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2012年9月20日 (木)

和紙研究の論文を書く

 9,15。いま朝の総武線の中。土曜だが、和紙の論文を必死になって書いている。製紙科学の江前先生や職場の技術専門研究者の方々との連名なので、今日、草稿を完全に仕上げ、意見を聞いて直すところへまでもっていきたい。職場の年報に投稿の予定。はたしてうまくいくかはまだわからない。
 個人の責任としては、和紙科研という科研プロジェクトを認めていただき、その代表者をやったが、なかなか成果の公表がむずかしく申し訳ないことになっている。また公務が古文書編纂なので、その中で知った小さな諸問題をともかくまとめておきたいということで、先日から残業状態が続いている。和紙の研究はミクロな研究であるが、筆跡の研究とあわせて歴史学のミクロ化の重要な基礎になると考えている。
 私は河音能平さんが「古文書学」にこだわるのを、研究者はもっとも不得意なことをやりたがると広言していたが(戸田芳実さんもそういっていたので)、自分も結局もっとも不得手なことをやっていることは自覚している。それ故に、職業的な義務感を忘れてしまうともうできないと思うのだが、それだけに、いま終わらせておきたい。
 しかし、ミクロから突き抜けてマクロへ行くというのが自然科学、社会科学に共通した学術の発展の法則であると思う。史料編纂所の技術専門研究者の方との協同の中で、それを実感できたのはありがたい経験であった。
 史料翻刻の圧倒的な増大とそのコンピュータ化によって、歴史学は史料と史料の関係、史料にでてくる言葉と言葉の関係を知識化する条件をもつことになった。この知識化に空間・時間条件が加わえること、つまりGIS、地理情報システムが年代ごとでスクロールでき、クロノロジカルな編年システムが付け加わえることも早晩課題となるはずである。
 問題は、これによって研究の細分化が進んでいることで、60年代によくいわれた「個別分散化」である。こういう研究状況での合い言葉は史料フルテキストがコンピュータに入り、それが知識化された段階を前提にして研究を進める。その段階で容易にわかるようなレヴェルに自分の研究が留まることに満足しないということであろう。そして、それは実際には単純なことで、研究史を大事にし、理論と仮説をもって仕事を進めるということと実際上はイコールなはずである。そうでなければ若手は自分の研究でオリジナルなものができないことになる。
 もちろん、歴史学には不当に金がないから、そういうコンピュータ化がいつのことになるかは分からない。しかし、第一には、史料群の構造をふくめての史料と史料の関係がコンピュータ情報として空間時間システムと一体化・立体化する状態は100年後になるかもしれないが、かならず来る。必然的なことは、時間がどうでもあっても必ず実現するものだと思う。その程度には日本の社会の文化化に期待をもつのは当然のことだ。そのために研究者が少しの力でも割くのも当然のことだが、その意味ではこれはゆったりと考えるほかない。そして第二に、この史料テキストの中にはらまれている意識の形態を示す言葉自身を全体的に連関させて捉えきることだ。これはいわば意識の現象学の歴史史料への適用である。ようするにこれは昔の人たちの意識が生産した史料を、そのまま構造化してとらえる作業である。これがすべての基礎になる。
 ここまでは誰でもできるものと考えなければならない。もちろん、コンピュータの援助なしにそのレヴェルに到達するという経験は、それ自体として貴重だし、有益である。しかし、それは最終的には情報化されるものだ。そのレヴェルで満足していることは、とくに現代の専門職業研究者には許されない。
 これは倫理的な問題であると同時に、方法上の問題である。意識の中の世界の復元だけで、歴史的な客観世界が復元できると思っていたら、それは現象学的方法の陥穽に自分から陥っていくことであって、E・マッハにはじまる20世紀思想の罠の再生産にすぎない。そこから超越して、歴史的な客観世界の中に入っていくことこそがベルーフ、職業の名に値する仕事であると思う。
 そのためのマクロ・ミクロの方法を鍛えなければならない。マクロの最大のものはやはり歴史理論の分野であるが、その場合に必須となるのが、理系との協同、自然史レヴェルにかみ合う研究であるはずである。そして次はそれを前提とした「世界史」の仕事であるはずである。文理融合を前提とした世界史と歴史理論。
 それに対して、ミクロの代表が、史料の物的構造の中に入り込むことである。そのおもな担い手は当然に考古学となる。考古学を支える物的科学こそがそのペースメーカーになるはずである。考古学における史料の微細分析の研究者は欧米では考古学講座にはかならずいるという。
 そして、文献史学にとってはもっとも重要な史料媒体(紙)の製紙科学をふまえた研究になる。考古学からいえば、それくらいやれよということであろうか。これは史料の取り扱いを客観化し、そのデータを共有していく上で本当に重要だと思う。このミクロに入り込むことによって、そして文理融合の経験の中に入ることによって、マクロがみえてくるというレヴェルを、どうにかして、そのイメージだけでもつかむことが必要なのだと思う。
 私は、その意味で友人の「紙の研究者たち」を本当に多としている。論文を書いてみて、彼らがおしみなく知識を分けてくれたことのありがたさを実感する。「基礎をつちかう仕事」。
 日曜も出勤して、ともかく、やっとかけて、どうにか、明日から中年部会にでることができる。おわらなかったら大変だった。

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