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2012年10月 9日 (火)

「小帝国」論と蝦夷ー東北史学会で講演

 10月7日。東北史学会・岩手大学史学会への出席を終え、中尊寺にうかがって、帰りの新幹線。
Cimg0850  中尊寺は久しぶり。平泉の駅を降りたとたんになつかしい感じがする。何度も訪れた寺院は多くはないが、中尊寺は特別のものとなっているらしい。同じく学会に出席・報告された和尚のご案内で、ちょうど御開帳の秘仏・一字金輪仏頂尊を拝観。像高76センチという小型のものだが、見事な尊厳と美しさを示す。金色堂、さや堂、釈迦堂に拝観し、博物館も見学。何度かみているものもあるがさすがにいい。
 写真は金色堂を下ったところの苑地遺構の場所。ここの雰囲気が好きである。ものごとをよく考えるためには、同じもの、同じ風景を何度もみることが必要なのかもしれない。
 今回は、6日、「平安時代における奥州の規定性」という講演をして、はじめて奥羽の通史的な理解について考えてみた。8世紀以降の奥羽の歴史の到達点としての中尊寺の意味が少しだけ分かったので感慨が深い。
 講演の最後で、「北方史最大の謎」としての「仏教都市平泉の巨大な姿」
をどう考えるかにふれた。平泉の奥州藤原氏の権力は、しばしば境界権力であるといわれる。境界権力とは一般的に言えば境界領域を場として、一方では中央につながり、他方では異民族にもつながっているような地域権力を意味する。この権力は、北緯40度以北の世界、北海道と津軽のアイヌの世界と、院政期王権をつなぐ位置にあり、王権からアイヌ世界の「支配」と交易を委任された半ば独立的な権力としてそびえ立っていた。北海の富が京都都市王権にもっていた位置はきわめて大きい。金と昆布その他の海産物、そして馬などのエキゾティックな富を独占し、それを東アジアの貿易システムに投げ入れるのが平安時代の都市王権の重要な基盤であった。
 9世紀の対蝦夷戦争は、蝦夷の人々の民族的な抵抗を押し切り、日本の王権を小規模ではあれ、「小帝国」といってよいものに押し上げたというのが、報告で述べた私見。「古代史」の通説とはまったく逆だが、私は、8世紀には帝国ではないが、9世紀以降は「小帝国」とすることができると考えており、それをはじめて話した。
 この帝国にとって、奥州藤原氏を通じて北奥から北海道の状況を掌握することは喫緊の課題であった。そのために、王権は、この時代の最高の文化・美術・工芸、そしてそれらの基礎に存在する仏教体系を平泉に持ち込んだのである。これは王権にとって別枠の課題であったのだと思う。今日の和尚の報告の中尊寺供養願文は、そのような王権の対外意識を明瞭に示す史料と評価すべきなのだと思う。もちろん、そこには王権の対外意識の片鱗がみえるだけである。そもそも当時の国家が、どれだけ奥州から北海道を従属的に組織することに意を用いていたかをストレートに示す史料は残っていない。
 しかし、たとえば、日本の現在の中枢部はその国家意識の少なくとも三分の一はアメリカを向いている。政治的な従属は明らかである。しかし、日本国家はアメリカに従属しているなどという国家意識は通常の意識の中には上ってこないし、公的な資料や実態は法と行政の影にかくれてストレートに明らかになることはない。院政期王権と奥羽・北海道の関係はそれと同じようなものだと思う。アメリカの普通の人が、アメリカという国家が日本という国家を従属させているとは夢にも思っていないのと同じことだ。
 しかし、平安王権中枢が奥羽をどう考えていたかを示すのは、右に述べたような平泉に投げ込まれた文化・美術・工芸の量と質そのものであると思う。こういう待遇をうけた地域は、当時の列島には存在しないのである。平安都市王権は摂関政治期に都市的な爛熟を遂げた。そのレヴェルはやはり相当に高い。院政期王権は、それを前提として、各地に文化・宗教を広げた。都市的な爛熟にさらに組織的・国家的な性格、別の言い方をすれば一種の男性的な性格を加えたように思う。この段階差をどう考えるかは平安文化の基本問題であるように思う。しかし、ともかくも、それが、ここまで集中的に作り出された場所はほかに存在しない。
 これを導いた東北から北海道の地域社会の動きをもっと知りたいものだと思う。きわめて活動的で矛盾にみちた実相がそこにはあったのに相違ないと思う。その実相を知る手段は限られているが、やはり興味深いのは入間田宣夫氏が注目した鎌倉時代の『馬医草子』に描かれた「大汝」(オオナムチ)という巫女と、その夫と考えられる「越後丹介」という伯楽の姿である。入間田氏は、この巫女に北奥の良馬の産地、糠部で活動する巫女の姿を重ね、さらにイタコの語る「娘と馬の恋」のイメージを重ねていく(同「久慈・閉伊の駻馬」『北日本中世社会史論』)。私は、この巫女の名前が「オオナムチ」であるのが、何といっても興味深い。オオナムチ。つまり、「ナ=大地」の神であり、大国主命である。地底に棲む神。このスサノヲの子孫であり、スサノヲの婿である神を呼び出す行為によって巫女の名がオオナムチとなったのだろう。地底の霊、地霊を呼び出す巫女が東北の馬産地で活動しているのである。これは平安時代に溯るに違いない。『馬医草子』の描く、魁偉な巫女、オオナムチの姿と、峻厳な美にみちた中尊寺の仏像の両方を思い描くと、私は、中尊寺の仏像が見ていたものが何であったのかを考えるのである。
 本州西部とは異なる荒々しい自然と異民族との接触の中で、平安時代の東北は西国とは別のテンポで神話の復活があったのではないだろうか。平泉に展開するような巨大な仏教の世界は、そういう辺境の文化世界を見つめ、安穏を希求し、そして作りかえる装置であったのではないか。
 夕方、いつものお店でご馳走になりながら、和尚の報告についての話しから、ここまで話しは広がっていった。和尚は「東アジアにおける王権」という視野の必要性を説かれる。それだからこそ、ある種の文化戦略の下に、当時の最高の文化がここに具現しているのではないかとおっしゃる。考えてみれば、奥州合戦はそれを破壊したのであって、文化戦略ではなく、頼朝は、暴力によって東北の地に侵入した。その意味で、私は、頼朝は信長とならぶ「仏敵」であると思う。
 以前、「平泉館」柳御所保存問題が起きた時、最初期に東京で尽力された明治大学の高島緑雄氏が、「私は、以前は頼朝を歴史を推進した武士と評価していたが、学会の諸研究を考える中で、そうではなく、頼朝が破壊者であることを知った。そのことを考え直すためにも柳御所の保存に協力している」とおっしゃっていたことを思い出す。


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