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2012年8月16日 (木)

鉢かづきの民話から長谷寺の夢へ

 昨年、京都橘大学の田端泰子先生の退職記念の講演会での講演。田端先生の講演のうまさに舌をまく。ちゃんと話の行く先を意識し、そこに話をつけていく。

 そういうことが私はできない。

■京都橘大学女性歴史文化研究所第二〇回シンポジウム「日本中世における女性の生活と表象」
Tale of Hachikaduki and  Nyobo's Dream in Hasedera-temple 
『女性歴史文化研究所紀要』20号、2012年3月

「鉢かづきの民話から長谷寺の夢へ」 保立道久(東京大学史料編纂所教授)
 きょうは「鉢かづき」の話をさせていただきます。「鉢かづき」の話は、皆さんもご存じでしょうが、念のためご紹介しますと、それは次のような物語でした。
 河内国の交野に住む長者夫婦には子どもがなかったのですが、奈良の長谷観音に祈願して娘が生まれます。ところが、娘が十三になった時、風邪をこじらせて母親が死んでしまう。その時、母は、「ああ情けない。可哀想に。せめて十七・八まで大事に育てて、良い縁に結ばれるのをみてから死にたかった」といいながら、傍らに置いてある手箱を姫の頭に載せて、その上から肩まで隠れてしまうような大きな「鉢」をかぶせる。この鉢が姫の頭にくっついてしまい、それも口実になりまして、姫は後添いの継母に「かたわもの」「人間じゃあない」と苛められ、家を追い出される。そして、着物を剥ぎ取られて、賤しい帷子(いまでいえば短い夏の浴衣)ひとつを着せられて、道に捨てられてしまう。さまよったあげく、河に身投げした姫は、鉢のなかに空気が入って水に浮いたため、流れていき、漁師に助けられた…というふうに、室町時代の『御伽草子』には出てまいります。
 姫は、命が助かった後、結局、「山蔭中将」という貴族の家の「湯殿の火」を焚く下女として雇われることになります。ところが、湯殿の世話をするなかで、その家の息子と恋に落ち、二人で家出しようとした時、頭の鉢が落ちて、割れてしまう。中からは美しい着物や金銀財宝があらわれ、それで着飾った鉢かづきは、天女のように美しく輝き、遂に幸せな結婚にいたった、という話です。
 最近の大学生はこの話をほとんど知りませんが、おそらく皆さんがた、少しお年ですので、ご存じであろうと、安心して話をさせていただきます(笑)。
 さて、この「鉢かづき」の物語は、姫の誕生から、母親が死に、父の後添いの継母に捨てられて、最後は幸せな結婚に至るという、とても素朴な童話に見えます。それ以上のものがあるようには見えないかもしれません。しかし、実はこの物語は相当に大きな謎を含んでいます。今日はその謎をご一緒に考えていきたいと思うのですが、本来、物語というものは普通の話として始まって、そのふくむ謎というものは、最初はよく見えないもので、だんだん謎が謎になっていくというものだと思います。その順序で御話しをした方がよいとも思うのですが、ただ、そういう順序で話していると、講演ではなかなかわかりにくいと思います。そこで、今日は、謎が明らかになる最後の結論の部分から、逆にさかのぼっていくというかたちでお話しすることにします。
 さて、この物語の結論は、先ほど申しましたように、山蔭中将の末息子と結ばれて、二人で家出しようとした時、まさにその時に、鉢かづきの鉢が割れて、中から十二単の小袖や金銀財宝が出てくるというものです。その後、二人は結婚することになりますが、結婚式の時に鉢かづきの美しさは「天女のようだ」といわれます。この物語では「まったく天女がこの地上にあらわれたかのように美しい」というふうに出ていますが、普通、これはあくまでも比喩として読みます。『御伽草子』の原文でも、「ひとへに天人の影向もかくやと思ひ知られけり」(天人があらわれるのも、こういう感じかもしれない)と、比喩のように語られていると思います。
 しかし、『御伽草子』で「姫君は河内の交野の人にてましますか。さればこそただ人とは思わぬものを」(姫君は河内の交野の人なのですか。ああ、だから、なんとなくただの人間とは思えなかった)という言葉を付け加えていることが問題です。姫君が交野の出身ということが明らかになると、やはりただ者ではなかったという反応がでてくるわけです。
 これはどういうことか。実は、この言葉の意味するものは、「交野」という地名から解くことができます。交野は、現在の枚方の辺りですが、平安時代の始め、九世紀、桓武天皇などの天皇たちが天を祀った場所として知られています。桓武直系の天皇たちは、ここにしばしば行幸し、狩りもしました。つまり、交野という土地は、九世紀を通じて、天皇家にとって最も天に近い場所であったということになります。実は、桓武は、この土地で大きな火を焚いて天に即位を報告していますが、それにならった天皇もいます。
 また『伊勢物語』という、やはり九世紀の話の中に、「交野を狩りて天の川のほとりに至る」として、在原業平の和歌「狩り暮し棚機つめに宿からむ天の川原にわれはきにけり」が出ています。「棚機つめ」は「天女」のことです。交野の地域には、現在でも「天之川」という川が流れていまして、室町時代までは和歌の地名・歌枕としてよく知られていました。『竹取物語』の例を挙げるまでもなく、平安時代の初めには、天女がそこここでもてはやされましたが、交野は、その天女が降りてくる場所であると語り伝えられていたわけです。
