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2012年10月

2012年10月22日 (月)

獲得型教育研究会で講演ー地震火山神話をどう教えるか

 土曜日は「獲得型教育研究会」で講演。『歴史のなかの大地動乱』の第四章「神話の神々から祟り神へ」をレジュメに組んで、その全体を話す。質問を入れて2時間の時間をいただいたので、1時間を右の「神話の神々から祟り神へ」の紹介、そして20分ほどを、今年春に小学校で話した「龍の話し」のパワーポイントにそって神話教育に関係する話しをした。
121022_085218  私は、すでにわかってしまったと感じていることを繰り返すのは苦手。いつも新しくわかったという感じを「ばね」にして話しを組み立てるというやり方でやってきた。今回も、前日まで新しい話しを考えていたが、結局、そうそう新しい話しを最初から組み立てるのはすぐにはとても無理ということがわかった。そこで、前夜になって予定を変更して、『歴史のなかの大地動乱』の一部を話すことにした。
 しかし、同じことを繰り返して話すということもするべきことなのかもしれない。ともかくも昨日は国語・英語・音楽などの集う分野横断型の教育の研究会で話しをして自分でもいくつかの発見があった。学者と教師は同じ専門性の中に生きる人間なので、話していても親しい感じがする。話しやすい。
 講演に行く時の電車の中で考え、そして講演のラストに話したのは、「神話の神々から祟り神へ」というテーマの現代的な意義は何かということであった。これまでも無意識には考えていたが、自著の、この部分をあらためてふり返ってみるなかで、次のようなことが自然に浮かんできた。
 つまり、教師の方々を前にして話すということになると、この問題が、結局、「神話」を、どう子供たちに伝えるかということであることを実感した。そしてそもそも、「神話」をどう考えるかは、やはり「日本の学術と文化にとっての最大の問題の一つ」であるとも思う。最近では、娘が読んでいた、こうの史代さんのマンガ『古事記』を読んだ印象が強い。私は、『古事記』は実に面白い。残っている文学としても、当時の世界水準からいっても、実に見事な文学だと思う。それをどう生かすか。
 それを検討していく上で、前提として重要なことは、「明治維新」の中で形成され、第二次世界大戦の敗戦の中で、大きく影響力をうしなった国家神道、しかし、現在でも影響力を失いながらも確実に存在している国家神道と「神話」それ自身を区別することである。これは歴史学者としてゆずることのできない一線である。
 私は島薗進『国家神道と日本人』(岩波書店)が明解に描き出したように、現在の日本社会の中にも「国家神道」は確実に生き延びてきたと考えている。しばしば日本社会の支配的な思想の中には「宗教は存在しない、無宗教である」という言説がみられるが、実際には薄められた国家神道は存在しているというのが事実であると思う。その場合に「国家神道」というのは村上重良氏の議論を受け継いで島薗氏がいっているように、皇室神道(宮廷神道)+神社神道(神官貴族の神社)+国体論(「万世一系」)の三位一体でできているものである。普通の国民意識の中ではこれらがあつまって三位一体をなしている様相はみえないが、たしかに存在して、日本人の精神や宗教意識に大きな影響をあたえているという島薗氏の意見は説得力がある。
 そういうものとは別の次元で、事実として存在した「神話」を民族的な文化遺産の重要な一部として評価しなおすこと、その全体像を捉え直すことは歴史学にとって大事な仕事である。歴史学はそれをはっきりと課題として提示した戦後派歴史学の中心人物、石母田正の「英雄時代」論にもどって問題を考え直す必要があると思う。
 その場合にとくに重要なことは、次の二つ。第一には、『歴史のなかの大地動乱』で描いたような日本の神話のもつ統一的な世界観、国土観をさらに明瞭に描き出すことである。雷神(タカミムスヒ)、地震神(スサノヲ・オオナムチ)、火山神(イザナミ)の三位一体によって描き出された、この日本列島についての神話的なイメージである。これはある意味では日本の国土についてのよくできた理解可能なイメージであると思う。これは、それ自体としてはけっして単に荒唐無稽というものではない。自然科学による日本列島に対する地質学的な認識をベースに国土論、国土イメージを形成していく上でも大事な位置があると思う。つまり、日本の自然認識の一部としての神話論ということである。
 第二は、「神道」のもつ「忌み」の思想の意味を考え直すことであると思う。これは益田勝実がいうようにたいへんに興味深いものであると思う。益田のいうことを少しパラフレーズすれば、日本の村落は、「忌み」という形で、対象的な自然と人間の主体的自然がじかに向き合う時間を季節的に作るという習俗をもちつづけていた。そして、この民衆的・村落的な神の習俗は、九世紀の村落社会が神話世界からの離脱の中で生み出したもの、神話の中から、その遺産として社会が抽出してきたものではないかと思う。それは共同体的生産を支える世俗的な思想、東アジアにおける現世宗教(Secular religion)の一形態である。それが自然の持続的な開発、あるいは逆にいえば意識的保存の装置として機能しつづけていたことは、各地の神社の境内をみればわかる。

