ヤスパースを読んでいる
11月23日(金曜)。休日だが、東京大学原発フォーラム主催の講演会にでるため総武線。時間の制約があるが、北海道がんセンター院長の西尾正道氏の話しだけでも聞く積もり。放射性異物による汚染とその拡散の状態が医学的にどういうことなのかについて知識を整理したい。
もう今日は11月28日(水曜日)。左の本は、右の集会で購入した国立病院機構、北海道がんセンター院長西尾正道『放射線健康障害の真実』(旬報社、1000円)。重要な本。このようなまとまった本で、知識を整理するのは、いま必須だと思う。これについてはまた書きたい。
いま、夜、帰宅の総武線の中。服部英雄氏の『河原ノ物・非人・秀吉』の毎日出版文化賞受賞の祝賀会の帰り。少しお酒をいただいて、旧知の人々ともあって楽しく過ごす。二次会は身体の調子をまもるために失礼をした。お酒が入っていて仕事不能なので、このごろ、読んでいるヤスパースについて。河出書房の『世界の大思想』シリーズのヤスパースであるが、この『大思想』シリーズをみると、高校時代を思い出す。あるいはもう大学に入ったころかもしれないが、渋谷の紀伊国屋に、この薄青色の装幀のシリーズがならんでいたという記憶である。
渋谷の紀伊国屋は瀟洒で都会的な感じで、その端っこの方の低い書棚に、このシリーズがならんでいたように覚えている。高校が近かったので、よく渋谷に出たが、そういう雰囲気が好きだった。『世界の大思想』などというと、今では何とも仰々しいように思えるが、当時は、「思想」が「はやり・流行」の時代なので違和感がなかった。まったく違った衣裳の下にではあろうが、そろそろ、再度、そのような季節がやってくることを期待したいものだ。これは若い人から見ればほとんど無意味な、70年代への郷愁にすぎないかもしれない。しかし、時代のムードは大事だと思う。奥底から立ち上り、社会意識に反映してくる、時代のムードの変化なしには社会は前進しない。
さて、この『大思想』ヤスパースには、ヤスパースの歴史哲学の大論文、「歴史の起源と目標」が入っていて、しばらく前から読んでいる。翻訳の調子に気にかかるところがあるのはやむをえないが、原文それ自身は平明なもののようである。ヘーゲルの歴史哲学のうさんくさいような「弁証法」的な臭みはなく、ややトインビーのような感じもする。しかし、トインビー的大風呂敷という感じがせず、堅実な論理と常識があって、「空論」と「大風呂敷」の嫌いな歴史学者にもヤスパースの視点をともかくも尊重することにきめてしまえば読みやすい。ヤスパースはM・ウェーバーの全面的影響の下にあったから、その意味でも読みやすい。ただし、平明なだけに社会理論としては素朴さをまぬがれない。限界があることは明らかで、社会科学的な詰め(とくに国家論)は弱い。これはウェーバーとの詳細な対比が必要なのだと思う。日本の歴史学におけるウェーバーの取り上げ方が、ヤスパースを放置して展開していたようにみえるのはどういう訳かも考えてみたいと思う。これは大塚先生にうかがっておくのであった。
しかし、哲学的なフレーズに隠されているものの、さすがにナチスの時代をユダヤ人であった妻をまもって厳しい生き方を強制された経験をふまえた断言には19世紀段階とは違う強さと新しさがある。ルソーからマルクスへの系譜を考えなおすためにも有効だと思う。ヤスパースのスターリンの大国主義的ロシアに対する批判、アメリカへの危惧、そして「核時代」についての見通しなどはも、十分に踏まえるべきものと思う。少なくとも、ヤスパースとの対話をふまえなければ現在の「歴史哲学」は存立しえない。
もうすぐ千葉到着。懐古的で申し訳ないが、高校時代、ヤスパースは、新潮社の文庫ででていた『哲学入門』をもっていて意味がわからないまま読んでいた。これは書棚にみえず、注文したので、どういう本だったかを「再」理解するのが楽しみである。ハイデカー批判のためには、いろいろな意味でヤスパースの理解が必須である。少し閑になったら、少し集中して読みたいと思う。
以下、ヤスパースから引用。私は宗教者ではないが、ヤスパースのいう「信仰」は、様々な「根本態度」と考えれば、それ自身としてはどのような立場の言葉にも変えられるものであり、以下は、そのようなものとして尊重されるべき考え方であると思う。
神への、人間への、世界の中でのもろもろの可能性への信仰の結果は、社会主義と世界統一の道にとって本質的に重大である。信仰なくしては、悟性、機械的思考、非理性的なもの、そして破滅が残るのみである。 (1)信仰に基づく力。 人間の動物的基本衝動を制御し、克服して、みずからを高みへと飛翔させる人間存在の動力に変えてしまう、―こうした力を動かすものは、信仰心以外にない。すなわち、支配欲たる野蛮な暴力の衝動、―狂暴と残忍への悦び、―浅薄な権勢欲、―あくなき富と享楽の追求、―隙さえあれば猪突する性衝動、これらは信仰によって克服され、かえって人間存在の動力となる むきだしの衝動の馴致の第一歩は、威嚇やら不安感の醸成をもってする外的な強制力であり、更にタブーの全く間接的な力であり、更にまた、自己の行為の自覚を通じて自己自身を信仰から支配する人間により、身を挺しての克服が行われる。(中略) (2)寛容。 世界秩序への道は、寛容が行きわたる場合に初めて達成できるのである。非寛容は強制、反撥、征服を意味する。 しかし寛容とは無関心をいうのではない。無関心とはむしろ、自己の真理への驕りから生ずるのであり、最も緩和な非寛容の形式である。要するに―他人は何であれ好きなものを信ずればよい、それは私の知ったことではない、―という隠然たる軽蔑なのである。 これに反し寛容は、胸襟を開き、自己の分限をわきまえ、信仰に関するいろいろな表象や思想を、一つの絶対的に普通妥当的な分母に通分することなく、それらを相違性を保ったまま人間的に結びつけようと欲する。(中略) (3)あらゆる行為に魂を吹き込むこと。 社会主義と計画化の道において、すなわち世界秩序の道において実現するもの、いろいろな制度や事業、人間関係を維持している規則や行動の型、こういったものは、これらのもののまっただ中に存在する人間の流儀によって、さまざまな変化を受ける。彼らの考え方、信仰、性格が、実現の様式と以後の成り行きを決定する。 悟性が企て、目的として立て、手段として導入するいっさいは、人間により行われたり、加えられたりするのであるから、結局は、悟性が思いも寄らなかったもの、すなわちそれが本能であれ熱情であれ、信仰衝動であれ、理念であれ、もろもろの動機に導かれているのである。 従って、もし意識が悟性に準じたものにつくされるというつもりならば、こうした動機の存在は、悟性にとって忌むべきものである。かくして意識は困ったことに、ますますもって偽装されて、低次の基層に成りさがってしまう。 信仰は批判的意識として働いて、権力と支配、悟性の計画化、科学、芸術等の、有限的物事の自己制限の役割を果たす。すべてはそれぞれの限界のうちにあり、ある指導が全体をおおうのであるが、この指導とは計画ではない。この指導は、信仰が照明する際に意識されるいっそう深い一つの秩序に由来する。(中略)
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