 したがって、鉢かづきについて山蔭中将が、「姫君は河内の交野の人なのですか。だから、ただの人とは思えなかった」と言ったというのは、物語の趣旨としては、鉢かづきが天女の血をひいているということを本気で言っていることになります。山蔭中将が「あなたは天女だったのか」と言って、驚いたということです。
 さて、謎は謎を呼ぶと言うことですが、鉢かづきが天女であるということは、実は、鉢かづきがその家に住み込んだことになっている貴族の山蔭中将にも関わる話でした。つまり、山蔭中将というのは決して架空の人物ではありません。平安時代の初めの九世紀に生きていた藤原山蔭という人のことです。そして、彼は、この「鉢かづき」の物語ができた室町時代においても有名な人物だったのです。山蔭の血統は、宮廷の中で非常に重要な家柄でして、後醍醐天皇の書いた『建武年中行事』という、宮廷儀式を記録した本によりますと、山蔭の子孫は六月・十二月の天皇家の月例祭(月次祭)の夜に湯殿(お風呂)の祭祀に奉仕する家柄だったとされています。
 原典には、「山蔭の中納言の子孫なる蔵人、御湯の事をつかうまつるなり。その人なければ、外せきにも末なる又えたり」(もし山蔭の子孫がいなければ、山蔭の子孫を母方に持つ蔵人にお風呂の世話をさせなさい)というふうに出ています。
 しかも、どういう仕事をするかというと、お風呂に入る時に「あまの羽衣」(御ゆかたびら)を天皇に着せたり脱がせたりする役割をしていたということです。そもそも天皇の身辺を清め、身の周りの掃除をし、湯殿の世話を行い、さらにはトイレの世話をするのは、男の蔵人がやることになっていまして、山蔭中将という貴族は、九世紀の清和天皇の蔵人頭(蔵人の長官)を務めたという履歴を持っていますから、山蔭中将自身、天皇の身辺の掃除やお風呂・トイレの世話をしたはずです。
 重要なのは、山蔭の血をひく貴族たちが、天皇が湯殿に入る時に御ゆかたびら(あまの羽衣)を差し出す世話をした、ということです。つまり、山蔭の家は、室町時代の人たちにとっては「天皇にあまの羽衣を着せたり脱がせたりする家」だということになっていた。そうすると、山蔭の家に嫁に入った鉢かづきが天女であったという伝説は、この「あまの羽衣」に関係して語られ続けてきたのではないか、ということになるわけです。鉢かづきが天女であるということはすぐにそこに結びつく訳です。
 この山蔭の息子としては中正の家系が語られます。注目すべきは、中正の子どもに時姫という人がいて、この時姫が藤原兼家の妻となり、有名な藤原道長や道長の姉の詮子を産んだことです。『源氏物語』などが好きな方ならばよく御承知の通り、詮子は、一条天皇を産んで、国母(天皇の母)となりました。ようするに、平安時代の宮廷において山蔭の系図は、いわば天皇のお祖母さんの家柄だったわけです。これを物語の解釈にもどしますと、『御伽草子』の設定では山蔭の息子、つまり中正と鉢かづきが結婚したということになります。ですから、あくまでも物語の設定ではということですが、鉢かづきは一条天皇の曾祖母ということになります。
 いままで、「鉢かづき」の物語は、このようなかたちで語られたことはありませんでした。しかし、物語はこういうふうになっていったのです。山蔭流藤原氏は、いわば国母の母(グレートマザー)の家柄になりまして、鉢かづきが天女であるというのは、「このグレートマザーの家は天女の血をひいている。つまり、天皇は天女の血をひいている」という伝説だったということになります。
 平安時代の物語のひとつとして『山蔭中納言物語』という物語があったことが知られています。これは伝わっておりませんが、山蔭という名前には、「あまの羽衣」を差し出すというイメージがくっついていたということになると、私はこれが「鉢かづき」の物語の原形だったのではないかと思っています。平安時代には、「鉢かづき」の物語は、最初は、天皇家に関わる言説として語られていたのではないか、と考えるわけです。
 さて、そう考えますと重要なのは、鉢かづきが長谷観音の申し子(お母さんが長谷観音に「子どもが欲しい。娘が欲しい」と祈って生まれた子ども)だということです。そして実際に、山蔭中納言の家というのは、長谷観音と非常に本来深い関係のあった家柄なんですね。つまり、山蔭は奈良の長谷観音に深い関係を持っていまして、長谷寺の霊験記には、山蔭の父親が九州へ船で行く途中、山蔭が船から落っこちてしまった、驚いた父親が長谷観音に祈ったところ、山蔭は海の中から亀の背中に乗って出てきたというエピソードが語られています。そのため山蔭は長谷寺に奉仕を重ね、お寺を建てたり、仏像を寄進したりしたといわれています。
 そもそも『山蔭中納言物語』というのは、このように長谷寺に奉仕し、そのおかげで山蔭の家が繁栄し、しかも長谷寺から天女を自分の家の嫁さんとして授かった、という話だったのではないかと思います。
 もうひとつの可能性は、京大のそばの吉田神社には山蔭が日本の料理の神様ということで祀ってあります。あそこは、長谷寺の霊験記によりますと、本来、山蔭のお屋敷だった場所ですから、吉田神社は本来、山蔭流藤原氏の氏神神社だったということになります。ところが、山蔭流藤原氏は、先ほど申しましたように、一条天皇のお祖母さんの家柄ということですので、一条天皇が即位した後、公祭の対象となり、平安時代以降、「二十二社」に列せられていきます。吉田神社の南には一条天皇の母・詮子の離宮があったといわれていますが、それはこういう因縁であったということになるでしょう。
 そうしますと、「鉢かづき」の物語は意外に京都に縁が深いということがおわかりいただけると思います。おそらく鉢かづきは、吉田神社の辺りにあった山蔭の邸宅に住み込んだというイメージなのです。
 