 抽象的な言い方ではるが、これを御話しした後に、この間の私の持論になっている「安全神話という言葉への違和感」を説明した。「安全神話」という言葉は、「神話」というものは悪いということをいっている言葉であって、これは「神」を蔑するものである。私は無神論者、唯物論者であるが、そうであるからこそ、その対極に存在する宗教意識の内部に存在する価値あるものに意識的でなければならないと考える方である。宗教がなければ無神論も存在しないのである。そして、そもそも、安全神話という言葉は、いわば「一億総懺悔」と同じで、「原発事故」は社会全体が悪かったというニュアンスをふくんでいる。懺悔だとか、神話だとかいう宗教的な言葉を世俗的な事態の説明にもってきて、ものごとを曖昧にするのは日本語の悪しき伝統である。
 もちろん、原発震災は、さまざまな立場を超えて、日本社会のあり方に対する反省、内省を迫っている。しかし、そのことと、実際上、系統的・意識的に「安全宣伝」をしてきて、社会に対して甚大な損害をあたえた政治家や企業集団が存在したということは別のことだろう。「安全神話」という言葉は、その事情を曖昧なままにして物事を語るためにマスコミが作りだした言葉である。
 それにしても、この三、一一の後の時間に、一貫して原発の危険性を警告し、原発震災の危険を訴えてきた地震学者、石橋克彦さんとあらためて面識をもつことができたのはありがたいことであった。そのことの感情的な支えなしには、史料の分析と総合によってなかばは自動的に進むことのできる歴史学のような「運・鈍・根」の学問の仕事といえども、私には進めることはできなかった。神話論の内部に切り込んでいこうというような志向をもつことはできなかったと思う。

 さて、獲得型教育研究会は面白かった。代表の渡部淳氏は母校の国際キリスト教大学の後輩で、大学時代から親しい。ICUは今でもよいが、彼はICUのよい時代を思わせる人。少し詳しくいえば、彼は、私たちの「大学紛争」の時代には現実にはなかったようなICUの教養主義の様子を体現するような人である。
 彼のいう「演劇的な知」の活動すべき場所としての教室という考え方は、私は重要であろうと思う。教師が自己の授業の「演劇」性を自覚することが、自分を客観化するための哲学的あるいは心理的な保証である。そしてそれは教師が、これは一つの「演技」であるということを自覚していることが、生徒=子供の思想信条の自由を確保する上で、きわめて重要である。そして教室が劇場であるということは、そこが教師と子供がともに作り上げていくべき場であることの正確な自覚にむすびつく。
 しかし、問題はさらにその先にあるのだろう。つまり、教育の演技性は真理の相対性を表現するが、それがダイナミックなものとして、真理の質の徹底(いわゆる絶対的真理)にむけての螺旋をえがくためには、基礎構造としての研究と教育の統一が絶対的に必要である。演技である以上、多様な台本が次から次への生産されることが必要であり、その中で、台本の解釈そのものが時々刻々相対化されなければならない。
 知識の運動の中に、そのような仕掛けをもつことなしには、演技は演技として成立しない。学問と教育が豊かな相互関係をもつことなしには、劇場は劇場性をもたないのである。これは劇というものが日本の文化の中でどうなっているかということに深く関わってくる。
 渡辺淳氏のブログには、彼のイギリスの劇場への強い共感が表現されているが、ヨーロッパの劇場文化の基礎には、豊かな社交と音楽と「富」が、それを支えるものとして機能する地盤がある。最近の日本には「空がない」だけでなく、社会に根をもった「劇がない」。劇において社会の芸術が表面化する構造と授業において社会の文化・学術が表面化する構造は同じことであると思う。
 
 さて、研究会のあとは懇親会であった。私は飲み過ぎたが、これも楽しかった。話題は、学者と教師のネットワークをどう考えるか、それを時間をかけて作っていくということはどういうことか。より一般的にいえば専門職のネットワークが社会にとっていかに大切かという話しにもなった。専門性と専門職のネットワークが機能しない。それをどう機能させるかを、日本社会が処遇することを知らないというのが、日本社会の最大の脆弱性であるという話しをした。専門職をムラにしてしまう構造をどうするか。

 社会は共同体における「対自然」の協同意識と、専門職のネットワークによって基礎から民主主義的に組み上げられるべきものである。その二つの場面に意識的になることは原則な倫理の問題である。その意味でも学術の世界の中に「ムラ」をつくってしまうのは、根本的な錯誤であるが、それを不可能にする条件は、やはり現代の精神的生産をめぐる社会的分業の中では、中軸としての学者と教師の連携であると思う。

