BLOGOS

著書

twitter

講演・取材依頼

  • アドレスmihotateあっとまーくkk.alumni.u-tokyo.ac.jp

公開・ダウンロード可能論文

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

2012年9月

2012年9月26日 (水)

月日のたつのは早いもの

 来週は京都出張で、久しぶりにお寺にうかがう。楽しみであるが、その準備で先週から忙殺されている。とくにデジタルデータの処理が、もう本当に駄目で、先週末共有ファイルと個人ファイルが二重化しているに気づき、昨日はその確認と直しで2時間以上を使ってしまう。やったはずのデータ処理がどこにあるかわからないということも多い。いくつもの仕事を執拗さにまかせて同時並行的にやるということはまだまだできる積もりだが、そこにコンピュータのデータ管理が入ってくるとお手上。そういう経験を、ここ数年で何度したろうか。
 最近書いた『歴史のなかの大地動乱』を2年ほど年長の先輩に送ったら、昨日礼状がきて、「もう何もできそうにない」と書いてある。長く御会いしていないが、本を送るたびにいつもそんなことが書いてある。私などは、いろいろなことに手をつける方なので、目先が変わるが、このK先輩は系統的な仕事をする人なので、段々煮詰まってくるから大変なのだろうと思う。しかし、いつもはそれだけでなく、送った本に対して、辛辣な感想が書いてあり、そして今回もそれを期待していたのだが、もっぱら「月日の経つのははやいもの」という論調で、さびしいことである。友人の毒舌というのはうれしいのだが。
 来週の京都出張につづいて、その週末に6日(土)には、東北史学会で講演なので、まったく余裕がない。行き来の電車でPCをシャカシャカやっていると、トンネルの中を走っているような感じになる。頭蓋が拡大して上と前にのびていき、そのほの暗い空間の中に自分が迷い込み、強迫観念のようにして前に走っているという感じである。薄闇のトンネルの中のランニングマシーン。
 もちろん、東北で先輩・友人に会うことができるということのみが楽しみである。しかし、ともかくも報告ができなくてはどうしようもない。

 次は、講演準備のためにPCの中の旧著『黄金国家』のテキストを呼び出していたら、その「あとがき」の最初のところに「叙述を急ぐ間に、急遽、筆を加えた論点も多く、最初に完成稿を読んでいただいた青木書店の編集者、末松篤子さんに「息をつめて駆けていくような」と評されたハイペースで余裕のない叙述になってしまった」とあるのをみて自分ながら笑ってしまう。WEBPageのあとがき集に上げた(自宅で本をみてみたら、この部分は削っていたが、編集者に世話になった記念にそのままかかげておく。なお、この本の道真関係外交史料の漢文の解釈には間違いがあることを石井正敏氏から指摘を受けている。いつか直さねばならない)。


