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2012年11月

2012年11月29日 (木)

ヤスパースを読んでいる

 11月23日(金曜)。休日だが、東京大学原発フォーラム主催の講演会にでるため総武線。時間の制約があるが、北海道がんセンター院長の西尾正道氏の話しだけでも聞く積もり。放射性異物による汚染とその拡散の状態が医学的にどういうことなのかについて知識を整理したい。
Nisio  もう今日は11月28日(水曜日)。左の本は、右の集会で購入した国立病院機構、北海道がんセンター院長西尾正道『放射線健康障害の真実』(旬報社、1000円)。重要な本。このようなまとまった本で、知識を整理するのは、いま必須だと思う。これについてはまた書きたい。
 

Hattori_154938_2   いま、夜、帰宅の総武線の中。服部英雄氏の『河原ノ物・非人・秀吉』の毎日出版文化賞受賞の祝賀会の帰り。少しお酒をいただいて、旧知の人々ともあって楽しく過ごす。二次会は身体の調子をまもるために失礼をした。お酒が入っていて仕事不能なので、このごろ、読んでいるヤスパースについて。河出書房の『世界の大思想』シリーズのヤスパースであるが、この『大思想』シリーズをみると、高校時代を思い出す。あるいはもう大学に入ったころかもしれないが、渋谷の紀伊国屋に、この薄青色の装幀のシリーズがならんでいたという記憶である。
 渋谷の紀伊国屋は瀟洒で都会的な感じで、その端っこの方の低い書棚に、このシリーズがならんでいたように覚えている。高校が近かったので、よく渋谷に出たが、そういう雰囲気が好きだった。『世界の大思想』などというと、今では何とも仰々しいように思えるが、当時は、「思想」が「はやり・流行」の時代なので違和感がなかった。まったく違った衣裳の下にではあろうが、そろそろ、再度、そのような季節がやってくることを期待したいものだ。これは若い人から見ればほとんど無意味な、70年代への郷愁にすぎないかもしれない。しかし、時代のムードは大事だと思う。奥底から立ち上り、社会意識に反映してくる、時代のムードの変化なしには社会は前進しない。
 さて、この『大思想』ヤスパースには、ヤスパースの歴史哲学の大論文、「歴史の起源と目標」が入っていて、しばらく前から読んでいる。翻訳の調子に気にかかるところがあるのはやむをえないが、原文それ自身は平明なもののようである。ヘーゲルの歴史哲学のうさんくさいような「弁証法」的な臭みはなく、ややトインビーのような感じもする。しかし、トインビー的大風呂敷という感じがせず、堅実な論理と常識があって、「空論」と「大風呂敷」の嫌いな歴史学者にもヤスパースの視点をともかくも尊重することにきめてしまえば読みやすい。ヤスパースはM・ウェーバーの全面的影響の下にあったから、その意味でも読みやすい。ただし、平明なだけに社会理論としては素朴さをまぬがれない。限界があることは明らかで、社会科学的な詰め(とくに国家論)は弱い。これはウェーバーとの詳細な対比が必要なのだと思う。日本の歴史学におけるウェーバーの取り上げ方が、ヤスパースを放置して展開していたようにみえるのはどういう訳かも考えてみたいと思う。これは大塚先生にうかがっておくのであった。
 しかし、哲学的なフレーズに隠されているものの、さすがにナチスの時代をユダヤ人であった妻をまもって厳しい生き方を強制された経験をふまえた断言には19世紀段階とは違う強さと新しさがある。ルソーからマルクスへの系譜を考えなおすためにも有効だと思う。ヤスパースのスターリンの大国主義的ロシアに対する批判、アメリカへの危惧、そして「核時代」についての見通しなどはも、十分に踏まえるべきものと思う。少なくとも、ヤスパースとの対話をふまえなければ現在の「歴史哲学」は存立しえない。
 もうすぐ千葉到着。懐古的で申し訳ないが、高校時代、ヤスパースは、新潮社の文庫ででていた『哲学入門』をもっていて意味がわからないまま読んでいた。これは書棚にみえず、注文したので、どういう本だったかを「再」理解するのが楽しみである。ハイデカー批判のためには、いろいろな意味でヤスパースの理解が必須である。少し閑になったら、少し集中して読みたいと思う。
 以下、ヤスパースから引用。私は宗教者ではないが、ヤスパースのいう「信仰」は、様々な「根本態度」と考えれば、それ自身としてはどのような立場の言葉にも変えられるものであり、以下は、そのようなものとして尊重されるべき考え方であると思う。

 神への、人間への、世界の中でのもろもろの可能性への信仰の結果は、社会主義と世界統一の道にとって本質的に重大である。信仰なくしては、悟性、機械的思考、非理性的なもの、そして破滅が残るのみである。

(1)信仰に基づく力。

 人間の動物的基本衝動を制御し、克服して、みずからを高みへと飛翔させる人間存在の動力に変えてしまう、―こうした力を動かすものは、信仰心以外にない。すなわち、支配欲たる野蛮な暴力の衝動、―狂暴と残忍への悦び、―浅薄な権勢欲、―あくなき富と享楽の追求、―隙さえあれば猪突する性衝動、これらは信仰によって克服され、かえって人間存在の動力となる

 むきだしの衝動の馴致の第一歩は、威嚇やら不安感の醸成をもってする外的な強制力であり、更にタブーの全く間接的な力であり、更にまた、自己の行為の自覚を通じて自己自身を信仰から支配する人間により、身を挺しての克服が行われる。(中略)

(2)寛容。

世界秩序への道は、寛容が行きわたる場合に初めて達成できるのである。非寛容は強制、反撥、征服を意味する。

 しかし寛容とは無関心をいうのではない。無関心とはむしろ、自己の真理への驕りから生ずるのであり、最も緩和な非寛容の形式である。要するに―他人は何であれ好きなものを信ずればよい、それは私の知ったことではない、―という隠然たる軽蔑なのである。

 これに反し寛容は、胸襟を開き、自己の分限をわきまえ、信仰に関するいろいろな表象や思想を、一つの絶対的に普通妥当的な分母に通分することなく、それらを相違性を保ったまま人間的に結びつけようと欲する。(中略)

(3)あらゆる行為に魂を吹き込むこと。

 社会主義と計画化の道において、すなわち世界秩序の道において実現するもの、いろいろな制度や事業、人間関係を維持している規則や行動の型、こういったものは、これらのもののまっただ中に存在する人間の流儀によって、さまざまな変化を受ける。彼らの考え方、信仰、性格が、実現の様式と以後の成り行きを決定する。

 悟性が企て、目的として立て、手段として導入するいっさいは、人間により行われたり、加えられたりするのであるから、結局は、悟性が思いも寄らなかったもの、すなわちそれが本能であれ熱情であれ、信仰衝動であれ、理念であれ、もろもろの動機に導かれているのである。

