更する。半分は済んで目の前の風景が変わる。人文書の読者(研究者)にとっては本棚というのは、自分の頭の一部が一部変換されて目の前にならんでいるというようなものだが、そこにある細部の全体を確実に再占有する別の作業が始まる。
  
 こういう時には、別のことが頭にでてくる。
 歴史学の側からの歴史哲学なるものへの不信の根拠はどこにあるかということをいつか論じてみたい。その場合には、三木清の著作『歴史哲学』の検討から出発したい。三木清の仕事の検討によって、この「不信」の内容を再確認したいのである。
 役に立たない「歴史哲学」の筆頭はE・H・カーの『歴史とは何か』であって、よくあんな通俗常識論が版を重ねるものだと思う。これは歴史を忘却する国、日本の病弊、あるいは日本の「知識人」の病弊の一部なのではないだろうか。
 私は、大学時代、国際キリスト教大学にいた時、川田殖先生が寮の裏手に住んでおられ(というよりも川田先生の御宅の裏手にカナダハウスという寮があった)、川田先生の居間でのヘーゲルの読書会に参加した。私が参加した時は『法哲学』だったが、私がくわわる前は『歴史哲学』であったので、それを自分でも読んでみた。ほとんど中身は覚えていないが、『法哲学』とは違って勢いで読めた。そしてクローチェの『歴史と歴史叙述の理論』を読んだ。ヘーゲル・クローチェがカーと比較にならないのはいうまでもないが、しかし、考えてみると、そこに書いてある歴史事実を別にして、これらの本は歴史学者として実際に役に立つ歴史哲学というものではないと思う。たとえば、我々がブロックの『歴史のための弁明』を読んでもつような共感を豊かにひろげていったような歴史哲学が読みたいのである。