あとがき
 本書では、奈良時代後半から平安時代半ばの時期の、東アジアと日本の関係史を、時系列にそって取り扱った。「通説」とは大きく異なっているので、どのように受け止められるかは心配であるが、ともかくも一つの通史的な歴史叙述を提供しようとしたつもりである。そのためもあって、「はじめに」と「序章」では、世界史的な大状況論や方法論を論じるにとどめ、「問題の所在」のような形で、本書の具体的な論点を提示することもしていない。その上、叙述を急ぐ間に、急遽、筆を加えた論点も多く、最初に完成稿を読んでいただいた青木書店の編集者、末松さんに「息をつめて駆けていくような」と評されたハイペースで余裕のない叙述になってしまった。
 そこで最後に、通常とは逆の順序となるが、とくに歴史の研究者・教育者のために、本書が具体的に論証しようとした主な点を、(1)外交史・政治史、(2)「民族複合国家論」、(3)国制イデオロギー論の三点にわけて、まとめておくこととしたい。「はじめに」「序章」での方法論議の点検とあわせて、これらの論点が、はたして論証されているか、あるいは仮説としての価値をもつかどうかについて御批判をいただければありがたいと思う。
 第一に、外交史・政治史にかかわる問題では、まず王の外交大権を表現する遣唐使について、奈良時代の前期遣唐使と九世紀の後期遣唐使の段階的・歴史的相違を、代替りの諸条件に注目して論じた。つまり、当時の東アジア外交の本質が王家相互の外交に求められるとすれば、奈良時代の遣唐使と九世紀の遣唐使の歴史的相違は、天武系王統の時代における皇太子の基本的不在、光仁ー桓武王統の時代における皇太子の常置の維持という事態の中に求められなければならないということになる。また、石母田正が提起した政治史と対外的契機の密接な関連という問題については、それを王権論を中心に捉えなおすという立場をとり、石母田がおもに注目した奈良時代半ばの新羅征討計画の再検討から出発し、光仁ー桓武王統の成立との関連、嵯峨・淳和の迭立問題との関連(恒貞廃太子事件との関連)、宇多ー醍醐王統と寛平遣唐使との関連などについて問題とした。
 これらは政治史の基本にかかわる論点であるが、本書の政治史叙述は基本的な部分で、河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』(およびそれを前提とした拙著『平安王朝』)に依拠しており、そうである以上、このような外交史的事実を前提として、将来、もう一度、最初から政治史自身の問題として検証する機会をもちたいと考えている。また、この時期の外交史の展開における天皇の外交王権とは相対的に区別された条件として、佐藤信のいう「大臣外交」という外交制度の展開を想定し、不十分ながら、八世紀の藤原不比等から一〇世紀の藤原忠平へというルートを引いた積もりであるが、これについては九世紀の議論がほぼ欠如しており、これも再検討が必要であると考えている。
 第二の「民族複合国家論」は、石上英一の提唱をもとに考えてきた論点であるが、本書では、八・九世紀を「日本」における民族複合国家の最終的解消の時期としてとらえるという問題提起を試みた。王権内部における百済系王族の位置という周知の事実を、藤原氏北家の興隆を内麻呂が自己の妻・百済永継を桓武に献上し、永継から生まれた真夏・冬嗣を平城・嵯峨に仕えさせて兄弟の間で異なる立身ルートを敷くという論点を中心に再編成し、日本王権と貴族社会の接点の中で渡来系王族・貴族の位置を浮かび上がらせることにつとめた積もりである。「民族複合国家の解消」という問題提起が、十分に明瞭な説明とはなっていないこと、とくに八世紀については俄勉強にもとづく論議に過ぎないということは自覚しているが、九世紀については、王子の乳母・東宮学士・渡来系公卿などを総合的に論じることによって、民族複合国家の解消形態という問題提起の形は整えることができたのではないかと考えている。とくに阿保親王ーー在原業平の渡来系の血統の問題、最後の渡来系公卿としての百済勝義の問題などをふくめて、ここでも仁明朝の位置が大きいことに気づいたのは、私にとっては大きな収穫であった。ただし、「民族複合国家の解消」という場合に国制的にもっとも大きな問題となる渡来系官僚の動向、その氏族意識、また、九世紀における「諸道」の官僚制への浸透において、渡来系官人の「日本化」がもった意味などについて十分に論じることはできなかった。これは、政治史と通史叙述に集中するという本書の性格からいって、やむをえないことであったが、これについてより具体的な議論なしには、「民族複合国家の解消」という問題提起は空論にすぎないという批判がありうることは自覚している。
 なお、この問題提起は、石母田正ー黒田俊雄ー網野善彦と、「戦後歴史学」の中で引き継がれた「島国意識」批判を前提としている。とくに序章で述べたように「島国意識」なるものが歴史家をもとらえる力をもつという網野の問題提起は、尊重され受け継がれなければならないというのが、私の立場である。そしてそれに関わって、「民族複合国家の解消」が、渡来系氏族の社会的な民族性・エスニシティそれ自身の解消と等置すべきものではないことは再確認しておきたい。私としては、九世紀における近江国愛智庄に関する鈴木景二の仕事に依拠しつつ、秦忌寸家継の素性についての論点を追加し、九世紀における地域レヴェルでの渡来系氏族のエスニシティの維持の可能性を示すほぼ唯一の文献史料群を分析できたのはありがたいことであった。とくに、この愛智庄は国際キリスト教大学に提出した不出来な卒論で扱った荘園であり、また秦忌寸家継の素性については、大学院入学後、指導教官となった戸田芳実から個人的に指摘をうけた問題であるので、やっとその指摘を活字にしたという感慨は深い。なお、私は、吉田孝が高松塚古墳の壁画が発見され飛鳥の遺跡を訪ねた時、「高松塚古墳を遠望する丘陵の道路のわきで休息したとき、在日朝鮮人の年配の方が、缶ビールを開けながら、『ここが祖先がやってきたところか』と感慨深くつぶやいておられるのを聞いて、私は深い感動におそわれた」という経験を述べているのを読んで触発され(吉田孝一九九七)、そのしばらく後に執筆した『平安時代』(岩波ジュニア新書)で、八六九年(貞観一一)の「新羅海賊」事件のあおりをくって東国に配流された新羅商人の日本認識、東アジア認識に自己同一化することによって見えてくるものに目を注ぐことが必要なのではないかと述べたことがある。以上によって、そういう視座を検討するための基本的な枠組みの幾分なりとも用意できたとすれば幸いである。
 第三の国制イデオロギー論は、平安国家の国制イデオロギーを「黄金国家」=「金輪聖王・仏教国家」=「万世一系・神国」=「清浄王権」などの等式の連鎖としてとらえるというもので、それは仁藤智子が論じたような「都市王権」の閉鎖的で分節化された都市空間構造が八世紀ー九世紀の過程で形成されるのに対応して生まれてきたものであるというが、私の立場である。またそれが山中恭子『黄金太閤』が示すように(中公新書一九九二)、日本の歴史を長く規定したイデオロギーであったこともいうまでもない。その趣旨は、本書に『黄金国家』なる題名を選択した理由に直結しており、また終章を御覧いただければ明瞭であると考えるので、ここでこれ以上の説明はひかえることとする。
 ただ、このような立論にとって、黒田俊雄の学説が決定的な意味をもっていたことだけは銘記しておきたいと思う。ずっと以前、歴史学研究会の一九八二年大会における村井章介報告「中世日本の国際意識について」(村井一九八八)の報告準備の過程で、村井が黒田説を前提として「国際意識のわくづけ」を論じたのに対して、批判的な意見をいったことを記憶しているが、今になって、私も、やはり黒田学説を前提にすることが必要であるという立場に到達したということになる。そして、その結論は、村井報告のいう「社会意識としての対外観」のさらなる解明は、国制イデオロギーの全構造、そして国際的商品の利用価値に付着するエキゾチックでフェティッシュな意識形態という側面から進められねばならないというものとなった。この点は、終章で詳しく述べたように、山内晋次などによって新たな段階に進められている、本書が前提とした近年の平安時代対外関係史研究に対する私なりの問題提起でもある。
 さて、本書では、本来は、平安時代全体について論ずる予定であったが、検討を進める中で、論述の起点が徐々に八世紀にさかのぼり、それによって平安時代については一〇世紀の半ばまでを論ずるだけで制限枚数に達してしまった。そのような経過を辿ったのは、このようなテーマをあたえられた以上、石母田正の議論と格闘せざるをえなかったことの結果であって、やむをえなかったとは考えているが、そのような事情によって執筆テーマが拡大・縮小し、執筆が遅れたことについて、関係者の御許しをえたいと思う。また、平安時代後期については、近刊の論集『歴史学をみつめ直すーー封建制概念の放棄』(校倉書房)に、本書の出発点となった「平安時代の国際意識」「現代歴史学と国民文化ー社会史・平安文化・東アジア」などの文章を収め、そこで若干の追補を行う予定である。なお、この論集は、その副題「封建制概念の放棄」でわかるように、本書の方法論議の前提となっている文章も収録する予定であるので、その意味でも御参照願えれば幸いである。
    