2012年10月16日 (火)

史料編纂所でのシンポジウム

 朝の総武線。一昨日は(10月12日)職場の共同研究関係の集会で和紙研究についてのパネルがあり、出席。
Img06347  富田正弘氏(富山大学名誉教授)「対馬宗家文書の料紙研究」、藤田励夫氏(九州国立博物館)「古文書料紙の物理的手法による調査研究」、角屋由美子氏(米沢市上杉博物館)「古文書料紙の物理的手法による調査研究ー上杉家文書による戦国期料紙の再検討」、江前敏晴氏(筑波大学)「中世古文書に使用された料紙の顕微鏡画像のデータベース化と非繊維含有物の分析」、高島晶彦(史料編纂所)「料紙研究の成果とその応用ー保存修復と史料学研究」からなる。
 私が和紙研究にとり組み始めたのはお寺の文書の調査をしている中で、重要文化財指定に協力することになり、作業が大規模化する中で科学研究費を申請した。その時、当時、本格的に始まっていた和紙の歴史学的研究を、その科研の一つのテーマとしたのだが、それが長い研究の始まりとなった。
 その時、高知県紙業試験場に行って、大川昭典氏に教示をうけ、さらにそのころは東大農学部にいらした江前敏晴先生に協力を求めたのが、自然科学的な研究を知った最初であった。その時、大川さんに和紙のネリ剤につかわれるトロロアオイの澱粉の顕微鏡画像をみせていただいたのは今でも印象に残っている。ヨードで染めた青い綺麗な画像。あの形は今でも覚えており、紙の繊維を顕微鏡で見るたびに、その中に含まれていないかを探す癖がついている。しかし、いまだにそれを和紙の中に確認したことはない。
 江前先生とは、そのしばらく後に、米沢の上杉博物館にいって文書の調査を御一緒した。なにしろ同じ大学で近かったので、江前先生の農学部の研究室にうかがってお知恵をいただくことが多くなった。農学部の製紙科学の研究室は史料編纂所と同じように手狭で、先生は教室の隅に机を一つ確保しているだけで、他は実験設備と学生の研究スペースに開放されているのに、親近感をもった。今回の先生の報告は、和紙の中に含まれる非繊維物質のうち紙質を作り出す上でもっとも重大な意味をもつ柔細胞についての報告であったが、楮の表皮に含まれる柔細胞が、生産された和紙の中にどのように残っているかを疑問の余地なく示したもの。これは今後の和紙分析の基礎になるだろう。
 次はトロロアオイのネリ剤が生産された和紙の中でどのように形態転換して残っているかを明らかにする課題があるはずである。考えてみれば、大川さんがみせてくれたトロロアオイの画像そのものを和紙の繊維の中に探すのは、そもそも無理な話しだったのかもしれない。いずれにせよ、トロロアオイが紙の中にどう残っているかが、分かれば、和紙においていつ頃から、どのようにトロロアオイが使われるようになったかを明らかにできるだろう。和紙は、本来、百済系の渡来人がもってきた檀紙つまりマユミ紙から始まった。トロロアオイが、いつから使われるようになったかということは、日本の製紙技術の確立過程を考える上では決定的な問題であるはずである。

 私にとっては、こうしてお寺の4000通余りの文書の紙質調査をして調書を書くという作業にとり組んだのが、最大の基礎経験となった。この時、史料編纂所の修復室・写真室の協力をえられたのが本当にありがたかった。和紙の紙質についてそれなりに自然科学的な目をもっているというのは、編纂をする上で強い味方になり、作業を安定化させる。今日の史料編纂所の修復主任、高島晶彦氏の報告は見事なもので、それを聞いていると研究所における技術専門研究者の位置の役割の重大性を実感する。
 九州国立博物館の藤田氏と米沢市上杉博物館の角屋氏も研究の仲間。藤田氏には史料編纂所の関係でさんざん世話になったが、私が代表をつとめていた和紙科研の研究が博物館に少しでも役に立ちそうでありがたいことである。角屋氏には、江前先生と知り合った直後に上杉博物館に行って以来のご縁。もう何年になるのだろう。本当に長いと思う。

 こういう種類の時間がかかり、しかも共同がどうしても必要な研究というのは普通の歴史学の共同研究とは異なっている。私の知っている限りだと、なにか考古学の学会に似ている感じがする。そもそも「物」をみる経験によって進まざるをえないという種類の研究である。もちろん、顕微鏡や光沢度計その他の機器を使い、できるかぎり標準的な調査と記録の方法を作りだしてデータベース化し、それによって情報を蓄積し共有するということを目ざして研究を進めるのだが、これだけ事が困難だと、いつも丈夫の心という訳にはいかない。研究が進まなければどういうデータをためてよいのか、このデータの取り方でよいのかに確信がもてなくなり、心細い思いを何度もすることになる。そういう中で、自然科学というのは頼りになるものだということを実感する。これも考古学に似ているように思う。
 