 歴史哲学といえば、ヘーゲルとハイデカーになるが、哲学とは実際にはきわめて言語的なものであるという意味で民族的なものである。ヘーゲルやハイデッカーの哲学はドイツ語という言語と不可分のものであった。きわめて意味ありげにみえる彼らの諸範疇は現実には彼らの言語的日常性(相当の俗物、とくにハイデカー)と不可分のものである。もちろん、彼らの哲学用語は狭い意味での民族言語の中に極限されているのではなく、たとえば存在論、オントロジーがギリシャ語の「存在=オン」、現象学、フェノメノロジーがギリシャ語の「示現=ファイネスタイ」に根拠をもっているように、ここで「言語的=民族的」という場合、それは同時に「伝統的」なものであって、しかもその伝統はヨーロッパ言語の長い歴史のなかに根拠をもっている。いうまでもなく、このような連続性を可能にしていることがヨーロッパの優位の根本的な理由なのであって、それは東アジアにおいても試みとして行われなければならないし、その意味はあると私などは考える。
 そして、哲学の歴史性という場合に、なぜ三木清の位置が根本的かといえば、それはこの哲学者が根本的な経験の中で生きたからである。京都の西田幾多郎門下からでて、ドイツに留学して、リッケルト・ハイデカーに学び、日本に帰った後に、ドイツ留学の際の友人、歴史家・羽仁五郎、そして岩波書店の創業編集者ともいうべき小林勇とともに『新興科学の旗の下に』を発刊し、戦前におけるアカデミーの「左傾」を導きながら、当時の「マルクス主義者」たちによる一斉批判をうけて、左派政治との直接の関わりから離れた哲学者。しかし、この哲学者は肉体・精神ともに不屈であって、太平洋戦争の挙国体制に対するひそかな叛逆の脈絡をわすれず、「冒険的共産主義者」高倉テルの逃亡をかくまって、獄に下り、一九四五年九月、獄中の迫害によって罹患した全身の皮膚疥癬に苦しみながら死去した。
 三木清の仕事をあらためて読んでみればわかるように、三木は、二〇世紀前半のヨーロッパ哲学の全潮流と対話し、その先端部分と共通する議論を展開している。ある意味でヨーロッパで覚えた呪文にとらわれて、それを呪文として整合的に組み立てようとしたという感じがする哲学ではあるが、しかし、その視野の広さは刮目すべきものである。三木は、新カント派からデュルタイ・ハイデカーに続くドイツ「実存哲学」の源流との直接的な関係において研究を進めるのみでなく、フランス哲学、フランス社会学、マルセル・モース、フランスの経済学者、サルトルなどを縦横に引用しつつ、議論を展開している。「三木哲学」は二〇世紀哲学の中でも、少なくともその構想や規模、そして現代に対する強烈な実践意識などのよって特筆すべきものである。パスカルから始まって、ハイデガーにいたる彼の蓄積と仕事は水準を越えている。
 第二次大戦は日本のアカデミーに対して、そして若手の学生・研究者に甚大な被害をあたえたが、三木の獄死は、成熟した研究者に対する実際上の殺害行為という点で、三木の盟友であり、批判者であった戸坂潤の獄死とともに、アカデミーに対する最大の破壊行為であった。とくに三木の獄死は八月一五日の敗戦後に起きた事態であり、アカデミーの側から日本社会の「戦後責任」を問う原点に位置すべきものである。日本社会は、敗戦の衝撃の中で自失し、軍国主義的天皇制国家によるアカデミーの破壊を意識的あるいは無意識的に容認したのである。しかも、三木の獄死の衝撃が、全国の牢獄にとらわれた治安維持法違反に問われた人々の解放のもっとも大きな契機となったことはよく知られており、三木は、その獄死によっても日本社会に大きな福音をもたらした。このいわば「三木清問題」というべき重たい歴史状況をあらためて問い直すことは、「歴史学と哲学の対話」にとってもっとも適当な切り口であることは明かなように思える。
 さて、これは三木という哲学者の人生の問題であるが、研究課題の問題として三木の『歴史哲学』の検討から出発するというのは、この本がハイデカー問題にかかわってくるからである。つまり三木清『歴史哲学』はその終章において未完の著作『哲学的人間学』への序説的な意味をもつ諸章の中で、はじめてハイデッガーにふれ(二三二頁)、しかし「然しながら人間学は存在論的として純粋に内在的な立場に立ち得るであろうか」と反問する。三木の『歴史哲学』はむしろハイデッガーとの格闘の序章であった。私はハイデカーを徹底的に批判することが歴史学の方法論にとって欠くことができない、それ抜きにはサルトル・ボーヴォワールその他の現代哲学を安心して利用することが不可能であると考えているので、三木が考えたことを復元してみたいのである
 三木の『歴史哲学』の出発点はハイデカーにあったと思う。つまり『歴史哲学』は、歴史を三層に分解する。存在としての歴史、ロゴスとしての歴史、事実としての歴史である。これは三木の基礎経験、人間学(アントロポロジー)、イデオロギーの三層構造にかかわってくるからハイデカーの影響であることは明らかなのであるが、「事実としての歴史」という言葉自体も、三木の造語ではあるが(『歴史哲学』三三頁)、実際にはハイデカーの言い換えであるように思う。つまりハイデカーは「歴史性という規定は、ひとが歴史(世界史的出来事)と呼んでいるところのものよりまえにあります。歴史性は現存在そのものの「生起」の存在構えを意味し、これに基づいてはじめて「世界史」といったものが可能であって、歴史的に世界史に属しているのです。現存在はその事実的な存在において、彼がすでにあったようであり、またすでにあった「ところのもの」です。現存在はその存在の仕方において、自分の過去性で「ある」のであって、この存在は、大まかにいえば、そのつど現存在の未来から「生起」します」(『存在と時間』(上)原文20頁)。三木は、「ひとが歴史(世界史的出来事)と呼んでいるところのもの」を「存在としての歴史」と呼称し、その「まえ」にあるものとして「歴史性」を措定し、それを現存在の「事実的な存在」と呼称し、これをタートザッヘとしての事実という形に読みかえているのだと思う。
 以上は、PCの中にあったメモを整序したものなので、自分でも、再確認しなければならない部分が多いのだが、ともかく、こういうことで、もう少し閑になったら続きをやりたいのである。

2012年8月 1日 (水)

拙著『中世の愛と従属』のあとがき

 以下は、拙著『中世の愛と従属』のあとがきである。神話論の関係で、必要があって先日、読んでみた。同じようなことをずっと続けていることがわかった。宗教史から神話論ということであるが、この「あとがき」で断っているように、禅宗史が大きな問題であることはわかっている。これは、今年も少し手をつける積もりだが、どこまでできるか。このあとがきを書いたのは母の死去した年の翌年である。あとがきの最後の「私的にもいろいろなことがあった」ということの内容はそれである。この本のトップ論文に、その経験にふれて若干のことを書いた。あとがき集のようなものをWEBPAGEに載せることとした。