 本書は、今年九月から十月にかけての一ヶ月間、ロシア史の和田春樹氏の要請で、モスクワ大学での講義を受け持つこととなり、その機会に、講義とその準備以外の時間をつぎ込むことによって、やっと完稿することができたものである。しかし、「自称社会主義」なるものの残骸を目撃することとなったモスクワでの一人の生活には、気の重さもあった。ロシアの大学人たちが、旧体制のひどさを語り、そこから解放されてほっとしたというのに対しては、私も「ソ連崩壊」の時の歓迎の記憶を思い起こし、強く共感したが、しかし、他方で、現在のような「帝国」と私利私欲の横行、アフリカ・中央アジア地域の不運を強制された諸国家群の貧困、そして世界的な環境と伝統の破壊が、これ以上進んでいってよいとは、私にはとても思えない。その意味では、私たちの世代にとって、次の社会構成の展望は必須のものである。とはいえ、ロシアという現場に立つと、二〇世紀における様々な戦争と犯罪の中で、「自称社会主義」の犯罪が、簡単に乗り越えることができないような内容をもっていることも実感される。モスクワは暖かな晴天が続き、宿舎のアパートを囲む木々の黄葉は輝き、少し離れたモスクワ河河畔の広大な公園はさらに美しかったが、道を歩けば、そこを歩いている一人一人の人々にとって「自称社会主義」の歴史はどのようなものだったのかという疑問が浮かんでくる。それが私にとっての自然であった。
 モスクワで我しらずに引きつけられたのは、その博物館の展示の豊かさ、とくに中央アジア・シベリアから発掘された考古遺物のすばらしさであった。しかし、それらの遺物も、ソ連による中央アジアに対する「帝国」的支配の遺産という側面をもっている。訪問した「科学アカデミー」の東洋学研究所は、予算・研究条件がひどく悪化している様子が、傍目にも明らかであり、発掘調査の諸記録を保存し、公開するための研究体制と後継者の育成が万全とはとても思えなかった。他国のことであるから、発言をはばかるべきことも多いが、そもそも「遺跡の発掘」とは必然的に「遺跡の破壊」をともなうというのは考古学の常識であろう。一つの歴史的崩落を経過した国に滞在して、いろいろな意味で、ロシアの大学と学術の再興を願う気持ちをいだくようになったが、しかし、国家は、どのような運命に逢着しても、調査を組織し、遺物を動かした責任をとり続けるべきものである。
 こうして、博物館をみていても、ロシアにおいては、オリエンタリズムあるいはアジア支配のイデオロギーが十分に精算されていないのではないかという方向に、思考は推転していく。実は、それは出発前にふと読み残していたことに気づいてもってきた、レールモントフの『現代の英雄』を読みながらの感想でもあった。『現代の英雄』の最初がグルジア、トリビシからの旅に始まることを知ったとたんに、この小説をもってきたのは正解であったと思ったが、しかし、読み進むにつれ、引き込まれただけに、小説の中に流れる濃厚なオリエンタリズムには驚愕した。プーシキンのナショナリスティックな心情は周知のことであるから、考えてみれば、その後継者にあたるレールモントフを読んで驚いていても仕方がないのではあるが、しかし、『現代の英雄』はロシア文学史の常識では「ニヒリスト」の典型を描いたものであったはずである。この驚きは、中央アジアとの関係では、ロシアは一九世紀以来、大きな思想的変革は遂げていないのではないか。それは「自称社会主義」の本質に関わるのではないかなどという疑問にすぐに結びついていく。『現代の英雄』の文庫本は、ずっと以前、大学時代に買ったもので、長い間、書棚のレールモントフをみるたびに、これは何時か読まなければと思っていた私としては、「レールモントフ、おまえもか」という感じがした。
 こういう気分の中で、本書執筆のための心理的集中は、ロシア史の概説書を読み、またユーラシア史に関する本書でもふれたような著作を読み直すことで支えられた。私がロシアに行くということを知って、それらの本を読むことを進めてくれた知人に感謝したいと思う。そして、それと同時に、昨年、二〇〇二年の冬、韓国国史編纂委員会を訪問し、新羅の古都・慶州を訪ねた時の印象が鮮烈であったことにもふれておきたい。とくに、国立慶州博物館で武寧王陵・金冠塚・天馬塚などから出土した見事な「黄金細工」の遺物をみたことは、本書のテーマに直結していた。そして、その意味では、クレムリンの武器庫博物館でちょうどキルギスタンの「黄金の秘宝」の小展示があり、モスクワ大学のシーモノヴァ先生、神戸外国語大学のエルマコーワ先生の紹介で、キルギスタン出身の学芸員のアイヌーラさんの説明をうけることができたのも幸運であった(アイヌーラさんの専攻が江戸時代末期の美術史で、実は日本語が達者だだけに、ぎゃくに緊張しながら流暢な通訳をいただいたロシア近代美術史の福間加容さんにも感謝したい)。クレムリンの北につらなる国立モスクワ歴史博物館にも多くの中央アジアからスキタイにかけての「黄金文化」の遺物が展示されていたが、これらが、朝鮮三国時代の「黄金文化」の広大な背景であったことについては、本文でも参照した近刊の『日本の美術』「黄金細工と金銅装」(河田貞二〇〇三)でも述べられている通りである。
 昨年冬に韓国国史編纂委員会を訪問した時には、それが「日本」ー「韓国」ー「ユーラシア」という広範囲な歴史の現場を実感する最初のきっかけになるとはまったく考えていなかったが、親切に御案内いただいた国史編纂委員会の方々に、機会をえて、このことを報告したいと思う。その時、慶州博物館で日本の「勾玉」とまったく同じ大量の「勾玉」の遺物をみて驚き、さらに展示の説明によって、それが中央アジア遊牧民の身体装飾の直接の影響の下にあるということを始めて知ったこと、そしてモスクワでの博物館巡りで、どこかにシベリアの「勾玉」の現物が展示されていないかと期待したが、存在しなかったこと、どこに行けばみられるのだろうかなどということも話したいと思う。
 それにしても、「勾玉」という、この一事をとっても、韓国と日本、彼我の歴史家の常識の相違は、いったいどういうことなのだろうか。自分の無知をさしおいていうのではないが、歴史家相互の常識の相違は、「国民」相互の常識の相違にも反映するだろう。本書で展開したような世界史の波動と対外関係などの理論的・実証的研究を進めることも重要ではあるが、それと同時に、歴史家同士、実感と文化のレヴェルでの交流がもっと必要なのかもしれないということを強く感じるのである。
 さて、そろそろ、例によって長くなった「あとがき」を終えるが、もう一つ、昨年、韓国から帰国後、本書執筆のために読んだ田村円澄氏の『古代東アジアの国家と仏教』(田村二〇〇二)のことにふれておきたい。いうまでもなく、田村氏は仏教史の分野では、最長老の研究者の御一人であり、本書では、日本の飛鳥・奈良時代の朝鮮仏教と日本仏教の深い関係について、現在の議論レヴェルを作り出した諸業績を参照させていただいた。とくに、東大寺大仏開眼会への大人数の新羅使節団に大仏巡礼という性格を看取された論文「平城京の新羅使」は、本書の叙述が八世紀にまでさかのぼっていく直接のきっかけをなしたものである。それを確認するために、『古代東アジアの国家と仏教』を読み、さらに同書に第一論文として収められた「新羅文武王と仏教」を読んで、私は、やはり韓国の国史編纂委員会の方々の案内によって訪れた、慶州の東、菩提寺の感恩寺の沖の海中にうづくまる文武王の墓、「大王岩」を見学した経験が、一つの像を結んだという感想をもった。
 この海中墓は、七世紀後半の新羅・文武王が、その死去に際して「倭兵を鎮めんと欲し、海龍となる」(『三国遺事』)と決意し、そのために築かれたという伝承をもち、それは日韓の歴史学界の中でも通説となっているものである。私がこの海中墓の存在を知ったのは、約七・八年前、前著『平安王朝』を執筆した時のことであるが、韓国ではきわめて著名な事柄であることはいうまでもない。私が、前述のような彼我の歴史常識の相違を考えながら、冬の強風の中で、この海中墓を前にして、韓国の側から日本海=東海の荒波を眺めることに一つの感慨をもったことは御理解いただけると思う。ところが、この田村論文は、新羅における「東海散骨」の民俗風習一般に着目することによって、この通説を再検討し、「文武王は死後、『崇奉仏法』と『守護邦家』を果たすため、護国の大竜となることを願ったが、(中略)、文武王の誓願である『守護邦家』は、倭の新羅侵攻を防御する、という単一のこととするより、新羅の国土と人民を擁護するという高次の意味をもっていたと見るべきではないか」とした。そのような宗教的心情の存在を想定することによって、自己を「畜生道」に落とすことをも顧みなかった「王者の苦悩」と「心願の深さ」、そして「その王者の『恩』に感動した当時の新羅の人々の対応」が内在的に理解できるのではないかというのが田村氏の結論である。
 ここは田村氏の通説批判を検討する場でもなく、私はその任でもないが、細部のニュアンスは別として、またこの伝承自身をどう評価するは別として、田村氏の議論の趣旨に教えられたことは多い。本書に引きつけていえば、国の安穏と守護=「平和」を願った「文武の海中墓」と「東大寺大仏」はともかくも共軛的な場の中で検討されるべきもののように思う。本書の「はじめに」で引用したように、宮崎市貞氏は「歴史家の本当の任務は、むしろ先入観として世人の歴史意識を支配している幾多の枠そのものの検討にある」と述べている。私は、宮崎のように歴史学のあり方について確信をもって断言できるだけの質量をもった仕事を行ってはいないが、しかし、「通説」「歴史意識の枠組み」にとらわれず、この仕事をもっぱら事実にもとづいて遂行することが、歴史家の仕事であることは、もう一度、自己確認したいと思う。そしてそれと同時に、田村氏のような碩学が、右の論集の序文で、日本と東アジアの諸国の間のいわゆる「歴史問題」について、「われわれは謙虚に、この『歴史』と『事実』を認め、またこれを共有する諸国と同列・同格の立場で、原因解明の努力をなすべき段階を迎えている。そしてこれは、日本人ひとりひとりの自覚の問題であり、また責務である」と述べていることの意味を肝に銘じたいと思う。
   二〇〇三年一一月             保立道久