 従って、もし意識が悟性に準じたものにつくされるというつもりならば、こうした動機の存在は、悟性にとって忌むべきものである。かくして意識は困ったことに、ますますもって偽装されて、低次の基層に成りさがってしまう。

 信仰は批判的意識として働いて、権力と支配、悟性の計画化、科学、芸術等の、有限的物事の自己制限の役割を果たす。すべてはそれぞれの限界のうちにあり、ある指導が全体をおおうのであるが、この指導とは計画ではない。この指導は、信仰が照明する際に意識されるいっそう深い一つの秩序に由来する。(中略)


2012年11月28日 (水)

益田勝実さんの仕事と歴史学の立場

 いまから昼休み。ウェブページにつぎの文章をあげる。
 今日は服部英雄氏の『河原ノ者・非人・秀吉』の毎日出版文化賞の授賞式。彼は『景観にさぐる中世』とあわせて画期的な本を少なくとも、二冊、書いたことになる。久しぶりに御会いするのが楽しみである。
 益田勝実氏と歴史学の立場
 益田勝実氏の仕事を読むようになったのはいつ頃のことか記憶がない。ただ、大学時代に『火山列島の思想』を手に取ったことは確実で、変わった名前の本だと思ったことが記憶に残っている。そして手許に益田さんが登場する『文学』の一九九〇年冬号があるから、そのころからは意識していたのだと思う。
 ただ、この「研究の対象としての文学」という座談会は、高橋康也、佐竹昭広、大岡信氏との間で行われたもので、これを入手したのは、むしろ佐竹さんの発言を読むためであった。個人的なことだが、私は『御伽草子』に興味があり、その関係でいつも佐竹氏を参照していたのである。しかし、この座談会は、佐竹氏はご自分から発言することはほとんどなく、司会は大岡氏ということになってはいるが、座談は益田さんを中心にまわっている。それは見事なほどで、そもそも冒頭の大岡氏の発言の途中で、益田さんは「ちょっと途中で言葉をさしはさむようだけれども」といって座談の主題にいきなり踏み入っている。
 この座談会で、益田さんは「学問らしくあることから生ずる束縛」を語り、大岡信氏の『うたげと孤心』にふれて「従来の研究の枠を超えてほんとうの評論に抜け出たら、こういう視野がひらける」のだといっている。そしてご自身の研究歴をふり返って、もっと芸術・文芸の創造と批評にまっすぐに近づく仕事をしたかった。自分は独学から出発したから、「いざ早道というのはやっぱり古代文学だったのですね。『源氏物語』とか、平安朝文学だった。それはやり方がやさしいんですよ」などと述懐している。これを読むと、私も独学で日本史研究の中に入ったので、結局、平安時代史から離れられないのかもしれないなどと思う。たしかに歴史研究の場合も、史料が少なく、先行研究も多い平安時代史は「やり方がやさしい」のである。
 それはともかく、益田さんの語り口は私たちに親しい感じを呼び起こす。誰でも、こういう話しをする人にあってみたい、話を聞いてみたいと思うのではないだろうか。しかし、益田さんの仕事の岩盤のような意味を実感したのは、『竹取物語』について考えるようになって、益田さんが鈴木日出男氏を聞き手としてもっぱら『竹取物語』について語った記録「フィクションの誕生―益田勝実氏に聞く」(『国文学』三八ー四)を読み、さらに『火山列島の思想』の世界に入り込んで大きなショックをうけてからのことである。
 私は、その中で、一昨年、『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書)という本を書いたのだが、その本の最後にも書いたように、益田さんからあたえられたショックというのは、「神道」というものをどう考えるかということであった。これは益田さんが深い関心をもっている柳田国男・折口信夫の仕事の意味とも関係して、日本の前近代史研究にとってはもっとも根本的でありながら長く始末が付かないままでいる問題である。その事情に神道研究への一種の忌避が存在したことは認めざるをえないだろう。益田さんはそのようなタブーからは自由であり、しかも、益田さんの提言は、神話から神道へという展望の下に展開されており、その前提に神話論があるという周到なものである。こうして私は、蛇に魅入られたようになって、益田さんの仕事を追跡し、『竹取物語』の向こう側に神話をみるという、まさか自分が研究の対象にするとは考えていなかった領域に迷いこんでしまった。
 そして、その過程に昨年の三,一一の東日本太平洋岸地震の衝撃が重なった。益田さんが『火山列島の思想』で展開したオオナムチ=噴火神論は、当然に地震神話にも連なってくる。そこで、私は、地震学の基礎勉強からはじめて、地震が列島社会にもたらした影響を中心に、歴史学としては「やり方がやさしい」奈良・平安時代の政治史を叙述しなおし、そして自然神が「祟り神」化するという大筋にそって、「地震列島の思想」を描くという作業をすることになった。こうして、ここ一年をかけて、『歴史のなかの大地動乱ー奈良平安時代の天皇と地震』という新書を書き終わったのだが、いま、ここでもう一度、益田さんの仕事をよく考えてみたいという気持ちになっている。
 
