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2012年12月27日 (木)

日本史研究は若い学問ーーー「戦後派歴史学」ならいいか。

121227_084534  今日は過去帳の編纂との格闘で疲れて、残らずに帰る。ともかくデータベースは作ったので、機械作業の部分が多いが、しかし、データが多く相互に矛盾をきたさないように気をつかう。私の編纂している史料集には花押一覧というのが付くが、以前、友人が、それをやっていると、文書に登場する一人一人について供養をしているような気持ちになるといっていた。その気持ちがよくわかる。ともかく、一人一人を確認していくという作業である。
 いま総武線の中。7時30分。
 さて、日本史研究のための読書案内を一冊まとめることになっていて、その用意をしている。といっても、定年後の仕事であるが、そのためもあって、島薗進氏の『宗教学の名著30冊』(ちくま新書)を読んでいる(ただ私の企画は別の出版社)。
 寝る前に一冊分の名著の勧めを読むことにしていて、そろそろ半分まできた。宗教学となるとなじみがない本が多いが、さすがにわかりやすい。そして、この本は「宗教学は発展途上の学問である」と始まっている。これがいいと思う。ともかく、この30冊のうち、読んでないものの半分くらいは読んでみたい。まったく違う学問分野から自分の仕事をながめてみたい。
 
 先週末に(12月15日)、歴史学研究会の80周年の記念シンポジウム「歴史学のアクチュアリティ」があって聞きに行った。これもたいへんに面白かったが、懇親会で報告者のKさんと話していたら、彼女が「歴史学は新しい学問だ」といった。島薗さんの本を読んで、「日本史研究も若い学問である」と考えていたので、共鳴。
 ヨーロッパにおける歴史学は19世紀からの蓄積の上にあるから若い学問とはいえないだろうが、日本の歴史学はまだ若い学問である。少なくとも、日本史研究の場合、その本格的な学術的出発は1960年代にあると思う。それを象徴するのが、中央公論社からでた『日本の歴史』シリーズである。あの茶色い本であるが、私などは、まだあの本に「愛着」あるいは「愛憎」がある。私が好きで実際に影響をうけたのは、青木和夫先生の『奈良の都』、佐藤進一先生の『南北朝内乱』、永原さんの『下克上の時代』、そして佐々木潤之介さんの『大名と百姓』である。いまでも愛着がある。ここで歴史学の学問としての実力というものができたのではないかと思うのである(「憎」の方も途中まで書いてみたが、長くなるので省略)。
 こういうと、それでは第二次大戦前の歴史の研究はどうなるのか、そして第二次大戦後のいわゆる戦後派歴史学はどうなるのか、そこには学問としての実力を認めないのかということになるが、それが下準備として大きな意味をもっていたことは認められるにしても、学問としての実力ということになると、なかなか厳しいものがあったのではないかと思う。この時期の歴史学はまだまだ専門性が成熟していないと思う。
 そもそも、第二次大戦前の大学には、厳密な意味でのアカデミー、つまり学術の専門性をふかめていくための史料の共有、施設、そして何よりも人員と予算などの条件はなかった。たしかに史料編纂所はあったが、当時の史料編纂所は、研究機関であったとはいってもやはり狭い意味での史料の国家的な収集と編纂の機関であって、史料編纂所がその設置目的に「史料の編纂と研究」という形で「研究」をかかげ、史料の共有と公開を原則とするのは第二次大戦後のことである。戦前は、「史料」は独占状態にあったといってよいと思う。
 その上、アカデミーは厳密な学術的方法論を必要とする。それはたんに歴史学分野のことではない。ようするに、日本のアカデミーには、ヨーロッパ近代におけるデカルト以降の蓄積にあたるものがないまま、ともかく大急ぎで自己流のつぎはぎ細工をやっていたのである。