2012年9月21日 (金)

77地震火山、『歴史評論』の特集「原発震災、地震、津波」

Rekihyou120920_225045  『歴史評論』の10月号がでた。特集「原発震災・地震・津波ー歴史学の課題」がのっている。詳細は、以下の通り。
 (1)石橋克彦「史料地震学と原発震災」
 (2)渡辺治「戦後史の中で大震災・原発事故と復旧・復興を考える」
 (3)西村慎太郎「文書の保存を考える」
 (4)荒木田岳「福島における原発震災後の報道」
 (5)保立道久「平安時代末期の自身と龍神信仰」
 石橋克彦氏の文章は出色。「一、東日本大震災は何だったのか」は、3,11地震の地震学的な説明。「二、福島原発震災は何だったのか」は原発事故が「想定外の津波」によって起きたというマスコミの報道への厳しい批判。そして「三・四」と歴史地震学・史料地震学についての説明がつづく。是非、一読されたい。「歴史地震学」というのは「地震歴史学」ではないということが重要だと思う。それは「歴史情報学」「歴史環境学」「歴史知識学」などというのと同じことである。これは歴史学者にとっては、歴史学の立場から、地震学・情報学・環境学・知識学などに参加するという覚悟を表現している。地震歴史学という個別の分野を歴史学の中に作るということではない。「歴史地震学」という以上、すべての歴史学者が、それを自己の研究の基礎として認識しなければならないということである。
 趣旨と文章がさすがにわかりやすい。石橋さんのアムールプレート論の骨子も書かれている。ユーラシアプレートの東端を構成する小プレートとしてアムールプレートがあり、それが東に動き続けている。その動きは太平洋プレートと比べれば10分の一以下らしいが、しかし、この小プレートの運動を想定することによって、日本の地震がわかりやすくなるというのが石橋さんの意見。石橋論文が注1にのっており、産総研からpdfを読めるので、打ち出して勉強した。プレートテクトニクスの木村学氏もアムールプレート重視説のようである。地震学の方ではいろいろむずかしい問題があるようだが、東アジアのテクトニクスという問題領域は歴史学にとってもどうしても必要な話だと思う。とくに石橋論文に、バイカルからスタノボイがアムールプレートの北境で、一種のリフトであるとあったのはありがたい。これは『日本列島の誕生』(平朝彦)にも同じ論点があるが、歴史の方からは、さらにわかりやすい。あの地域への、火山の集中のふくめ、ユーラシア東部論にとって緊要だと思う。
 渡辺さんの論文も必読。とくに「新しい芽」がどこにあるか、「福祉国家」構想を出していかねばならない理由はどこかという部分は重大な問題提起。この文章はシンポジウムでの報告だが、私はシンポジウムの司会をしていた。その報告の迫力は相当のものであった。迫力をもって歴史学はしなければならないということを考えさせる。渡辺さんは元気。
 西村さんの論文は東京にいる歴史研究者は必読。3,11に関わって、宮城と茨城の状況報告があり、さらに東京において将来予想される史料レスキューのあり方、それをみすえて論じる必要は明快。東京には「移動する文書」が沢山ある。晴海の倉庫などには相当の旧公家などの文書が管理されているのではないかという話しも聞く。首都に関係する歴史学者がもっている責務は特殊で、複雑だが、それを時代をこえて共通認識にすることは本当に大変であろうと思う。しかし、江戸都市論はあそこまで進んでいるので見込みはあることだと思う。
 荒木田岳さんの論文「福島における原発震災後の報道」は、題名通り、原発震災後の報道とマスコミについてのと正確な記録と批評である。歴史学研究会の特集もあったが、日次を追い、福島県の現代史と地域史を追う中で報道の問題性を批評するという全面的なもの。現場からの意識を歴史学の学界誌に残すという意味で重要なもので、歴史学関係者必読であると思う。「この国は何という国か」という慨嘆を再認識するとともに、その事実から出発する歴史学者としての散文精神を忘れないようにしたいと思う。
 私の論文「平安時代末期の地震と龍神信仰」は、『方丈記』に描かれた津波は越前・若狭で起きた可能性が高いということを史料的根拠をあげて論じたもの。地震論は、東京大学の地震研究所の西山昭仁氏の仕事にほとんど依拠して論じたものだが、『方丈記』の津波についての推測は、『方丈記』の叙述が事実を少しでも反映しているとすると、日本海側と考えざるをえないと思う。
 

2012年9月20日 (木)

