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2012年12月29日 (土)

網野さんの非農業民論と戸田芳実、永原慶二

Img07060  この写真は済州島の火山。海辺の火山。韓国の日本史学界、日本思想史学会で講演した帰りの大韓航空の座席においてあった宣伝紙から。偶然に驚いた。韓国での見聞・経験とともに来年のテーマとなりそうである。

 総武線の中。年末28日である。今日は文部科学省で会議の後、編集者のF氏・N氏とあう予定。少しノドが変で風邪をうたがう。
 昨日、仕事のゲラがでてこなくて、夕方15分ほど真っ青になったのがひびいた。机の目の前にあったのにはがっくり。
 いま書いている貨幣論との関係で、永原慶二さんの『苧麻・絹・木綿の社会史』に何度目かの挑戦をしており、昨日夜、帰宅後、永原さんの著作集を積み上げて、批判メモを確定しようと「かりかり」やったのもよくなかった。永原先生は本当に頭のよい方なので批判がたいへんである。結局、岩波の旧版の『日本の中世社会』を取り出してきて、永原説の本質を示す文章をみつけ、いちおうの見通しをつけた。その周囲は傍線だらけであった。
 永原理論の特徴については、著作集の解説もしたし、著作集が出た後に、インタビューにおうじて永原説についての解説のようなことを話した。しかし、永原さんを正面から批判するのは、今度がはじめてなので、やや緊張する。
 続きを総武線でやっていたが、もう錦糸町。下記は、PCの中に残っていたメモ。網野さんがなくなったあとに名古屋の中世史研究会で「無縁論と社会構成史」という講演をしたが、その準備メモの一部である。

 網野さんは、自然(大地と海原)と社会的分業・市庭関係の双方を「無縁」という切り口から捉え、その上に立って天皇を頂点とする支配構造論を展開しました。この場合のキーワードは、天皇の支配の正統根拠が「人民の本源的権利を倒錯的に代表する」という点にあるという指摘だったといってよいでしょう。天皇制は、山野河海、「大地と海原」に対する「本源的権利」と、境界領域としての市庭や交通路に対する非農業民の「本源的権利」の双方を「倒錯的に代表」するというわけです。「無縁論と社会構成史」という場合に、これについても若干の意見を述べるべきであろうと思います。
 このような問題の出し方がはじめて行われたのは、論文「日本中世における海民の存在形態」(一九七一年)、「中世における天皇支配権の一考察」(一九七二年)でした。歴史家には、そこで論理的な前提とされていた仕事が戸田芳実氏の論文「山野の貴族的領有と中世初期村落」(一九六一年)であったことはよく知られています。戸田さんは、この論文で「本来生産者の集団的所有であった土地が、国家的所有によって代置されているという、律令制支配のアジア的な特質」を指摘し、その荘園制支配は「村落共同体の機能の一定部分は領主権の内部に吸収され、領主は村落共同体の組織を媒介環として農民の支配を実現している」と論じています。そこでは「領主の法であると同時に村落共同体の法である」「住民の共同体的行事であるばかりでなく、領主もそれに関与する庄園の公的行事だった」というような支配と公共性の密接な関係が指摘されており、この論文は、平安時代における地域社会の共同体の在り方を具体的に論じた仕事として、現在でも貴重な意味をもっているのはご存じの通りです。網野さんが、「戸田のいう通り、荘園領主の支配はそれ(村落共同体)を吸収・倒錯させたところに成り立っているのであり、それ故に天皇の支配権と異質のものではありえなかった」としているように、網野さんの「倒錯的に代表する」という論理は、直接に戸田さんの議論に依拠しているのです。
 網野さんがよくいったように、戸田さんは「非農業」という用語をはじめて使用し、山野河海における多様な生業を復元する仕事を意識的に行った最初の研究者でした。それは戸田が律令制から平安時代の支配体制が「見作田の把握を中心とする支配体制」であると捉え、そこには農本主義的な開発主義・開明主義のイデオロギーが存在していたことを重視していたからにほかなりません。戸田さんはだからこそ、社会経済史研究が「田地をめぐる諸関係だけを抽象すること」が虚像を生み出す結果となることを警戒し、逆に社会的分業の非農業的局面を重視する議論を展開したのです。たしかに学界の外側に対して「従来の歴史学」が「海民や職能民の存在」を軽視してきたという傾向を指摘すること自体は正しいとしても、研究史を議論するにあたっては、平均や傾向ではなく、研究史の峰や未発の契機こそを確認するべきことを忘れてはなりません。とくに網野さんがいわゆる「水田中心史観」という形で問題にしたことを戸田さんが早くから「農本主義」という言葉で表現していたことに注意を喚起しておきたいと思います。
 またもう一つ指摘しておきたいことは、永原慶二氏がこの戸田さんの仕事に対する批判をふくめて、共同体間の境界領域という問題を指摘していることです。永原さんは、右の戸田さんの論文の翌年(一九六二年)、二本の論文「荘園制支配と中世村落」「中世村落の構造と領主制」を発表し、平安・鎌倉時代には「村落共同体」は存在していない、地域社会には「名共同体」と呼ばれるような家族制的な小共同体が散居するのみでその相互の間に共同体的な関係は組織されていなかったとしました。それ故に、荘園制支配と領主権の根拠は、戸田さんとは違って共同体機能を吸収するということでなく、小共同体の相互の関係をむしろ領主権自身が組織し、介入する点にあったというわけです。永原さんは、この議論を発展させて「村落共同体からの流出民と荘園制支配」(一九六八年)では、境界領域における社会的分業の編成を荘園制支配の固有の根拠としました。荘園制支配は共同体と共同体の真空地帯において発達した社会的分業を編成し、とくにその分業組織の下層に共同体から流出し、共同体から差別されるような賎民身分を設定することによって、その支配を強化したというわけです。そして、網野さんの「資本主義論」との関係では、この議論にあたって、永原さんも共同体の境界領域に存在する「社会的真空地帯」がいわゆる前期資本の成長と活動にとって本来の地盤であるという大塚久雄氏の議論を援用していることに注意しなければなりません。
 以上から、網野・戸田・永原の議論は、重大な相違はあっても、論理的には重なっている部分があるということがわかるでしょう。いまから彼らの仕事を受け継ごうとするものは、彼ら相互の立ち位置を正確に認識しておく必要があると思います。それが研究史に対する仁義というものであり、彼らの仕事を全体として尊重する所以であると思います。

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