 さて、この文章を書くために、あらためて『文学』の座談会での益田さんの発言を読み直してみて、益田さんのいっていることで『かぐや姫と王権神話』では検討し残していることがあるのを思い出した。以下、それを説明して、益田さんの仕事について述べよという本誌からの要請について責めをふさぎたいと思う。
 それは、かぐや姫が、この世に置いていった「不死の薬」について、これは西王母のもっていた不死の薬そのものだという益田さんの指摘である。つまり、中国の神仙譚によれば、羿(げい)という英雄神が苦心惨憺して西王母の許へ行き、この不死の薬をもらって帰ってきたのだが、女房の姮娥がそれを盗んで月に逃げてしまう。益田さんは、『竹取物語』の終わり方は、これを意識したものであるというのである。益田さんの語り口を残しながら要約すると、「こういう経過で、本来、月の世界には不死の薬があるが地上にはないということになっていた。ところが、ひょんなことから、かぐや姫が地上に下り、月の使者が、この不死の薬をもってきてかぐや姫に飲ませて、その残りが日本に稀有に残っちゃった。ところが帝や竹取翁・嫗がその服用を拒否して、薬は富士から御焚き上げになって火山の噴煙になって上り続けてパーになっちゃう。だから、彼らがこのワンチャンスを拒否したおかげで、日本人は誰も永遠の生命を獲得した人がいない。日本人と永遠の生命の出会いが不死の薬の拒否で吹っ飛んだ、という物語です」という訳である(これは「フィクションの誕生」(『国文学』38-4)でも話題とされているが、この座談会での発言の方が詳しくわかりやすい)。
 ようするに、『竹取物語』は「普通、素朴な初期の物語と見られているが、相当に手のこんだ名作じゃないか」。つまり、私なりに敷衍すれば、『竹取物語』は、中国最先端の神仙譚を強く意識し、日本の物語精神がそれに対して高踏的に対応したものだ。中国の神仙譚の中に「自土」の文学を組み込もうとしたものだということだと思う。こういう当然の素直な読みが日本の国文学者にできていないというのが益田さんの主張なのである。そして、佐竹さんが、この益田さんの意見に賛同する様子をみせたのに対して、益田さんが「だけれども僕のいっているのは異端、邪説なんですよ」というと、大岡さんが「いや僕はそうは思わないな」といい、益田さんが「国文学者は認めてくれないのよ」といい、それに対して佐竹さんが「認めてくれない説いっぱいお持ちでしょう(笑い)」と展開する座談の雰囲気が、なんともいえず、あたたかい。
 しかし、最近の渡辺秀夫氏の仕事、「竹取物語と神仙譚」(『平安朝文学と漢文世界』勉誠社)が示すように、現在の「国文学者」は益田説を認める趨勢にあるのではないかと思う。私も『かぐや姫と王権神話』では渡辺氏の見解をふまえて、かぐや姫の昇天を論じたのだから、益田さんの見解をもっと重視するのが自然であったと思う。
 考えてみると、私が、この不死の薬の焚き上げについて十分に益田さんの意見と向き合わなかったのは、明らかに学者根性のなせるわざであって、この場面に残る、いわゆる不審本文について、自説をだすのに気をとられ、それを確認して叙述のつじつまをあわせることだけで満足していたからである(つまり、『竹取物語』の天理本・古活字本ほか諸本には「かの奉る不死の薬に又つぼぐして御使に」とあるが、これは「かの奉る不死の薬の文(の文に傍点)、壺ぐして御使に」と読むべきではないか。傍点部、諸本に「に又」とあるのは誤写で、変体仮名の「尓」は変体仮名の「乃」と誤読されうるし、文脈のつながりは、どうみてもこれがよいというのが私見による校訂である)。
 しかし、私が益田さんの言及を参照しなかった根本的な理由は、この問題がどれだけ根本的な問題かということについての見通しをもっていなかったためであった。つまり、これは初期物語の作者たちにとっては、単なる教養にあふれた高踏的遊びではないはずである。彼らのイマジネーションがそこまで高まった理由は、やはり中国の神仙譚が『古事記』『日本書紀』に表現された神話世界に影響していることからの直接的な延長として自分たちの文学を考えていたことにあったのではないかと思う。初期物語は、そのような神話世界との緊張関係の中で生まれたのではないかというように考えるのである。私はそこまでは考えを詰めなかったが、益田さんのいうのはそういうことだと思う。
 益田さんの神話研究の根本は常世国、少童神、祟り神などと神の再誕の神話、そして「忌み」の思想と「神道」について繰り広げられた『火山列島の思想』(一九六八)から『秘儀の島』(一九七六)にいたる独自な省察の展開にある。それが柳田国男・折口信夫との格闘であったことはいうまでもないが、歴史学の石母田正が主唱した神話論=「英雄時代論」への応答であったことは疑いない。そして、現在では、私は、歴史学徒として、益田さんの議論は石母田さんが目ざしたものを超えたということを認めざるをえないと考えるにいたっている。
 歴史学にとってさらに看過できないことは、益田さんが、前述の神道の問題を神話からの移行論としてのみでなく、日本の在地神祇における「頭人の物忌」の問題として提出していることである。益田さんは日本の「神」においては、「共同体が長い祭りの季節に突入して、全体もきよまわり、慎み深く暮らすが、その中で特定人物(頭人ー筆者注)が、最も厳重な物忌みをつづけて、神がかるプロセスを一歩一歩進んでいくのが普通です」(「日本の神話的想像力」『秘儀の島』)などという多数の示唆的な指摘をしている。これは正しいと思う。歴史学の側でも、最近、『村座・宮座研究の形象と展開』(萩原龍夫旧蔵資料研究会編、二〇一一年、岩田書院)などで新しい議論が進んでいるが、益田の指摘は明らかに、村の「地主神」とは何か、宮座とは何か、村落宗教とは何かという前近代史研究にとっての根本問題を先取りしているのである。
 そもそも、この国における歴史学は、「神話・天皇制」の問題を処理し、それを前提として長い鎌倉・室町時代から江戸時代にかけての民衆宗教の歴史を通観することなしには、民族的な地盤を固めることができない。これは歴史学でいう「英雄時代論争」のころから明らかなことであった。こう考えてくると、私は、いわゆる「戦後歴史学」がかかえてきた問題は、益田さんの仕事を受けとめ、乗り越えることなしには解決の目途が立たないように思うのである。
 その際、もっとも気になるのは、益田さんが『秘儀の島』のあとがきで、「これは、ここまで口はばったく言いたてていた研究だのなんだからの、自分の排斥してきた側への顛落以外のなにものでもないが、小進化の果てにいて、無性に、大進化の終わり小進化のはじまりの時期のことを望み見たくなっているのである。学問に適さない危険な心境である」と述べていることである。このあとがきの執筆は一九七六年。いわゆる「高度成長」の果ての時期である。冒頭に紹介した『文学』の座談会での「学問らしくあることから生ずる束縛」から自由な立場から、芸術・文芸の世界にまっすぐに近づくべきであったという述懐は、その約一五年後のことで、益田さんはすでに「危険な心境」を突き抜けたところに到っているようにみえる。
 これはこれから益田さんの議論を再吟味する中で、よく考えてみたい問題であるが、私は、ここで益田さんが「学問の束縛」からの自由になって、本当の「批評と創造」の世界のに突き抜けるという方向を強く示唆された心境の一部に、歴史学の世界に対する見切りがあったように思う。つまり、この座談会で、益田さんが「純歴史家の、時代の世相の中の一つ一つの現象を掘り起こしていく仕事」では文学研究の目ざす「想像力・表現力の歴史」を解明することはできないと宣告していることを見のがすことはできないのである。私には、これは第二次大戦後の歴史学と文学研究の関係が、結局はうまくいかなかったと益田さんがおっしゃっているように読める。歴史学への一種の破産宣告である。
 もちろん、文学研究の側が「批評と創造」の世界に突き抜けることを本務としていることは当然である。またここには、益田さんの問題提起にほとんどこたえることがなかった歴史学の側の責任が大きいと思う。しかし、これは、当時の事情からいうと、歴史学の側の中心にいた石母田さんが、神話研究の世界に戻って『古事記』の標注と解説の仕事を活字にすることなく、病没してしまったという、やむをえぬ事情があったと思う。石母田さんは一九七三年に発病して長い闘病生活に入ったから、『秘儀の島』(一九七六年)に結実する益田さんの仕事の深化を受けとめることはできなかったのだと思う。
 もし、石母田さんが神話研究と「英雄時代論」についてのまとめをする余裕があれば、文学研究の側が「批評と創造」の世界に突き抜けるのと同様に、歴史研究が神話史料についても、その考証から社会の歴史的・理論的な理解に突き抜ける足場が誰の目にもみえる形で確保されていたのではないかと思う。そして、そもそも益田さんと石母田さんは同じ大学におられたのだから、もし、御二人の協同的な議論が積み重ねられていたとすれば、文学史研究と歴史研究をめぐる風景は大きく異なっていたのではないかと思う。
 これは、私などには本当に残念であるが、言っても詮ないことであり、それに気づいた以上、その時点にまで立ち戻って問題を考える習慣をつけたいと思う。