 この種類の文理融合、大学と博物館の協同という研究のスタイルがさらに増えていくといいと思う。私の職場は研究所なので、研究のスタイルは先端的であると同時に地道な基礎研究でなければならず、しかもそれが協同的な場を広げるものではければならないのだが、今回のような場合は、富田氏などの先行する研究と文化財行政の中での大量の経験に教えられて進むことができた。富田氏の報告は、韓国・中国・琉球の文書料紙との比較という気宇壮大なもの。この東アジアの紙という問題が最終ゴールなので、まだまだ時間はかかるに違いない。
 帰りの総武線。今日はいろいろな人にばったりの日。本郷通りで、和田先生。東京駅でエディターの長井さん。

2012年10月14日 (日)

地震火山78『大震災のなかで』の加瀬和俊さんの文章

 友人の加瀬和俊氏から『大震災の中でー私たちは何をすべきか』(岩波新書)をもらう。内橋克人編で昨年6月に出されたもの。加瀬さんは、水産経済が専門で隣の研究所。昼過ぎ、食事にでようとしたら、メールボックスに入っていた。
 「漁業の復興に必要なこと」という端的な題の文章である。いま、帰りの総武線で読んでいる。「震災後1ヶ月の時点で書いたものですので、状況は大きく変わっておりますが」というメモが入っていたが、基本点は、いまでもこの通りなのだと思う。明解な問題の整理と喫緊の課題の提示は、さすが専門家である。
 冒頭に、東日本大震災においては津波による犠牲者が大多数であるということは、被害の中心が沿岸域にあり、それゆえに、被災者は、産業的には漁業・漁業関係産業の従事者やその家族が多い。そして、被災者生活再建支援制度による300万の「支援金」はあっても住宅再建は少なくとも数百万の資金が居ること、船その他の漁業用の生産手段は「親から子へ、子から孫へと代々に渡って少しづつ蓄積されてきた」もので一時に補填することはできないこと、このままでは「世界の三大漁場」といわれる東北地方太平洋岸は漁業衰退地域となる可能性が高いことが詳しく述べられている。
 そして、国家として必要なことを次の三点にまとめている。(1)自営業に科せられている災害復旧の完全個人責任の原則を廃棄し、漁業の生産手段についても保障と支援を考えること、(2)共同化をふくめた漁業の下からの再建の動きを最大限支援すること、(3)漁協の再建に特別な支援を行うことである。このうちもっとも当面の最大の課題は(1)だろう。加瀬さんはヨーロッパにおける国の漁業援助が実に周到であるのに対して、日本ではまったくことなっているということをどこかで論じていた。それと同根の問題であるが、日本の政府は漁業に対してたいへんに冷たい。
 共感するのは、「これらの要求を支える考え方は、個人に責任の無い負担は分かち合わなければならないという単純な理念である」という部分。加瀬さんはさらにつづけて「地球人みなが公平に負うべき被害を特定地域の一部の人々だけが負わされてしまったという現実に対して、その人々をして滅びるにまかせるのはあまりに原始的である」と述べている。
 我々がどういう自然に依存して生きているか、それ故に、その
自然から、どういう被害を受けるかという問題は、個々人ではどうしようもない問題である。こういう個々人では明瞭にどうしようもない問題については、出発点を平等にするというのがフェアであるという考え方は、人類にとって必須のものであると思う。
 ただ、これを加瀬さんのように「あまりに原始的」という表現で論じることについては、私には若干の疑義がある。「原始社会」は力弱い社会であって、たしかに「人々をして滅びるにまかせた」。しかし、現在、行われかねないのは、「知っているのに、補償の手段はあるのに、被災地の生業を滅びるにまかせる」ということである。こういうことは原始社会ではなかった。人類は原始社会において強い共同性をもつサル類として発展してきたのであって、助けられれば助けるという原則なしには人類社会は生き延びることはできなかったろう。「あまりに原始的」というよりも「あまりに非人間的」な退行というほかないのである。原始社会以前への退行である。こういう意味で歴史学にとって、「原始社会」のイメージというものはやはり依然として決定的な出発点的意味をもっていると私は思う。
 ともあれ、加瀬さんのいうことの意味は大きい。もし、加瀬さんのいう「単純な理念」が現実に実現されれば、現代がかかえる問題の相当部分が解消していくのである。とくにこの「自然」に対象的な自然のみでなく、肉体的な自然(その失調としての病など)をふくめて考えれば、現代社会の問題の相当部分は、ここに帰着すると思う。
 自然科学が明らかにしてきたことは、地球は全体として無限に連関した運動をしているということである。地質学の上でも生態学のうえでも、それはほとんど反論の余地がない形で明らかになっている。そして人類のもつ肉体的自然についても進化科学は同じことを明らかにしてきた。日本列島にすむものが地震・噴火の被害を受けるということについて世界の人々が、地球の一部の必然的な結果として理解すること、そこから教訓と地質学的な知識を受けとること、それは、この列島に棲むものが生きているだけで行える重要な「世界貢献」であると思う。
 それにしても、そういうように問題をひろげる前に、加瀬さんが、大震災の問題の現実の相当部分は、(原発震災の問題を除くと)なんらかの形で漁業に関わっていると指摘していることの意味は重い。ようするに、この列島に棲むものは、この機に漁業のことを考えるべきであるということになるのである。そういう世論があまりに少ない。網野善彦さんだったらそれをまっさきにいうだろう。

