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2012年8月 2日 (木)

三木清『歴史哲学』とハイデカー

 防災研の地震情報をみていると、ここ4/5日、福島原発南の地層浅部の正断層地震が顕著に減少してきている。まっかだったものが、バラバラという感じになっている。これはどういう変化なのであろうか。それにしてもほっとすることではある。

 7月31日に岩波新書の『歴史のなかの大地動乱』が校了になって、一日、部屋の整理である。まだ片づかないが、地震学関係、奈良時代政治史関係の本を移して、次の本のセットに変更する。半分は済んで目の前の風景が変わる。人文書の読者(研究者)にとっては本棚というのは、自分の頭の一部が一部変換されて目の前にならんでいるというようなものだが、そこにある細部の全体を確実に再占有する別の作業が始まる。
  
 こういう時には、別のことが頭にでてくる。
 歴史学の側からの歴史哲学なるものへの不信の根拠はどこにあるかということをいつか論じてみたい。その場合には、三木清の著作『歴史哲学』の検討から出発したい。三木清の仕事の検討によって、この「不信」の内容を再確認したいのである。
 役に立たない「歴史哲学」の筆頭はE・H・カーの『歴史とは何か』であって、よくあんな通俗常識論が版を重ねるものだと思う。これは歴史を忘却する国、日本の病弊、あるいは日本の「知識人」の病弊の一部なのではないだろうか。
 私は、大学時代、国際キリスト教大学にいた時、川田殖先生が寮の裏手に住んでおられ(というよりも川田先生の御宅の裏手にカナダハウスという寮があった)、川田先生の居間でのヘーゲルの読書会に参加した。私が参加した時は『法哲学』だったが、私がくわわる前は『歴史哲学』であったので、それを自分でも読んでみた。ほとんど中身は覚えていないが、『法哲学』とは違って勢いで読めた。そしてクローチェの『歴史と歴史叙述の理論』を読んだ。ヘーゲル・クローチェがカーと比較にならないのはいうまでもないが、しかし、考えてみると、そこに書いてある歴史事実を別にして、これらの本は歴史学者として実際に役に立つ歴史哲学というものではないと思う。たとえば、我々がブロックの『歴史のための弁明』を読んでもつような共感を豊かにひろげていったような歴史哲学が読みたいのである。