「肉体の疎外」と「肉体の思考」-あとがきにかえて-

この本に収めた文章は、第一部の「『大袋』の謎を解く-領主の暴力と拘禁」(原題『袋持』と『大袋』、『月刊百科』二八三号、一九八六年五月)、「やれうつな蠅が手をする-中世民衆の拝礼の作法」(『歴史地理教育』三六四号、一九八四年三月)のほかはすべて新稿である。もちろん、実質的な作業は、一昨年に発表した「袋持・笠持・壺取」(『歴史地理教育』三六二号、一九八四年一月。この論文は非常に短いもので、本書の各章の中に吸収されている)執筆の頃から始めていた。しかし、実際にまとめにかかったのは、去年の末頃であり、私としては驚異的なスピードで書き終えたことになる。
これは、普通の歴史論文と違って、絵巻分析がそれ自体として楽しい作業だったからだが、読者にとってはいかがだったろうか。もし楽しんでいただけたとしたら、望外の幸せであり、「あとがき」でそれ以上のことを述べる必要もない。しかし、正直のところ、面白さに引かれて筆が走ってしまった部分も多いので、ここで、本書の前提となった考え方に立ち戻り、一応の説明を加えることを許されたい。
私は、絵巻分析には、大きく分けて二つの課題があると考えている。一つは、絵巻に描かれた「物」や「人」が、それ自体として何なのかを確定することであり、これが絵巻分析の基礎となる。ところが、絵巻に描かれているものが何なのかということは、イメージであるだけに、一度「解った」と思ってしまうと、思い込みに陥りやすい。黒田日出男氏の論文「民衆史研究と史料学-絵画史科学を中心として」(『民衆史研究』三一号、一九八六年一一月)が的確に述べているように、この点が、絵巻分析において、最も注意を要するところである。一度「解った」と思った時こそ、恣意的推断のワナにはまっていることが多いのである。
絵巻分析のもう一つの課題は、絵巻の絵画表現の中に含まれる観念やイデオロギー、特に宗教的な観念などを明らかにすることである。相手が絵であるだけに、そこに描かれていることが、そのまま実在していたと考えがちであるが、実際には、それは様々な定型的な観念の反映である場合が多い。これは、絵巻が芸術であり、人々の一般的な感じ方・考え方に訴えるものであった以上、当然のことである。だから、ここでは、文学・説話や、宗教関係の史料との照合がどうしても必要であり、本書では、特にこの点に注意した。しかし、それらの史料も、解釈に様々な恣意性が働きやすいものであって、一歩間違えば、絵画分析の恣意性と説話などの史料解釈の恣意性が重なりあって、とんでもない結論になってしまうことになる。
この様な絵巻分析の二つの課題とそれにともなう危険を考えると、やはり、本書が歴史学として許されるギリギリの線に立っていることを自覚せざるをえない。しかしそのような場所に立つことになったのは、私が「荘園制的身分配置と社会史研究の課題-荘園制下の贈与・給養と客人歓待」という論文(『歴史評論』三八〇号、一九八一年一二月)で、いわゆる社会史研究に踏み込んで以来の必然的な成り行きであるので、これ以上の弁明はやめようと思う。