 『大震災の中でー私たちは何をすべきか』におさめられた文章はさまざまなことを考えさせるが、しかし、(原発震災の問題は別として、地震・津波について)こういう当然の現実を気づかせてくれるのは、他にかけがえがない。専門家の視野というものの意味を示すように思う。私も最初の研究を漁業史から始めたので、読んでいて他人事ではない。
 

2012年10月12日 (金)

古文書の整理

 先週は京都。お寺の文書の調査。今回は、最初からの整理・調査なので考えることが多い。まず整理から始まる訳だが、どのように整理するかについてのマニュアルのようなものを、参加者同士で確認する必要のために作っていった。実際にやってみると、さらに直すべき点も多い。文書管理の基礎は番号付与であるが、そのためにはまず整理が必要で、それは史料の最小単位を決めることが先行する。
Cimg0832  欧米のアーカイヴズでいうアイテムということになるのであろうが、これは日本の伝統では、いわゆる「員数」の確定作業である。これは「一通、一冊、一帖、一枚、一巻、一鋪」などというのだと習った。アーカイヴズの議論と大量に積み重ねられてきた、伝統的あるいは行政的な作業の関係が無縁なようにみえるのは、どういうことなのであろうかと考える。ヨーロッパのアーカイヴズが行政と近いことはよく知られているが、日本の場合は同じような分野でも遠いように思える。
 問題は、文書の最小単位をどう判断するかということで、それは現状で物理的に分離できる最小単位を意味するのだと思う。基本的には、文書をすべて開いて内部をざっと確認しつつ、物理的に分離できるところまで、分離しきることになるが、ただし、文書は保存過程での人為的な合体、虫糞による自然的な癒着などの構造をもっている。それを確認しながら、原秩序を考えながら、分離していくことになる。
 これは後の調書取り、写真撮影、修復などの作業を考えながらやるという構え方でやることになる。一番面倒なのは、包紙一括・紙紐一括・合綴など、独立した史料を紙・紐などで集めてある場合の処理で、一点、一点を最少単位として、それと同時に、調書段階では、こういうまとまり、ファイルの名前が必要になる。
 和尚さんたちは、歴史家の仕事は、細かな作業、根気のいる作業と感心してくれるが、この作業の中で文書の構造がみえてくるという気持ちになった時がうれしい。しかし、文書の原秩序、つまり最初に保存されたときに、それらの文書が、どういう順序で保存されていたかということは、いくつかの想像ができるが、確定できない場合が多い。私の担当の仕事は相対的にウブな状態での保存ではあるが、もちろん、何度かの整理は入っており、そこからすべて考えていくというのは、気の遠くなるような作業である。
 一番恐ろしいのは、紙と紙の集合というのは、一度はなれてしまうと痕跡が残らないことだと思う。この恐ろしさを少しでも解消するために料紙の研究、和紙の研究というのがあるのだろうと思う。料紙の研究の中で、大量の文書原本にふれる文化庁を中心とした研究者の位置が大きいのは、その意味でも自然なことだと思う。
 思い出すのは、以前、静岡県磐田市の一の谷中世墳墓群の保存に関わった時のことである。一の谷中世墳墓群は一つの丘のほぼ全体を石が覆うという遺跡であった。その丸石で組み上げられた石積墓の記録をとるのに調査責任者の山村宏さんが、石と石は一度はなれると、痕跡が残らない。原状を記録するのに無限の神経を使うといわれているのを聞いて、シジフォスの神話のようだと思った。その厳しさに疲れのみえた山村さんの姿を思い出す。文書の調査は、室内の仕事であり、お寺の環境の中で気持ちを集中してできるだけありがたいものである。
 しかし、歴史学というのは、本質的にシジフォスの労働だと思う。過去から、どういう史料が残っているかは偶然である。肝心のところが切れていて読めない文書にぶつかることも多い。それをどうにかクリアーしながら、ジグソーパズルのようにして事態を復元していく。石母田正さんが、歴史学者には、古生物学者が化石を分析する際の慎重さと大胆さが必要であるといっているが、「化石」はそれほど数が多くないだろう。歴史、とくに室町時代以降の史料の場合は、史料の数がはんぱではない。和尚さんたちに「運・鈍・根」と申し上げると、学者と坊さんは似ているのかもしれないと笑った。

