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2012年12月

2012年12月31日 (月)

看よ看よ臘月尽く(虚堂智愚一)

 看よ看よ臘月尽く(虚堂智愚一)
Jitakukaidan  大晦日。今年も終わりである。大掃除に一部参加。この階段を拭いた。写真ではあまりきれいにみえない。御勘弁。
階段をよごすのは猫であることを発見。彼女の爪が抜けて二つもころがっていた。階段でもっとも派手に活動するわが家の住人は猫である。彼女もそろそろ年。階段をもの凄い勢いでかけのぼる彼女の足音が、ずっと元気であることを願う。
 友人のT氏から、年末の挨拶が来る。文末に「なお、当方昨年の東日本大震災に伴う原子力発電所の事故以来、本貫の地を喪失させられた思いから抜け出すことができません。誠に勝手ながら、明春の年賀も遠慮させていただきますので、失礼の段、ひらにご容赦ください」とある。
 私の賀状にも自然に「謹賀新年」の言葉はなかった。昨年も「謹賀新年」とは書かなかったが、これはしばらく続くことになると思う。すでに10年ほど前から、私の年賀状の差し出しは、西暦も元号もつかわず、「核時代後」という年号を使っている。2013年は「核時代後68年」ということになる。この年号が将来の人類社会のなかで、破局的な意味をもつようなことにならないことを願う。
 「こぞことし(去年今年)貫く棒の如きもの」(虚子)という詩は有名だが、『禅林句集』に「千里万里一条の鉄」という大燈国師の七字があるのをみつけた。時間と空間の違いはあるが、同じような達観を感じる。人間の時間も空間も、経験が長くなってくると、自由ではなくなり、鉄の如きものに串刺しにされて、もがき、前に進むほかないという結果になるということだと思う。T氏の手紙にも、「これから先、いつまで生きられるか、これは神が決めることですのでわかりませんが、出来るだけ生きる努力をして、少しでも前進させていきたい」とある。
 しかし、問題は、いま日本社会が貫かれているものは、一つの怪物であるということである。

 
 さて、一週間ほど前であったと思う。職場の史料編纂所で滋賀のM氏に久しぶりにあう。ここ10年はあっていなかったが偶然にあった。偶然がなければあわなかったろうが、彼はちょうど新幹線のなかで私の文章を歴史経済学の文章を読んでいたということで驚いたと。私も驚いた。本当に久しぶりに長く話す。研究者仲間で、おのおのの研究を位置づけあっている仲というのは不思議なもので、おのおのが頭の中に棲んでいる。だから長く会わなくても、脳内では長く会わなかったという感触はない。顔と著書・論文の内容が接近してくるのに若干の猶予時間が必要なだけである。
 経済史や村落史の研究がばったりとなくなっていることをどう考えるかというのがもっぱらの話題。どうにかしてそこに戻らなければならない。同じ「鉄のごときものに貫かれている」ということなのであるが、ともかく、2013年こそは、こういう時だからこそ、仲間とともに、前に進んでいるという感覚を取り戻したい。

2012年12月29日 (土)

網野さんの非農業民論と戸田芳実、永原慶二

Img07060  この写真は済州島の火山。海辺の火山。韓国の日本史学界、日本思想史学会で講演した帰りの大韓航空の座席においてあった宣伝紙から。偶然に驚いた。韓国での見聞・経験とともに来年のテーマとなりそうである。

 総武線の中。年末28日である。今日は文部科学省で会議の後、編集者のF氏・N氏とあう予定。少しノドが変で風邪をうたがう。
 昨日、仕事のゲラがでてこなくて、夕方15分ほど真っ青になったのがひびいた。机の目の前にあったのにはがっくり。
 いま書いている貨幣論との関係で、永原慶二さんの『苧麻・絹・木綿の社会史』に何度目かの挑戦をしており、昨日夜、帰宅後、永原さんの著作集を積み上げて、批判メモを確定しようと「かりかり」やったのもよくなかった。永原先生は本当に頭のよい方なので批判がたいへんである。結局、岩波の旧版の『日本の中世社会』を取り出してきて、永原説の本質を示す文章をみつけ、いちおうの見通しをつけた。その周囲は傍線だらけであった。
 永原理論の特徴については、著作集の解説もしたし、著作集が出た後に、インタビューにおうじて永原説についての解説のようなことを話した。しかし、永原さんを正面から批判するのは、今度がはじめてなので、やや緊張する。
 続きを総武線でやっていたが、もう錦糸町。下記は、PCの中に残っていたメモ。網野さんがなくなったあとに名古屋の中世史研究会で「無縁論と社会構成史」という講演をしたが、その準備メモの一部である。