 徐々に物語をさかのぼっていきますが、鉢かづきは、諸国を放浪して京都にやって来ました。どういうわけで山蔭のところに住み込んだかと申しますと、湯殿の火焚きとして住み込んだわけです。湯殿の火焚きとしてお風呂の世話をして、そこで主人の息子と結ばれたということでして、「(山蔭の末っ子の息子が兄たちに遅れて)さよ更けてはるかになりて、ひとり湯殿へ入らせ給ふ。かの鉢かづき“御湯うつしさふらふ”と申す声やさしく聞こえける。「御行水」とてさしいだす手足の美しさ尋常げに見えければ--“やあ鉢かづき、人もなきに、何かは苦しかるべき、御湯殿してまいらせよ”」ということで、鉢かづきは湯殿の垢すりとして、人の背中を流したと語っています。
 これが縁になって結婚することになったわけですが、先ほど申しましたように、山蔭の家は天皇家の湯殿の世話をする家柄ですから、その家の湯殿に奉仕をするということは、王家の湯殿に直結する。つまり、山蔭の湯殿に入ったら煙が立ち込めていて、その煙を向こうに越えたら天皇家のお風呂がある。そういう感じです。そいう形で天女が、山蔭の家を通じて、やって来た。そして、その子孫から天皇の息子が生まれた、ということになっているわけです。
 
 ただ、最初に鉢かづきが住み込んだ時の身分は非常に低いものでした。山蔭の家にはたくさんの人が勤めていたと思いますが、その最下層の人、最も下の身分の人だったのです。したがって、息子と近づいた後、鉢かづきの最大の危機は、「湯殿の奉行」(管理人の男)が近寄ってきた時でした。「もの言ふ聲色、笑ひ口、手足のはづれの美しさは、これに疾くから住ませ給ふ御女房衆も究てこれには劣りなり」(鉢かづきは御女房衆よりも誰よりもきれいだ)ということで、管理人の男が近寄ってきたのですが、「近づきてかの人と契らばやと思へども、顔を見れば濛々として、口より下は見ゆれども、鼻より上は見えもせず、傍輩衆にも笑われ、なかなかはづかしやと思ひも寄らぬぞことはりなり」(近づいて鉢かづきと契ろうと思ったけれども、顔を見れば濛々として、口より下は見えるけれども、鼻から上は見えない。こういう女性と近づいてしまっては仲間に笑われてしまう。あまりにも身分が低すぎたので、管理人の男は鉢かづきに何もしなかった)ということが語られています。
 ここには、山蔭の家に仕えている従者たちの身分がはっきり出ています。まず山蔭がトップにいて、その息子たちがいて、その下には女房たちがいます。女房にならぶのは、当然、侍です。侍と女房が家の中心にいて、その下に「湯殿の奉行」のような雇い人がいるのですが、この雇い人には男も女もいました。しかし、鉢かづきはそれよりさらに下の身分です。そういう女性たちは下人(下男・下女)で、仕事に即していいますと、女性については「水仕」(水汲み女)と呼ばれました。鉢かづきは、まさに水仕で、同時に湯殿の世話をするということだったと思います。
 