久しぶりの中年部会。おいて新潟

 Sakato120917_153113 写真は新潟魚沼郡の坂戸城の上。麓が海抜150メートル。この山頂が630メートルくらいであるから、このメンバーと私、計6人で、60分(くらい)で上ったのだから立派なものである。K氏が元気なのをみんなで喜んでいる図である。Y氏が参加できなかったのは残念。上越国際スキー場での車での待ち合わせがうまくいかず、50メートル離れたところで、おのおの「どうしたんだ、心配だ」とやっていた。
 翌日は全員で八海山山上のロープウェイ駅から標高差200メートルの女人堂まで往復。これは鞍部が三つほどある急坂の上下であったから、標高差にすれば同じくらい。これも安全・無事・迅速に行き来したからみんなの体力は相当のもの。標準のコースタイムを悠々クリアーである。
 歴史学の日本中世史のメンバーである。我々の世代だと歴史学というのは「運・鈍・根」であるという竹内理三先生のいわれたという言葉をよく知っている。「運・鈍・根」の基礎は体力であるから、これからも若い人の邪魔にならない領域で、仕事を続けて、ともかくも我々の世代が上の世代から受け継いだものを手渡していきたいと思う。
 いつの頃から始まったのかは忘れたが、「歴研中世中年部会」と称している。歴研中世史部会の運営と勉強会に一時期深く関わったという同世代の集まりである。当初はスキーの要素が強く、私などはみんなの能力についていけず、落後していたが、山登りならばついていける。すでに「中年」ではなく、「老年」であるという批判もあるらしい。また私などは、自分を中世史研究者とはいわなくなってしまった。つまり院政期以降の時代を「中世」というべきではない、「近世」というべきであるという「変節=変説」を遂げている。しかし、やはりこの名前が頭の中で「永遠の今」となっている。ともかく全員「アル中」にもならずに元気なのはありがたいことである。
 仲がいいのは、第一は芸術家が一人居てくれて、歴史の「運・鈍・根」とつき合ってくれて、半分は歴史学プロパーになっていてくれるためである。彼は、本来の出身は社会科学畑だから(藤田省三さんのお弟子)、文化ともつかず、科学ともつかない我々のような「日影の」歴史家をみているのが面白いのかもしれない。
 第二はほぼ全員、出身地が異なるためである。東京都内23区出身のシティーボーイは(今回不参加の一人を除くと)私だけ。長野・新潟という著名な歴史学者をつねに輩出してきたエリート地域出身者があわせて3人(名誉女王を入れると4人)もいるが、おのおの地域は違う。そして、それもあって、出身大学がほとんど違う。いま考えてみると上の写真はみんな出身大学が違う。それよりも本質的なのは「先生」がみんな違う。より正確にいえば歴史学方法論がほぼ全員違うということである。稲垣・永原・安良城・石井・戸田・河音などなど。私などはとくに中世史部会時代は、孤立無援をかこっていた。そして今でも、それは同じである。みんな意見が違う。これだけ違うのは見事なものだと思う。
 第四はそれにもかかわらず、歴史学研究会や歴史科学協議会という歴史学の在野学界への共感のもとに生活していることであって、ここはみなさん、相当しつこい。
 私は、東京での待ち合わせ場所だけはメモしていて、日程表は見ていなかったので、宿がどこかもしらずに、あんなに高いところまで登るとも思っていなかった。そして城の本格的な巡検とは思っていなかったが、最高の専門家がレジュメ・地図まで用意してくれて、さすがに勉強になった。
 最初に訪れたのが、坂戸城の南の樺沢城。上田長尾氏の早い時期の本拠。残念ながら、最近の崖崩れで城跡に登ることはできなかったが、城跡から見る膝下の小盆地の様子は、これこそ「在地領主」というイメージであった。
 その後にまわった坂戸城の頂上の様子が上の写真。樺沢の北にあり、やや後発の城という説が有力らしい。坂戸城の上からは、魚沼平野を上からより広く一望の下に入れることができる。
 二つの城を歩いてみると、領主制についてさまざまなことを考えさせられる。私は、広域的な複数領国を支配する広域的権力というものが、平安から室町の国家構成を理解する上で決定的な意味をもつと考えるようになったが、それを在地に媒介するのは、いわゆる「郡規模の領主」であろうということを考えさせられる。
 解説は、夜の報告につらなり、城の研究というものを「城フェティシズム」に陥ることなく、推進していこう、そのために必要な事柄はなにかということで盛り上がる。悠々とした報告で、それに応答して地域間交通路についての蘊蓄を聞かされたのも感銘。その応答を聞いていると、地域に基礎をおいた歴史学の強さを実感(私などは全然だめなところ)。
 みんなが悠々とやっている感じはうらやましい。私の仕事も話題となるが、所詮、私の仕事は「ハングリー歴史学」。基礎をつちかう仕事から再出発である。
  

和紙研究の論文を書く

 9,15。いま朝の総武線の中。土曜だが、和紙の論文を必死になって書いている。製紙科学の江前先生や職場の技術専門研究者の方々との連名なので、今日、草稿を完全に仕上げ、意見を聞いて直すところへまでもっていきたい。職場の年報に投稿の予定。はたしてうまくいくかはまだわからない。
 個人の責任としては、和紙科研という科研プロジェクトを認めていただき、その代表者をやったが、なかなか成果の公表がむずかしく申し訳ないことになっている。また公務が古文書編纂なので、その中で知った小さな諸問題をともかくまとめておきたいということで、先日から残業状態が続いている。和紙の研究はミクロな研究であるが、筆跡の研究とあわせて歴史学のミクロ化の重要な基礎になると考えている。
 私は河音能平さんが「古文書学」にこだわるのを、研究者はもっとも不得意なことをやりたがると広言していたが(戸田芳実さんもそういっていたので)、自分も結局もっとも不得手なことをやっていることは自覚している。それ故に、職業的な義務感を忘れてしまうともうできないと思うのだが、それだけに、いま終わらせておきたい。
 しかし、ミクロから突き抜けてマクロへ行くというのが自然科学、社会科学に共通した学術の発展の法則であると思う。史料編纂所の技術専門研究者の方との協同の中で、それを実感できたのはありがたい経験であった。
 史料翻刻の圧倒的な増大とそのコンピュータ化によって、歴史学は史料と史料の関係、史料にでてくる言葉と言葉の関係を知識化する条件をもつことになった。この知識化に空間・時間条件が加わえること、つまりGIS、地理情報システムが年代ごとでスクロールでき、クロノロジカルな編年システムが付け加わえることも早晩課題となるはずである。
 問題は、これによって研究の細分化が進んでいることで、60年代によくいわれた「個別分散化」である。こういう研究状況での合い言葉は史料フルテキストがコンピュータに入り、それが知識化された段階を前提にして研究を進める。その段階で容易にわかるようなレヴェルに自分の研究が留まることに満足しないということであろう。そして、それは実際には単純なことで、研究史を大事にし、理論と仮説をもって仕事を進めるということと実際上はイコールなはずである。そうでなければ若手は自分の研究でオリジナルなものができないことになる。
 もちろん、歴史学には不当に金がないから、そういうコンピュータ化がいつのことになるかは分からない。しかし、第一には、史料群の構造をふくめての史料と史料の関係がコンピュータ情報として空間時間システムと一体化・立体化する状態は100年後になるかもしれないが、かならず来る。必然的なことは、時間がどうでもあっても必ず実現するものだと思う。その程度には日本の社会の文化化に期待をもつのは当然のことだ。そのために研究者が少しの力でも割くのも当然のことだが、その意味ではこれはゆったりと考えるほかない。そして第二に、この史料テキストの中にはらまれている意識の形態を示す言葉自身を全体的に連関させて捉えきることだ。これはいわば意識の現象学の歴史史料への適用である。ようするにこれは昔の人たちの意識が生産した史料を、そのまま構造化してとらえる作業である。これがすべての基礎になる。
 ここまでは誰でもできるものと考えなければならない。もちろん、コンピュータの援助なしにそのレヴェルに到達するという経験は、それ自体として貴重だし、有益である。しかし、それは最終的には情報化されるものだ。そのレヴェルで満足していることは、とくに現代の専門職業研究者には許されない。
 これは倫理的な問題であると同時に、方法上の問題である。意識の中の世界の復元だけで、歴史的な客観世界が復元できると思っていたら、それは現象学的方法の陥穽に自分から陥っていくことであって、E・マッハにはじまる20世紀思想の罠の再生産にすぎない。そこから超越して、歴史的な客観世界の中に入っていくことこそがベルーフ、職業の名に値する仕事であると思う。
 そのためのマクロ・ミクロの方法を鍛えなければならない。マクロの最大のものはやはり歴史理論の分野であるが、その場合に必須となるのが、理系との協同、自然史レヴェルにかみ合う研究であるはずである。そして次はそれを前提とした「世界史」の仕事であるはずである。文理融合を前提とした世界史と歴史理論。
 それに対して、ミクロの代表が、史料の物的構造の中に入り込むことである。そのおもな担い手は当然に考古学となる。考古学を支える物的科学こそがそのペースメーカーになるはずである。考古学における史料の微細分析の研究者は欧米では考古学講座にはかならずいるという。
 そして、文献史学にとってはもっとも重要な史料媒体(紙)の製紙科学をふまえた研究になる。考古学からいえば、それくらいやれよということであろうか。これは史料の取り扱いを客観化し、そのデータを共有していく上で本当に重要だと思う。このミクロに入り込むことによって、そして文理融合の経験の中に入ることによって、マクロがみえてくるというレヴェルを、どうにかして、そのイメージだけでもつかむことが必要なのだと思う。
 私は、その意味で友人の「紙の研究者たち」を本当に多としている。論文を書いてみて、彼らがおしみなく知識を分けてくれたことのありがたさを実感する。「基礎をつちかう仕事」。
 日曜も出勤して、ともかく、やっとかけて、どうにか、明日から中年部会にでることができる。おわらなかったら大変だった。