 網野さんは、自然(大地と海原)と社会的分業・市庭関係の双方を「無縁」という切り口から捉え、その上に立って天皇を頂点とする支配構造論を展開しました。この場合のキーワードは、天皇の支配の正統根拠が「人民の本源的権利を倒錯的に代表する」という点にあるという指摘だったといってよいでしょう。天皇制は、山野河海、「大地と海原」に対する「本源的権利」と、境界領域としての市庭や交通路に対する非農業民の「本源的権利」の双方を「倒錯的に代表」するというわけです。「無縁論と社会構成史」という場合に、これについても若干の意見を述べるべきであろうと思います。
 このような問題の出し方がはじめて行われたのは、論文「日本中世における海民の存在形態」(一九七一年)、「中世における天皇支配権の一考察」(一九七二年)でした。歴史家には、そこで論理的な前提とされていた仕事が戸田芳実氏の論文「山野の貴族的領有と中世初期村落」(一九六一年)であったことはよく知られています。戸田さんは、この論文で「本来生産者の集団的所有であった土地が、国家的所有によって代置されているという、律令制支配のアジア的な特質」を指摘し、その荘園制支配は「村落共同体の機能の一定部分は領主権の内部に吸収され、領主は村落共同体の組織を媒介環として農民の支配を実現している」と論じています。そこでは「領主の法であると同時に村落共同体の法である」「住民の共同体的行事であるばかりでなく、領主もそれに関与する庄園の公的行事だった」というような支配と公共性の密接な関係が指摘されており、この論文は、平安時代における地域社会の共同体の在り方を具体的に論じた仕事として、現在でも貴重な意味をもっているのはご存じの通りです。網野さんが、「戸田のいう通り、荘園領主の支配はそれ(村落共同体)を吸収・倒錯させたところに成り立っているのであり、それ故に天皇の支配権と異質のものではありえなかった」としているように、網野さんの「倒錯的に代表する」という論理は、直接に戸田さんの議論に依拠しているのです。
 網野さんがよくいったように、戸田さんは「非農業」という用語をはじめて使用し、山野河海における多様な生業を復元する仕事を意識的に行った最初の研究者でした。それは戸田が律令制から平安時代の支配体制が「見作田の把握を中心とする支配体制」であると捉え、そこには農本主義的な開発主義・開明主義のイデオロギーが存在していたことを重視していたからにほかなりません。戸田さんはだからこそ、社会経済史研究が「田地をめぐる諸関係だけを抽象すること」が虚像を生み出す結果となることを警戒し、逆に社会的分業の非農業的局面を重視する議論を展開したのです。たしかに学界の外側に対して「従来の歴史学」が「海民や職能民の存在」を軽視してきたという傾向を指摘すること自体は正しいとしても、研究史を議論するにあたっては、平均や傾向ではなく、研究史の峰や未発の契機こそを確認するべきことを忘れてはなりません。とくに網野さんがいわゆる「水田中心史観」という形で問題にしたことを戸田さんが早くから「農本主義」という言葉で表現していたことに注意を喚起しておきたいと思います。
 またもう一つ指摘しておきたいことは、永原慶二氏がこの戸田さんの仕事に対する批判をふくめて、共同体間の境界領域という問題を指摘していることです。永原さんは、右の戸田さんの論文の翌年(一九六二年)、二本の論文「荘園制支配と中世村落」「中世村落の構造と領主制」を発表し、平安・鎌倉時代には「村落共同体」は存在していない、地域社会には「名共同体」と呼ばれるような家族制的な小共同体が散居するのみでその相互の間に共同体的な関係は組織されていなかったとしました。それ故に、荘園制支配と領主権の根拠は、戸田さんとは違って共同体機能を吸収するということでなく、小共同体の相互の関係をむしろ領主権自身が組織し、介入する点にあったというわけです。永原さんは、この議論を発展させて「村落共同体からの流出民と荘園制支配」(一九六八年)では、境界領域における社会的分業の編成を荘園制支配の固有の根拠としました。荘園制支配は共同体と共同体の真空地帯において発達した社会的分業を編成し、とくにその分業組織の下層に共同体から流出し、共同体から差別されるような賎民身分を設定することによって、その支配を強化したというわけです。そして、網野さんの「資本主義論」との関係では、この議論にあたって、永原さんも共同体の境界領域に存在する「社会的真空地帯」がいわゆる前期資本の成長と活動にとって本来の地盤であるという大塚久雄氏の議論を援用していることに注意しなければなりません。
 以上から、網野・戸田・永原の議論は、重大な相違はあっても、論理的には重なっている部分があるということがわかるでしょう。いまから彼らの仕事を受け継ごうとするものは、彼ら相互の立ち位置を正確に認識しておく必要があると思います。それが研究史に対する仁義というものであり、彼らの仕事を全体として尊重する所以であると思います。

2012年12月27日 (木)

日本史研究は若い学問ーーー「戦後派歴史学」ならいいか。

121227_084534  今日は過去帳の編纂との格闘で疲れて、残らずに帰る。ともかくデータベースは作ったので、機械作業の部分が多いが、しかし、データが多く相互に矛盾をきたさないように気をつかう。私の編纂している史料集には花押一覧というのが付くが、以前、友人が、それをやっていると、文書に登場する一人一人について供養をしているような気持ちになるといっていた。その気持ちがよくわかる。ともかく、一人一人を確認していくという作業である。
 いま総武線の中。7時30分。
 さて、日本史研究のための読書案内を一冊まとめることになっていて、その用意をしている。といっても、定年後の仕事であるが、そのためもあって、島薗進氏の『宗教学の名著30冊』(ちくま新書)を読んでいる(ただ私の企画は別の出版社)。
 寝る前に一冊分の名著の勧めを読むことにしていて、そろそろ半分まできた。宗教学となるとなじみがない本が多いが、さすがにわかりやすい。そして、この本は「宗教学は発展途上の学問である」と始まっている。これがいいと思う。ともかく、この30冊のうち、読んでないものの半分くらいは読んでみたい。まったく違う学問分野から自分の仕事をながめてみたい。
 
 先週末に(12月15日)、歴史学研究会の80周年の記念シンポジウム「歴史学のアクチュアリティ」があって聞きに行った。これもたいへんに面白かったが、懇親会で報告者のKさんと話していたら、彼女が「歴史学は新しい学問だ」といった。島薗さんの本を読んで、「日本史研究も若い学問である」と考えていたので、共鳴。
 ヨーロッパにおける歴史学は19世紀からの蓄積の上にあるから若い学問とはいえないだろうが、日本の歴史学はまだ若い学問である。少なくとも、日本史研究の場合、その本格的な学術的出発は1960年代にあると思う。それを象徴するのが、中央公論社からでた『日本の歴史』シリーズである。あの茶色い本であるが、私などは、まだあの本に「愛着」あるいは「愛憎」がある。私が好きで実際に影響をうけたのは、青木和夫先生の『奈良の都』、佐藤進一先生の『南北朝内乱』、永原さんの『下克上の時代』、そして佐々木潤之介さんの『大名と百姓』である。いまでも愛着がある。ここで歴史学の学問としての実力というものができたのではないかと思うのである(「憎」の方も途中まで書いてみたが、長くなるので省略)。
 こういうと、それでは第二次大戦前の歴史の研究はどうなるのか、そして第二次大戦後のいわゆる戦後派歴史学はどうなるのか、そこには学問としての実力を認めないのかということになるが、それが下準備として大きな意味をもっていたことは認められるにしても、学問としての実力ということになると、なかなか厳しいものがあったのではないかと思う。この時期の歴史学はまだまだ専門性が成熟していないと思う。
 そもそも、第二次大戦前の大学には、厳密な意味でのアカデミー、つまり学術の専門性をふかめていくための史料の共有、施設、そして何よりも人員と予算などの条件はなかった。たしかに史料編纂所はあったが、当時の史料編纂所は、研究機関であったとはいってもやはり狭い意味での史料の国家的な収集と編纂の機関であって、史料編纂所がその設置目的に「史料の編纂と研究」という形で「研究」をかかげ、史料の共有と公開を原則とするのは第二次大戦後のことである。戦前は、「史料」は独占状態にあったといってよいと思う。
 その上、アカデミーは厳密な学術的方法論を必要とする。それはたんに歴史学分野のことではない。ようするに、日本のアカデミーには、ヨーロッパ近代におけるデカルト以降の蓄積にあたるものがないまま、ともかく大急ぎで自己流のつぎはぎ細工をやっていたのである。
 たとえば、しばしば高く評価される法制史の中田薫なども、学術方法論というレヴェルになると正直いって読むに耐えないものである。中田薫が、ドイツの法制史研究の方法論をともかくも消化して、そのレヴェルの議論をしなければならないという意思は、よく分かるのだが、やっていることは、所詮、自己流の継ぎ接ぎである。それでも中田薫となればたいへんな秀才であり、独占的に史料もみれて研究条件もよかったから、史料を読み込む中で何となく分かってくることはあるし、自己流の乱暴な論理でまとめるのも無意味という訳ではなかった。しかし、きわめて問題が多いというのが法制史の石井紫郎氏などの意見で、私はそれに賛成である。
 その上に、いわゆる「皇国史観」の重圧は、いまでは考えられないほど強烈であった。ようするに、史料は世界でも類例のないほど多くあるにもかかわらず十分に公開・蓄積されておらず、学術方法論は不十分で、皇国史観の下で研究の自由もないという状態は19世紀後半から、1945年まで続いたのであるから、歴史学の発達がきわめて偏ったものとなったのは当然であった。
 こういう状態の中で、第二次大戦後の歴史学は始まった。まずは「皇国史観」の重圧から解放されて、普通の学問をやることになれ、研究の方法論を組み立て、それを時代をこえて交流するということが、ようやく1950年代から始まったのである。
 そしてどうにか専門的な歴史学研究の体裁が整ったのが、1960年代であるということになり、それを象徴するのが、先述の中央公論社の通史シリーズ『日本の歴史』であったということだと思う。
 さて、それからもう50年以上経っているではないか、それでも「若い学問」というのかというご意見もあるかもしれないが、私は、いま64歳。1970年から仕事を始めて、まだ40年である。日本の歴史学が一応のヨーロッパ並みの条件におかれてから、50年とすると、私などの人生は、それとほとんど重なっている。そういうことで自信をもっていうのであるが、日本史研究はまだ若い学問である。第二次大戦前からの仕事を読み、「戦後派」歴史学の仕事を大事に読んでくれれば、やるべき課題は数限りなくあることはすぐわかるはずである。
 さて、いま「戦後派」歴史学と書いたが、普通、これは「戦後歴史学」という。しかし、もう第二次大戦が終了して60年以上。その間、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争と世界では「戦後」どころではなく、戦争が続いていた。そういう実態からすると、日本だけで「戦後歴史学」などといっているのは「まずい」というのが、最近の歴史学界の共通認識である。
 しかし、上のような事情で「若い学問」である日本の歴史学にとっては、それの最初の出発点であった第二次大戦直後の独特な活気をもった歴史学の動きの呼称はどうしても必要である。それならば、「戦後派歴史学」というのは、どうだろうかというのが、最近、考えたこと。野間宏、堀田善衛などの「戦後派文学」ということを考えると、「戦後派歴史学」と「派」を入れれば、右の難点をクリアーできるのではないかと考えた。
 
