古文書の整理
先週は京都。お寺の文書の調査。今回は、最初からの整理・調査なので考えることが多い。まず整理から始まる訳だが、どのように整理するかについてのマニュアルのようなものを、参加者同士で確認する必要のために作っていった。実際にやってみると、さらに直すべき点も多い。文書管理の基礎は番号付与であるが、そのためにはまず整理が必要で、それは史料の最小単位を決めることが先行する。
欧米のアーカイヴズでいうアイテムということになるのであろうが、これは日本の伝統では、いわゆる「員数」の確定作業である。これは「一通、一冊、一帖、一枚、一巻、一鋪」などというのだと習った。アーカイヴズの議論と大量に積み重ねられてきた、伝統的あるいは行政的な作業の関係が無縁なようにみえるのは、どういうことなのであろうかと考える。ヨーロッパのアーカイヴズが行政と近いことはよく知られているが、日本の場合は同じような分野でも遠いように思える。
問題は、文書の最小単位をどう判断するかということで、それは現状で物理的に分離できる最小単位を意味するのだと思う。基本的には、文書をすべて開いて内部をざっと確認しつつ、物理的に分離できるところまで、分離しきることになるが、ただし、文書は保存過程での人為的な合体、虫糞による自然的な癒着などの構造をもっている。それを確認しながら、原秩序を考えながら、分離していくことになる。
これは後の調書取り、写真撮影、修復などの作業を考えながらやるという構え方でやることになる。一番面倒なのは、包紙一括・紙紐一括・合綴など、独立した史料を紙・紐などで集めてある場合の処理で、一点、一点を最少単位として、それと同時に、調書段階では、こういうまとまり、ファイルの名前が必要になる。
和尚さんたちは、歴史家の仕事は、細かな作業、根気のいる作業と感心してくれるが、この作業の中で文書の構造がみえてくるという気持ちになった時がうれしい。しかし、文書の原秩序、つまり最初に保存されたときに、それらの文書が、どういう順序で保存されていたかということは、いくつかの想像ができるが、確定できない場合が多い。私の担当の仕事は相対的にウブな状態での保存ではあるが、もちろん、何度かの整理は入っており、そこからすべて考えていくというのは、気の遠くなるような作業である。
一番恐ろしいのは、紙と紙の集合というのは、一度はなれてしまうと痕跡が残らないことだと思う。この恐ろしさを少しでも解消するために料紙の研究、和紙の研究というのがあるのだろうと思う。料紙の研究の中で、大量の文書原本にふれる文化庁を中心とした研究者の位置が大きいのは、その意味でも自然なことだと思う。
思い出すのは、以前、静岡県磐田市の一の谷中世墳墓群の保存に関わった時のことである。一の谷中世墳墓群は一つの丘のほぼ全体を石が覆うという遺跡であった。その丸石で組み上げられた石積墓の記録をとるのに調査責任者の山村宏さんが、石と石は一度はなれると、痕跡が残らない。原状を記録するのに無限の神経を使うといわれているのを聞いて、シジフォスの神話のようだと思った。その厳しさに疲れのみえた山村さんの姿を思い出す。文書の調査は、室内の仕事であり、お寺の環境の中で気持ちを集中してできるだけありがたいものである。
しかし、歴史学というのは、本質的にシジフォスの労働だと思う。過去から、どういう史料が残っているかは偶然である。肝心のところが切れていて読めない文書にぶつかることも多い。それをどうにかクリアーしながら、ジグソーパズルのようにして事態を復元していく。石母田正さんが、歴史学者には、古生物学者が化石を分析する際の慎重さと大胆さが必要であるといっているが、「化石」はそれほど数が多くないだろう。歴史、とくに室町時代以降の史料の場合は、史料の数がはんぱではない。和尚さんたちに「運・鈍・根」と申し上げると、学者と坊さんは似ているのかもしれないと笑った。