2012年9月 9日 (日)

地震火山76NHKの「崩れる大地 日本列島を襲う豪雨と地震」と九世紀

 9月2日のNHKの「崩れる大地 日本列島を襲う豪雨と地震」を途中からみた。昨年9月の紀伊半島を襲った水害にともなう深層崩壊(deep-seated landslide)では、和歌山県十津川で谷間の村が対岸の山の深層崩壊によって埋没するという大被害の場が映しだされた。これは、南海トラフの沈み込みによって「流れ盤」と称する斜めの土層が形成されており、その上層部分が長い間にずれやすくなっている中で、豪雨が切っ掛けとなって大崩壊したものであるという。レーザー探査によって流れ盤の上の方に小規模な崖ができているのが危険信号かもしれないという調査過程での報告があった。この時の豪雨禍では紀伊半島各地に堰止め湖の形成にもとづく災害も多かったという報道も思い出す。
 三・一一東日本太平洋岸地震が福島県の葉の木平での緩斜面の深層崩壊をもたらしたことの説明もあった。この土層の崩壊はハロイサイトという水分をきわめてふくみやすい円筒形の土粒子からなる火山灰粘土層が、滑り台のようになって、地震の衝撃でその上に乗った地盤を滑落させるというものであるという。
 海水温の上昇が直接に集中豪雨のきっかけとなるという。温暖化にともなう降雨の増大と不安定化、とくに豪雨の頻繁な発生、そして地震の動きによって同じような被害がさらに予想されるという。
 『歴史のなかの大地動乱』を書くなかで、土木工学の仕事も少し読んだので、その中でだいたいの事情を承知していたが、さらに具体的にわかって参考になった。
 実は、このような山崩れの記事は八・九世紀史料の中で目立つ。『歴史のなかの大地動乱』でも述べた通り、八・九世紀史料では堰止め湖の形成とその決壊による災害という形でこの山地地盤崩壊を追跡することができる。七一五年の遠江・三河地震にともなう洪水(M6,5-7,5)、七七二年の豊後鶴見岳噴火にともなう災害、八一八年の北関東地震(M7,5以上)にともなう「水潦」(洪水)、八八七年の南海トラフ地震(M8~8,5)にともなう八ヶ岳山体の崩壊によって形成された古千曲湖の決壊にともなう大洪水などは山地地盤崩壊にもとづく洪水災害と考えることができると思う。
 この問題をはじめて指摘したのは、『古地震』(東京大学出版会、一九八二年)にのった論文「弘仁九年七月地震」(萩原尊禮・山本武夫)であろう。この八一八年の北関東地震の史料には「上野等の境、地震災をなし、水潦相仍り(あいかさなり)」とみえる。それまでこの「水潦」は津波と誤解されていて、この北関東地震は内陸地震ではなく、南関東も津波に襲われたのではないかと考えられていたが、山本武夫氏が「水潦」=「洪水」としたのである。上野国あたりで洪水があったということになり、これは山地に堰止め湖が形成され、その決壊によって洪水が発生したと解釈したのである。
 そして、もっとも有名なのは、最後の八八七年(仁和三)の東海南海大津波地震にもとづく大洪水である。この地震が東海南海大地震であることを論証したのは石橋克彦氏の大論文「文献史料からみた東海・南海巨大地震」(『地学雑誌』一〇八号4、一九九九)であるが、石橋氏は、この論文で、同時に、翌八八八年の信濃の大洪水は(『日本紀略』)、この地震によって信濃の北八ヶ岳の山体の一部が崩壊して、千曲川に塞き止めダムができ、それが梅雨時に決壊して引き起こしたものと推定したのである。
 この提言をうけて、考古学・土木工学の全体の研究が進んだ。JR松原湖駅付近の河道閉塞によって形成された古千曲湖は、シミュレーションによれば、湛水高一三〇㍍、湛水量五.八億㌧、その決壊時の洪水流の流量は約三.五万㎡/s、流速一.六㍍から五.〇m/sであるという。その洪水によって佐久・埴科・更級の千曲川流域一帯にひろがる広大な九世紀の条里水田が埋没し、回復不能なほどのダメージをうけた。それを明らかにした長野県の考古学関係者による、この五〇年ほどの営々とした発掘調査の成果は、柳澤亮がまとめている(「仁和の洪水と善光寺平の開発」(『考古学からみた災害と復興』東国古代遺跡研究会、2012)。また土木工学からは、井上公夫ほか「八ヶ岳大月川岩屑なだれによる天然ダムの形成(八八七)と決壊」(『日本の天然ダムと対応策』二〇一一、古今書院)がある。こういう協同的研究は文理融合の見本のように思う。
 この間、NHKは「深層崩壊」のテーマを繰り返しているようである。それは重要な問題提起であると思う。しかし、上記のような仕事が問題にされないのは何故なのだろうか。石橋の仕事などはもっと踏みこんで評価してもよいように思う。あまり学際的な視点というものがないのではないか。ジャーナリズムが学術分野全体の融合と調整をはかる、あるいは促進するということはあってよいことだと私は思う。
 大学や学術に対して、学際的・文理融合的な視点を政治家・官僚機構・ジャーナリズムは強調する。それはその通りであると思う。これが日本のアカデミーの弱さ、重要な社会的弱点であることは明らかだからである。
 しかし、とくに政治家・官僚機構の側には、本当に踏みこんだ政策や意思というものがなかったのではないかと思う。もちろん、大学の弱点は上からみていればよく分かるから、それを指摘するのは容易である。その指摘をすることを大学への介入と干渉の道具にしていたのではないかとさえいいたくなる。とくに最近の動向をみていると、大学の予算・人員を削り、新たな研究にとり組む余力も奪おうとしているようにみえる。中に踏みこまず、一緒に苦労しようとせず、自己反省もせず、ただ外から指弾するということでは困ると思う。
 とはいえ、ともかくNHKの番組は面白かった。とくに考えさせられたのは、「深層崩壊」のおこる二つの類型として、西日本の深層崩壊をもたらす「流れ盤」と称する斜めの土層は南海トラフの沈み込みによって形成されており、それに対して、東日本を中心とする火山灰山地にはハロイサイトからなる火山灰粘土層が分布しているという「深層崩壊」についての全国概念図であった。そのちょうど重なるところに、信州八ヶ岳があるようにみえたのである。