 最後に写真を二枚。
121215_183702  一枚は左。前述の歴史学研究会80周年のシンポジウムの後の懇親会で挨拶される板垣雄三さんの写真。実は、右にふれた「戦後歴史学」というのは、戦争が続いている世界の情勢の中で、「日本は戦後だ、平和だ」といっているようで「まずい」ということを最初におっしゃった方である。懇親会で久しぶりの友人たちと楽しく話しをしていたこともあり、気後れをすることもあって板垣先生に、「戦後派歴史学ならどうでしょう」とうかがう機会を逸したのが残念であった。
 もう一枚は、冒頭にかかげた本、歴史学研究会編の『戦後歴史学への道』である。若い研究者は、ぜひ、この本を読み、私たちの先輩がどういう状況の中で歴史学研究にこころざし、何をめざして生きていたかを感じてほしいと思う。歴史学の歴史も人間の作ってきた歴史である。
 
 これを書き始めたのは、18日頃。いま、26日夜遅く、総武線のホームライナーの中。年末の多忙が続いていて、しかも電車の時間は「貨幣論」の原稿に往生していたので、遅くなった。

2012年12月25日 (火)

71地震火山,地震の神話とタブーの忘却

 公務に一区切りがついて、来年のあるシンポジウムで報告する予定の話しの梗概を送った。年末にむけてもう一がんばりである。
 以前、記憶ということを論じたことがあるが(「情報と記憶」という論文)、しかし、そこではタブーということを論じなかった。タブーは、記憶を強化するようでいて、実は忘失の構造をもたらすのだと考えた。当然のことではあるが、歴史学にとっては重要な問題である。理解すれば記憶は残るのだと考えたい。

地震の神話とタブーの忘却
 地震や噴火などの災害は人間の日常性とは隔絶した長い時間の中で起こり、あたかも偶然であるかのようにして社会をおそう。寺田寅彦は「災害は忘れた頃にやってくる」といい、鴨長明の『方丈記』は、「すなはちは、人みなあぢきなき事をのべて、いささか、心のにごりもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にしかば、ことばにかけて言ひいづる人だになし」という。しかし、現在は、そういう安直な言い回しや慨嘆で地震・津波を語ることは許されない時代である。学術世界は、このような語り方とはまったく違う語り方を生み出し、それを社会的に共有するための努力を要求されている。
 地震・津波・噴火が、いつどのようにして起こるかは、あくまでも偶然であるが、その発生は、この列島における自然史的な必然である。そして、プレートテクトニクスと地震=断層動の学説によって、地震の発生のメカニズムや周期性が、
誰にでもわかる形で明らかになっている。この列島においては、それはダーウィン革命と同じような自然観の変革につながると思う。人間は理解できないものは忘れるが、理解したものは忘れない。
 報告では、まず『古事記』などに表現された地震神話を紹介し、列島の神話時代の自然・国土観をかいま見てみたい。そして九世紀の地震・噴火活動が、そのような神話的な観念世界にもたらした衝撃について分析し、とくに3,11東日本太平洋岸地震とほぼ同一の規模と構造をもつとされる九世紀の「貞観地震」が怨霊の力で発生したと観念されたことを確認したい。八・九世紀は大地動乱の時代であるとともに、温暖化・パンデミックが進行した時代であって、その点では、この時代と現在は奇妙に相似した風貌をみせるように考える。その大枠は最近刊行した『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で述べたことだが、報告では、さらにこの地震の記憶が怨霊のタブーの中で辿ったと考えられる運命について論じたい。それは「貞観地震」の衝撃の中で首都・平安京に設立された地震神スサノヲの神殿、祇園社と祇園御霊会をどう評価するかという問題にかかわってくる。
 地震・噴火など、この列島の独特の自然が、歴史社会にどのように作用していたか、それを誰でもが理解できるような歴史像として組み上げ、社会に提供することは、プレートテクトニクスを常識とすることと同時に行われなければならない。アカデミーが、そういう意味での「文理融合」の道を少しづつでも歩むことができるかは重大な意味をもっている。そして、歴史学としては、その中で、記憶の中枢にタブーがあれば、結局、記憶それ自体を忘れてしまう人間の弱さをみつめる視点を提供できればと思う。

2012年12月19日 (水)