 歴史哲学といえば、ヘーゲルとハイデカーになるが、哲学とは実際にはきわめて言語的なものであるという意味で民族的なものである。ヘーゲルやハイデッカーの哲学はドイツ語という言語と不可分のものであった。きわめて意味ありげにみえる彼らの諸範疇は現実には彼らの言語的日常性(相当の俗物、とくにハイデカー)と不可分のものである。もちろん、彼らの哲学用語は狭い意味での民族言語の中に極限されているのではなく、たとえば存在論、オントロジーがギリシャ語の「存在=オン」、現象学、フェノメノロジーがギリシャ語の「示現=ファイネスタイ」に根拠をもっているように、ここで「言語的=民族的」という場合、それは同時に「伝統的」なものであって、しかもその伝統はヨーロッパ言語の長い歴史のなかに根拠をもっている。いうまでもなく、このような連続性を可能にしていることがヨーロッパの優位の根本的な理由なのであって、それは東アジアにおいても試みとして行われなければならないし、その意味はあると私などは考える。
 そして、哲学の歴史性という場合に、なぜ三木清の位置が根本的かといえば、それはこの哲学者が根本的な経験の中で生きたからである。京都の西田幾多郎門下からでて、ドイツに留学して、リッケルト・ハイデカーに学び、日本に帰った後に、ドイツ留学の際の友人、歴史家・羽仁五郎、そして岩波書店の創業編集者ともいうべき小林勇とともに『新興科学の旗の下に』を発刊し、戦前におけるアカデミーの「左傾」を導きながら、当時の「マルクス主義者」たちによる一斉批判をうけて、左派政治との直接の関わりから離れた哲学者。しかし、この哲学者は肉体・精神ともに不屈であって、太平洋戦争の挙国体制に対するひそかな叛逆の脈絡をわすれず、「冒険的共産主義者」高倉テルの逃亡をかくまって、獄に下り、一九四五年九月、獄中の迫害によって罹患した全身の皮膚疥癬に苦しみながら死去した。
 三木清の仕事をあらためて読んでみればわかるように、三木は、二〇世紀前半のヨーロッパ哲学の全潮流と対話し、その先端部分と共通する議論を展開している。ある意味でヨーロッパで覚えた呪文にとらわれて、それを呪文として整合的に組み立てようとしたという感じがする哲学ではあるが、しかし、その視野の広さは刮目すべきものである。三木は、新カント派からデュルタイ・ハイデカーに続くドイツ「実存哲学」の源流との直接的な関係において研究を進めるのみでなく、フランス哲学、フランス社会学、マルセル・モース、フランスの経済学者、サルトルなどを縦横に引用しつつ、議論を展開している。「三木哲学」は二〇世紀哲学の中でも、少なくともその構想や規模、そして現代に対する強烈な実践意識などのよって特筆すべきものである。パスカルから始まって、ハイデガーにいたる彼の蓄積と仕事は水準を越えている。
 第二次大戦は日本のアカデミーに対して、そして若手の学生・研究者に甚大な被害をあたえたが、三木の獄死は、成熟した研究者に対する実際上の殺害行為という点で、三木の盟友であり、批判者であった戸坂潤の獄死とともに、アカデミーに対する最大の破壊行為であった。とくに三木の獄死は八月一五日の敗戦後に起きた事態であり、アカデミーの側から日本社会の「戦後責任」を問う原点に位置すべきものである。日本社会は、敗戦の衝撃の中で自失し、軍国主義的天皇制国家によるアカデミーの破壊を意識的あるいは無意識的に容認したのである。しかも、三木の獄死の衝撃が、全国の牢獄にとらわれた治安維持法違反に問われた人々の解放のもっとも大きな契機となったことはよく知られており、三木は、その獄死によっても日本社会に大きな福音をもたらした。このいわば「三木清問題」というべき重たい歴史状況をあらためて問い直すことは、「歴史学と哲学の対話」にとってもっとも適当な切り口であることは明かなように思える。
 さて、これは三木という哲学者の人生の問題であるが、研究課題の問題として三木の『歴史哲学』の検討から出発するというのは、この本がハイデカー問題にかかわってくるからである。つまり三木清『歴史哲学』はその終章において未完の著作『哲学的人間学』への序説的な意味をもつ諸章の中で、はじめてハイデッガーにふれ(二三二頁)、しかし「然しながら人間学は存在論的として純粋に内在的な立場に立ち得るであろうか」と反問する。三木の『歴史哲学』はむしろハイデッガーとの格闘の序章であった。私はハイデカーを徹底的に批判することが歴史学の方法論にとって欠くことができない、それ抜きにはサルトル・ボーヴォワールその他の現代哲学を安心して利用することが不可能であると考えているので、三木が考えたことを復元してみたいのである
 三木の『歴史哲学』の出発点はハイデカーにあったと思う。つまり『歴史哲学』は、歴史を三層に分解する。存在としての歴史、ロゴスとしての歴史、事実としての歴史である。これは三木の基礎経験、人間学(アントロポロジー)、イデオロギーの三層構造にかかわってくるからハイデカーの影響であることは明らかなのであるが、「事実としての歴史」という言葉自体も、三木の造語ではあるが(『歴史哲学』三三頁)、実際にはハイデカーの言い換えであるように思う。つまりハイデカーは「歴史性という規定は、ひとが歴史(世界史的出来事)と呼んでいるところのものよりまえにあります。歴史性は現存在そのものの「生起」の存在構えを意味し、これに基づいてはじめて「世界史」といったものが可能であって、歴史的に世界史に属しているのです。現存在はその事実的な存在において、彼がすでにあったようであり、またすでにあった「ところのもの」です。現存在はその存在の仕方において、自分の過去性で「ある」のであって、この存在は、大まかにいえば、そのつど現存在の未来から「生起」します」(『存在と時間』(上)原文20頁)。三木は、「ひとが歴史(世界史的出来事)と呼んでいるところのもの」を「存在としての歴史」と呼称し、その「まえ」にあるものとして「歴史性」を措定し、それを現存在の「事実的な存在」と呼称し、これをタートザッヘとしての事実という形に読みかえているのだと思う。
 以上は、PCの中にあったメモを整序したものなので、自分でも、再確認しなければならない部分が多いのだが、ともかく、こういうことで、もう少し閑になったら続きをやりたいのである。

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