2012年9月 8日 (土)

地震火山75立原道造と『地震に克つニッポン』

Cimg0772  今日は東京大学の海洋アライアンスという文理融合の研究プロジェクトで出した本、『地震に克つ日本』(小学館)の発行打ち上げの飲み会で、根津へ出る。根津の串揚屋さん。
 根津にむけて歩く。ショックだったのは、東大の弥生門をでたところにあった立原道造記念館が取り壊しになっていたこと。資料はどう処理されたのであろう。おそらく20年もの間、いつか入ってみようと思ったまま、入らないままでいた。一度入っておけばよかった。
 立原道造の詩は、高校生の頃の愛読詩集の一つ。高校の授業で右遠(俊郎)先生の解釈をきいてむやみに感動したことを覚えている。解説の中身はわすれたが、詩自身はいくつも覚えている。立原は建築家の道に進んだが、それでは生計を維持できなかった。そして第二次世界大戦の進行とともに、日本ロマン派の影響をうけ、文学者としては大成しないまま(であろうと思う)、文庫本にして一冊の詩集を残したままで死んだ。立原が日本ロマン派の影響をうけて、「戦争の勝利」をいわう提灯行列に参加したという杉浦明平氏の書いた伝記の一節を読んで、その生と死の脆さに驚いたのは、大学院生の時だろうか。ずっと読んでいなかったが、その詩集が、いま、居間の書棚のところにあったと思う。
 われわれの世代では高村光太郎を読んで、中原中也、立原道造、そして三好達治を読むことが多かったと思う。いまの若い人はどんな詩集を読むのだろう。それとも詩集というものを読まないのだろうか。
 いま、よく飲んで、総武線の中。仕事はできないので、ワープロに向かって感傷的なことを書いている。

 飲み会は、海洋アライアンスの浦機構長、浦辺副機構長と、地震学の都司先生などと一緒。浦機構長は、茨城・福島沖の海底土の放射能調査や、そして会議で夏もまったく休んでいないと。あさって放射能調査の結果の記者会見だが、これは本当に大問題である、もっと体制を強化しなければならないと強調していた。都司先生は田老町でのまちづくりの委員会に出張して,その帰りということだった。会議時間が予定よりも延長され、ようやく来たとおっしゃっていたが、タフな古武士のような風格はかわらない。恩師が一緒のはずなのだが、ただいつもばたばたしてゆっくり御話しする機会がない。今回もそういう事情で少し遅れて来られたので、席が離れ、ゆっくり御話しすることができなかった。
 私などは不急・不要の研究者であることはわかっているが、空元気でもださねばという気持ちになる。『地震に克つ日本』の話で盛り上がる。この本は、海洋アライアンスのメンバーを中心に、3,11に対する地震学、海洋学、歴史学、社会学、法学などがどう立ち向かっているかをわかりやすく書いた本である。相当の内容があり、図版もわかりやすい。
 私も、地震研の平田直氏、都司先生と一緒に座談会に参加した。私はどちらかといえば言語不分明の方であるが、さすがにライターの人が書き起こしてくれた座談会記録はわかりやすい。私の写真ものっていて座談会の写真は仏頂面であるが、巻末の写真はまだ普通の顔である。
 平田さんは「南関東における巨大地震発生予測確率、30年で70%の正しい読み方」、都司さんは「安政江戸地震を精査してわかった首都・東京のウィークポイント」、またわたしも「『方丈記』の短い記述が示唆する若狭津波の可能性」というインタビユーをうけている。私の場合は、インタビユーとはいっても、下稿を書いた上で、文章化はライターの人がインタビュー形式にしている。
 そのほか、たいへんにわかりやすい本である。とくに自然系の研究者が3,11で何を考えているかがわかるように思う。小学館の編集者が、先週はずっと東北をまわってきた。どこにいっても研究者集団の中に東京大学の研究者やプロジェクトが動いていて、東大の研究者はよく頑張っていることがわかるといっていたのが印象的であった。大学は、3,11後の東北への関わりをさらに重視すべきだし、文理融合の研究を戦略的にさらに本気で進めなければならないということであった。
 さて、私がうれしかったのは、ウナギを研究されている大気海洋研究所の塚本先生の研究室の青山さんにあったこと。以前、海洋研で鎌倉時代のウナギについて講演したことがあり、その時にもお会いしているらしい。塚本先生によろしくと申し上げた後で、ひょっとして、アフリカでウナギ標本を求める旅を描いた聞くも涙の物語、『にょろり旅』(■■■文庫)に関係があるのですかと聞いたら、ご本人であった。署名してもらうにも本をもっていなかったので、記念に写真をとらせてもらった。

 浦環教授の記者会見は9月7日の新聞にでていた。福島と茨城で沖合まで連続的に放射能の濃度変化をはかることがどうしても必要であるということで、9月7日の東京新聞では「データがなければ対策もってられず、国は組織的に調査すべきだ」という浦教授の見解もでている。『地震に克つニッポン』には、海洋工学のロボットによって津波被害の行方不明者の捜索を行ったこと、そしてさらに、その仕事を続けたこと。「寝てても寝覚めがわるい。ご遺体が私を待っていると思うから」とある。そして漁場の環境調査も行っているとのこと。頭が下がる。

2012年9月 1日 (土)