2012年10月 9日 (火)

「小帝国」論と蝦夷ー東北史学会で講演

 10月7日。東北史学会・岩手大学史学会への出席を終え、中尊寺にうかがって、帰りの新幹線。
Cimg0850  中尊寺は久しぶり。平泉の駅を降りたとたんになつかしい感じがする。何度も訪れた寺院は多くはないが、中尊寺は特別のものとなっているらしい。同じく学会に出席・報告された和尚のご案内で、ちょうど御開帳の秘仏・一字金輪仏頂尊を拝観。像高76センチという小型のものだが、見事な尊厳と美しさを示す。金色堂、さや堂、釈迦堂に拝観し、博物館も見学。何度かみているものもあるがさすがにいい。
 写真は金色堂を下ったところの苑地遺構の場所。ここの雰囲気が好きである。ものごとをよく考えるためには、同じもの、同じ風景を何度もみることが必要なのかもしれない。
 今回は、6日、「平安時代における奥州の規定性」という講演をして、はじめて奥羽の通史的な理解について考えてみた。8世紀以降の奥羽の歴史の到達点としての中尊寺の意味が少しだけ分かったので感慨が深い。
 講演の最後で、「北方史最大の謎」としての「仏教都市平泉の巨大な姿」
をどう考えるかにふれた。平泉の奥州藤原氏の権力は、しばしば境界権力であるといわれる。境界権力とは一般的に言えば境界領域を場として、一方では中央につながり、他方では異民族にもつながっているような地域権力を意味する。この権力は、北緯40度以北の世界、北海道と津軽のアイヌの世界と、院政期王権をつなぐ位置にあり、王権からアイヌ世界の「支配」と交易を委任された半ば独立的な権力としてそびえ立っていた。北海の富が京都都市王権にもっていた位置はきわめて大きい。金と昆布その他の海産物、そして馬などのエキゾティックな富を独占し、それを東アジアの貿易システムに投げ入れるのが平安時代の都市王権の重要な基盤であった。
 9世紀の対蝦夷戦争は、蝦夷の人々の民族的な抵抗を押し切り、日本の王権を小規模ではあれ、「小帝国」といってよいものに押し上げたというのが、報告で述べた私見。「古代史」の通説とはまったく逆だが、私は、8世紀には帝国ではないが、9世紀以降は「小帝国」とすることができると考えており、それをはじめて話した。
 この帝国にとって、奥州藤原氏を通じて北奥から北海道の状況を掌握することは喫緊の課題であった。そのために、王権は、この時代の最高の文化・美術・工芸、そしてそれらの基礎に存在する仏教体系を平泉に持ち込んだのである。これは王権にとって別枠の課題であったのだと思う。今日の和尚の報告の中尊寺供養願文は、そのような王権の対外意識を明瞭に示す史料と評価すべきなのだと思う。もちろん、そこには王権の対外意識の片鱗がみえるだけである。そもそも当時の国家が、どれだけ奥州から北海道を従属的に組織することに意を用いていたかをストレートに示す史料は残っていない。
 しかし、たとえば、日本の現在の中枢部はその国家意識の少なくとも三分の一はアメリカを向いている。政治的な従属は明らかである。しかし、日本国家はアメリカに従属しているなどという国家意識は通常の意識の中には上ってこないし、公的な資料や実態は法と行政の影にかくれてストレートに明らかになることはない。院政期王権と奥羽・北海道の関係はそれと同じようなものだと思う。アメリカの普通の人が、アメリカという国家が日本という国家を従属させているとは夢にも思っていないのと同じことだ。