 こういう水仕の姿を中世の絵巻物のなかで最もよく示すのが、『男衾三郎絵詞』という鎌倉時代の末頃に書かれた絵巻物です。図1にその一部を示しましたが、ここに描かれている女性について、「この女性は本来、この家の娘である。ところが、そこに継母が入ってきて、身分をどんどん抑える」というように詞書きでは解説されています。お姫様ですから、最初は足まで届く長い髪があったのですが、それを背中の中途で切り捨てられ、それによって「端物」(=半物)の身分に落とされます。女房と同じ長い髪だったのが、背中の中途まで切られると端物になりまして、「湯殿の奉行」と同じような雇い人になるのですが、図1の女性の髪はさらに肩上まで切られています。昔の人にとって、中国はモダーンな国だったのですが、中国みたいな新しい髪をしている人を「唐髪」(モダンガール)といったりしましたが、肩上まで切られると「子の日」といいました。「子の日」というのは、子の日の松のことです。つまり、松の葉っぱのようなかたちの髪の毛になってしまった。ここまで下げられますと、まさに最下層まで突き落とされた「水仕」という姿になるわけです。
 この『男衾三郎絵詞』には、「元結際」で髪を切られ、しかも人間の水を汲むのではなく、「遠侍の厩の水」を汲む「水仕」になっていった、というふうに出てまいります。
 着ている服は、麻衣で、馬の鞍の下に置く、非常に目の粗い、ムシロのような着物です。これひとつ着たきり雀にさせられる、というかたちで突き落とされたわけです。
 中世の女性たちには身分があります。平安時代の物語を読んでいますと、みんな女房やお姫様だったと思いがちですが、当然ながら、みんなお姫様や女房だったわけではありません。女房は、袴を着て、長髪で、プリーツスカートを流したような裳というものを後ろ腰につけますが、庶民になりますと、裳ではなく、エプロンを後ろにまわしたような褶というかたちになります。そこまでは普通の庶民ですが、さらに下女になりますと褶ではなく、着たきりの姿になり、髪は断髪になっていきます。
 ですから、『枕草子』には「似げなきもの」は「下衆の紅の袴」というのが出てきます。「下衆女が袴を着るのは似つかないから、やめたほうがいい」という意味です。清少納言はなかなか口の悪い人でして、「短くてありぬべきもの」は「下衆女の髪」とも書いています。また、『源氏物語』には「汚げなる褶引き結ひつけたる腰つき」(庶民の女性たちは、裳ではなく汚い褶を腰につけていて、なんとなく汚らわしい)というのが出てまいります。
 やはり昔ですから、身分制の社会であることを明瞭に指摘しておく必要があります。そもそもこういうことを知ったうえで読まなければ、「鉢かづき」の物語が本当に意味するところはわかりません。鉢かづきは、ただの下女ではなく、朝夕、行水のお世話をし、差し出された足を洗ってあげる作業をし、ただの「水仕」ではなく、垢すりをしたり、そのために蔑視をされたりする、最下層の女性として住み込んだのです。
 
 しかも、鉢かづきは、鉢が取れないのですから、顔が見えません。ですから、「不思議なもの」というように見られていました。山蔭中将の家に住む時に、「あなたはどんな能力がありますか」と聞かれて、鉢かづきが「和歌を詠む」と答えると、「それなら何の能力もない。おまえは何の能力もないのだから、湯殿の水汲みだ」ということになるのですが、山蔭中将は「人のもとには不思議なる者のあるもよきものにて候」(社会は広いのだから大きな家には不思議なものがあっても当然のことだ)と言って、雇ってあげた、というふうに出てまいります。
 ただ、そういうかたちで迎え入れられた鉢かづきですから、「明けぬれば見る人笑ひなぶり、にくがる人多けれども、情をかくる人はなし」ということで、笑い物になって生活していたことになります。こういう描写は『ものぐさ太郎』『一寸法師』『小男の草紙』でも同じでして、『小男の草紙』では「これに置き申し、京中の笑い草にせばや」(京都中の笑い物にして楽しもう)と言っています。こういう人は現実にいたのでして、たとえば一休禅師の年譜には土岐氏という大名の家に、「猿」というあだ名の道化がいたとでてきます。満座の人が、この猿をなぐさみものにするので、一休が逆に人々をやりこめたという、いかにも一休らしいい話なのですが、ともかくもこれが現実だった訳です。
 しかし、息子は、その鉢かづきのなかに美しさと教養を見てとりました。お風呂で垢すりをさせながらという訳ですが、話に救いがあるのは、それまで彼女は顔を誰にも見られたことがないところまで相手にされていなかった。性的な意味でも相手にされていなかったということでしょうか。いわば絶対的な秘面といってもよい訳です。
 こういう秘面ということで思い出していただきたいのは、平安時代の貴族の家の女房たちも秘面の風習をもっていたことです。ところが宮中にでると顔をみせなければならない。つまり彼女らは絶対的な秘面の権利をもっていなかった訳です。清少納言は、「宮中に女房として仕えるのは、人に顔を見られるから嫌だ」と言っています。したがって、顔を見られていない、いわば処女性というような意味では、鉢かづきは絶対的な強さを持ち、それを維持して、山蔭の家で仕えていた、という話であるわけです。
 