2012年11月22日 (木)

富士山の鳥瞰と内視鏡

 先週17日(土)、韓国の学界で御会いした松本真輔氏から、神功皇后が新羅に侵略したという神話において、津波とともに侵略したというエピソードがあるのを教えられた。これについてはまた紹介したいと思う。
Photo  これは11月16日、12時30分前後、羽田発の大韓航空、ソウル便からみた富士。綺麗な眺望にみとれる。向こう側に伊豆半島が広がっているのもわかる。


Photo_2 もう一つは、若狭常神半島の上空からとったもの。まさに大飯原発の場所である。
 マクロの鳥瞰が日常的に可能になっているということが世界観におよぼす影響というものは確実にある。こういう経験をベースにしてプレートテクトニクスというような地球地質学的な世界観が社会に根づいていくのだと思う。伊豆半島がユーラシアプレート(アムールプレート)にぶつかっている現場を上からみている。神の目が人間の目になったということであろうか。

 15日(?)の東京新聞によれば、変動地形学の渡辺氏が若狭湾東部を断層がのび、大飯原発を通過して海中に続いているという見解を発表したという。『歴史評論』に出した論文では、『方丈記』のいう津波、つまり「おびただしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる」とみえる津波は、史料からの若狭湾の津波と考えられると述べたが、渡辺さんの見解を読み、上空からの眺望をえて、さらに印象が深くなった。
 
 大野更紗さんのツイッターが復活した。韓国にいっていたあいだ、しばらくツウィートがなかった。「寒い」「冬の陣」(であったか)というツウィートもあったから、あるいは身体の調子を崩されたかなどと、妻と心配する。まったく面識のない他者の身体の調子を話題にし、かつそれについて書いてしまうというなどというのは普通はないことであるが、『困ってるひと』を読んだものとして感情移入をしてしまう。現在の社会という視界からも大事な人である。心配であり、来年、3月の春をまつ気持ちが強くなる。
 他者の日常的な身体と感情と意識の揺れを感じるというのは、もちろん、これまでも普通に行われていたことである。我々は小説をよみ、その人の身体と感情と意識の内部に入っていくという経験をする。それから演劇や音楽、芸術もそういうことである。「スター」の一挙手一動に影響されるというのは、むしろ普通の風景であろう。しかし、ネットワークには意識が流出し、活字を通じて目に入ってくる。人間の身体・感情・意識が、巨大な群体の神経系統であるかのようにして、個体をこえて交流しあう。これはいわば「普遍的な交通」が日常化し、誰でもがそのネットワークの中に入り込んでいくという時代の標識である。
 知識世界と学術は、そのような普遍的交通の確実なベースを提供しなければならないと思う。そのベースによって群体化する人間の行動と意識世界の安定性と康福を確保すること。人間とそのアソシエーションの中に、ラテン語でいう貨幣=「万物の神経」(ネルウス・レルム)の動きを相対化できるだけの強さと筋道を確保すること。そういう形で情報手段をも相対化してしまうこと。これが、以前、「情報と記憶」という論文を書いて以来の考え方。
 
 昨日は、人間ドック。20年もやらなかった胃の内視鏡検査をした。左脇を下にして横になり、デスプレイに自分の鼻・喉・食道・胃・十二指腸が映しだされるのをみているというのは独特の体験である。もう何年前になるのか、前に内視鏡を呑んだのは、石母田正さんがなくなった直後のことであった。訃報が伝わってきて、通夜の受付に来いという呼び出しがかかったが、その時は胃潰瘍の発作で七転八倒の状態であった。
 社会的分業ということの意味を考える上で、この医学的手段による身体内部の可視化ということがもっとも具体的な例証となるというのが、従来からの考え方。私に胃カメラを呑ませてくれた検査技師の医者はおそらく1000人以上の胃を検査してきたに違いない。どの部位であれ、医者は人を診ると、その内臓を通じて人をみるということだと思う。歯医者は歯から、耳鼻科医者は耳鼻を通じて人間をみる。そういう形で医者は人間=動物という感覚をもっているということになる。人間=動物というのは、人間が動物としてはすべて同じという徹底的な感覚である。そういう身体的な知識と性格からなる専門性をもった人々が存在する。そういう人々がいなくては社会がもたないということになっている。これが科学と社会的分業の関係にとって根本的な問題であろうと思う。
 ともかくもこれによって、人間は自己の身体のミクロの世界を可視化することが可能になっているのである。鼻への麻酔と内視鏡の喉への通過の違和感・苦痛を覚悟すれば、誰でも自分の内臓のミクロの世界をみることができるということになっているということを実感したのである。もちろん、それは知ってはいたが、知っているのと実際に見るのは大違いということである。
 
 以上、先週末から昨日まで、空からのマクロの鳥瞰から身体のミクロの世界の内視という視野拡大の時間であった。もちろん、学者として最大の経験は、週末の学界で韓国の日本史学界の実際を知り、多くの友人をえたことであるが、これについてはまた。

2012年11月16日 (金)