 しかし、平安王権中枢が奥羽をどう考えていたかを示すのは、右に述べたような平泉に投げ込まれた文化・美術・工芸の量と質そのものであると思う。こういう待遇をうけた地域は、当時の列島には存在しないのである。平安都市王権は摂関政治期に都市的な爛熟を遂げた。そのレヴェルはやはり相当に高い。院政期王権は、それを前提として、各地に文化・宗教を広げた。都市的な爛熟にさらに組織的・国家的な性格、別の言い方をすれば一種の男性的な性格を加えたように思う。この段階差をどう考えるかは平安文化の基本問題であるように思う。しかし、ともかくも、それが、ここまで集中的に作り出された場所はほかに存在しない。
 これを導いた東北から北海道の地域社会の動きをもっと知りたいものだと思う。きわめて活動的で矛盾にみちた実相がそこにはあったのに相違ないと思う。その実相を知る手段は限られているが、やはり興味深いのは入間田宣夫氏が注目した鎌倉時代の『馬医草子』に描かれた「大汝」(オオナムチ)という巫女と、その夫と考えられる「越後丹介」という伯楽の姿である。入間田氏は、この巫女に北奥の良馬の産地、糠部で活動する巫女の姿を重ね、さらにイタコの語る「娘と馬の恋」のイメージを重ねていく(同「久慈・閉伊の駻馬」『北日本中世社会史論』)。私は、この巫女の名前が「オオナムチ」であるのが、何といっても興味深い。オオナムチ。つまり、「ナ=大地」の神であり、大国主命である。地底に棲む神。このスサノヲの子孫であり、スサノヲの婿である神を呼び出す行為によって巫女の名がオオナムチとなったのだろう。地底の霊、地霊を呼び出す巫女が東北の馬産地で活動しているのである。これは平安時代に溯るに違いない。『馬医草子』の描く、魁偉な巫女、オオナムチの姿と、峻厳な美にみちた中尊寺の仏像の両方を思い描くと、私は、中尊寺の仏像が見ていたものが何であったのかを考えるのである。
 本州西部とは異なる荒々しい自然と異民族との接触の中で、平安時代の東北は西国とは別のテンポで神話の復活があったのではないだろうか。平泉に展開するような巨大な仏教の世界は、そういう辺境の文化世界を見つめ、安穏を希求し、そして作りかえる装置であったのではないか。
 夕方、いつものお店でご馳走になりながら、和尚の報告についての話しから、ここまで話しは広がっていった。和尚は「東アジアにおける王権」という視野の必要性を説かれる。それだからこそ、ある種の文化戦略の下に、当時の最高の文化がここに具現しているのではないかとおっしゃる。考えてみれば、奥州合戦はそれを破壊したのであって、文化戦略ではなく、頼朝は、暴力によって東北の地に侵入した。その意味で、私は、頼朝は信長とならぶ「仏敵」であると思う。
 以前、「平泉館」柳御所保存問題が起きた時、最初期に東京で尽力された明治大学の高島緑雄氏が、「私は、以前は頼朝を歴史を推進した武士と評価していたが、学会の諸研究を考える中で、そうではなく、頼朝が破壊者であることを知った。そのことを考え直すためにも柳御所の保存に協力している」とおっしゃっていたことを思い出す。


