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2012年12月12日 (水)

 学者と政治

Kaede121206_150634  今年は東大校内の黄葉が美しく見える。もう来年3月に定年なので、芥川のいう末期の眼に紅葉が美しく見えるということか。堀田善衛は、どこかでそんな無責任なといって怒っていたが、実際に美しい。
 朝、本郷三丁目の地下鉄からの道で、カミオカンデのS氏にバッタリ。『歴史のなかの大地動乱』のお礼をいわれる。私はジャンバーとジーパン。彼も上着はジャンバーである。彼も再来年に定年なので、二人でもうラフな格好でいいと笑いあう。東大の研究所長会議で一緒に独立法人化直後のばたばたの時期を過ごした。その時はきちんとした格好で自然科学に必要な財源論について整然とした議論を主導していた。おのおのの定年の話しになると、こちらは頬がゆるむのをおさえられない。こちらは手工業学問で、定年をすぎても仕事ができる。むしろ時間がなくてできなかったことができると思うと嬉しくて仕方がないといって、大企業はたいへんでしょうというと、彼はグループ作業必須なので、そうはいかないという。しかし、すでに巨大な成果をおさめたのだからというと、次の成果をださねばしょうがないとおっしゃる。
 考えてみると、普通、東大の他部局の友人にあうときは、地下鉄であって、本郷通りを東大まで歩きながらの話しとなるのだが、彼とは、何度か、向こうから歩いてくるのと会う。朝なのに、東大から歩いてきたというのは、これから岐阜に向かうのであろうか。まだ忙しそうである。

 さて、先日、最近の政治状況でSunからFutureまで実にいろいろな名前の政党が登場していることについて書いたところ、何人かの方から前進的な変化もあるのではないか、あまり狭いことをいっていてもしかたがないという意見をいただいた。もちろん、そこにも書いたように、たとえば原発はまずいということが、大多数の世論となり、それを政治家が無視できなくなったことはよいことである。どういう形であっても、それが現れるのはよいことである。
 そして、政治の世界には「相対的にまし」という論理はある。また妥協と合意が必要であり、できる限りいわゆる大同団結をしなければならないということもあるだろう。しかし、私は学者であって、率直に言ってそんなことは知らない。私は、政治家でもなく、政治評論家でもなく、いわゆる政局の動きにはまったく興味はない。ただ、歴史学者として、この日本の現在の社会で支配的な地位に地位にいる政治家にはろくなものがいない。ただ政治屋がいるだけだと確信しているだけである。
 もちろん、戦争と敗戦と日本社会の再建を経験した政治家がいた時は、そういうことはなかった。そもそも財界に相当の歴史意識をもった人々がいた。私たちの時代、いわゆる「戦後」、つまり1945年から1970年までの時代は、その意味でよい時代であったことを実感している。財界にせよ、政界にせよ、その時代の人々の相当部分は、どの分野であっても戦争に従軍し、アジアとの関係における深刻な経験を経ていた。いま『世界』で連載している経済同友会の元専務理事、品川さんの自伝を読んでいると本当にそう思う。これについてはまた書きたい。
 しかし、ともかく、いま、支配的な位置にいる政治家はほとんど駄目だと思う。そして、そもそも、政治とはそれ自身としては何も作らないもの、非生産的な仕事である。非生産的というのは無意味であるということではないが、現代社会においては、政治がそれ自身として積極的なものを生み出すことはないと考える。ぎゃくにいうと政治家は、政治がそれ自身として積極的なものを生み出すのだなどと主張してはならない。人間にとって積極的なものは、結局のところ、「政治」の背後で、おのもおのもの「職業」と「生活」の中で生み出されるしかないものである。すべては表層で決められるのではなく、一人一人の判断が全体として変化していくことによってしかきまらない。
 政治自体は「非生産」のものであって、物質的生産にせよ、精神的生産にせよ政治的自体は「生産」ではありえない。もちろん、プラトンの「哲人政治」までのことをいわないとしても、20世紀までは、たとえばヨーロッパには歴史学を学んだ政治家が多かった。その時代には、例外的であれ、政治家が学者であることはありえたであろう。つまり政治家が直接に精神的生産に貢献するということもあっただろう。政治が直接に物質的生産と「開発」を導いたこともあったろう。
 しかし、21世紀にはそういうことはありえない。社会の学術も技術も文化も、情報化の大波の中で、極度に多重的に専門化しており、政治家あるいは政治団体がそれらを超える「精神的・物質的生産」の担い手となることはありえない。政治が、それらの全体を見通して導いたり、イニシアティヴをとったりすることもありえない。ヘーゲルのいうアトム的な市民社会が電子ネットワークによって繋がれると同時に、生活と専門性の中から立ち上がってくるネットワークとアソシエーションが実態となっていく(本当の意味で政治の固有の領域はグローバル化の中におけるネーションとネーションの関係としてのみ残ることになるのではないか)。
 こういう意味で政治は、それ自身としての内容を失い、無限に透明になっていくほかないはずである。そこには社会の価値がそのまま映しだされる。この中で、むしろ政治家は専門性からはなれたゼネラリストとして、大多数の人々の立場や利害を代表して、諸方調整に励むという柔軟な「公僕」でなければならない。彼らが社会のなかの特定の集団を代表することは自由であるが、彼らは、自分が代表する諸個人の意見や利害を社会の公共利害の中に位置づけなければならない。彼らは自分の利害を放棄しなければならない。
 そうでない政治家は政治屋である。現在の日本のようにほとんどの政党が政治活動の資金を国庫から獲得しているなどというのは、彼らが自分の利害のために国家を利用していることの表現である。そもそも、政治家の給料こそを人事院勧告の対象としなければならない。国会議員や閣僚の給料が民間の普通レヴェルよりも圧倒的に高いなどというのは信じられない倒錯である。
 もちろん、私は、原発即時〇という主張が通り、若者に仕事がないなどということがなく、この社会が少しでも明るく平等となり、アメリカの基地などという物騒なものがなくなり、歴史文化を尊重する方向に進んでいくことを望む。それは日本の国の実力をもってすればできるはずのことである。そしてそれを主張する政治勢力や政党が前進することを望む。市民としてはそれにすこしでもかかわるのは当然のことである。ともかくも、現在は、それがどのようなスピードで進むか、それとも社会の腐食の方が先になるかがおっかけっこという状態になっている以上、座視してはいられない。

 しかし、その道筋とスピードを決めるのは、ほとんどが経済的合理性である。たとえば原発は非合理で、一刻も早く新しいエネルギー戦略を決めなければならないというのは、電力会社の経済的失速あるいは、破産の可能性に追っかけられて実現していく。
 もちろん、政治もそのスピードを促進することはできる。しかし、上記のような政治屋がほとんどである日本の政治の現状では、それは一朝一夕には実現しない。それは支配的な政党の政治家が政治屋であるという、考えてみれば当然の認識が一般化することによってしか進行しない。すべてが一人一人の判断であると思う。
 私は、現在、相当多数の学者が、上記のようなさめた認識をもちはじめていると感じている。日本社会の中枢のお寒い実態を正面からみざるをえなくなっているのである。問題は、そこから先を、さらにつきつめて考えていくことである。そして、それは学術の世界の創造性を高めることになるに違いないというのが期待であり、その中で私も応分の仕事ができればと思う。

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