自民党の終わりーよくわからないこと

 朝、東京の地下鉄の駅で、北原糸子さんにばったり。来年早くにも朝日新聞出版部からでるはずの地震・津波の座談会で、先日はじめて長時間ご一緒した。遠くから見つけて近寄っていったのだが、途中で気づいていただけた。
 北原先生は歴史地震研究会の前会長。3,11以前、『歴史学研究』に書かれた文章に、地震史・災害史に歴史家の関心が少なく、入会者が少ないと嘆かれていたので(この文章は歴史学研究会のホームページにのっている)、先月になってしまったが、私も歴史地震学会に入会したことを御報告する。
 地下鉄と本郷通りの短い時間だったが、江戸期には災害の時に「頑張る領主」というものがいるという御話しをうかがう。これは重要な話しだと思う。そういう時に「頑張る領主」というのはともかくその役割を認めるべきものと思う。同じ話しの流れで、『歴史のなかの大地動乱』について、災害のときに天皇がどう行動するかは参考になったといわれる。いわゆる「天譴論」との関係でも重要な問題であるということで、光栄であった。
 天皇の行動には、いわば階級的立場による限界というものが最初からあるが、しかし、やはり史料を読んでいると身につまされるものはあると申し上げる。その両面をみながら、気持ちも論理も揺れながら、災害に直面した歴史社会をみるということなしには内面的な歴史理解はできないかもしれない。『大地動乱』は、「中世の人が書いた古代の本。中世の人がみるとああいうことになる」という評価があるということである。私は歴史の段階論としては「日本には『古代』はなかった。奈良時代も『中世』である」という枠を外れた意見なので、『古代史』学界の歴史観というのがよくわからないが、あの本はたしかにそうかもしれないと思った。
 
 さて、総選挙が終わった。東京都で石原後継の候補が圧勝したこと、大阪府で「維新」という政党が各小選挙区で多数を占めたことには驚いた。大阪府が文楽を切り捨てたというのが象徴的であるが、この二つの大都市の行政は、文化・教育の予算をカットし、さらにそれのみでなく、福祉・医療・保育その他の社会的費用を大幅に削減して「財政改革」であると称してきた。そこに投票するのは普通の経済条件の中で生きる我々にとっては、自縄自縛であろうに、どうしてこういうことが起きるのか、現代史家ならぬ私には、十分に理解できない。大都市のあり方に根のある現象であり、いわゆる政治の劇場化であり、マスコミの効果なのではあろうが、それだけでは理解できないように思う。ただ、これらの勢力はナショナリストだとか、右翼だとか、左翼だとか、保守だとかという用語では表現できない(表現すべきではない)性格をもっていると感じる。いまの私には、それをどう表現してよいのかはわからない。
 
 
 他方で自民党の圧勝については、東京新聞の見出しのいう「自民 民意薄い圧勝」ということである。自民党の得票率は「小選挙区24%、比例代表15%」。ようするに小選挙区制効果である。この党の実力と性格からいって、遅かれ早かれ、ひっくり返るだろう。
 長い伝統をもった自民党も、そこで終わりであろう。終わりの始まりである。その壊れ方が害悪をおよぼさないように願う。歴史家からみると、この政党の性格で見のがすべきでないことは、この政党は日本社会におけるナショナリズムと宗教心を軽いものに決定づけていった政党であることである。「祖国」への素朴な共感と「永遠」なるものへの郷愁を日本社会の陰の部分に押し込めていく上で、この政党は決定的な役割を果たした。こういう党が、一種の揺れ戻しであれ多数を取るというのは、日本のナショナルな伝統や宗教の地盤を、また毀損することにならないかというのが心配である。
 もちろん、二・三世代前までは、この党の中には良質の保守の人々がいた。ある御寺の高僧が宇野・中曽根から目に見えておかしくなったというのをうかがったことがあるが、たしかにそれ以前は、それなりのものがあったと思う。それはとくに地方政治では明瞭であり、彼らと経済界の働きが敗戦の焼け跡から日本社会を再構築していったことの功績は否定すべきものではない。私はそう思う。
 もちろん、それと、自民党が占領軍に保護・育成されて戦後社会の支配政党となったという歴史的・客観的な事情は別のことである。しかし、社会党から日本共産党まで、どの政党も、第二次大戦後、いくつも決定的な間違いをしており、その中で、自民党の功罪も公平にみなければならないというのは、歴史家ならずとも当然のことである。
 しかし、自民党がもっとも問題であったのは、古いことをいうようだが、自民党の政治家が伝統的なものを失わせたのは「日教組と共産党」であるといいつづけたことである。しかし、戦後の社会を長く実際的に左右してきた自民党こそが、伝統破壊に最大の責任があるのは明らかである。自分にも責任があることをすべて人のせいにするかのような姿勢が、この党の最大の問題であったと思う。しかも、それがナショナルな利害と伝統という、この党の党是にかかわるところで行われたことが決定的であった。それが、この党から反省能力をうばったと思う。この党の現状をみていると、それはいよいよ拡大する雰囲気である。この間の党首交代劇をみていると「甘えの政党」への一路転落としか思えない。

 たしかに、「祖国」と「永遠」を取り戻すことは、現状の日本社会ではなかなかむずかしい問題である。つまり、特定の歴史社会はナショナリズムにおいても宗教心においても一定の容量、キャパシティというものをもっている。それは無限のリソースではない。ナショナリズムも宗教も社会を無限抱擁してはくれない。日本は19世紀後半以降の帝国主義世界に適応するのに、ナショナルな感情と宗教心をもてる限界まで動員した。当時でいえば、これはある意味ではやむをえない、無理のないことであったと思う。しかし、19世紀末から世界戦争の時代の開始というドサクサの中で、一部政治家と財閥がナショナリズムと宗教心を徹底的に利用し尽くした。彼らのアジア支配の野望、植民地確保の野望のために愛国心と宗教心が利用された。超国家主義と国家神道である。その結果が焼け野原であった訳であるから、ナショナルな感情と宗教心は地に墜ちた。
 問題は、自民党の内部に、この戦争と敗戦に重大な責任のある人々がいたことである。そういう人々をふくむ政党が「愛国」と「宗教」を復活させるのは本質的にむずかしい。自民党は、自己の罪責を隠すという本性にしたがって行動する人々をかばい、それだけでなく、ナショナルな感情と宗教心の失墜の理由を他人のせいにしようとした。
 私は、この点で、寺山修二のいう「身すつるほどの祖国はありや」という感情がよくわかる世代である。そして三島由紀夫の気分もよくわかる。けっして三島の行動には賛同しないが、しかし、私も、高校生の頃、三島の『英霊の声』がでた時に、それを雑誌『文芸』で読み、その慨嘆のトーンに共感した記憶をもつ。

