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2012年8月18日 (土)

大企業の内部留保金を復興債に

 東日本太平洋岸地震・津波の復興のための大企業の莫大な内部留保を引き当てに国債発行という議論が昨年は各方面であったはずである。この提案はどうなっているのであろう。経済学者は本気になってそれを主張すべきではないのだろうか。一体、東大の経済学部は何をやっているのかというのが、最近の怒りである。
 この提案は無視されて「消費税を増税し、それによって社会福祉の予算を確保する、日本の国家財政は赤字である」という動きになるのは本当にあきれてしまう。ようするに人の不幸を目にして、自分の「もっている」ものはつかわず、人の不幸を種にして他人からもっと巻き上げようということである。もし個人がこういう行動をしたら、彼は社会のつまはじきになるだろう。
 『文藝春秋』(2012年5月号)の富岡幸雄「税金を払っていない大企業リスト」の論文は問題の所在を示している。富岡氏は元国税庁、中央大学名誉教授であるというが、富岡論文は日本の財政の欠陥は特定の大企業や高所得資産家に対する優遇税制にあるとする。そして、この論文の結論に記されている提案の第一は「大企業の内部留保金を復興債に」というものである。これは正論であると思う。
 いまでも経団連が主張し、マスコミがそれをそのまま振りまいているのは、日本の企業に対する法人税は高いという論調である。しかし、これは社会保険料の企業負担率の問題を入れれば話が違ってくるというのは昔からいわれていた。ところが、事態はもっと進んでいて、富岡氏はさらに労働者賃金の配分額を入れれば、企業が「税・保険料・賃金」というレヴェルで企業の社会的負担率を比較するとデンマーク・スウェーデン・イギリス・フランス・ドイツ・アメリカと続き、日本はこれら主要先進国の比率を5ポイント前後も下回る最低レヴェルであるとしている。
 その上、日本の大企業(資本金100億円以上)は法定税率30パーセントの半分の負担率であり、法定税率を支払っているのは中小企業だけである。これは事実の問題であって、日本の大企業が「法定税率が高い」と称するのは、チーティングをした上でさらに節税しようという主張である。節税をしようというのは企業としてある意味で自然なことであるが、1990年代から比べると労賃を切り下げている。国税庁の「民間給与実態統計調査」によれば、1997年と2007年の民間給与総額を比較すると、労働者数が136万人増加しているにもかかわらず、給与総額は220兆円から200兆円に減り混んでいる。これが労働市場において労働基本法を無視した非正規雇用を本格化したためであることはいうまでもない。こういう状態で法人税率が高いと称するのは、私などには「嘘は大きな方がよい」という居直りがあるようにみえる。嘘を嘘と自覚して操作できるのは、自分たちは別の人類である、身分が上だと思っている証拠である。経済界のメンバーが戦争体験者を中心にしていた時は、いろいろあったとしても、これだけひどいことはなかった。最近の経団連のメンバーの発言を聞いていると、みじめ
なものである。彼らのいうのは、「このままでは不安である。このままでは負けてしまう」という不安感である。「保護してくれなければ外国に資本をうつすほかない。何でそれが分かってくれないんだ」という訳であるが、そこには、最初から、「自分たちは自分たちをまもる権利がある。国民はその義務を理解しないのはおかしい」という論調がある。そこに自分たちは国民とは別の特権身分集団だという底意があらわれているのがみじめである。それはただ露骨に人をおどかしていることであるという自覚がない。
 こういうことが実際にあるのだというのも歴史の勉強である。個人の間では許されないような嘘が国家レヴェルになると不問に付されるというのが政治経済の疎外の客観構造である。嘘は社会を腐敗させる。「嘘をついてはいけない。我々が働くのは社会のためである」という個人が大多数になることによって社会から嘘を無くしていく。その際にまず潰すべきなのは「大うそ」である。それによって社会を普通の個人関係における倫理レヴェルで組み直すこと。この徹底的な「個人=社会」主義が必要なのだと思う。嘘のない社会にするという単純な理想は国家関係を個人と個人の倫理に同じ論理が通るものとするということである。個人は平等である。最初から得な人と損な人がいる社会は身分社会であって、個人中心の社会ではない。これこそが究極の個人主義であり、それを信条として維持したいと思う。
 とくに問題だと思うのは、大企業の内部留保の問題である。現在の大企業の内部留保は1986年の120兆円から2007年には350兆円と3倍増になっているという。この350兆円というのは、日本の国家予算が200兆円余であるから、それを優に超過する巨大な金額である。そして、この計算は企業の財務資料から推計可能な額にすぎないから、海外子会社やタックスヘイブンを使った取引その他その他を入れれば更に巨額にふくれあがる。この内部留保のもとは、決して企業がもうかったからではないのは、この間の経済情勢をみていれば明らかなことで、それは(1)労賃の切り下げ、(2)下請けに対する単価切り下げ、(3)金融投機による儲けである。たとえば(1)については右の国税庁の「民間給与実態統計調査」に明らかである。
 これはタコが自分の足を食っているのと同じことである。富岡は「日本の企業は付加価値の配分がおかしくなっている。従業員への賃金は上げず、国にもあまり税金を払わず、ひたすら株主への配当と内部留保の増大に狂奔している」「この巨額の内部留保金を、復興資金や設備投資、雇用・仕事造りへ活用し、日本経済の活性化に活かされることを望む」としているが、事実をベースに考えれば誰でも納得できる話であると思う。
 ここら辺が常識のはずなのであるが、歴史学者は、どの時代の研究を専門としていても、こういう常識の線にそっては進まないような政治の構造を文化と歴史の側から説明する仕事を義務としてもっている。その義務を認識していないでもすむ天才的歴史家がいることを知ってはいるが、私のような「小人」歴史家は、この義務によって尻をたたかれないと「閑居」を決め込むことになる。
 歴史の現段階のあり方からみて、こういう構造が容易にはかわらないものだと思う。それはこのような動向が金融資本主義の情報化の中で、グローバルな富裕層が形成され、彼らが「株主」への還元を企業努力の第一にせよという集団的・国際的な圧力をかけているからである。これは日本だけで起きているのではないから、そう簡単にはかわならない。いわゆる「株主資本主義」であるが、こういう世界的な致富のシステムというのは世界史的にも始めてのことであろう。世界的な富裕層がネットワークで結びついて、私利を追究しているというのは怖ろしい。ネットワーク帝国である。「まさかそんな」という話であるから、その本質がはっきりするまでは、なかなかかわらないものだと思う。
 歴史家として興味深いのは、何といってもアメリカー日本関係である。もっとも「新しい」国家と、現存、もっとも「古い」起源をもつおそらく世界誌上最後の「王制」を残した国が太平洋を間において連携している訳である。それにしても、この日本国家のアメリカへの国家的従属が「株主資本主義」による経済的一体化、経済的な従属を基礎にもっているということが、これだけ明瞭になるとは思ってもいなかった。我々の若い時にはアメリカへの従属などというと、それはナショナリズムだと嘲笑されたものだが、アメリカー日本関係が、日本の経済に「誰がみても」破壊的な影響をおよぼしているのである。「日本で健全なナショナリズムを維持することが世界に対して何を意味するか」ということを、もう一度考えなければならないと思う。
 もう一つは今月の『経済』の大木一訓「内部留保の膨張と21世紀日本資本主義」論文によれば、このような巨額の内部留保は日本資本主義に特殊なものであるということである。大木によれば、こういう種類の内部留保は欧米企業では考えられないという。つまり欧米企業の会計報告では冒頭に企業利益の報告があった後、第二項目にRetained Earningsの報告がある。株主配当を支払った後、企業内に残された収益で、前年度のRetained Earningsの使途とともに報告される。日本の大企業のように内部留保を会計表のあちこちにため込んで使途不明のままにするというのはありえない。
 大木は、このような日本資本主義の「特徴」を明治以来の利権的・強権的な権力ー資本構造に求めているが、それはその通りだと思う。ただ、これは「伝統」「歴史」がどのように最新式のシステムに組み込まれるかという論理を明瞭にして論ずることが必要である。そうでないと、結局、日本資本主義の「集団的性格」、「無責任構造」というような超歴史的な図式に流れてしまう。

