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2012年9月20日 (木)

久しぶりの中年部会。おいて新潟

 Sakato120917_153113 写真は新潟魚沼郡の坂戸城の上。麓が海抜150メートル。この山頂が630メートルくらいであるから、このメンバーと私、計6人で、60分(くらい)で上ったのだから立派なものである。K氏が元気なのをみんなで喜んでいる図である。Y氏が参加できなかったのは残念。上越国際スキー場での車での待ち合わせがうまくいかず、50メートル離れたところで、おのおの「どうしたんだ、心配だ」とやっていた。
 翌日は全員で八海山山上のロープウェイ駅から標高差200メートルの女人堂まで往復。これは鞍部が三つほどある急坂の上下であったから、標高差にすれば同じくらい。これも安全・無事・迅速に行き来したからみんなの体力は相当のもの。標準のコースタイムを悠々クリアーである。
 歴史学の日本中世史のメンバーである。我々の世代だと歴史学というのは「運・鈍・根」であるという竹内理三先生のいわれたという言葉をよく知っている。「運・鈍・根」の基礎は体力であるから、これからも若い人の邪魔にならない領域で、仕事を続けて、ともかくも我々の世代が上の世代から受け継いだものを手渡していきたいと思う。
 いつの頃から始まったのかは忘れたが、「歴研中世中年部会」と称している。歴研中世史部会の運営と勉強会に一時期深く関わったという同世代の集まりである。当初はスキーの要素が強く、私などはみんなの能力についていけず、落後していたが、山登りならばついていける。すでに「中年」ではなく、「老年」であるという批判もあるらしい。また私などは、自分を中世史研究者とはいわなくなってしまった。つまり院政期以降の時代を「中世」というべきではない、「近世」というべきであるという「変節=変説」を遂げている。しかし、やはりこの名前が頭の中で「永遠の今」となっている。ともかく全員「アル中」にもならずに元気なのはありがたいことである。
 仲がいいのは、第一は芸術家が一人居てくれて、歴史の「運・鈍・根」とつき合ってくれて、半分は歴史学プロパーになっていてくれるためである。彼は、本来の出身は社会科学畑だから(藤田省三さんのお弟子)、文化ともつかず、科学ともつかない我々のような「日影の」歴史家をみているのが面白いのかもしれない。
 第二はほぼ全員、出身地が異なるためである。東京都内23区出身のシティーボーイは(今回不参加の一人を除くと)私だけ。長野・新潟という著名な歴史学者をつねに輩出してきたエリート地域出身者があわせて3人(名誉女王を入れると4人)もいるが、おのおの地域は違う。そして、それもあって、出身大学がほとんど違う。いま考えてみると上の写真はみんな出身大学が違う。それよりも本質的なのは「先生」がみんな違う。より正確にいえば歴史学方法論がほぼ全員違うということである。稲垣・永原・安良城・石井・戸田・河音などなど。私などはとくに中世史部会時代は、孤立無援をかこっていた。そして今でも、それは同じである。みんな意見が違う。これだけ違うのは見事なものだと思う。
 第四はそれにもかかわらず、歴史学研究会や歴史科学協議会という歴史学の在野学界への共感のもとに生活していることであって、ここはみなさん、相当しつこい。
 私は、東京での待ち合わせ場所だけはメモしていて、日程表は見ていなかったので、宿がどこかもしらずに、あんなに高いところまで登るとも思っていなかった。そして城の本格的な巡検とは思っていなかったが、最高の専門家がレジュメ・地図まで用意してくれて、さすがに勉強になった。
 最初に訪れたのが、坂戸城の南の樺沢城。上田長尾氏の早い時期の本拠。残念ながら、最近の崖崩れで城跡に登ることはできなかったが、城跡から見る膝下の小盆地の様子は、これこそ「在地領主」というイメージであった。
 その後にまわった坂戸城の頂上の様子が上の写真。樺沢の北にあり、やや後発の城という説が有力らしい。坂戸城の上からは、魚沼平野を上からより広く一望の下に入れることができる。
 二つの城を歩いてみると、領主制についてさまざまなことを考えさせられる。私は、広域的な複数領国を支配する広域的権力というものが、平安から室町の国家構成を理解する上で決定的な意味をもつと考えるようになったが、それを在地に媒介するのは、いわゆる「郡規模の領主」であろうということを考えさせられる。
 解説は、夜の報告につらなり、城の研究というものを「城フェティシズム」に陥ることなく、推進していこう、そのために必要な事柄はなにかということで盛り上がる。悠々とした報告で、それに応答して地域間交通路についての蘊蓄を聞かされたのも感銘。その応答を聞いていると、地域に基礎をおいた歴史学の強さを実感(私などは全然だめなところ)。
 みんなが悠々とやっている感じはうらやましい。私の仕事も話題となるが、所詮、私の仕事は「ハングリー歴史学」。基礎をつちかう仕事から再出発である。
  

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