 さて、さらに物語をさかのぼりますと、山蔭の家にたどり着く前は、鉢かづきは放浪の乞食でした。京都では現在でも、禅僧の方々が鉄鉢を持って寄進を募ることがありますが、あれは昔は乞食の人なら誰もがやったことでありまして、かつては乞食のことを「はちひらき」とか「鉢婆」などと言っておりました。鉢は乞食が持つものでしたから、鉢かづきは、まさに乞食の姿をしていたわけです。しかも、その鉢は体にくっついていて、「体ごと鉢」という姿でした。『御伽草子』の「花世の姫」という物語では、山姥について、「額に皺を畳み上げ、頭は鉢を敷きたるが如し」(髪が汚れて板のように垂れ下がり、あたかも鉢のようにみえる)というふうに出てまいります。その意味では、鉢かづきは、まさに乞食そのものの姿であっただろうと思います。
 図5『法然上人絵伝』巻一四に描かれた女性たちは、頭に笠を被り、笠の中に被衣という上っ張りを着ています。この上っ張りを頬の辺りまで持ちあげますと、もう顔は見えません。さらにその上から笠を被っていますから、いよいよ顔は見えないわけで、こういう笠を「市女笠」といいます。つまり、市場に女が出て行く時はこれを被れ、というのが市女笠であって、普通の女性が外に出る時はそういう姿をしていたのですが、鉢かづきは、その代わりに鉢を被っていました。
 図5の女性三人のうち、一番右の女性は顔が出ています。これはお付きの女性の姿で、この女性は長髪を着物で隠すようにして主人の後を歩いています。これがお付きの女性の普通の歩き方でした。鉢かづきの場合、このレベルよりさらに身分は低いのですが、鉢を被っているので、主人同様、顔は見えない。その意味では、絶対的な秘面を維持していることになります。
 
 このようにして、鉢かづきは、顔を誰にも見せないまま世の中を動き回り、最後には幸せになったということですが、この話の一番最初に遡りますと、先ほど申しましたように、鉢かづきが十三の頃、母親が死んでしまいました。父親は、最初はやさしくしていましたが、継母を迎えて、心も変わり、継母と一緒になって鉢かづきを追い出してしまいます。
 こういう継子いじめの物語は、平安時代、鎌倉時代、室町時代を通じて、大変多いようです。これについては私もまだ意味がよくわかりません。なぜ当時の人たちは継子いじめの物語をこれほど多くつくったのか、私にはよくわからないのですが、ただ、逆にそういう思い込みがあるからこそ、娘を残したまま死んでしまう母親は相当厳しい心境にならざるを得ない、ということは言えるだろうと思います。ですから、母親は死ぬ時、「肩の隠るる程の鉢」を鉢かづきに被せました。これは要するに、鉢かづきの顔を誰にも見せないという決意表明なのです。
 この時、鉢かづきは十三歳ですから、普通は裳をつけて、成女式(女性になったという、めでたい式)を行い、成女式を過ぎますと、しかるべき身分の女性は顔を隠すようになります。しかし、鉢かづきの母親は、この成女式を鉢を使っておこなった、ということです。「おまえ、かわいそうに」と言って、姫君を近づけて、緑のかんざしを撫であげ、鉢の中に巻き込んで、鉢を被せたというように語られています。
 つまり、十三歳というのは、一般的に初潮の時期でありまして、そのまま十七・八まで男を近づけないようにする。娘の不幸を予測し、娘の性を防衛し、結婚を拒否させるという母親の意思がここに現われているわけです。
 
 さて、母親はみずからの死の時に、そういうかたちで鉢かづきの幸せな結婚を用意したわけですが、ここで何よりも問題なのは、鉢かづきが鉢を被る前に手箱を頭に載せられて、その上から鉢を被せられたという点です。
 手箱というのは、女性の財産です。それを十三歳になった娘にあげた。つまり、母親・主婦としての地位を娘に渡してしまった。この「手箱をあげた」ということが非常に重要だろうと思います。手箱をあげて鉢を被せた時、母親は「さしも草 深くぞ頼む観世音 誓いのままにいただかせぬる」(長谷の観音にお誓いしたとおりに鉢を娘に被せます)と詠んで、「つゐに空しくなり給ふ」ということで、死んでしまいます。
 