地震火山74赤色立体地図と石巻

Sekishoku120901_135749

総武線の帰り。今日(8月30日)、先日見のがした「赤色立体地図」についての再放送がある。火山学の千葉達朗さんがでたとのこと。見ていた家族から聞くと、石巻の日和山がでてくる。我々も、7月に同じ日和山から津波の襲った海岸を見て、長い急斜面の道を降りて、そこを歩いた。その場面をみてみたい。石巻を襲った津波の様子を写した写真集(『大津波襲来、石巻地方の記録』(三陸河北新報社)は机の前にある。テレビをみた後に、その本を開きたいと思う。

 今日、いつも昼ご飯を食べるところで『芸術新潮』を読んだら、奈良美智さんが、昨年、3,11の後に仕事が何もできなくなった。自分の仕事が何の役に立つのかということを考えると、いてもたってもいられなくなった。その結果、ともかく寝る間もおしんで、彫刻、塑像を作ることに集中したということであった。芸術家は、具体的なものにふれて身体を動かすほかないということなのだろう。
 私も、ともかくも、一年以上を地震の歴史を考えることに集中した。それがつねに頭の中にあって気をせかすという状態を経験した。ただ、芸術家と学者の違うのはどこなのだろう。それはよく考えたことはないが、少なくとも我々は対象をみつめる。対象をみつめることを通じて、自分が対象によって占拠されてしまう。対象をみつめるのは意思にもとづいて見つめるのであるが、その見る行為の中で感情が喚起される。見るというのは思考の活動であるが、同時に視覚的なイメージの形成である。そのなかで対象によって自分が占拠されるという経験である。その他の記憶が頭脳の下部にかくれてしまうのである。そして、どこからか気持ちが動き出して、話をまとめようとする。個々のデータがデータのままでいるのを嫌がるので、徐々に対象の姿が自分の中に星雲のように立ち上がってくる。その意味では研究というのは受動的な仕事であると思う。
 受動的である上に、受けとめた情報の検証と組み合わせの作業は細かな手作業である。だから、人文学の学者は本質的に芸術家よりも職人に似ていると思う。歴史学について研究者の職人性ということをはっきりいったのは遠山茂樹氏であるが、これは実感である。遠山さんの言葉では「職人的研究者」。もちろん、歴史学の場合は、普通、素材は自然の材料ではない。普通、素材はもっと間接的なものであり、人間が、生きていき、歴史を作ってきた、痕跡を集め、発掘して、それらを一つの器用仕事の中で集めて仕上げていく。いわば歴史のゴミ、歴史という流れの底にたまったドロの中で、泥人形のようにして生きていく。そういう人間にとって芸術家は創造者にみえる。実は受動性は同じなのかもしれないが、しかし、何よりもうらやましいのはその経験の直接性と外向性である。作業対象が頭の中にあるのではなくて、目の前に「もの」としてあることである。
 しかし、今回の場合は、歴史学者にとっても相当に状況は違っていた。つまり、作業の素材として「自然」そのものが眼前に登場したのである。そして、人として生きている以上、東北と福島の問題は過去の問題ではなく、現在に直結していた。そして、今年一年、ともかくもそれらの直接的な経験のそばで集中して作業にとり組むという形で学術が全体として現代性を要求された。だから、今回の場合は、奈良さんがいったような感じ方がよく分かるし、共感ができる。
 このような「共感」を各々の独自の仕事の枠組みをこえて相互に実感すること、そしてその中から、少しでも現状の変化に前進的な役割を果たせるものを確保することが必要なのだと思う。ともかく、問題は始まったばかりなのである。
 『歴史のなかの大地動乱』のあとがきの最後に、次のようなことを書いたが、これはいま読むとたしかに自分の経験を表現していると思う。
 歴史学の役割のほとんどは、過去を復元し、取り戻すことにある。そこに様々な問題があるというのは、歴史家としての職業的な反省であり、それは、今、さまざまな職業ごとに、さまざまな形で反省されていることに共通する。しかし、このような反省や個人の思念をこえて、過去は、この列島に棲む人々すべてに関わってくる。大震災の実情に接するたびに、このような遠回りの仕事が何かの役に立つものかどうか、考えることは多いが、しかし、ともかくも、このように聞き取った過去の声を、多くの人々に届けたいと思う。

 さて、千葉達朗さんの赤色立体図の番組は、もっと長く本格的なものと思ったが、意外と短かった。しかし、9世紀の富士噴火の割れ目噴火のあとの画像はきわめて印象的であった。
 私が赤色立体図を知ったのは、ともかくもプレートテクトニクスを勉強しなければということで、新妻信明さんの『プレートテクトニクス入門』(これは歯が立たなかった。なにしろオイラーの定理という話から始まるので)などの本をめくってみた時、そして新妻さんのホームページを更新されるたびに見るようになってからである。そして箸墓古墳の赤色立体図をしってからである(地震火山71、7月16日のエントリー)。この図面は素晴らしいもので、前方後円墳の本質についてさまざまなことを考えさせてくれた。
 しかし、この赤色立体地図が日本で千葉さんによって開発されたものとは知らなかった。そして千葉さんが石巻の御出身であることは知らなかった。それ故に、石巻の日和山の上からの景観を、この番組でみるとは思っていなかった。

 番組の紹介では、千葉さんが火山の研究に志して今までそれを追究している理由は伊豆の火山噴火の問題にあったということである。それは火山学の研究者の間での共通体験なのだろう。千葉さんは、私が論文のみで知っている歴史火山学の研究者と知り合いに違いない。脳神経の仮想的な連鎖の中では、知り合いの知り合いである。
 火山学の研究者で私がお会いしたことがあるのは秋田大学の林信太郎氏のみだから(研究会で挨拶しただけだが)、二番目に顔を知った人ということになり、御出身の土地とお仕事を知った人としては初めての方ということになる。しかし、これによって知り合いの知り合いの網の目が一挙に具体的になったように感じる。
 何といっても、赤色立体地図の印象が強い。番組では富士樹海での調査の時にそばを通りかかったハイキングの女性が、赤色立体地図をみて「気味悪い」といっていたが、たしかに、それは我々が棲んでいる場所の「ぱっとはぎ取ってしまった後の世界」を印象させる。展示するのが適当かどうかが問題になっている人体の生の組織展示や人間の筋肉の解剖写真のような印象がする。赤色立体地図に描かれた火山の噴火口などは地球にできた腫れ物という感じである。レーザー光線によってみた地球。  しかし、この視覚イメージを小学生の頃からみていれば、地質学的自然というものが現実に存在するという下部意識を養っていくことになるのだと思う。日本で開発した技法。これを世界中で、教育の場所で使うようになればよいと思う。それは地球と世界の観照の仕方、そして地球の上での生活感覚を変えていくのではないかと思う。
 新潟の矢田俊文氏が、歴史学者は、研究対象の地域の地質を知らないで研究はできないといっているが、ともかく、自然観の基礎に、このベースが据えられなければならないのは明らかだと思う。

« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »