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2012年8月11日 (土)

『北から生まれた中世』、朝日新聞をやめた

 一昨日から入間田宣夫さんからいただいた論文集『北から生まれた中世日本』を通読している(高志書院、安斎正人・入間田宣夫編)。いま土曜、朝、6時過ぎに家を出て、自転車で花見川ルートの上まで行き、もどってきて、ファミリーレストランで朝食をしながら読み終えた。論文全部で一二本。ほとんど考古学の論文。これは見事な本である。日本列島の歴史研究にまったく新しい視野が「北から」開けつつあることがわかる。
 奈良・平安・鎌倉時代史の研究にとって、今後必須の本であると思う。入間田さんの年来の主張が、第一に考古学による北方史研究との間で響きあい、また第二に南方史との間で方法論的な一致を確保しつつあることを示している。できれば読書ノートを載せようと思うが、考古学の側からの論文に教えられることが多いのは当然としても、文献の側の小口雅史、小川弘和、簑島栄紀の諸氏の論文も見事である。
 昨年の三・一一東日本太平洋岸大震災は、災害史研究の焦点に北方史が浮上するという結果を否応もなくもたらしたが、それに対する準備が、三,一一前から北方史の研究においてはすでになかば整っていたことも、この本は示している。

 今月から朝日新聞をやめた。少なくともしばらくの間は、ということで商業新聞を東京新聞に変更した。親も朝日新聞であったから、朝日を約40年もとっていたということになるが、家族とも話して変更することにした。原発、消費税、TPPその他、読んでいると不愉快なのである。反省というものがないのかと感じる。こらえしょうがないということでもあろうが、自分たちで購読料を払っているのに、その新聞を読んでいて不愉快になるほど馬鹿らしいことはない。
 先月は東京新聞はサービス期間で、両方来ていたので読み比べていた。東京新聞はわが家の評判では、紙面の作り、土日の特集、読書欄その他、その他、「田舎っぽい」。と同時に何となく明るい感じがする。主張がストレートなのがよいと思う。変更しておいてよかったと思うのは、今日の朝の見出しである。「消費増税法が成立、民意が握る最終判断」とあった。もちろん、この間の法人税減税の停止がまず優先されるべきであるなどの当然の経済政策が主張されている訳ではないが、ともかく見出しだけでも正論である。
 朝日・読売・毎日などの全国紙、巨大マスコミは異様な論調統一である。こういうものについては買わないという形でしか対処できない。東京新聞は500円ほど安いので、その分を雑誌『世界』の費用の一部であると考えれば、まあ割りがあう。『世界』をほぼ毎月読むようになったのは、大学時代以来である。書評欄は朝日が充実しているし、土日の特集やパズルは家では需要が高い。書評は書評紙をとるというのが、今後の考え方かもしれない。

 別に自分と同じ意見ではないから不愉快であるということではないつもりである。そうではなくて、記事に、そもそもこれは「意見」かと思わせるものが多いのである。これはむかしからそうかもしれないが、その程度が、最近、とくにひどいように思う。消費税の問題、TPPの問題などで、朝日・読売などの大新聞、全国商業紙には、実際上、論調の相違はない。これは多数政党の意見とほぼ同じであって、文句をつける場合でも同じ地盤にたってやっていることは読めばすぐわかる。こういう意見は、日本社会に生きていれば否応なく耳に入ってくるのであって、それはお金を払ってまで入手する意味はない。これはジャーナリズムに期待する異なった意見というものではないのである。
 そもそも、マスコミュニケーションというものは、自分と異なる意見を読むためにあるものだと思う。同じ意見を読みたければ別の手段はいくらでもある。自分の考え方を定めるための情報は、本がある。また現在では、ネットワークがあって、これは仕事の上でも、実に有用である。実際上、商業的新聞は、私などには不要なのである。
 新聞で、もっともよく読むのは投書欄である。一面の見出し、国際面の見出しに引かれて、様々な記事を読むことはあるが、ほとんど自分と同じ意見は期待しないで読むから、私は、仕事に関係する情報も読み逃すことが多い。妻にはいったいどこを読んでいるのだかといわれることが多いが、これはようするに同じ意見や仕事の上での情報をマスコミには期待していないのである。多くの人々も、自分とは異なる意見を知り、それを通じて自己の位置を感じるために、新聞というものを読んでいるのではないだろうか。
 異なった意見、多様な意見を知るため、あるいはそういうものがあるのだよと自分に言い聞かせるためには、「もの」として目の前に広げた新聞によって否応なく目に入ってくるというのがもっともよいのである。
 マスコミのジャーナリストは、自分たちの仕事がせいぜいその程度のものであるという見切りがないのではないか。マスコミの紙面の記事は、そもそも多様性の中での一つの意見としてしか、読者に期待されていないという認識がないのではないか。読者にはつねに読者としての確固とした意見があるのだ。ジャーナリストには「これは私の意見ですが、ご参考までに」というものだという意識がないのではないか。そういう感じ方なり、見切りがなければ公平な報道などというものはありえないと思う。
 新聞という「もの」を作る、意見の媒体を作っているというのは特殊な生活なのであろう。ともかく、「もの」に載せられた意見は注目すべきものであり、そして正しいのだというのは、もっとも簡単な錯覚である。意識が外化された形態をとると、活字の形になると、それだけで何か意味があるかのようにみえるというのは独特な近代的意識であると思う。新聞というのは、半分はその錯覚の上にのってやっている商売である。通常、人間は毎日の事柄について自分の意見を「もの」にして見えるようにする、公刊するということはしない。それゆえに「もの」になっている意識というのは、その「形」だけで重要なものであるかのように偽装できる。こういうものを毎日生産していると、これが錯覚の再生産というルートであることを忘れていく。そして、それが正当なる意見を代表し、生産しているかのような身分意識に日常的に連動していく訳だ。
 けれども、最近の新聞論調は、こういう身分意識が、実際上、もっとも通俗的な特権意識に通ずるものにまでなっていることを示している。全国紙の社説が、「強い」人々のいっていることを少しニュアンスをかえていっているだけというのは本当に重症である。「もの」を右から左に形を変えるだけで、自分の職業が十分成り立っていると思っているとしか思えない。ここには新聞が「自分の意見」を作っているという「労働」の感覚がみえないのである。働かずに、国の重要問題について安易な意見を繰り返していればよいというのはどうしようもない。

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