 私は、いわゆるナショナリストではない。しかし、私は歴史家であり、その立場からすると、ナショナルなものの中に入り込み、その正体を見届けることは必須であると考える。この列島の国土と人々、対象的な自然と主体的な自然、つまり「祖国」という空間への感情なしに、人間は成熟することはできない。そして、この列島のナショナルなものは、奥底では東北アジアの諸民族のナショナルなものとつながる要素をもっており、この列島のナショナルなものを心底から理解することは、そのアジアへの脈絡を探すこととほとんど同値である。私の世代だと必ず読んだ竹内好の仕事が、その事情を示している。

 私は、宗教者ではない。しかし、私は歴史家であり、その立場からすると、「永遠」に対する感情を地盤とすることなしには歴史意識と時間感覚を鍛えることはできない。その意味では両者の地盤には共通性がある。「永遠」なるものの自覚・感得なしに過去ー現在ー未来を有意味なものとして知ることはできない。そこに我々が投げ込まれ、もがき続けている場を相対化するためには、永遠の光、永遠の相というものが必須である。その自覚のスタイルとして宗教というものが人類史の中に存在しつづけることは明らかである。東北アジアの、そして世界の異なる諸民族との共存を考えるために「永遠」の自覚、人類史の知識が必要になることはいうまでもない。宗教は、それを考えるために、我々の時代に提供されているもっとも重要な文化の一つである。

 現在の焼けつくような問題でいえば、ナショナリズムについては沖縄と原発である。沖縄の基地を放置し、福島に対して棄民政策をとるようなナショナリストは語義矛盾である。本当に心配である。沖縄も、原発も、我々の世代にとっては骨絡みの問題である。

 宗教については、すでに忘れられつつあるのではないかというのが心配であるが、オウムである。「無宗教」のようにみえる社会、宗教的内省の雰囲気が存在しない社会は、決してよい社会ではない。それが何を生み出すかをオウムは示した。第二次大戦後の無宗教の社会的雰囲気は、宗教の政治利用と裏腹の関係にあったが、オウムという疑似宗教は、ぎゃくに社会の各分野に介入しようとした。政治に入り込もうとした。その幻想がオウムの中に入り込むことによって、あの「宗教」は暴発した。

 さて、社会的な事柄を表現するのに、宗教用語を使うというのは、かならずしも正しいとは思わないが、しかし、今回の総選挙の結果は、「仏の顔も三度」という諺を思い出させる。この諺は、それ自身としては「宗教的な正義と寛容までをも踏みつけにすると何が起こるかわからないぞ」ということであろうか。
 最近の政治劇の第一度目は、「小泉の郵政民有化スタントショウ」、第二度目は、「民主党への政権交代喜劇」、そして今回の三度目は「自民党のドサクサ勝利」である。この三度目に、福田・麻生・安倍と、すでに人々を「三度」踏みつけにした自民党が挑戦するというのだから、どうしてもさめた見方にならざるをえない。
 多くの歴史家と同様、私は、福田氏が首相となり、歴史アーカイヴを重視するという政策をだした時に歓迎した。これはよい方向であると考えた。しかし、麻生・安倍という交代劇にはあきれてものが言えなかった。大人のやることかというのが社会人一般の反応であろう。今回、どうなるか、若干、激語をすれば、それは喜劇であるから、それだけならば仕方がないと思う。しかし、自民党の終わり方が別の何をもたらすかは深刻な問題である。そして、この事態の全体がいったいどういうで、どこへ行くのか、これも現代史家ならぬ私にはわからないことである。

  昨日、昼御飯の後、構内で久しぶりに工学部の友人、T・I氏にあう。このブログを読んでいるということで驚く。このエッセイ、しばらく前にできていた文章だが、万が一の誤解を呼ぶ表現がないように、朝の総武線で読み直し、修正した。
 彼は、元気そうである。我々の世代は、おのもおのも、やり残したことが多いから、定年に近くなると元気になるのかもしれない。

2012年12月12日 (水)

 学者と政治

Kaede121206_150634  今年は東大校内の黄葉が美しく見える。もう来年3月に定年なので、芥川のいう末期の眼に紅葉が美しく見えるということか。堀田善衛は、どこかでそんな無責任なといって怒っていたが、実際に美しい。
 朝、本郷三丁目の地下鉄からの道で、カミオカンデのS氏にバッタリ。『歴史のなかの大地動乱』のお礼をいわれる。私はジャンバーとジーパン。彼も上着はジャンバーである。彼も再来年に定年なので、二人でもうラフな格好でいいと笑いあう。東大の研究所長会議で一緒に独立法人化直後のばたばたの時期を過ごした。その時はきちんとした格好で自然科学に必要な財源論について整然とした議論を主導していた。おのおのの定年の話しになると、こちらは頬がゆるむのをおさえられない。こちらは手工業学問で、定年をすぎても仕事ができる。むしろ時間がなくてできなかったことができると思うと嬉しくて仕方がないといって、大企業はたいへんでしょうというと、彼はグループ作業必須なので、そうはいかないという。しかし、すでに巨大な成果をおさめたのだからというと、次の成果をださねばしょうがないとおっしゃる。
 考えてみると、普通、東大の他部局の友人にあうときは、地下鉄であって、本郷通りを東大まで歩きながらの話しとなるのだが、彼とは、何度か、向こうから歩いてくるのと会う。朝なのに、東大から歩いてきたというのは、これから岐阜に向かうのであろうか。まだ忙しそうである。