 長谷寺にいらした方は多いと思いますが、実は長谷寺は平安時代に子授けの寺として一番有名な観音信仰の寺でした。特に有名なのは平安時代の末の鳥羽天皇の頃、美福門院が長谷観音にこもって、胎内の女子を男子に変えるように頼み、そうして生まれてきた男の子が近衛天皇だったという話で、『長谷寺霊験記』に出てまいります。
 ですから、長谷観音というのは、子授けの観音であり、とくに男の子を授けてくれる観音なのですが、子どもだけでなく、いろいろなものを授けてくれます。一番有名なのはわらしべ長者がわらを授けてもらう話で、二番目に有名なのは手箱です。『長谷寺霊験記』によりますと、「女性が長谷の観音におまいりをして夢を見ると、手箱をいただいた夢を見る」という話が二つ出てまいります。ですから、長谷観音というのは、まさに「誓いのままにいただかせぬる」というかたちで手箱を授けてくれる観音寺ということになっているわけでして、この点からも、「鉢かづき」の物語は、要するに長谷寺霊験記、つまり長谷寺という神様がいかに偉いかということを物語る話であったと言えるように思います。
 
 話は少し変わりますが、私は、「鉢かづき」の物語をいまの若い人たちがほとんど知らないというのは非常にまずいことだと思います。いまの世界や日本の児童文学は非常に豊かなものだと思いますが、このままでは、日本の伝統社会の中で育まれてきた気持ちやシステム、厳しい身分制の存在などをみんな忘れてしまうのではないかと考えています。それはけっして狭い意味でのナショナリズムでいうのではなく、たとえば、そういう子供は、アラブのチャドルの風習などをみると、自分にはまったく関わりのないことだと思うと思うのです。あれは野蛮な風習だというようにみてしまうと思います。自分たちの国も同じであったということを知らないというのは、他の国の歴史的な風習に対する無知に結びつきます。
 その意味でも、『御伽草子』や民話の位置をよく考えなければいけないと思ってきたのですが、これを明瞭に伝えるためには、どういう仕組みの話なのかということをはっきり認識しておく必要があって、今まで御話ししたようなことを『物語の中世』(東京大学出版会)に「秘面の女と鉢かづきのテーマ」という題で論文として載せた後も、私はこのことをずっと考えてきました。
 