行動的な「知」と大学

 いま、朝の総武線。東京歴史教育者協議会から歴史地震学に関係する講演をたのまれていたが、テーマを決めてほしいというメールを出張中にいただく。予定は来年の2月24日(日曜)午前10時から。
  こういう講演をたのまれる度に、3,11の後、どのように「知」のあり方を意識しなければならないかということを考える。ここが決まらないと若い人に何を語るかということに踏ん切りがつかない。昨夏、J大学で授業をしたが、うまくいかなかった。そこでは、この根本が欠けていたのかもしれない。
 ともかくも、そこで必要なものは、一種の行動的な「知」である。内省性とともに、現実的に可能な行動を見通すことのできる「知」のシステムということであろうと思う。自分がいる大学の世界というものが、昨年の3,11から何ができたか、何をやったかを考えると、学術全体が行動にむけての準備をしなければならない、そのための議論をしなければならないはずであると思う。
 しかし、問題は、ここ20年ほどであろうか、学術世界が社会的な行動をとることを避け続けてきたことである。
 その心理の基礎にあるのは、いわば学術世界の世俗化と金銭化と「労働者化」である。先輩の話などを聞いていると、敗戦後の一時期は別として、学者もかっては給料と年金で現在よりは圧倒的に楽な生活ができたらしい。そういう経済的・社会的な条件というものは、日本の学界からはほとんど消えた。給料生活を長くしていて、こういうことをいうのは申し訳ないが、私が就職したころに、先輩に、「君たちの世代はいいことはないよ」といわれたことを覚えている。
 相対的に自由な時間という研究者の「特権」的条件だけは一定部分は残っているが、しかし、経済的な条件をふくめて、ともかくも「好きなことをしていて生きている」という特権性はあまり自覚されなくなった。とくに最近は、研究職につくのが大変であるだけ、それは努力と運によって得たものであるというのは人間の自然な心理である。
 ラッキーではあるかもしれないが、別に特権というほどのことはない普通の勤め人であるという自己意識も十分に理由があると思う。こうして、自己の職業生活が当然のことであるということになると、「何のための学問なのか」ということを自分自身に問うという気持ちは消えていく。その代わりに学界という集団的な場をつうじて、いわば同職団体として社会的な責務を考えるということがあればよいが、そういう学術の社会的責務という捉え方自身も少なくなってきた。
 これはある意味で、学者の労働もそれなりに「労働」らしい姿をとるようになってきたということの反映であって、自然なことではあると思う。またより本質的にいえばそもそも学術が社会的に役立つということ自身がきわめて複雑なシステムと準備が必要であるようになっている。自分の学問が何に役に立つのか、あるいは何に役に立てたいのかということが研究者の日常意識には見えにくくなっているのである。そして、そもそも、学者としての労働が部分労働の正確さを優先する。部分労働に責任を取り、世俗的な存在として自己を自覚するということは悪いことではない。秀才のエリートよりはずっとよい。
 しかし、他方で、こういう「部分労働者化」が学術世界のどこの場所でも進んでいくということは、学術の世界における方法意識を徐々に希薄化させていく。その結果、人文社会系でも方法意識をもつ研究者が少なくなるということになり、必然的に研究者の質は落ちていくというのも否定できないように思う。学術のためには方法が必要であるというのは学術の本質にかかわっており、それは学者の社会的な存在形態とはかかわりのない事柄だからである。

 他方、いわゆるエスタブリッシュメント、資源を左右する立場にある側は、ともかくも学術世界が社会的に行動しないように全力をもって努力してきたようにみえる。学者が社会的な行動において協同するということがないことが望ましいという動きである。そこでは、資源配分をうけるためには、あまり目立つことはやらない方がよいという、いわゆる「同調圧力」が全面的に利用されてきた。もちろん、「同調」性それ自身は悪いことではないから、よっぽどのことがなければ「同調」するのが賢いし、安全であるし、職業にとって必要であるという気分は当然のことであろう。そして、学者の政治的・社会的な立場、そして方法的な立場もいよいよ多様になっているから、学者の中での協同、あるいは学派、グループや結社というものは存在しなくなっていく。
 こういう事情の下で、資源を握るもの、あるいはエスタブリッシュメントのアカデミーに対する影響力は圧倒的に強化された。そういう積み重ねの中で、3,11に続く原発災害はに対しても大学の大多数が一致した声を上げるということがないという状態がもたらされているのである。
 東京大学などという大学にいると、その強さがすみずみまで行き渡っていることを感じる。ここが揺れれば、ある意味では社会がもたないような戦略高地に大学は位置している。つまり、大学というのは、日本の社会システムの中でもっとも強固なエスタブリッシュメントの一部であると思う。これが1960年代末の大学紛争の根本にあった問題であることはいうまでもない。当時、「大学から社会を変えるのだ、学生は自由だ」という意見の人々が多かったが、しかし、私は、むしろ、大学の組織的な変化は根深い社会の動きの全体からみれば、その動きの最後についていくということになるに違いないと考えるようになった。
 もちろん、学術が行動にむけての準備する過程では、このような大学のあり方を変えていくということが決定点、旋回点になる。学術それ自身は大学という組織とはちがって、より流動的なものであるし、そうでなくてはならない以上、その変化は最終的には大学の社会的なあり方を変更していくだろう。そしてそれによってアカデミーは、新しい、より「行動的」な自己組織の仕方を確保していくであろう。学術世界全体の中で、もちろん、大学は「学術の中心」としての位置を維持しつづけるであろうが、しかし、その実態はアカデミーそれ自身による無限の自己組織運動のようなものになるのだろう。ただ、それが実際にどういう形をとっていくことなるかということは、そろそろ大学を離れることになる私には分からない。

 いま、これを書きだしてから二・三日目、16日朝の総武線。これから羽田。そして金浦空港へ。韓国の日本史学会での報告である。何人かの知人、あるいは論文で名前を知っている研究者にお会いすることになると思う。楽しみである。

2012年11月10日 (土)