さて、本書は、表題を『中世の愛と従属』としたように、中世の絵巻における「愛」と「従属」の表現を分析したものである。個人の感情に根ざす「愛」と、社会的関係の中での「従属」は、何ら関係のないものと見ることもできる。しかし、絵巻を見るかぎり、中世の「愛」と「従属」は、どちらも直接に人間の生身の「肉体」に深く関わる世界であり、その点で、共通する姿をもっていた。
本文でも何回か参照したフランスの優れた中世史家、マルク・ブロックは、「(中世の)社会生活全体の背後には、原始性、人間の手に負えない諸力に対する屈服、穏やかにされない自然との闘争が背景として存在していた。このような環境が魂に及ぼし得た影響を測り得る手段はなにもない。しかし、そのような環境が魂を粗野にするのに寄与したとどうして想像しないでよいであろうか」、そこでは「非常に強い集団意識が個人をあまりやさしく扱わないことを当然のこと」としていたとし、さらに、「我々の手段の不十分さによって今日では臆病な試論にとどまらざるを得ないが、そのような臆病な試論より遙かに歴史の名に値する歴史が書かれたならば、肉体の蒙った転変に然るべき地位を与えるであろう。人間の体の具合がどのようだったのかを知らないで、人間を理解していると主張するのは、非常に素朴である」と述べている(『封建社会』第一巻、みすず書房七〇ページ、一二四ページ)
この叙述は、中世史の研究を始めた頃の私には大変印象深かった。本書は、それについての私なりの解答なのだが、ようするにブロックは、人間にとっての対象的自然(外的自然)の荒々しさ・直接性に対応して、人間にとっての主体的自然(内的自然)としての肉体も、極めて粗野で野性的な扱いを受けていたことを語っているのである。
この社会では、「愛」においても「従属」においても、つまり生活の全領域において、人々は半ば動物として、意識をもつ動物的肉体にしか過ぎないものとして関係しあう。そして、中世の社会的支配と隷属を分析する時、しばしば「農奴」とか「農村動物」という概念が使用される根本的理由はここにある。そこでは、人間は、荒々しい対象的自然に屈服し、緊縛されたものとして存在し、そして自然に対する領有の有機的な一部として、粗野な人身支配を受けることになる。彼らは、そのようにして事故の肉体自身の主人であることを制約されており、様々な形で「肉体からの疎外」を受けている。こういう状況の中で、本文でも述べたように、民衆に対する支配は、極めて暴力的な性格を帯びるが、それは決して社会関係の全体を覆うものではなく、むしろそれは、このような人間に対する自然的領有、動物的疎外の典型的表現なのである。
私が、このことを強調するのは、「社会史」研究の中に往々にして見られるロマン主義的見解、何か中世社会を「物質的な」現代社会と相違する「人格的関係」に満ちた社会として美化し、そこに安易な現代文明批判の基準を求める見解に同意できないからである。しかし、もちろん、こういう風にいったからといって、私は、中世の人間を動物的存在に一元化するつもりはない。私の目指したのは、より実在論的な人間学、人間の肉体的自然を、その第一の基礎として踏まえた人間学の立場であり、この立場からみれば、問題を、より歴史的・重層的な連続性の相において捉えるべきこととなるにすぎない。人間の動物性への理解、より一般的には動物的生命自体への愛をもたないヒューマニズムが虚妄なものであることは明らかであろう。