 そして、最後に申し上げたいのは、最近、鉢かづきの謎解きについて本にでもまとめてみようかと思い出したところで、もう一つの重大な謎に気がついたということです。その謎とは、単純に申しますと、なぜ長谷観音なのか、そもそも長谷観音とは何ものなのか、ということです。長谷観音は子授けの観音であったということですが、なぜそうなのか、なぜ、長谷寺が妃の出産祈祷が行われるような寺院なのかということです。
 ここからは鉢かつぎとはレヴェルの異なる、もう一つの謎の世界に踏み入ることになります。「鉢かづき」の物語の中に秘められた秘密、その中に入れ子のように潜んでいた謎、あるいは「鉢かづき」の物語を含んで存在している、もっと大きな謎の中に入っていくということになります。なにしろ最近、考え出したことで、謎が二つになることもあって、以下、少し話が入り組み、分かりにくくなると思いますが、ともかく、時間の関係もありますので、どんどん進むことにします。
 この問題を考える入り口は、やや意外かもしれませんが、平安時代の女房の書いた日記文学のひとつとして著名な『更級日記』の中の長谷詣の話です。まずは、系図を見ますと、『更級日記』を書いた菅原孝標の女は、長谷寺と深い関係があった山蔭の家柄と近い位置にいます。つまり、菅原孝標の女は、藤原兼家のもうひとりの奥さん(『蜻蛉日記』を書いた藤原道綱の母)の妹の子どもであり、摂関家の中枢部分にいた女性のひとりということです。
 そして、私は、知る限り誰もいってないことだと思いますが、この菅原孝標の女が書いた『更級日記』の話題の中心は結局、長谷詣の話なのではないかと思うのです。しかも、最初にまた謎の中心をいってしまいますが、それはアマテラスをめぐる物語でもあったと思うのです。話がわかりにくいと思いますので、ご勘弁願いたいのですが、『更級日記』は、実は、「最初はアマテラスという神をよく知らなかったような少女が、徐々にそれを知っていった。けれども、アマテラスから受けたお告げや託宣の意味を十分に知覚できないまま失敗してしまった」という、女性の悲哀の物語であるというのが私の意見なのです。
 これは「なのです」といってもすぐには了解できないことと思いますが、まず菅原孝標の女は、十四歳の頃、「天照御神を念じませ」という夢を見たといいます。けれども、この時は「人にも語らず、なにとも思はでやみぬる」(人にも語らず、何のことだかわからなかった)と、『更級日記』には書かれています。
 そして、二十六歳の時、母親に言われて、僧侶を初瀬(長谷寺)に代参させます。僧侶は菅原孝標の女のために祈ったわけですが、そのお坊さんの夢に女神が現われて、託宣をする。そして、お坊さんは、京都に帰ってきて、菅原孝標の女に、「鏡に映る二様の人生(「後悔の人生」「幸せの人生」)が見えました」と報告したといいます。これは童話にでもなりそうな話だと思いますが、この時に登場した女神については、「いみじうけだかう清げにおはする女のうるはしくさうぞきためへる」(麗しい着物を着た女性がお坊さんの夢に現われた)と書かれています。
 そして、ちょうど同じ時期に、この女性は「天照御神をお祈りしなさい」と言われた。そうすると、「いづこにおはします。神か仏か」と聞き返した、というふうに『更級日記』には出てまいります。すると、「神におはします。伊勢におはします。さては内侍所に守宮神となむおはします」と教えてくれた。「だけど、伊勢の国までは遠すぎてとても行けない。内侍(宮中)にも、どうやって御参りしていいか、わからない。空の光を祈ったらいいのか」などと菅原孝標の女は言ったといいます。戦前の国家主義教育をご存じの方だと信じられないことかもしれませんが、『更級日記』を書いた菅原孝標の女は、アマテラスのことをよく知らなかった。平安時代の女性たちは、どうやらアマテラスのことをよく知らなかったようなのです。御興味のある方は、溝口睦子さんが岩波新書で『アマテラスの誕生』というたいへんに興味深い本を書かれていますので、御参照下さい。溝口さんは、このアマテラスという女神は、本当は皇祖神などというものではなかったということを、(これ自身は歴史家にはよく知られたことですが)、新たな観点から、分かりやすく語られています。溝口さんは『更級日記』にはふれられていないのですが、実は、今日の話は、溝口さんの本を読んで組み立て始めたものなのです。
 話がずれましたが、もとに戻りますと、『更級日記』には、「この時に天照御神のことをもっとよく考えてみるべきだった」というふうに述懐されていまう。
 しかし、十分に僧侶のお告げのことを考えないまま、それから六、七年経って、彼女は三十二歳になった時に、その頃の天皇のひとりである後朱雀天皇の娘の祐子内親王の許に女房として出仕することになります。彼女は、それでいわば箔をつけたということなのでしょう、翌年、すぐ結婚をして、家に下がります。しかし、その結婚はそれほど華やかなものではなかったようで、沈鬱な雰囲気に襲われた彼女は、「長年月を無為に過ごすだけで、なぜ長谷寺に詣でなかったのだろう。もっと早く長谷寺に行ったほうがよかったのではないか。お坊さんを遣わせたけれども自分で行ったほうがよかったのではないか」と自省し、気持ちが暗くなっていたという訳です。ちょうどそのころ、家に下がったとはいっても、彼女は、ご主人の祐子内親王について内裏へ行く機会がありました。そこで彼女は、アマテラスを祀った内侍所に仕えている博士命婦(巫女)のトップに会って、初めてアマテラスのことを詳しく知るのです。
 それでも結婚生活は続き、中年になり、三十九歳になって、「いよいよ長谷寺に行かなければいけない」という決意を固めて、彼女は初詣に行きます。長谷に到着する前夜、やはり女神が現われて、「あなたは何しに来たのか。博士命婦とよく相談しなさい」というお告げがあった。少し敷衍しすぎるかもしれませんが、要するに、初めて長谷寺に参詣した彼女は、女神から、「おまえは宮中にいて、天照御神を祀る内侍所の博士命婦に相談して、女房生活を送りなさい。そのほうが絶対にいいことがあるから」と言われたということのように思います。
 この時、彼女は、長谷寺でおこもりをしますが、そこで夢を見ます。その夢の中で、やはり同じ女神が出てきて、「すは、稲荷より賜はるしるしの杉よ」と、杉を投げ与えられます。後になって彼女は、「こういうお告げを受けた以上、長谷から帰る時にすぐ伏見稲荷に寄ればよかった」とまたまた後悔していますが、結局、彼女はこうした長谷のお告げに従わず、宮中に出仕することもせず、結婚生活を続けて、五十一歳になって夫は死んでしまうということになります。
 自分の人生について『更級日記』には、お坊さんの夢に現われた「幸せの人生」と「不幸せな人生」という二つの鏡のうち、結局、「不幸せな人生」になってしまった、というふうに書かれています。その時に夢占いをする人から、「うまくやれば、高貴な人の乳母となって、内裏に登り、帝や后に保護されて幸せになれたかもしれない」と言われた、というふうに出てまいります。要するに、アマテラスと長谷寺への信仰を貫かなかったことへの反省が『更級日記』のテーマであるということです。