 たとえば、しばしば高く評価される法制史の中田薫なども、学術方法論というレヴェルになると正直いって読むに耐えないものである。中田薫が、ドイツの法制史研究の方法論をともかくも消化して、そのレヴェルの議論をしなければならないという意思は、よく分かるのだが、やっていることは、所詮、自己流の継ぎ接ぎである。それでも中田薫となればたいへんな秀才であり、独占的に史料もみれて研究条件もよかったから、史料を読み込む中で何となく分かってくることはあるし、自己流の乱暴な論理でまとめるのも無意味という訳ではなかった。しかし、きわめて問題が多いというのが法制史の石井紫郎氏などの意見で、私はそれに賛成である。
 その上に、いわゆる「皇国史観」の重圧は、いまでは考えられないほど強烈であった。ようするに、史料は世界でも類例のないほど多くあるにもかかわらず十分に公開・蓄積されておらず、学術方法論は不十分で、皇国史観の下で研究の自由もないという状態は19世紀後半から、1945年まで続いたのであるから、歴史学の発達がきわめて偏ったものとなったのは当然であった。
 こういう状態の中で、第二次大戦後の歴史学は始まった。まずは「皇国史観」の重圧から解放されて、普通の学問をやることになれ、研究の方法論を組み立て、それを時代をこえて交流するということが、ようやく1950年代から始まったのである。
 そしてどうにか専門的な歴史学研究の体裁が整ったのが、1960年代であるということになり、それを象徴するのが、先述の中央公論社の通史シリーズ『日本の歴史』であったということだと思う。
 さて、それからもう50年以上経っているではないか、それでも「若い学問」というのかというご意見もあるかもしれないが、私は、いま64歳。1970年から仕事を始めて、まだ40年である。日本の歴史学が一応のヨーロッパ並みの条件におかれてから、50年とすると、私などの人生は、それとほとんど重なっている。そういうことで自信をもっていうのであるが、日本史研究はまだ若い学問である。第二次大戦前からの仕事を読み、「戦後派」歴史学の仕事を大事に読んでくれれば、やるべき課題は数限りなくあることはすぐわかるはずである。
 さて、いま「戦後派」歴史学と書いたが、普通、これは「戦後歴史学」という。しかし、もう第二次大戦が終了して60年以上。その間、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争と世界では「戦後」どころではなく、戦争が続いていた。そういう実態からすると、日本だけで「戦後歴史学」などといっているのは「まずい」というのが、最近の歴史学界の共通認識である。
 しかし、上のような事情で「若い学問」である日本の歴史学にとっては、それの最初の出発点であった第二次大戦直後の独特な活気をもった歴史学の動きの呼称はどうしても必要である。それならば、「戦後派歴史学」というのは、どうだろうかというのが、最近、考えたこと。野間宏、堀田善衛などの「戦後派文学」ということを考えると、「戦後派歴史学」と「派」を入れれば、右の難点をクリアーできるのではないかと考えた。
 
 最後に写真を二枚。
121215_183702  一枚は左。前述の歴史学研究会80周年のシンポジウムの後の懇親会で挨拶される板垣雄三さんの写真。実は、右にふれた「戦後歴史学」というのは、戦争が続いている世界の情勢の中で、「日本は戦後だ、平和だ」といっているようで「まずい」ということを最初におっしゃった方である。懇親会で久しぶりの友人たちと楽しく話しをしていたこともあり、気後れをすることもあって板垣先生に、「戦後派歴史学ならどうでしょう」とうかがう機会を逸したのが残念であった。
 もう一枚は、冒頭にかかげた本、歴史学研究会編の『戦後歴史学への道』である。若い研究者は、ぜひ、この本を読み、私たちの先輩がどういう状況の中で歴史学研究にこころざし、何をめざして生きていたかを感じてほしいと思う。歴史学の歴史も人間の作ってきた歴史である。
 
 これを書き始めたのは、18日頃。いま、26日夜遅く、総武線のホームライナーの中。年末の多忙が続いていて、しかも電車の時間は「貨幣論」の原稿に往生していたので、遅くなった。

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