 もちろん、集団主義が問題のキーであることは事実である。そこには「不安だから貯蓄をしておかないと」という集団的な不安の論理がある。組織をまもる、集団をまもるという論理である。それをみている国民の側も、ややもすると、自分たちの家庭や組織をまもるという気持ちの枠内で、そういう不安を理解し、「同情」してしまう。これは私的な家計と公的な経営を同一視してしまう、異なるレヴェルのものを同じ論理で考えてしまうという錯覚である。日常性の構造のなかで、巨大な組織と利害の動きを考えてしまう錯覚。我々は「兆円」どころか「億円」という数字も実感をもって考えられないから、ついつい日常の論理でものごとを考えてしまう。問題は、この錯覚を利用するステレオタイプな論調が強い影響を持ち続けていることである。そこにふみこめるレトリクで考えることが必要なのだと思う。

 日本の大企業中枢がやっていることはそんなに「同情」するべきことではない。巨大な経済の動きを日常的な個人と個人、自分の家庭を考える同調論理で考えることは本質的にできない。彼らの利害と普通の国民の利害は違うのだ。それは数字に明かであって、それは時間の経過とともに否が応でも明瞭になってしまうだろう。それを明瞭にするのが出発点である。経済界の身分的特権意識をこれだけみせられると、私はそう思う。

 前近代専門の歴史家としては、これは、結局、身分というものをどう考えるかという問題に関わってくるとと思う。身分意識に対する徹底的批判を日本の歴史をつらぬく問題として系統的に、根っこから明らかにしていくこと。
 身分というのは、結局、Aという人物をBという人間が特定の身体的な特徴、扮装や屋敷・居所、所持品、財産などの外在的な見かけによって、Aを意識し、それにしたがって呼称をあたえることによって発生する。そのためにはまずAが、そういう呼称を自分でも信じ込むことが必要であるが、それがBの隣人・仲間たちによって承認されることが必要になる。これはAとB近縁集団の関係になるが、これがAの近縁集団にも広がって、AダッシューBダッシュの集団間関係が形成される。集団関係というのは、本質的にこういう身分関係として現象するのである(と思う)。問題は、この身分のもつ言葉と文化が複雑で「深淵」にみえるところにまで発展することだ。だから身分論というのはつねに、その複雑な全体を明瞭な部分にまで解析し、身分の虚偽性を明らかにし、「王様は裸だ」といって上位者の権威を嘲笑することから出発する。
 私は、これまで身分論を、ある種類の応用問題と考えてきた。身分論の代表は黒田俊雄氏の議論で、それはさすがに重々しい問題の捉え方をもっているが、十分には理論的でない。それ以外の身分論は、どれも小細工か、方法的に曖昧でいい加減であると考えてきた。安良城盛昭氏の身分論に対する反発も大きかったかと思う。しかし、「社会構成論と東アジア」(『歴史学をみつめなおす』)で論じた所有関係の集団的性格と私的性格の弁証法の問題をとくためには、やはり身分がキーになるのかもしれないと考え始めた。身分制の諸特徴によって区別され、無限の色合いと相違をもった世界史上の諸社会構成。
 最後は、やや意味不明な文章、申し訳ないが、ともかくも、日本社会に蔓延する特権的な身分意識に辟易するものとして、身分問題を考え直してみたいと思う。前近代史の研究者としては、それを通じて現代をみることが可能だと思う。

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