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2012年10月 2日 (火)

堀田善衛・三木清・戸坂潤ー人間の下部構造

 京都出張。朝の総武線のなか。家をでて少し歩き階段を上りきったところで、出張生活必需品を忘れたことに気づく。迷ったが、念のため引っ返して取ってくる。時間はゆっくりあるが、駅まで自転車。家族に手間をかける。
121002_084315  「時間はたっぷり」という歌があったが、出張の時の電車というのは、ともかく出発前にやらざるをえないことはやってあるので、ゆったりする。「旅」についての三木清の『人生論ノート』になにが書いてあったか、PCの中に抜き書きがあったような気がしたので探してみるが、でてこない。私はPCが駄目なのでわからないが、PCに対して、「三木」and「旅」で検索をかけて両方があるファイルをもってこいという命令は出せるに違いない。そういうことができるというのは、記憶の補助的強化であり、瞑想の世界の可視化ということだと思う。経典がすべてPCの中に入っているということが可能になるというのはブッキッシュな人間にはこたえられない楽しみだろう。三木の全集が自分のPCに入っている。さらにたとえば戸坂潤の全集がPCに入っている、あるいは戸坂の「二番目」の奥さんの手記(『とことは異なる愛云々』)もほしい。そして、さらにたとえば堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』が入っているということになればこたえられない。
 この堀田の自伝は第二次大戦中の社会相をほとんど肉体的といってよいほどの精度で感じさせてくれるものだが、高校生のころによんで、そこにイタリアのムッソリーニとの関係か、皇国史観の日本で、ルネサンスについての企画があり(であったと思うが)、その関係で組織された、なにかあやしげな研究所で、三木か戸坂かあるいは古在由重かというような感じの哲学者がアリストテレスの翻訳(であったと思うが)をやっているという一節があった。ともかくも、(私たちが今思うよりも、はるかに)「文化的な社会」であった大正時代以来の日本社会の中で養われてきたものが、戦争体制の社会の片隅に破片になって棲息しているという感じが、このエピソードにはよく出ていたように思う。
 こういう風に連想で思い出す場合は、PCからは『若き日の詩人たちの肖像』は初版の灰色の本の版面がでてきてほしい。あの本の触感が自分にとっては忘れられないものである。一昨日、夜、「平安時代における奥州の規定性」という今週土曜日の東北史学会の講演のメモを作っていて、目の前の本棚に、どういう訳か『肖像』があって、つい読んでしまった。堀田の平安時代についての仕事としては『方丈記私記』がよく知られているが、歴史家として、堀田よりは正確な時代の本質とイメージを確保できるようになっているというのは、私にとっては安息である。先日の『歴史評論』にだした論文は、堀田の『方丈記私記』くらいで感心していては歴史家の名がすたるという気持ちで書いた。若い頃の読書と、今の仕事がこういう形でつながっていて、それで棲息を許されていることは、ともかくもありがたいことだと思う。
 三木・戸坂のテキストが読めて、それに関係する夢想の記憶や小説の記憶を呼び起こせるということを情報化は可能にしている。これが瞑想の世界を客観化し、可視化していくはずである。
 瞑想の世界というのは、ともかくも混沌の上へ突き抜けてしまった世界である。新幹線のゆったりした時間の中でのように、「旅」の途次のようにすべての脈絡の上に一人で浮いているという感じである。
 堀田、戸坂、三木と追ってきて、思うのは、彼らの、自身の下部構造に支配されている生活の姿である。堀田の小説のはしっこには北陸の大きな廻船問屋の家とその周辺の隠靡で肉体的な世界が姿をみせる。こういう言い方をされると、小説家としてはたまったものではないということであろうが、家産を潰したという父への敬愛と母への依存によって、そして自分の家の崩壊の経験によって、堀田は富がもたらす放縦と文化を突き放すことが可能になったのだと思う。以前、富山大学に非常勤講師で行った時に、堀田の廻船問屋「鶴屋」の跡地を歩いたが、その痕跡はほとんどなかった。
 明治時代までの豊かな地方名望家の家の崩壊と第二次世界大戦による国家・社会の崩壊、そして東アジアの崩壊の姿の全体を目撃し、それを身体的な記憶の中で文学とするための拠点は、堀田の下部構造にある。この断定は、『若き日の詩人たちの肖像』を読み、堀田の小学生時代の狂歌(?,内容省略)
を読んで笑ったという自分の記憶と結びついている。こういう「歌」を自伝に残すのでは、堀田はすでに「詩人」ではないのである。
 私は高校時代に、数学のM先生にいわれて最初に読んだ哲学書が、戸坂のカントとの格闘の書、『科学論』であったので、『とことは異なる愛』がショックだった。これを読むと頑張らねばならないという気持ちになる。この『とことは異なる愛』の著者のような人と巡り会って生きたことをふくめて、「殿軍の名将」といわれた戸坂は重要な生活をした人間なのだと思う。そして、戦後の彼女の生き方が見事である。戸坂は、哲学それ自身と同時に、彼女の生き方を残したという、その全体として見るべき人だと思う。いま風にいえば最初にフェミニズムの問題と身をもって格闘した人なのだと思う。堀田には、「なんとか研究所」で苦闘していた哲学者たちが何を感じていたかという歴史家としての視野はない。それは文学者としてやむをえないことなのだろうか。私は堀田の小説を好むが、しかし、このことを確認した時に、根本気分においては堀田から離れた。
 そして三木については林達夫氏の証言がある。林の証言にはいろいろな意見はあるだろう。林は三木と戸坂の対極にいるような、かしこい人間であるが、しかし、その気持ちの根本に、三木も戸坂も生きていてほしかったという愛惜の念がある。それは共有できるものである。林の仕事をふくめて、歴史家としては堀田よりも林ということになるのはやむをえないと思う。
 人間は下部構造に支配されるというのが、本当のことであると思うが、それをどう自覚し、その混沌の上に突き抜けるかということまで、私たちの世代は、いわゆる戦後派の知識人と小説家によって疑似経験をあたえられていた。その幸運を思う。もちろん、戸坂と三木は「戦後」が到達する前に倒されたのでだから「戦後」ではないが、しかし「戦後派」知識人であることは明らかであると思う(「戦後」という言葉には問題があるというのが、歴史家ならば誰でも知っている板垣雄三さんのご託宣であるが、しかし「戦後派(焼け跡派)」ならば許されるのではないか)。
 新幹線に乗り換えて、もう富士がみえる。そろそろ「平安時代における奥州の規定性」の講演レジュメに戻らなければならない。一緒に講演をする大門さんの論題に「対抗」して、「歴史学の視座を問い直す」などという大仰な副題をつけてしまったので、しどろもどろになる訳にはいかない。
  (本の名前などは後から再確認する)

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