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2012年11月10日 (土)

「公界の差発、拒辞すべからず」

121109_154054  御寺の出張の帰り。いま、伊吹山を通過。伊吹山というと、以前、常滑の調査にいったとき、常滑の前海の荒れた様子をみて、その風が日本海から地溝地帯を伊吹をとおって吹いてきて、知多半島にぶつかってくると知った。そして、常滑から西北に海をみると、多度の山並がみえるという話しをきいた(事実確認要)ように思う。多度というと多度大社であるが、多度は「軍神」(いくさがみ)といわれるが、海の交通の神であったのは、多度山が海からみえるためであるという。
 多度神社資財帳は九世紀の資財帳として著名なもので、学生のころ、数少ない真面目に読んだ史料。ちょうど、義江彰夫氏の歴史学研究会大会報告があり、その報告の主題が、この資財帳の分析であった。その大会があった時は、おそらく歴史学研究会の大会なるものが5月にあるということも知らなかったはずで、義江報告は、大会報告特集を買って読んだ。資財帳は、その論文を手引きにしながら読んだので、独学の学生にも読んだという気になれたのであろうと思う。史料をこう読んで、こう論文にするということを学んだ。
 単位の具合や、いろいろな事情もあって留年することになって、押し詰められたように卒論のテーマを探した時に、9世紀の史料を取り上げて、ともかく卒論をごまかしたのは、義江さんの報告の影響が強かった。大学院に入ってから、平安時代の研究をすることをきめた後に、ともかく現地をみなければというように考えたが、その時、石母田正さんの取り上げた伊賀名張の黒田庄と多度大社にいったのは、そのためであった。
 さて、義江さんの『神仏習合』(岩波新書)を久しぶりに読み直した。必要があって宗教学や文学研究の側で進んできている「中世日本紀」論について考える必要があったためである。義江さんの仕事は、そのような研究動向に歴史学の側から最初に応答したものであった。私は読んで違和感がない。とくにたとえば、浄穢観念と浄土教と神仏習合の関係についての義江さんのテーゼ、つまり「神仏が開かれた系で結合するというあり方は、王権の神祇信仰を支える『浄穢』の価値観を絶対化する方向を導き出した」(149頁)「日本の浄土教は本来の仏教が悟りと罪の背後に押しやった『浄穢』の観念を全面に押し出すことで、王権と貴族社会に根をおろした」(158頁)というテーゼは卓見だと思う。これは平安時代の宗教史の基本的な謎をといたものだと思う。そして「穢」のイメージが黄泉の神話の流れを引いている(152頁など)というのは神話から宗教への展開の基軸をおさえていると思う。
 もちろん、平安時代の宗教史という点で見れば、奈良時代からの移行、そして院政期をどうとらえるかという問題は残っている。とくに義江さんの議論を前提として院政期への展望をどうするかは、きわめてむずかしい問題であると思う。また私には、「神仏習合」論の全体ということになれば、義江さんと意見が違うところはある。義江さんの、この本は1996年の出版だから当然のことである。
 もっとも重大な方法論にかかわる問題は、これを世界宗教(仏教)と基層信仰(神祇)との関係という形で論じてよいかである。このような図式は河音能平氏と共通するものであるが、しかし、そもそも神祇そのものも七・八世紀に仏教や中国道教との関係で作り出されたというところがあり、この二元論的方法でよいかどうかは、私には疑問がある。六世紀にはできあがっていた神話体系は、基層信仰というよりも、より組織的なものであった可能性が高いのではないだろうか。東アジアにおける道教的なものとの関係ですでに一種の普遍性をもっていたのではないかと思うのである。神話体系というものは相当に普遍的な広がりや(それに支えられた)体系性をもっている。地方村落の基層で閉じるサイクルではなく、ネットワークとして中央・地方を通じた観念体系ができていたと、私は思う
 それは神仏習合の起点をどこに置くかにも関係してくる。つまり、義江さんは神仏習合の起点を社会全体の動きの中に求めており、とくに地方社会の神祇においている。神仏習合を社会全体の中で考えなければならないのは正しいとしても、しかし、神話体系が相当の普遍性をもっていたということになると、その体制的な変化は中央から発している可能性が高いと思う。これは『歴史のなかの大地動乱』では説明ぬきで断言してしまったが、「神仏習合」をリードした神宮寺の建立は、東大寺・宇佐・伊勢など、宗教組織の中枢部で発したと考えた方がわかりやすいのである。もちろん義江さんも王権によって組織された神宮寺が先行することを指摘しているが、地方への展開もより連続的であったと私は考えたい。