 さて、先日、最近の政治状況でSunからFutureまで実にいろいろな名前の政党が登場していることについて書いたところ、何人かの方から前進的な変化もあるのではないか、あまり狭いことをいっていてもしかたがないという意見をいただいた。もちろん、そこにも書いたように、たとえば原発はまずいということが、大多数の世論となり、それを政治家が無視できなくなったことはよいことである。どういう形であっても、それが現れるのはよいことである。
 そして、政治の世界には「相対的にまし」という論理はある。また妥協と合意が必要であり、できる限りいわゆる大同団結をしなければならないということもあるだろう。しかし、私は学者であって、率直に言ってそんなことは知らない。私は、政治家でもなく、政治評論家でもなく、いわゆる政局の動きにはまったく興味はない。ただ、歴史学者として、この日本の現在の社会で支配的な地位に地位にいる政治家にはろくなものがいない。ただ政治屋がいるだけだと確信しているだけである。
 もちろん、戦争と敗戦と日本社会の再建を経験した政治家がいた時は、そういうことはなかった。そもそも財界に相当の歴史意識をもった人々がいた。私たちの時代、いわゆる「戦後」、つまり1945年から1970年までの時代は、その意味でよい時代であったことを実感している。財界にせよ、政界にせよ、その時代の人々の相当部分は、どの分野であっても戦争に従軍し、アジアとの関係における深刻な経験を経ていた。いま『世界』で連載している経済同友会の元専務理事、品川さんの自伝を読んでいると本当にそう思う。これについてはまた書きたい。
 しかし、ともかく、いま、支配的な位置にいる政治家はほとんど駄目だと思う。そして、そもそも、政治とはそれ自身としては何も作らないもの、非生産的な仕事である。非生産的というのは無意味であるということではないが、現代社会においては、政治がそれ自身として積極的なものを生み出すことはないと考える。ぎゃくにいうと政治家は、政治がそれ自身として積極的なものを生み出すのだなどと主張してはならない。人間にとって積極的なものは、結局のところ、「政治」の背後で、おのもおのもの「職業」と「生活」の中で生み出されるしかないものである。すべては表層で決められるのではなく、一人一人の判断が全体として変化していくことによってしかきまらない。
 政治自体は「非生産」のものであって、物質的生産にせよ、精神的生産にせよ政治的自体は「生産」ではありえない。もちろん、プラトンの「哲人政治」までのことをいわないとしても、20世紀までは、たとえばヨーロッパには歴史学を学んだ政治家が多かった。その時代には、例外的であれ、政治家が学者であることはありえたであろう。つまり政治家が直接に精神的生産に貢献するということもあっただろう。政治が直接に物質的生産と「開発」を導いたこともあったろう。
 しかし、21世紀にはそういうことはありえない。社会の学術も技術も文化も、情報化の大波の中で、極度に多重的に専門化しており、政治家あるいは政治団体がそれらを超える「精神的・物質的生産」の担い手となることはありえない。政治が、それらの全体を見通して導いたり、イニシアティヴをとったりすることもありえない。ヘーゲルのいうアトム的な市民社会が電子ネットワークによって繋がれると同時に、生活と専門性の中から立ち上がってくるネットワークとアソシエーションが実態となっていく(本当の意味で政治の固有の領域はグローバル化の中におけるネーションとネーションの関係としてのみ残ることになるのではないか)。
 こういう意味で政治は、それ自身としての内容を失い、無限に透明になっていくほかないはずである。そこには社会の価値がそのまま映しだされる。この中で、むしろ政治家は専門性からはなれたゼネラリストとして、大多数の人々の立場や利害を代表して、諸方調整に励むという柔軟な「公僕」でなければならない。彼らが社会のなかの特定の集団を代表することは自由であるが、彼らは、自分が代表する諸個人の意見や利害を社会の公共利害の中に位置づけなければならない。彼らは自分の利害を放棄しなければならない。
 そうでない政治家は政治屋である。現在の日本のようにほとんどの政党が政治活動の資金を国庫から獲得しているなどというのは、彼らが自分の利害のために国家を利用していることの表現である。そもそも、政治家の給料こそを人事院勧告の対象としなければならない。国会議員や閣僚の給料が民間の普通レヴェルよりも圧倒的に高いなどというのは信じられない倒錯である。
 もちろん、私は、原発即時〇という主張が通り、若者に仕事がないなどということがなく、この社会が少しでも明るく平等となり、アメリカの基地などという物騒なものがなくなり、歴史文化を尊重する方向に進んでいくことを望む。それは日本の国の実力をもってすればできるはずのことである。そしてそれを主張する政治勢力や政党が前進することを望む。市民としてはそれにすこしでもかかわるのは当然のことである。ともかくも、現在は、それがどのようなスピードで進むか、それとも社会の腐食の方が先になるかがおっかけっこという状態になっている以上、座視してはいられない。

 しかし、その道筋とスピードを決めるのは、ほとんどが経済的合理性である。たとえば原発は非合理で、一刻も早く新しいエネルギー戦略を決めなければならないというのは、電力会社の経済的失速あるいは、破産の可能性に追っかけられて実現していく。
 もちろん、政治もそのスピードを促進することはできる。しかし、上記のような政治屋がほとんどである日本の政治の現状では、それは一朝一夕には実現しない。それは支配的な政党の政治家が政治屋であるという、考えてみれば当然の認識が一般化することによってしか進行しない。すべてが一人一人の判断であると思う。
 私は、現在、相当多数の学者が、上記のようなさめた認識をもちはじめていると感じている。日本社会の中枢のお寒い実態を正面からみざるをえなくなっているのである。問題は、そこから先を、さらにつきつめて考えていくことである。そして、それは学術の世界の創造性を高めることになるに違いないというのが期待であり、その中で私も応分の仕事ができればと思う。

2012年12月10日 (月)

驚いたー「韓日伝統美の饗宴」

 いま総武線。土曜午前だが、昨日金曜日は夕方、韓国文化院で開催された「韓日伝統美の饗宴」に行ったために、予定の仕事ができず、出勤。
121210_113003  連れ合いが申し込んでいて、幸い、券があたって二人でみてきた。私は、従姉妹の一人が仕舞をしていたことがあって、中学・高校時代は、よく能楽堂にいって能・狂言をみた。鼓の音、地謡の響きも好きで、身が引き締まる感覚をしっている。しかし、今日の経験は衝撃。「かくも長き不在」。これまで、歴史家でありながら、何故、こんなに長く、民族的伝統を体現する音と調べと舞踏の世界を忘れていられたのか。見ないでいられたのかと思うほどの感動。それをいって彼女に笑われる。
 おそらく私などは、「村の神社」「村祭り」「盆踊り」が実態的な経験として、文化の一部として生きていた世代の最後にあたるのだと思う。「村の神社の神様の、今日は楽しい秋祭り」という歌の調べとフレーズが、実際の風景と胸の踊りの記憶とともに、なつかしいものとしてでてくる最後の世代だと思う。こう考えると、若い世代は柳田国男を読んでも実感がこないのではないだろうかと思う。そういう意味での素朴なナショナリズムの伝統が切れているのではないだろうか。これは歴史学にも責任がある。どうだろう。違うだろうか。