「公界の差発、拒辞すべからず」

121109_154054  御寺の出張の帰り。いま、伊吹山を通過。伊吹山というと、以前、常滑の調査にいったとき、常滑の前海の荒れた様子をみて、その風が日本海から地溝地帯を伊吹をとおって吹いてきて、知多半島にぶつかってくると知った。そして、常滑から西北に海をみると、多度の山並がみえるという話しをきいた(事実確認要)ように思う。多度というと多度大社であるが、多度は「軍神」(いくさがみ)といわれるが、海の交通の神であったのは、多度山が海からみえるためであるという。
 多度神社資財帳は九世紀の資財帳として著名なもので、学生のころ、数少ない真面目に読んだ史料。ちょうど、義江彰夫氏の歴史学研究会大会報告があり、その報告の主題が、この資財帳の分析であった。その大会があった時は、おそらく歴史学研究会の大会なるものが5月にあるということも知らなかったはずで、義江報告は、大会報告特集を買って読んだ。資財帳は、その論文を手引きにしながら読んだので、独学の学生にも読んだという気になれたのであろうと思う。史料をこう読んで、こう論文にするということを学んだ。
 単位の具合や、いろいろな事情もあって留年することになって、押し詰められたように卒論のテーマを探した時に、9世紀の史料を取り上げて、ともかく卒論をごまかしたのは、義江さんの報告の影響が強かった。大学院に入ってから、平安時代の研究をすることをきめた後に、ともかく現地をみなければというように考えたが、その時、石母田正さんの取り上げた伊賀名張の黒田庄と多度大社にいったのは、そのためであった。
 さて、義江さんの『神仏習合』(岩波新書)を久しぶりに読み直した。必要があって宗教学や文学研究の側で進んできている「中世日本紀」論について考える必要があったためである。義江さんの仕事は、そのような研究動向に歴史学の側から最初に応答したものであった。私は読んで違和感がない。とくにたとえば、浄穢観念と浄土教と神仏習合の関係についての義江さんのテーゼ、つまり「神仏が開かれた系で結合するというあり方は、王権の神祇信仰を支える『浄穢』の価値観を絶対化する方向を導き出した」(149頁)「日本の浄土教は本来の仏教が悟りと罪の背後に押しやった『浄穢』の観念を全面に押し出すことで、王権と貴族社会に根をおろした」(158頁)というテーゼは卓見だと思う。これは平安時代の宗教史の基本的な謎をといたものだと思う。そして「穢」のイメージが黄泉の神話の流れを引いている(152頁など)というのは神話から宗教への展開の基軸をおさえていると思う。
 もちろん、平安時代の宗教史という点で見れば、奈良時代からの移行、そして院政期をどうとらえるかという問題は残っている。とくに義江さんの議論を前提として院政期への展望をどうするかは、きわめてむずかしい問題であると思う。また私には、「神仏習合」論の全体ということになれば、義江さんと意見が違うところはある。義江さんの、この本は1996年の出版だから当然のことである。
 もっとも重大な方法論にかかわる問題は、これを世界宗教(仏教)と基層信仰(神祇)との関係という形で論じてよいかである。このような図式は河音能平氏と共通するものであるが、しかし、そもそも神祇そのものも七・八世紀に仏教や中国道教との関係で作り出されたというところがあり、この二元論的方法でよいかどうかは、私には疑問がある。六世紀にはできあがっていた神話体系は、基層信仰というよりも、より組織的なものであった可能性が高いのではないだろうか。東アジアにおける道教的なものとの関係ですでに一種の普遍性をもっていたのではないかと思うのである。神話体系というものは相当に普遍的な広がりや(それに支えられた)体系性をもっている。地方村落の基層で閉じるサイクルではなく、ネットワークとして中央・地方を通じた観念体系ができていたと、私は思う
 それは神仏習合の起点をどこに置くかにも関係してくる。つまり、義江さんは神仏習合の起点を社会全体の動きの中に求めており、とくに地方社会の神祇においている。神仏習合を社会全体の中で考えなければならないのは正しいとしても、しかし、神話体系が相当の普遍性をもっていたということになると、その体制的な変化は中央から発している可能性が高いと思う。これは『歴史のなかの大地動乱』では説明ぬきで断言してしまったが、「神仏習合」をリードした神宮寺の建立は、東大寺・宇佐・伊勢など、宗教組織の中枢部で発したと考えた方がわかりやすいのである。もちろん義江さんも王権によって組織された神宮寺が先行することを指摘しているが、地方への展開もより連続的であったと私は考えたい。

 いまもう静岡に入った。
 今日の朝は、タクシーで堀河通りをとおった。京都の堀河通りの北の方の中央分離帯に林立する銀杏がうつくしい。最初の日にみたよりも今日の朝の方が黄色がはえていたように思う。
 府立総合資料館など、京都出張の時は、北の方に行くことが多く、しかも天候や予算の関係で秋の方が多いので、この銀杏並木の黄葉を見ると京都に来たという感じがする。この黄葉をみると、京都の出張によくお供をした『日本中世社会史論』の著者、「戦後派歴史学」の大立て者、職場の先輩・稲垣泰彦さんを思い出す。多忙でいろいろ気になることも多いが、続いてきた仕事にささえられて生きていると思う。その仕事を貫くのは、御寺で調査した文書の一節のいう「公界の差発、拒辞すべからず」という論理である。ここに現れる「公界」の論理は、つねに公共性の論理とイコールである訳ではないが、しかし、人間社会である以上、この公共性の論理にはやはり尊重すべき思念が含まれていると思う。禪宗文書には「公界」の用例が多く、こういう意味での「公界」は東島誠氏のいう「江湖」の論理につながっていく。
 ともあれば、私は、過去から続いている仕事という枠、その記憶によって支えられて生きていると思う。今回もすべてに本当にお世話になり、そのありがたさに頭がさがる。
121108_114357  物をもった拍子に少し腰をひねり、日のあたる廊下で一時間ほど横になって、その間の統括は仲間に頼んだ。この写真は、その時、下からみた頭上の天上板。

  
  来週は韓国の日本文学研究会で報告である。事前に報告のペーパーを送らねばならず、出張前に書かねばならず、雑巾頭をしぼった。下記にそのはじめにの部分を引用する。報告の題は、「神話意識の変容と歴史意識」というもの。それで義江さんの仕事を読んだのである。ここでも過去によって自分が支えられているという観が強い。しばらく御会いしていないが、お元気だろうか。

