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2012年11月22日 (木)

富士山の鳥瞰と内視鏡

 先週17日(土)、韓国の学界で御会いした松本真輔氏から、神功皇后が新羅に侵略したという神話において、津波とともに侵略したというエピソードがあるのを教えられた。これについてはまた紹介したいと思う。
Photo  これは11月16日、12時30分前後、羽田発の大韓航空、ソウル便からみた富士。綺麗な眺望にみとれる。向こう側に伊豆半島が広がっているのもわかる。


Photo_2 もう一つは、若狭常神半島の上空からとったもの。まさに大飯原発の場所である。
 マクロの鳥瞰が日常的に可能になっているということが世界観におよぼす影響というものは確実にある。こういう経験をベースにしてプレートテクトニクスというような地球地質学的な世界観が社会に根づいていくのだと思う。伊豆半島がユーラシアプレート(アムールプレート)にぶつかっている現場を上からみている。神の目が人間の目になったということであろうか。

 15日(?)の東京新聞によれば、変動地形学の渡辺氏が若狭湾東部を断層がのび、大飯原発を通過して海中に続いているという見解を発表したという。『歴史評論』に出した論文では、『方丈記』のいう津波、つまり「おびただしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる」とみえる津波は、史料からの若狭湾の津波と考えられると述べたが、渡辺さんの見解を読み、上空からの眺望をえて、さらに印象が深くなった。
 
 大野更紗さんのツイッターが復活した。韓国にいっていたあいだ、しばらくツウィートがなかった。「寒い」「冬の陣」(であったか)というツウィートもあったから、あるいは身体の調子を崩されたかなどと、妻と心配する。まったく面識のない他者の身体の調子を話題にし、かつそれについて書いてしまうというなどというのは普通はないことであるが、『困ってるひと』を読んだものとして感情移入をしてしまう。現在の社会という視界からも大事な人である。心配であり、来年、3月の春をまつ気持ちが強くなる。
 他者の日常的な身体と感情と意識の揺れを感じるというのは、もちろん、これまでも普通に行われていたことである。我々は小説をよみ、その人の身体と感情と意識の内部に入っていくという経験をする。それから演劇や音楽、芸術もそういうことである。「スター」の一挙手一動に影響されるというのは、むしろ普通の風景であろう。しかし、ネットワークには意識が流出し、活字を通じて目に入ってくる。人間の身体・感情・意識が、巨大な群体の神経系統であるかのようにして、個体をこえて交流しあう。これはいわば「普遍的な交通」が日常化し、誰でもがそのネットワークの中に入り込んでいくという時代の標識である。
 知識世界と学術は、そのような普遍的交通の確実なベースを提供しなければならないと思う。そのベースによって群体化する人間の行動と意識世界の安定性と康福を確保すること。人間とそのアソシエーションの中に、ラテン語でいう貨幣=「万物の神経」(ネルウス・レルム)の動きを相対化できるだけの強さと筋道を確保すること。そういう形で情報手段をも相対化してしまうこと。これが、以前、「情報と記憶」という論文を書いて以来の考え方。
 
 昨日は、人間ドック。20年もやらなかった胃の内視鏡検査をした。左脇を下にして横になり、デスプレイに自分の鼻・喉・食道・胃・十二指腸が映しだされるのをみているというのは独特の体験である。もう何年前になるのか、前に内視鏡を呑んだのは、石母田正さんがなくなった直後のことであった。訃報が伝わってきて、通夜の受付に来いという呼び出しがかかったが、その時は胃潰瘍の発作で七転八倒の状態であった。
 社会的分業ということの意味を考える上で、この医学的手段による身体内部の可視化ということがもっとも具体的な例証となるというのが、従来からの考え方。私に胃カメラを呑ませてくれた検査技師の医者はおそらく1000人以上の胃を検査してきたに違いない。どの部位であれ、医者は人を診ると、その内臓を通じて人をみるということだと思う。歯医者は歯から、耳鼻科医者は耳鼻を通じて人間をみる。そういう形で医者は人間=動物という感覚をもっているということになる。人間=動物というのは、人間が動物としてはすべて同じという徹底的な感覚である。そういう身体的な知識と性格からなる専門性をもった人々が存在する。そういう人々がいなくては社会がもたないということになっている。これが科学と社会的分業の関係にとって根本的な問題であろうと思う。
 ともかくもこれによって、人間は自己の身体のミクロの世界を可視化することが可能になっているのである。鼻への麻酔と内視鏡の喉への通過の違和感・苦痛を覚悟すれば、誰でも自分の内臓のミクロの世界をみることができるということになっているということを実感したのである。もちろん、それは知ってはいたが、知っているのと実際に見るのは大違いということである。
 
 以上、先週末から昨日まで、空からのマクロの鳥瞰から身体のミクロの世界の内視という視野拡大の時間であった。もちろん、学者として最大の経験は、週末の学界で韓国の日本史学界の実際を知り、多くの友人をえたことであるが、これについてはまた。

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