 簡単にプログラムを紹介すると、太鼓とチャンゴ(朝鮮太鼓)は、大倉流宗家大倉正之助とミン・ヨンチ。大倉正之助氏は三番叟。ミン・ヨンチ氏はジャズとの協奏でも知られている民俗音楽家。一昨年のダボス会議での晩餐会で音楽監督をつとめたという。演目は即興。
 舞踏は長唄とサルプリ舞、花柳貴比と金順子。花柳貴比さんは「水仙丹前」。遊里に通う男たちの身振りを舞踊化した舞踏から毛鑓の技へ。江戸の女の優美な力強さとでもいうのだろうか。金順子さんのサルプリ舞は優美な韓国舞踏で、白い布をまわせる。この布は天と地、生と死を結び、「恨」を解き放ち、魂を昇華させる象徴という。象徴性の高さはモダンダンスに近い雰囲気にまで行く。和服と韓服の取り合わせがなんともいえず美しい。
 民謡は柿崎竹美と金貞姫。柿崎さんは秋田長持歌、秋田音頭。これはなつかしい。金貞姫さんは、西道民謡中、夢金浦打令など。日本的に元気で乗りのよい柿崎さんと韓国のオモニという雰囲気の金貞姫の組み合わせは、会場のスピリチュアルな雰囲気を一気になごませてくれる。舞踏では日本の女と力強さと韓国女性の純粋さという感じだったのが、ちょうど役割がぎゃくになっているのが面白かった。
 琴は安藤珠希さんと張理香さん。安藤さんは生田流箏曲のまだ若い女性。胡弓もやられるという。張理香さんはカヤグムの独奏家。(日本)文部科学省推薦の教育用ビデオ「日本とアジアの音楽」に出演されているという。毎年独奏会があるとのこと。私はカヤグムを見るのも聞くのも初めてで、これは、いま考えているオオナムチ=大国主命のもっていた地震を起こす「琴」の問題にも関係して本当にありがたかった。

 連れ合いとは、本当に似ている。ヨーロッパの人は韓日・日韓の芸能をみ
ても区別がつかないのではないかと話す。私たちは一年ほどベルギーに留学していたことがあるが、ヨーロッパの人は、東アジア、とくに日韓の人を区別できない。とくにヨーロッパに二年以上いる東アジアの人々は、不思議なことに身振りも仕草も徐々に同質化していく。その基礎は根深いものがあるのだと実感。

 さて、今は夜、帰宅途中。今日の仕事は基礎的な下ごしらえで終わってしまい疲労。あとはうちに帰って寝るだけである。上記を読んでいると朝は元気であったことがわかる。昨日の韓国文化院の催しでもらった元気である。
 すでに一日がたって、自分の感情の動きの余韻はきえているが思い出しながら記録を残していくと、ともかくも驚いたのは、プログラムには日韓の芸術家おのおのの演目が書いてあるだけなのに、太鼓・舞踏・琴・民謡のすべてにおいて、競演となったこと。舞踏はあるいは最初から意識されていたのかもしれないが、他は、完全に予定されていた訳ではないように感じた。競演を作り出しつつある現場という感じで、それだけに素晴らしかった。
 まず太鼓と琴で興味深いのは、結局、韓国の音楽の方が音が低いこと。大倉流の包みは、ヨーッ、ホッ、ホッという声と鼓のタンという高い音がチャンゴの律動と響きあうのだが、これまでチャンゴをよく聞いたことがないので、その律動に感情を移入できないのが残念だった。しかし、独特な雰囲気が醸し出される。とくに私でもわかったのは、ミン・ヨンチさんの横笛の音である。これも日本の横笛よりも低音で、ときどきかすれた音になる。笛も日本の横笛より野太い感じのものである。笛を吹いてはチャンゴに写るのだが、その間も大倉流の素手打ちの高い鼓音が響く。これは聞き物であった。
 しかし、何といっても、女性の音楽家の競演は美しく、花がある。太鼓は演目の開始を告げる緊張の場作りの音であって、その後に登場する舞踏・民謡・琴は美々しく、競演になると興奮を呼ぶ。
 和琴と加耶琴の競演も、加耶琴の音が低く、音の揺れも激しく、目をつぶって聞くと地底からの響きのようにも聞こえる。加耶琴は弦を押さえるのに全身を使う。ハープの演奏のように全身を波打たせるが、ひれ伏すようにして弦をおさえ、そして身体を揺れ戻す。それに対して和琴の演者は正座で一音一音が明瞭な響き、高い響きを伝える。驚いたのは加耶琴の強い弾奏のあおに、一拍おいて「サクラ」の耳慣れた調べが高音で響いたとき、不思議な感じであった。
 もちろん、和琴の原型は韓半島から来たものであり、それのみでなく、加耶と倭国は深い関係にあったから、加耶琴は、和琴の直接の原型であるという。田中俊明さんの『大加耶連盟の興亡と任那ー加耶琴だけが残った』(吉川弘文館)を読んで、そういうことは知っていたが、読むと聞くとでは大違いである。
 舞踏の饗宴は圧巻であった。白い衣裳に烏帽子をかぶった花柳貴比さんは独演のときとは違う人のよう。幽明の世界から登場する精霊のよう。薄紅の羽衣をきた金順子さんは悲哀の中の天女のよう(連れ合いの詞)。何の筋もあるわけではないが、一枚の長く透明な白布を取り交わしながら、行き違い、伏し倒れ、二人で舞い、頬をよせ、手をとりあって退場する。
 しかし、この韓国・日本の舞踏・音楽からやってくる感動は何だろう。思い出したのは、入間田宣夫さんが「糠部の駿馬」で論じた『馬医草子』に描かれた「オオナムチ」という名の巫女の姿。彼女はたしか鼓をもった女性として描かれていたが、その着衣は、現代の和服とはことなって、舞台の韓国女性たちの着ていた寛衣に似ている。そして、その名前からすると、日本の鎌倉時代の巫女も地霊を呼び出したに相違ない。韓日・日韓の文化の相似というのは、民話論でよくいわれることであるが、そこには深い基礎があるのではないかと思う。そしてそれは基本的には紀元前後には証拠のある「鬼道」、つまりシャマニズムの伝統までさかのぼるのではないかという夢想が訪れる。岡正雄『異人その他』の描く世界である。網野善彦さんの「無縁」の執拗なる持続という言い方を借りていえば、シャマニズムの持続である。
 ともかくも、男性陣の太鼓はあくまでも序幕であり、人々を呼び集める劇の開始宣言のようなもの、中心は女性の舞踏と演奏である。中井正一は「日本の美」という論説で、アジアの民族は「生きるための努力の中のあやまちに一度、正面から絶望しているところがある」といっているが、その「絶望」のひそかな花芯には、女性の声を姿があるのではないかと思う。

 いま、月曜朝の総武線。日曜は、久しぶりに論文仕事。はるか昔に書いた経済史・貨幣論関係の論文について、はるか昔に批判をいただいた。反批判をさぼっていたが、必要があって、草稿を取り出し、大幅に追補して論文化している。論文を書くという作業は、単色のデッサンを描き込んでいく作業なので、脳神経の動きをそのままだせばよい。脳内電気情報のPC情報への形態変換である。少々のテニヲハの齟齬などいいやという感じで、また書いていってから、内容がふくらむにしたがって編別構成を考えていけばよいというのが何といっても楽であり、負担感がすくない。他分野の研究者・教育者や普通の読者を頭におく文章よりも楽に進む。
 これだけ自分の論文が批判されていることは再認識。私はいわゆる「戦後派歴史学」の先達に対する批判は別として、ほとんど他者の論文の批判ということをやらないので、自分が批判されても緊迫感がないのだろう。忘れてしまうのである。それにしても、これだけ誤解をうけているのに反批判もしなかったというのは、結局、自分の論文に愛着と執着がないということなのであろうと反省する。

