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2012年8月25日 (土)

春名風花ちゃんと大野更紗さん

Huukatyann120825_132516  娘に教えられて読んだ春名風花ちゃんの本。これは本当に面白かった。小学生がネットワーク世界のなかで有効な活動ができることの証明。このスピード感がなんともいえない。言葉使いも目を見はる。私はやはり家族に教えられて、大野更紗さんの『困っている人』を読み、大野さんのツウィッターをよく読む。そこでも同じような速さと言葉を感じる。
 「一体、これは何だろう」。
 まず風花ちゃん。こういう形での「電脳」的空間が子供たちの世界のなかに生まれるのは必然なのだと思う。一つ突き抜けているようにみえる。
 ここ10年、新しい虚実、清濁のすべてをふくむ電脳空間のなかにたたき込まれた若い人たちは、本当にたいへんだったのだと思う。彼ら、彼女らにとってはどういうことかわからない世界が急速に心身を浸していったという経験でなかったのではないかと思う。我々の世代は、19世紀的な知のなかで、それを継承することで生活を作ってくることができた。我々にはその苦しさがわからなかったのではないかと思う。
 彼ら、彼女らが、あとから追っかけてきた風花ちゃんのような世代をみて、自分たちの世代の苦しさが何のためにあったのかを、感じる、悟るということがあるといいと思う。
 ともかく、こういう能力と生活の仕方が、中学生ぐらいからは一般的なものになるというのが「先進国」の普通の風景になる時代は近いのではないかと思う。
 私は、それだから、それに対応できる知識空間を、ネットワークの深部に保障していくことは知的生産に携わるものの社会的責務なのだと考えてきた。ネットワーク空間の「清浄性」を維持しようという力学はつねに働くし、それはそれ自身としては自然なことではあるが、普通の学者としては、何よりのその深部に新しい知の岩盤を作り出すことこそが第一の役割であろうと考えてきた。ネットワークの中枢に確実な「自由の知」を置くことによって、自律的にネットワークの「晴れ上がり」を実現すること。そういうことを考え、そういうことを期待してきた。
 しかし、彼ら、彼女らにとっては、その前の問題があるのだろう。彼らにとって、精神の活動が頭と手先の肉球との関係のみでなく、全身的なものとなり、安定的なものとなるためには、別のものが必要になるのではないかと思う。その第一の条件は心身の健康であり、私は、彼ら彼女らが、まずはそれに恵まれるように願うが、その先にあるのは、彼ら、彼女らが一種の「演劇的な知」を身につけるということなのかもしれないと思う。
 私は「演劇的な知」という言葉を、最近、友人の渡辺淳氏のホームページで知ったが、ネットワーク世界の仮面性というものは、自己を演者として相対化することを強制するのではないかと、従来から考えてきた。そんなことを、このブログでも書いたと思う。「演劇的な知」によって浸透された人間関係。つまり、他者との関係を、舞台の上での平等な「演者」としての同朋性によって定常化し、自己規律していく社会関係というのは、いわゆる社交関係である。社交が「上流社会」のものであるのみでなく、社会全体の関係に平均的なものとなっていく。つまり「社会」が「社交世界」になっていくためには、社会の豊かさが必要になる。演劇は富を必要とするというのは昔からのことであろう。社会関係の演劇化が社会の豊かさによって保障されそれが社会の豊かさの同朋的な共有の関係の発展に反作用すること。「演劇的な知」が、社会の変化のために前進的な役割を発揮するようになればよいのであろうと思う。
 「演劇」の別サイドには、「瞑想」が必要になる。そして、「瞑想」も富を必要とする。「瞑想」にとって必要な富とは、生活のなかにある「物」の定常性であろうと思う。私はその意味で、19世紀のイギリス社会主義の重要な潮流にW・モリスがいたことの意味がきわめて重要であると考えている。W・モリスの『ユートピア』は私の愛読書、モリスが考えたことは、結局、「物」、工芸品のもっている「瞑想」的な意味であって、これがアールヌーヴォーの世界に連なっていく(よくは知らないのだが、おそらくそうなのだと思う)。生活の芸術化である。私は、「演劇」と「瞑想」の下部に潜在する生身の生活に価値をおくが、しかし、それが、「演劇」と「瞑想」におおわれることも大事だと思う。

 ともかくも「演劇」と「瞑想」、そのすべての前提としての「健康」によって社会が満たされ、それを内包する「富」が、社会を基底から変化させることを期待する、そのような明るさが、交通関係から生産諸関係のスタイルに全面的に入り込んでいくことを期待する。

 しかし、以上に述べたことは、以前から考えていたことの繰り返しであり、ある意味では自明なことである。
 わからないのは、この日本の列島、「先進国」の空間で展開しているネットワーク空間の意味するものではなく、やはり世界と世界史である。歴史家には一言でわかっていただける言葉でいえば、板垣雄三氏がこだわり続けている問題としての「N地域」「イスラム」の問題である。ユーラシア中央部から東南アジアまで展開している、この世界の苦しさがどうなっていくのかがわからない、これこそが世界史の中心的問題になっていることはわかるのだが、その意味、その世界史的な因縁と未来を明瞭に考えることができない。今年の歴史学研究会大会での長沢栄治氏の報告が活字になったらよく考えよう。
 しかし、大野更紗さんの本とページを読むと、そこにこの「世界」がすけてみえる感じがする。彼女のビルマとの関係、そして闘病からの復帰はあわせて本当に感動的だ。日本社会のなかで苦しい経験のなかで展開しているネットワーク世界の向こう側に「アジア」がみえる。
 これは我々の社会にとって、そしてこの社会を担っていく位置にいる若い人たちにとって、本当にどういう経験なのであるか。これは私にはわからない。このユーラシアの端っこの列島の過去にとらわれて仕事をしている歴史家には、「とてもわかることではないのですん」。

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