この問題、つまり前近代あるいは封建社会における「肉体の疎外」の問題は、私にとっての本来の仕事である経済史研究の理論的前提にも関わることなので、別の形でより厳密に考察する機会があるだろう。ただ、私は、今まで一般的にしか考えていなかった中世人の「肉体」を、本書を書く中で具体的に問題とすることになり、これまで思いもしなかった事柄を考えることになった。「肉体」論というと、少し専門書の置いてある本屋には、最近、現象学や構造主義の方法による「身体論」・「性愛論」などの著作が並んでいて驚かされるが、残念ながら、私はそれらの本のほとんどを読んでいない。しかし、次に述べることは、あるいはそれらの流行の議論となんらかの関係があるのかもしれない。
その第一は、H・マルクーゼのいうような「エロス(性)」と「タナトス(死)」という問題である。たしかに、この両者は個人の意識の中では一種の共通性を帯びた問題として観念される。私は、それは、この両者が、人間が自身の肉体を肉体として意識する究極の「場」であり「時」であるからだと思う。もとより、人生の基本は日常性と生産や労働にあることは否定できない。しかし、そこでは、人々は、自己の肉体を単なる道具として受けとり、それが一面において命の定められた動物的肉体であることを意識しない。これに対して、「エロス」と「タナトス」の只中での肉体的経験は、ここの人間の人生の結節点を形成し、運命に翻弄される個々の人間にとっては、あたかもそれ自体によって自己の人生が決められてしまったかのように意識される。もとより私はマルクーゼのような反理性主義の立場自体はニヒリズムであるとしか思わないし、歴史意識としては中世の暗黒への逆戻りであるとしか思わない。しかし、現代においても、個々の人間は、多くの部分において「エロス」と「タナトス」の経験に固着して生きざるをえないのが現実であろう。そして、ヒューマニズムとは、ニヒリズムと無縁のところで形成されるのではなく、そこを通り抜け、肉体が肉体として集中的に現れる場所・時間から自己を開放し、客観的に開かれた場所と時間の中に生きる決意以外の何物でもないはずである。
ところで、中世におけるニヒリズムの暗さは現代におけるよりもさらに深いものであった。そして、その中で生きる人々が最も大きな支えとしたのは、いうまでもなく宗教であった。本書を書く中で、第二に考えさせられたのが、この問題である。本書で対象としたのは、歴史的宗教への人間学的な接近の初歩、宗教が神との関係において人間の「肉体」をどのように位置づけたかという問題である。これは、別の言葉でいえば宗教における神の人格神としての現象の仕方を論じるということになる。ただ、私は、宗教史・宗教学には、全く不案内であり、宗派の問題としても、主に中世前期の浄土教的な宗教の史料(しかも一級史料ではなく説話史料など)を扱ったにすぎず、中世後期の禅宗を初めとする、より発展し文化的に自立した諸宗派には全く目が及んでいない。また民俗宗教における具体的な神格は、人格神としての側面のみでなく、それと民族的自然の特質に応じた自然神としての側面の統一として現れるから、本書の考察は宗教論としては、全く不十分なものである。しかし、とにかく考えさせられたのは、日本の宗教も、人間の生と死と「肉体」に関わる側面においては、世界の諸宗教と同じ現象状態をもっていることである。もちろん、このような問題は私の手におえる仕事ではないが、歴史学としての宗教史が、世界史的な視野をもたなければならないのはあまりに当然のことである。そのような意味での学問的な宗教論、真の意味での宗教解析のためには、人間学への固執、生身の人間への自立的な囚われが必要であるというのが私の立場である。
以上、本書を書く中で得た問題意識について述べたが、それは、「肉体の疎外」という社会的・自然的環境の中での人間の自己感情と自己意識の在り方、いってみれば「肉体の思考」の在り方を追跡することであったといえよう。私は、その最も世俗的な形から最も聖なる形に至るまで確認していくことに努めたつもりである。私にとっての本書の最大の成果は、「肉体の疎外」論は、「肉体の思考」を解明することなしに完結しないことを知ったことである。
ここで「肉体の思考」という言葉を使ったのは、もちろん、レヴィ・ストロースが「未開人」あるいは前近代人の意識形態を捉えるために提出した有名なキーカテゴリー、「野生の思考」を意識したものである(大橋保夫訳『野生の思考』、みすず書房)。本書では、あるいはこの「肉体の思考」を、必要以上に非合理的で理解不能なものと描き出した部分があるかもしれない。これが私の最も恐れることであるが、しかし、私の趣旨は、レヴィ・ストロースが「野生の思考」の発見によって目指した、「未開人」の思考と我々の思考の共通性の摘出という命題の枠内にある。私としては、彼の議論の全体については現在検討中であり、「流行」思潮としての構造主義一般の問題となればむしろ賛同できない面が多いが、少なくとも歴史学にとって、彼の議論が「未開」あるいは前近代の人々に対するヒューマニスティックな接近の視野を大きくひらいたことは確かであろう。
ただ、「野生の思考」というカテゴリーは、「人間と自然環境の密接な関係・自然への固着」への着目をその本来の成立場所としており、「肉体の思考」は、その裏返しの事柄ではあるが、前近代の人々の肉体的自然と身体的経験への徹底的な重視や固着によって特徴づけられている。そしてそこでは、社会的な関係、支配従属関係による媒介が重要な問題となることもいうまでもない。それゆえに、私の議論の方向は、彼のそれとは実質的に大きく異なってくるであろうが、私としては、日本の戦後中世史学に固有の方法以外の思想に初めて目を開かれたことも事実である。

私は、研究の仲間からは、理論好きであるといわれ、そして、具体的な叙述になると細かなところにのみ興味を注ぎながら、理論を語りだすと何をいっているか解らなくなるとからかわれる。この「あとがきにかえて」も、そういう結果になったのではないかと恐れるが、次に本書を書くにあたって、そのような「からかい」も含めて直接のアドヴァイスを受けた人々に、御礼をしておきたいと思う。本文の中でも、何度か参照を求めたが、黒田日出男氏との議論がなければ、第一部第四章「甕と壺の風景」はでき上がらなかったであろうし、千々和到氏のそばにいなければ、第二部第二章「匂いと口づけ」は思いつきのままで終わっただろう。私は、両氏と同じ職場にいることを幸運と思う。
特に、黒田氏は、この「イメージ・リーディング叢書」の第一冊、『姿としぐさの中世史』において、絵巻の中に隠された歴史学的諸問題を摘出し、後進の進むべき課題を豊かに提示してくれた。氏は、戦後歴史学が初めて取り組んだ絵画史研究のトップランナーの役割を見事に果たしている。この本に、もし取るべきところがあるとうれば、それは黒田氏の著書の「弟分」としての資格においてであることを申し述べておきたいと思う。
また、平凡社の石塚純一氏と加藤昇氏にも深く感謝したいと思う。加藤さんは、『大百科事典』の原稿催促のかたわら『月刊百科』への執筆の機会を与えてくれ、私としては初めての絵巻物に関する文章を書くことを強制してくれた(「海から見た川、山から見た川」、『月刊百科』二五九号、一九八四年四月。ただこの文章はテーマの関係から本書には収録しなかった)。そして、石塚さんは、この本の最初から最後までをとりしきってくれ、それのみでなく、注にも記したように、第三部の論文を書き上げるために決定的な意味をもった野村敬子氏の論文を教えてくれた。御二人の協力なしには、この本はでき上がらなかったと思う。