 いまもう静岡に入った。
 今日の朝は、タクシーで堀河通りをとおった。京都の堀河通りの北の方の中央分離帯に林立する銀杏がうつくしい。最初の日にみたよりも今日の朝の方が黄色がはえていたように思う。
 府立総合資料館など、京都出張の時は、北の方に行くことが多く、しかも天候や予算の関係で秋の方が多いので、この銀杏並木の黄葉を見ると京都に来たという感じがする。この黄葉をみると、京都の出張によくお供をした『日本中世社会史論』の著者、「戦後派歴史学」の大立て者、職場の先輩・稲垣泰彦さんを思い出す。多忙でいろいろ気になることも多いが、続いてきた仕事にささえられて生きていると思う。その仕事を貫くのは、御寺で調査した文書の一節のいう「公界の差発、拒辞すべからず」という論理である。ここに現れる「公界」の論理は、つねに公共性の論理とイコールである訳ではないが、しかし、人間社会である以上、この公共性の論理にはやはり尊重すべき思念が含まれていると思う。禪宗文書には「公界」の用例が多く、こういう意味での「公界」は東島誠氏のいう「江湖」の論理につながっていく。
 ともあれば、私は、過去から続いている仕事という枠、その記憶によって支えられて生きていると思う。今回もすべてに本当にお世話になり、そのありがたさに頭がさがる。
121108_114357  物をもった拍子に少し腰をひねり、日のあたる廊下で一時間ほど横になって、その間の統括は仲間に頼んだ。この写真は、その時、下からみた頭上の天上板。

  
  来週は韓国の日本文学研究会で報告である。事前に報告のペーパーを送らねばならず、出張前に書かねばならず、雑巾頭をしぼった。下記にそのはじめにの部分を引用する。報告の題は、「神話意識の変容と歴史意識」というもの。それで義江さんの仕事を読んだのである。ここでも過去によって自分が支えられているという観が強い。しばらく御会いしていないが、お元気だろうか。