2012年12月 3日 (月)

松田哲夫さんと『源氏物語』の座談会

 いま、総武線。12月1日(土曜)。富田正弘さんの新著のお祝いの会に出席の途中。
 昨日は、『源氏物語』(翰林書房)のための、三田村雅子さん、河添房江さんとの座談会。朝から慌ただしく、さらに職場についても編纂仕事のあいまをぬって、座談会のためのメモをとるので、やや疲れた。会場のホテルについて一階でしばらく休もうとしたら、高校の先輩の編集者の松田哲夫氏が目の前のソファーにすわっていて、御挨拶。松田さんは私の1年上。
 中学から高校時代につかれたようにして読んだ白土三平のマンガ。これが歴史に興味をもったことの最初の背景にあったのかもしれない。歴史書ではじめて共感をもって読んだのが、佐々木潤之介『大名と百姓』で、そこに出てくる「下人」という存在を、『カムイ伝』の下人・正助とだぶらせて読んだのは確実。『忍者武芸帳』は父の田舎の土浦の貸本屋で、従兄弟・従姉妹たちが借りていたのを読んだ。年内には従姉妹たちに会う予定だが、御元気だろうか。
 『カムイ伝』は、『ガロ』に連載されていた頃、大田区馬込の自宅から大森・山王に超えていく坂の上の貸本屋で借りて読んだ。ところが一冊なくしてしまい、超過料金がたまり、最後にそうしようもなくなって母にあやまって損料を支払った。そういうことを、何度、母にしたろうか。こういうのは順繰りだが、母の情けなさそうな顔の記憶とともに、申し訳ないという感情はいまでも残る。
 この一冊は、どこでなくしたか明瞭な記憶がある。つまり、私たちの高校の古い階段教室の一番後ろで読んでいて、机の下の棚におきわすれた。時間がたって気づいて戻ったら、すでになかった。いつか恩師の山領先生を囲む小人数の会があって、高校時代の話しをしていて、この話しがでたのだと思う。松田さんが、階段教室の机に『ガロ』があって、それが『ガロ』と出会った最初だということだった。「えっ」ということになったのだが、これが両者の記憶の偶然の一致でなく、事実であるとすると、松田さんは、そのあと、『ガロ』の編集部にいってアルバイトのようなことを始め、都立大学を中退して、編集者の仕事に入っていったのだから、一冊の『ガロ』で人生の道筋が交叉していたということになる。
 回顧的になるのは御許し願いたいが、面白いことだと思う。その後、大学浪人中に都立大に行ったとき、一度会った。あのころの大学、とくに都立大はよくいえばエネルギーがあふれ、実際には乱暴・乱雑な雰囲気であったが、その中で高校時代と同じような様子をした松田さんのイメージが残っている。昨日も同じ感じだが、いよいよ軟らかい感じになられた。
 
 さて、座談会の御題は「『源氏物語』と天変地異」というもの。やや仕事がたまっていたこともあって準備も不十分で、頭がよく動かず、御迷惑をかけたが、私にはたいへんに勉強になった。文学研究者と本当に勉強のことで課題をたてて話し込んだのは初めてである。
 まず最初、ありがたいことに『歴史のなかの大地動乱』で何を考えたのかという質問をいただいたのだが、すでに何をどういう意図で書いたかという記憶の整理が消えていて、「えっーと」ということで頭が真っ白になる。慌ただしくいろいろな仕事をしていて、地震・噴火についても、10世紀以降の平安時代の地震・噴火の問題にテーマを移しているので、過去に書いたものを忘れてしまっている。右の著書に内容にそくした批判や議論があれば、そういうことはないのだろうが、依然として奈良平安初期の地震・噴火についてはとくに議論はないので、思い出す機会がないままであったこともあるのだろう。
 そこで、結局、奈良時代と平安時代初期(9世紀)のイメージは、意外と10世紀以降と連続しているはずだ。最近は、10世紀以降の歴史の研究において、歴史の研究者と文学の研究者が協同的な研究が多くなっているが、九世紀をみるためには、それを跳躍台とする必要がある。9世紀に『源氏物語』の原イメージがすでに存在しているのではないか。『源氏物語』の感性の世界は9世紀にすでに生まれていると思うというようなことをしどろもどろに申し上げた(ような記憶)。
 『源氏物語』を読まねばならないと、はじめて思ったのは、一昨年、『かぐや姫と王権神話』を書くなかでのことであった。それは宇治十帖に描かれた浮舟の運命、とくに彼女の入水から出家にいたる経過の中に、かぐや姫幻想が深く根を下ろしていることを知ってからである(「手習」)。そして、「少女」の巻にでる「豊岡姫」こそが平安時代の女性に親しい月の女神であろうと考えてからのことである。今回、『歴史のなかの大地動乱』を書いて、夕顔の中に描かれた「物の怪」の姿と、9世紀の文徳天皇陵の周囲に登場した「地神」のイメージがまったく共通することに気づいた。
 けれども、『源氏物語』全体がどのように構成されているのか、そのテーマは何なのかというようなことを考えさせられたのは初めてである。「『源氏物語』と天変地異」を提示され、このようなことを考えてくるようにという指示をいただいた上のことであったが、源氏の人生の転回の要所要所で、「天変地異」が見事に書き込まれていることを知った。これと実際の「天変地異」の歴史事実を照応させ、文学的創造の土台となった薄闇の世界を照らし出すことは、文学史研究と歴史学の協同の課題であることがよくわかった。しかし、それにしてもきちんと源氏を通読し、構造的に読まなければならない。これは来年以降の課題である。
 座談会の後の食事では、益田勝実さんの話しをうかがう。これも私にとってはうれしい時間。御二人とも初学の学生に益田さんの『火山列島の思想』におさめられた「ひじりの裔の物語」を読ませることにしているとうかがって驚愕。私は十分なイメージがなく、昨日、日曜日は、この論文をもう一度読む。論文の焦点は、宝剣・勾玉・鏡と同殿して睡眠するという天皇の生活のタブーの話しであって、正統的には、すべてをここから考え直さねばならないということを確認した。そして、これが益田さんの仕事の基本にすわっていて神話論への動因をなしていることも確認した。
 この経験は、さらによく考えてみたい。座談会が出版されれば、さらに書く機会があると思う。食事しながら、松田哲夫さんとあったと話していて、御二人、とくに三田村さんとは、まったくの同世代なので、1970年代初頭の「大学紛争」の時代というものを、世代的経験として、ともかくも大事にしたいということになる。あの頃からの人生の統一性なくして、何の人生か。

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