この長い「あとがき」も、もう終えようと思うが、私にとって、この一年ほどは、私的なことを除くとしても本当に色々なことがあった。その中で決して忘れることのできないのは、主に文献史料のみを扱ってきた私が、絵画史料の世界に本格的に参入するとともに、考古学的な遺跡・埋蔵文化財の意味を読みとっていく作業にも参加したことである。その遺跡は、横浜市金沢区にある「上行寺東遺跡」という、鎌倉の外港としての˜Z‰Y(‚ނ‚ç)六浦を見下ろす丘の上に残されていた第一級の宗教・寺院・墳墓遺構である。
もちろん、考古学に無知な私は、ただ、この遺跡の景観、中世の海と港の景観に興味をもったにすぎない。そして、実は、本書の企画は、当初「絵巻の中の自然と肉体」(仮題)として出発したのだが、そこでは、外的自然としての「景観」と内的自然としての「肉体」を統一的に論ずるはずであった。本書は、結局「肉体」のみで終わってしまったが、前者の「景観」についての問題意識の根底には、この「上行寺東遺跡」があった。
しかし、網野善彦氏が、同じく破壊の危機にさらされている静岡県磐田市の「一の谷中世墳墓」に関するシンポジウムの報告書で、「千々和到氏を先頭とするきわめて広汎な研究者・市民による熱烈な保存運動にも拘わらず、横浜市金沢区の上行寺東遺跡の全面的保存は、ついに貫徹しえず、遺跡のごく一部がその“場”から切り取られるという形で破壊されるにいたったことは、まさに行政当局の暴挙というほかない」(『歴史手帖』一九八六年一一月号、特集「シンポジウム、中世墳墓を考える」)と述べているように、この遺跡は、直接には横浜市行政当局の文化的無知とマンション建設会社・北新建設の専横によって、永久に失われてしまった。しかし、この遺跡のかけがえのないイメージは、多くの中世史研究者の目に焼き付いている。私は最後の段階で保存運動に協力したにすぎないが、その過程で、自己の非力と無資格を身に沁みて思い知らされることになった。
歴史学は、その«(‚³‚ª)性として過去の文化を伝える歴史資料に対しては貪欲な要求をもつ。勿論、全ての遺跡を保存せよというのではない。しかし、この遺跡の破壊は、職業としての歴史学と歴史学者の存在を否定するに等しいような事柄であった。この遺跡の保存を求めて、中世史研究者のほぼ全員が横浜市や国会に請願をしてもどうしようもなかった経験は、現在の日本では、歴史学がどうでもよいマイナーな学問でしかないことの証明である。

それでも、中世世界の具体的で視覚的な復元のためにはどうしても必要な「絵巻」と「遺跡」に関わってこの一年を送り、その中で様々なことを学べたのは、私にとっては一つのなぐさめであった。特にカラー版の絵巻物全集をめくって行くことへの楽しみは、何物にもかえがたいものである。中世以来、絵巻物が貴族の家々を通じて伝来してくる中で手あつい保護を受け、現在では、ほぼ原本そのままの姿をだれでもが目にすることができるというのは、本当に良いことである。本書の仕事は、それなしには不可能であった。
しかし、やはり不可欠な歴史史料である「遺跡」は、土の中に保存されていたため、今、どしどし破壊されつつある。このようなことをしていて日本の歴史と文化は、一体どうなるというのだろうか。それは単に非難のためにいうのではない。そういう学問に携わっている私たちの前に、自己の職業の価値自体を否定するニヒリズムの壁が聳えたっているからいわざるをえないのである。

一九八六年一一月

保立道久

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