 「神話意識の変容と歴史意識」はじめに
 ここ二〇年以上、歴史学の側での神話研究は全体として低調であった。総じて歴史学的な神話の研究をどのような方法意識の下に行っていくべきかについての議論もほとんどなかった。神話は世界観に密接した言説体系であるから、それを検討する研究主体の側にも世界観的な視野を要求する。そこで議論がないというのは、歴史学が「世界観」にかかわる問題との格闘から身を引いてしまったことを意味しているのではないか。もし、そうだとすれば、それは歴史家の歴史観から世界観的な性格がうすくなっているという由々しい問題となる。
 最近、『古事記』一三〇〇年ということで、神話に関する出版物がふえている状況をみていると、ともかくも、日本の神話をどのように受けとめ、文化遺産としてどう生かしていくかということは、日本の学術と文化にとっての最大の問題の一つであることを実感する。別に述べたように、これはいわゆる「戦後派」歴史学が、当初、最重要の研究課題にかかげながら、結局、取りこぼしてきている問題の一つであって、その意味でも、私は、歴史学はそろそろ神話について正面から検討するべきであると思う。
 もちろん、津田左右吉以来の神話研究が残したものは大きい。その史料批判の蓄積は『古事記』『日本書紀』に描かれた神話の政治的性格を明らかにしてきた。つまり、記紀神話は、当時現実に存在した多様な神話を素材としつつも、アマテラスの神格を皇祖神として強調することを中心として、天皇制支配を正統化する意図の下にその内容を再構成したものである。また、いわゆる国家神道が、記紀神話が「日本の神話」とは等置できない内実をもつことを無視して、その神話イデオロギーを組み立てていたこともよく知られている。そして、両者を媒介する位置にあったのが、本居宣長の仕事をはじめとする江戸時代の「国学」による記紀神話解釈であったことについてもほぼ共通に認識されているといってよいと思う。
 念のために確認しておけば、島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書)がいうように、いわゆる国家神道は往年の影響力は失ったものの、日本社会の中でいまでも隠然とした位置をもちつづけている。歴史研究はそのようなイデオロギーから独立して行われなければならないというのは、私たちにとって譲れない一線である。日本の神話を文化遺産として生かしていくというのは、このようにして重層的に語り直され、作られてきた神話解釈のイデオロギー的な枠組みを突き破って、遥か昔、「現実に存在した神話」に立ち戻って復元するということであろう。
 その意味では、私は右の津田以来の観点はそのまま受け継ぐことができると考えるものである。しかし、歴史学は安閑としてはいられない。それは、このような課題意識の問題のみでなく、実は、最近、「中世日本紀」といわれるテキスト群の研究が、宗教学や文学の研究者を中心にして大きな稔りをみせ、歴史学の鼎の軽重が問われている状況があるからである。よく知られているように、これらの研究は、平安時代以降、記紀神話が密教的な体系と用語によって換骨奪胎されている様子を明瞭に示した。これらの具体的な研究が「神道」の内実それ自身に新たな測錘をおろしたことは疑いない。これによって、江戸時代の「国学」とはことなる『古事記』『日本書紀』の解釈が長く一般的であった様相が具体的に明らかになったことの意味はきわめて大きいと思う。
 もちろん、歴史学の側からみると、これらの仕事の視野は黒田俊雄の学説の範囲内、つまり「神道」は、仏教が世俗向けに作りだした儀礼の体系の構成部分であるという理解の範囲内にあるようにみえる。また「中世日本紀」それ自身については、義江彰夫『神仏習合』がすでに必要な視点の基本は打ち出していると思う。しかし、それにしても、最近の「中世日本紀」論の進展は目覚ましく、それを視野に入れて、義江に続く仕事が必要なことは明らかである。
 その意味で今後の神話論はすべての面で「中世日本紀」論の達成をふまえることが必須なのであるが、それは方法や課題意識の問題であると同時に、さらに記紀神話の解釈それ自身に影響をあたえざるをえないのではないだろうか。私は、平安時代以降の神話関係史料の中には、時代が近い以上、これまでいわれていたような牽強付会のみではなく、記紀神話解釈それ自身にとっても大事な示唆が含まれている可能性があると思うのである。
 実は、この問題は、「中世日本紀」の研究に対する若干の違和感にもつながっていく。つまり、現在の「中世日本紀」の研究は、その密教的性格を強調するのあまり、記紀神話との断絶を強調しすぎているのではないか。もちろん、「中世日本紀」の研究が文献学的な厳密さを重視し、その必然として膨大な聖教テキストの中に分け入って行くことは当然ではあるが、しかし、それは『古事記』『日本書紀』そのものの解釈の再検討と統合的に推進されなければならないように考える。そのような根源への遡及なしには、七・八世紀から一二・三世紀にかけての「神話」の歴史的変容を内在的に理解することはできないのではないだろうか。そして、究極的にはそれによってこそ、江戸期「国学」による神話理解をくつがえすことが可能になるのではないかと思うのである。
 この報告では、そのような考え方の上に立って、これまであまり取り上げられなかった九世紀から一二世紀にかけての神話理解に関わると思われる史料のいくつかを取り上げて論じてみることにしたい。私は、おもに平安時代以降を先行しているが、最近公刊した『歴史のなかの大地動乱』で雷電・地震・噴火を表現する神話を中心にして、日本の神話それ自身について若干の検討を行った。これがどこまで正鵠をいているかは、まだ不明であるが、ともあれ、その執筆の中で、これまで神話論研究において、九世紀の『日本後紀』以下の編纂史料さえも、神話論は真剣な研究の対象にしてこなかったことを知った。この報告はその作業の延長にある。

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