 さて、さらに話が旋回してしまい、もう整理して話す余裕もありませんが、あるいはご存じでしょうか、長谷寺の観音様のそばには雨宝童子という像があります。実は平安時代には、「長谷の観音はアマテラスと同体である。アマテラスの成り代わりが長谷の観音である。その証拠には、長谷の観音のそばに立っている雨宝童子は、アマテラスの心臓である」と考えられてきたわけで、いまでも長谷寺には雨宝童子がいますが、その上にはアマテラスと書かれています。
 十世紀頃の三重県にあるお寺の雨宝童子を見ますと、女性か男性かよくわからない、いわゆる両性具有の神秘的な感じのする像が多く、それは当時の人たちがアマテラスをどう考えていたかということをよく示すものになっています。このアマテラスに対する信仰、雨宝童子に対する信仰は、確実に長谷寺を中心にしています。内裏(宮中)であるよりも、まずは長谷寺にアマテラスがいたというわけです。つまり、『更級日記』で長谷寺参詣の夢に登場した女神は、アマテラス、あるいはその使者であった。『更級日記』を書いた菅原孝標の女は、そのようなアマテラスや長谷観音のお告げに沿って生きてこなかったことを後悔し、自分の悲運を嘆いた、ということなのだろうと思います。
 
 以上、お聞き苦しかったと思います。ただ、「鉢かづき」の物語は、最終的には長谷寺の物語として読んでいくべき物語であること、そして、その背景には、平安時代のことですが、長谷の観音が女性にとっての神として非常に重視されていたということがあった。そして、長谷の観音はアマテラスと同体であって、宮廷生活で立身をしていくためには長谷観音を信仰することが必要であると考えていた、ということがわかってくるわけです。これはまったく意外な話かもしれません。しかし私はここに、平安時代の女房世界の内部に存在した秘密を見ることができると思うのであります。平安時代の女房たちの希望--。はっきり言えば、それは、宮廷の中で立身をし、華やかな生き方をしていこうという気持ちであり、そういう気持ちを長谷寺とアマテラスは集めていったということになると思います。
 さきほども申し上げたように、一一世紀の平安時代半ばぐらいまでは、アマテラスはそれほど有名な神ではありませんでした。もちろん、『古事記』や『日本書紀』には、アマテラスは王家の祖先の神々として描かれていますが、社会的にはそれほど信仰の集中していた神ではありませんでした。むしろなんといいますか、神話とはいえないような演劇や物語で見栄えのする女神だったということもできると思います。女神というものを好むのは洋の東西をとわず、よくあることですから。そういうものとして八世紀の初めにはやったのだけれども、その後はなかば忘れられていた。少なくとも親しい神ではなかった。そうしたアマテラスへの信仰が拡大していく過程には、平安時代の女房たちの考え方や希望、野望、その人生があったのではないか、彼女らの盛んな長谷詣はそれを示しているのではないか、と私は考えているわけであります。その結果として作り出されていった宮中の巫女さんたちの世界がみえるようにも思っています。
 少しややっこしい、女房の立身の希望と蹉跌などという、なんとなく暗い話になってしまいました。ただ、もう一言つけくわえておきますと、以上は、溝口さんの『アマテラスの誕生』を読んだことをふくめて、実は、昨年、『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書)という本を書いた延長で考えていることです。その中で考えたのは、『源氏物語』に出てくる浮舟という女性がかぐや姫に自分をなずらえているのですが、彼女は「長谷の観音の賜へる人なり」といわれています。かぐや姫、浮舟、鉢かづきをつなぐ世界が長谷寺の問題からみえるのではないか。彼女らはみんな天女なのではないか。鉢かづきは長谷観音の申し子であり、天女であるということの裏側には、長谷寺を通じてアマテラス=天女のイメージがついてきているということにもなると思います。こういう天女のイメージ全体の中で、アマテラスをふくめてすべてを位置づけなおしてしまいたい。そうすると、話がなんとなく暗い宮廷ゴシップのような話にならずにすむかもしれないなどと思います。
 ともかく、やはり歴史は、現代から過去へ、室町時代から平安時代へ、平安時代から奈良時代へと遡るわけでありまして、こういうことを考えながら、少しずつでもこの国の歴史というものを紋切り型でなく考えていきたいという積もりでおります。
 以上で終わります。

なお、この講演のモトになっているのは、『物語の中世』にのせた論文である。図を見たい方は、そちらをどうぞ。ただ、長谷寺論は、そこではやっておらず、この講演ではじめてまとめた。これは相当ふかい問題と考えている。

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