2012年10月 2日 (火)

堀田善衛・三木清・戸坂潤ー人間の下部構造

 京都出張。朝の総武線のなか。家をでて少し歩き階段を上りきったところで、出張生活必需品を忘れたことに気づく。迷ったが、念のため引っ返して取ってくる。時間はゆっくりあるが、駅まで自転車。家族に手間をかける。
121002_084315  「時間はたっぷり」という歌があったが、出張の時の電車というのは、ともかく出発前にやらざるをえないことはやってあるので、ゆったりする。「旅」についての三木清の『人生論ノート』になにが書いてあったか、PCの中に抜き書きがあったような気がしたので探してみるが、でてこない。私はPCが駄目なのでわからないが、PCに対して、「三木」and「旅」で検索をかけて両方があるファイルをもってこいという命令は出せるに違いない。そういうことができるというのは、記憶の補助的強化であり、瞑想の世界の可視化ということだと思う。経典がすべてPCの中に入っているということが可能になるというのはブッキッシュな人間にはこたえられない楽しみだろう。三木の全集が自分のPCに入っている。さらにたとえば戸坂潤の全集がPCに入っている、あるいは戸坂の「二番目」の奥さんの手記(『とことは異なる愛云々』)もほしい。そして、さらにたとえば堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』が入っているということになればこたえられない。
 この堀田の自伝は第二次大戦中の社会相をほとんど肉体的といってよいほどの精度で感じさせてくれるものだが、高校生のころによんで、そこにイタリアのムッソリーニとの関係か、皇国史観の日本で、ルネサンスについての企画があり(であったと思うが)、その関係で組織された、なにかあやしげな研究所で、三木か戸坂かあるいは古在由重かというような感じの哲学者がアリストテレスの翻訳(であったと思うが)をやっているという一節があった。ともかくも、(私たちが今思うよりも、はるかに)「文化的な社会」であった大正時代以来の日本社会の中で養われてきたものが、戦争体制の社会の片隅に破片になって棲息しているという感じが、このエピソードにはよく出ていたように思う。
 こういう風に連想で思い出す場合は、PCからは『若き日の詩人たちの肖像』は初版の灰色の本の版面がでてきてほしい。あの本の触感が自分にとっては忘れられないものである。一昨日、夜、「平安時代における奥州の規定性」という今週土曜日の東北史学会の講演のメモを作っていて、目の前の本棚に、どういう訳か『肖像』があって、つい読んでしまった。堀田の平安時代についての仕事としては『方丈記私記』がよく知られているが、歴史家として、堀田よりは正確な時代の本質とイメージを確保できるようになっているというのは、私にとっては安息である。先日の『歴史評論』にだした論文は、堀田の『方丈記私記』くらいで感心していては歴史家の名がすたるという気持ちで書いた。若い頃の読書と、今の仕事がこういう形でつながっていて、それで棲息を許されていることは、ともかくもありがたいことだと思う。
 三木・戸坂のテキストが読めて、それに関係する夢想の記憶や小説の記憶を呼び起こせるということを情報化は可能にしている。これが瞑想の世界を客観化し、可視化していくはずである。
 瞑想の世界というのは、ともかくも混沌の上へ突き抜けてしまった世界である。新幹線のゆったりした時間の中でのように、「旅」の途次のようにすべての脈絡の上に一人で浮いているという感じである。
 堀田、戸坂、三木と追ってきて、思うのは、彼らの、自身の下部構造に支配されている生活の姿である。堀田の小説のはしっこには北陸の大きな廻船問屋の家とその周辺の隠靡で肉体的な世界が姿をみせる。こういう言い方をされると、小説家としてはたまったものではないということであろうが、家産を潰したという父への敬愛と母への依存によって、そして自分の家の崩壊の経験によって、堀田は富がもたらす放縦と文化を突き放すことが可能になったのだと思う。以前、富山大学に非常勤講師で行った時に、堀田の廻船問屋「鶴屋」の跡地を歩いたが、その痕跡はほとんどなかった。
 明治時代までの豊かな地方名望家の家の崩壊と第二次世界大戦による国家・社会の崩壊、そして東アジアの崩壊の姿の全体を目撃し、それを身体的な記憶の中で文学とするための拠点は、堀田の下部構造にある。この断定は、『若き日の詩人たちの肖像』を読み、堀田の小学生時代の狂歌(?,内容省略)
を読んで笑ったという自分の記憶と結びついている。こういう「歌」を自伝に残すのでは、堀田はすでに「詩人」ではないのである。
 私は高校時代に、数学のM先生にいわれて最初に読んだ哲学書が、戸坂のカントとの格闘の書、『科学論』であったので、『とことは異なる愛』がショックだった。これを読むと頑張らねばならないという気持ちになる。この『とことは異なる愛』の著者のような人と巡り会って生きたことをふくめて、「殿軍の名将」といわれた戸坂は重要な生活をした人間なのだと思う。そして、戦後の彼女の生き方が見事である。戸坂は、哲学それ自身と同時に、彼女の生き方を残したという、その全体として見るべき人だと思う。いま風にいえば最初にフェミニズムの問題と身をもって格闘した人なのだと思う。堀田には、「なんとか研究所」で苦闘していた哲学者たちが何を感じていたかという歴史家としての視野はない。それは文学者としてやむをえないことなのだろうか。私は堀田の小説を好むが、しかし、このことを確認した時に、根本気分においては堀田から離れた。
 そして三木については林達夫氏の証言がある。林の証言にはいろいろな意見はあるだろう。林は三木と戸坂の対極にいるような、かしこい人間であるが、しかし、その気持ちの根本に、三木も戸坂も生きていてほしかったという愛惜の念がある。それは共有できるものである。林の仕事をふくめて、歴史家としては堀田よりも林ということになるのはやむをえないと思う。
 人間は下部構造に支配されるというのが、本当のことであると思うが、それをどう自覚し、その混沌の上に突き抜けるかということまで、私たちの世代は、いわゆる戦後派の知識人と小説家によって疑似経験をあたえられていた。その幸運を思う。もちろん、戸坂と三木は「戦後」が到達する前に倒されたのでだから「戦後」ではないが、しかし「戦後派」知識人であることは明らかであると思う(「戦後」という言葉には問題があるというのが、歴史家ならば誰でも知っている板垣雄三さんのご託宣であるが、しかし「戦後派(焼け跡派)」ならば許されるのではないか)。
 新幹線に乗り換えて、もう富士がみえる。そろそろ「平安時代における奥州の規定性」の講演レジュメに戻らなければならない。一緒に講演をする大門さんの論題に「対抗」して、「歴史学の視座を問い直す」などという大仰な副題をつけてしまったので、しどろもどろになる訳にはいかない。
  (本の名前などは後から再確認する)

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