 「神話意識の変容と歴史意識」はじめに
 ここ二〇年以上、歴史学の側での神話研究は全体として低調であった。総じて歴史学的な神話の研究をどのような方法意識の下に行っていくべきかについての議論もほとんどなかった。神話は世界観に密接した言説体系であるから、それを検討する研究主体の側にも世界観的な視野を要求する。そこで議論がないというのは、歴史学が「世界観」にかかわる問題との格闘から身を引いてしまったことを意味しているのではないか。もし、そうだとすれば、それは歴史家の歴史観から世界観的な性格がうすくなっているという由々しい問題となる。
 最近、『古事記』一三〇〇年ということで、神話に関する出版物がふえている状況をみていると、ともかくも、日本の神話をどのように受けとめ、文化遺産としてどう生かしていくかということは、日本の学術と文化にとっての最大の問題の一つであることを実感する。別に述べたように、これはいわゆる「戦後派」歴史学が、当初、最重要の研究課題にかかげながら、結局、取りこぼしてきている問題の一つであって、その意味でも、私は、歴史学はそろそろ神話について正面から検討するべきであると思う。
 もちろん、津田左右吉以来の神話研究が残したものは大きい。その史料批判の蓄積は『古事記』『日本書紀』に描かれた神話の政治的性格を明らかにしてきた。つまり、記紀神話は、当時現実に存在した多様な神話を素材としつつも、アマテラスの神格を皇祖神として強調することを中心として、天皇制支配を正統化する意図の下にその内容を再構成したものである。また、いわゆる国家神道が、記紀神話が「日本の神話」とは等置できない内実をもつことを無視して、その神話イデオロギーを組み立てていたこともよく知られている。そして、両者を媒介する位置にあったのが、本居宣長の仕事をはじめとする江戸時代の「国学」による記紀神話解釈であったことについてもほぼ共通に認識されているといってよいと思う。
 念のために確認しておけば、島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書)がいうように、いわゆる国家神道は往年の影響力は失ったものの、日本社会の中でいまでも隠然とした位置をもちつづけている。歴史研究はそのようなイデオロギーから独立して行われなければならないというのは、私たちにとって譲れない一線である。日本の神話を文化遺産として生かしていくというのは、このようにして重層的に語り直され、作られてきた神話解釈のイデオロギー的な枠組みを突き破って、遥か昔、「現実に存在した神話」に立ち戻って復元するということであろう。
 その意味では、私は右の津田以来の観点はそのまま受け継ぐことができると考えるものである。しかし、歴史学は安閑としてはいられない。それは、このような課題意識の問題のみでなく、実は、最近、「中世日本紀」といわれるテキスト群の研究が、宗教学や文学の研究者を中心にして大きな稔りをみせ、歴史学の鼎の軽重が問われている状況があるからである。よく知られているように、これらの研究は、平安時代以降、記紀神話が密教的な体系と用語によって換骨奪胎されている様子を明瞭に示した。これらの具体的な研究が「神道」の内実それ自身に新たな測錘をおろしたことは疑いない。これによって、江戸時代の「国学」とはことなる『古事記』『日本書紀』の解釈が長く一般的であった様相が具体的に明らかになったことの意味はきわめて大きいと思う。
 もちろん、歴史学の側からみると、これらの仕事の視野は黒田俊雄の学説の範囲内、つまり「神道」は、仏教が世俗向けに作りだした儀礼の体系の構成部分であるという理解の範囲内にあるようにみえる。また「中世日本紀」それ自身については、義江彰夫『神仏習合』がすでに必要な視点の基本は打ち出していると思う。しかし、それにしても、最近の「中世日本紀」論の進展は目覚ましく、それを視野に入れて、義江に続く仕事が必要なことは明らかである。
 その意味で今後の神話論はすべての面で「中世日本紀」論の達成をふまえることが必須なのであるが、それは方法や課題意識の問題であると同時に、さらに記紀神話の解釈それ自身に影響をあたえざるをえないのではないだろうか。私は、平安時代以降の神話関係史料の中には、時代が近い以上、これまでいわれていたような牽強付会のみではなく、記紀神話解釈それ自身にとっても大事な示唆が含まれている可能性があると思うのである。
 実は、この問題は、「中世日本紀」の研究に対する若干の違和感にもつながっていく。つまり、現在の「中世日本紀」の研究は、その密教的性格を強調するのあまり、記紀神話との断絶を強調しすぎているのではないか。もちろん、「中世日本紀」の研究が文献学的な厳密さを重視し、その必然として膨大な聖教テキストの中に分け入って行くことは当然ではあるが、しかし、それは『古事記』『日本書紀』そのものの解釈の再検討と統合的に推進されなければならないように考える。そのような根源への遡及なしには、七・八世紀から一二・三世紀にかけての「神話」の歴史的変容を内在的に理解することはできないのではないだろうか。そして、究極的にはそれによってこそ、江戸期「国学」による神話理解をくつがえすことが可能になるのではないかと思うのである。
 この報告では、そのような考え方の上に立って、これまであまり取り上げられなかった九世紀から一二世紀にかけての神話理解に関わると思われる史料のいくつかを取り上げて論じてみることにしたい。私は、おもに平安時代以降を先行しているが、最近公刊した『歴史のなかの大地動乱』で雷電・地震・噴火を表現する神話を中心にして、日本の神話それ自身について若干の検討を行った。これがどこまで正鵠をいているかは、まだ不明であるが、ともあれ、その執筆の中で、これまで神話論研究において、九世紀の『日本後紀』以下の編纂史料さえも、神話論は真剣な研究の対象にしてこなかったことを知った。この報告はその作業の延長にある。

2012年11月 3日 (土)

アイパッドとデータベース

 今日帰りに本郷三丁目の駅で、以前、ゼミをもっていた時の院生のK君がベンチにいたので、「どうしてる」という話しになって、電車に乗りながら、彼が書いているという論文についてのアドヴァイスをした。たしか、こういう史料とこういう史料があったはずだ。永原先生のあの論文を読んで、それからこの言葉を調べてという話しをしたら、彼が、やおら、カバンから薄っぺらいものを取り出した。「これはアイパッドであろうか。この前、同年輩の仲間との合宿でT氏がもっていたのをみたが、あれよりは、さらに薄っぺらいように思うけど、メモでもするのだろうか」などと見ていたら、史料編纂所のホームページにアクセスをして、『平安遺文』のデータベースを引きだしたので驚いた。
 彼が、その言葉を入力して検索をかけるのに10秒ほどだったろうか。もうそんなことができるのだと感心した。もちろん、仕事では職場のコンピュータでよくデータベースは使うが、地下鉄の中で、すぐにみれるとは知らなかった。「エー、そんなに簡単にできるの」と感想をいうとともに、自分がまったくの時代遅れであることを確認した。
 検索の結果がすぐに出てこず、彼が「あれ、電波が切れたか」という。本郷を通る地下鉄丸の内線は途中で電波が切れるらしい。しかしその途端に、検索結果がもどってきた。データベース作りの仕事を始めた時に覚えた言い方では、検索結果が「返戻」されてきた(これはretrieveの翻訳であろうか)。そして、彼が器用に指を動かして画面を拡大して見せてくれると、たしかに、その言葉が中央にならぶ検索結果の画面がみえた。

 いま、総武線の中、本郷三丁目から東京駅までの10分弱で、上のようなことがあるのだから、そのスピードに驚く。若い人の研究が、どんどん進むといいと思う。『平安遺文』のデータベースは、もう15年ほど前であろうか、古文書フルテキストデータベースを構築するという科研の計画を立てた時、竹内理三先生、竹内啓先生に御願いして課題に加えさせていただいたもの。実際にたいへんであったのはE氏で、あとのメインテナンスも、私は責任をとらず申し訳なかったが、ともかく若い人の役にはたつのだろうと、今日の地下鉄の中での会話を思い出して考える。
 彼は、これ(おそらくアイパッドなのであろう)を使うようになってから勉強がはかどるようになったともいっていた。論文もスキャンして、それで読むそうである。「今日の朝も、先生(私のこと)の■■の論文を読みました」ということである。本よりアイパッド(であろう)に入っているほうが頭に入りやすい(整理しやすい)ということである。そういうものかと思うが、しかし、若い人には必要なものなのかもしれないというのを実感。

 論文を書くというのは、多量の史料の中からうまく問題を見つけだして自由に考えて、構想と理屈をまとめるという作業だから、たしかにデータベースは役に立つと思う。もちろん、政治史などの限られた史料の処理には(便利ではあっても)あまりデータベースは役に立たないが、彼が興味をもっているような経済史などの、歴史学の中でも最もむずかしい分野では、何よりも発想が先だが、それでも自由に史料を集められるのは決定的な意味をもつのかもしれない。
 間近で彼の指の動きをみていて、これは、何か、研究というより楽器を扱っているようだ、音楽の作曲のようだなどと馬鹿なことを考えていた。しかし、(自分も不足点が多いとはいえやってきた仕事なのでいいにくいが)編纂も、データベース作りも基礎工事であるだけに、いわゆるムスケルであって労多い仕事だが、その上にかなでられる音楽のスピードが増していくのはよいことだと思う。史料編纂所は、名前通り、編纂がデューティーになっている研究所なので、データベース作りは、ある意味ではボランティア的な奉仕労働に依拠しているが、今日のようなことがあると、少しは自分の仕事にも意味があったのかもしれないと思って、うれしい週末の帰りの電車である。

2012年11月 2日 (金)

平和のための宗教者研究集会報告書、加藤生田神宮宮司の講演

 

Katouguuji121102_040753 『平和のための宗教者研究集会報告書』(38回)を入手した。そこに生田神宮宮司の加藤隆久氏の講演がのっていて共感することが多い。一部を引用してみる。

 被災地から離れた地域からなし得ることはまだ限られております。宗教の社会貢献の必要性を訴える声は、最近、高まっていたのでありますが、それは、宗教本来の事柄ではないと、いささか冷やかに見る人もなくはありませんでした。俗な価値観から距離を置くことに宗教の本来の姿を主張する立場も当然あります。しかし、こうした本当の助けの欲しい人が大勢いる時に、一般の人以下の対応であっていいのであろうか、どうしたらいいのか、どういう手段があるのか。それは日頃から、社会性を養っておかなければ解決策はにわかに生まれるようなものではありません。
 日本の歴史をひも解いてみて、古代では、自然災害とは神の怒り、祟りと考えられていました。神は地域を守護する神であると共に、祟り神としても信仰されていました。貞観十一年十月十三日に起こった陸奥の国の震災、同じく貞観十一年十月二十三日、肥後の国の大雨による災害など、古代には災害を鎮めたり未然に防ぐ祭祀が行われていました。さらにさかのぼって、記紀の神話にも震災の経験が織り込まれております。
このように、我が国の古代の歴史や伝承に目を向けることで、震災を組み込んだ歴史観の再認識も必要で、これらを現代に生かせる方法を考えてみてはどうかという意見もあります。今回の震災は、想定外といわれますが、人知で計り知れないのが自然の営みで、皆が驕りはなかったのかと、自分の身に置き換えて考える必要のあることを指摘する人もいます。「原発問題でも、原子力という自然にないものを人間が作り出したことで、神々の怒りを買ったのではないか」という人もいます。震災からの復興、原子力発電所問題への対応、これに宗教界が特別な貢献をできなくても仕方がないでありましょう。神の世界では、やり直しを認めています。しかし、原発はやり直しがききません。それは、その専門家に対処を委ね、それを支援していけばよいと思うという意見もあります。
一方、福島県三春町生まれの僧侶であり作家の、東日本大震災復興構想会議委員の玄侑宗久さんは、復興に際して、あるいは原発事故の後処理において何が最も大切なものかと考えると、逃げまどい家族を失い、避難生活を強いられている人々の視点ではないか、度の専門家にも引き寄せず、つまりアテガイブチの物差しを使わず、しかもどんな組織にも気を遣わずモノが言えること、これこそが復旧・復興機構の基本ではないかと述べています。いわゆる専門家に任せておいた結果が、あの福島第一原発の事故とその後だということを忘れてはならないと、警告を発していることも宗教者は耳を傾けるべきであります。
宗教界は、この未曽有ともいうべき災害に直面したこと、自らの日頃の活動のあり方の改善や見直しにつなげていくことこそ、宗教界独自の災害の向かい合いということになるのではないでしょうか。人類という小さな枠を超えて、地球的、宇宙的視野のもとに今、どうあるべきか、人類は襟を正して文化のありようを大きく軌道修正すべきではないか、宗教者もう一度、日本の国土を考えさせる機会を多くの犠牲者の上に立ちながら教えを受けたと思うのです。

宗教者の立ち位置と学者・研究者の立ち位置は似ていると思う。これは職能と生活の感覚が似ているのであると思う。「生活の感覚」が似ているというのは、まずは自己の職能の社会的な意味を問わざるをえないということである。原発に関係したいわゆる「専門家」には耳が痛いことであろうが、これが共通の声であろうと思う。

 とくにもう一度の引用になるが、「日本の歴史をひも解いてみて、古代では、自然災害とは神の怒り、祟りと考えられていました。神は地域を守護する神であると共に、祟り神としても信仰されていました。貞観十一年十月十三日に起こった陸奥の国の震災、同じく貞観十一年十月二十三日、肥後の国の大雨による災害など、古代には災害を鎮めたり未然に防ぐ祭祀が行われていました。さらにさかのぼって、記紀の神話にも震災の経験が織り込まれております。このように、我が国の古代の歴史や伝承に目を向けることで、震災を組み込んだ歴史観の再認識も必要で、これらを現代に生かせる方法を考えてみてはどうかという意見もあります」という部分は、歴史学者としても、その通りであると思う。

 生田神社は阪神大震災の時にたいへんな状況になったことは写真を覚えている人もいるのではないか。9世紀の地震活発期にも、貞観10年、868年の播磨地震で被害を受けていることは、まさに「祟り神」として、この播磨地震を起こした神として史料に登場することでわかる。
 このパンフレットで、仏教・神道・キリスト教の相異なる信条をもつ宗教者がともに議論をしている様子は励まされる。しかし、翻って考えると、同じ事態に対して、学者はどのようなネットワークを作り、どのように発言をしていくべきなのだろうか。してきたであろうか。この『報告書』にあるような率直さで学者相互の議論をしているだろうか。「それは日頃から、社会性を養っておかなければ解決策はにわかに生まれるようなものではありません」という言葉に耳の痛くない学者はどれだけいるだろうか。

 ともかくも、足下の歴史学の役割を果たしていくしかないのであるが、全体がどうなっていくのか。いまの私には、本当にわからない。

 いま、総武線の帰り。一昨日は、友人の編集者、御二人と、久しぶりに飲む。最近の歴史学会の状況についての感想、情報交換や、共通して親しかった網野さんなどの先輩研究者の話である。
 期せずして一致したのは、三,一一の後、網野さんが生きていたら網野さんは「無縁の力」というものの現出を確認するという形で議論を展開したに相違ないということであった。そして、これも一致したのは、網野さんのまわりにあったネットワークは由来するところが古く、第二次大戦から敗戦、戦後の歴史過程に根づいたものであるということ。研究者はたしかに、その研究の世界では、一人一人、孤絶の世界にいるが、網野さんはいろいろな意味で仲間が多かった方だという話し。そして、それと比べると、現在の歴史学は、ほとんどまわりにネットワークをもっていないのではないかという御寒い事態についての確認であった。
 そんなこんなで昨日は憂鬱。寒くなり、季節の変わり目である。

 これから、歴史学の環境が、どのようになっていくのかは私にはわからない。しかし、協同の原点となるような経験を一つ一つ確認しながら進んでいきたいものだと思う。その中で新たに「社会性」をやしなっていかねばならない。

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