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2013年1月

2013年1月29日 (火)

NHKの平塚雷鳥と市川房枝の番組。米田佐代子さん

 130129_125515 今日は、月曜。6時くらいから雪。千葉だけ強く降っているらしい。いま朝の総武線。
 昨日の夜は、平塚雷鳥と市川房枝についてのNHKの特別番組をみる。『地震の2000年史』という、朝日出版から何人かの人と一緒にだすの本の参考文献や地図の校正が期限で「見れないよ」といっていたのだが、相方が武田清子先生もでるよということで、ゲラをもってテレビの前へ。
 たいへんよいものだった。武田先生は、私の大学時代のアドヴァイザーで、さんざん心配をかけた。雰囲気はかわらない。先生はやはり誇り高い。お元気そう。市川房枝さんの戦争中の戦争協力についての意見をいわれていた。第二次世界大戦の開戦時、アメリカに留学しておられて、鶴見俊輔などといっしょの交換船で帰ってこられた話しは有名だが、その時、日本へ帰ってきても、「密告」のようなことをする人がいるとはまったく思っておらず、「今浦島」といわれたという。
 田中優子さんが番組の案内役。平塚雷鳥の話しは、雷鳥が参禅して「父母未生以前の面目は如何に」という公案を与えられたという話しを説明するのに、田中さんが禅堂で、同じ公案を示される様子が、ふーむというもの。私は自分がそうだったので、高校生の年頃の男が禅に惹かれる気持ちはわかるが、雷鳥は自伝のほかにはそんなに読んでいないので、「雷鳥と禅」ということはよく分からない。大拙や河上肇を通じて、あのころの禅というものの意味が何となく分かる感じはするが、それを正確に考える上では、雷鳥と禅というものを知るのが根本であるのかもしれないと思う。
 田中さんのおばあさんが雷鳥の影響をうけて家を飛び出たという話しがあった。偶然の織りなす網の目の中で、歴史は進むが、それを巻き戻しながら確かめていくということが必要な状況なのだと思う。
 雷鳥については、雷鳥記念館の館長の米田佐代子さんが田中さんと二人ででてくる。米田さんもお元気。我々は、米田さんが都立大学にいらしたころの院生である。私は、大学院に入って米田さんのような人をはじめてみた。はっきりとこだわりなく、ものをいい、立ち位置明瞭なフェミニスト。さすがに少し軟らかくなられたとは思うが、基本的な感じはまったくかわらない。やはり、一時、戦争協力の姿勢をとった雷鳥について語りながらも、理路整然と雷鳥に対してなぜ親しい感情をもつのかを語られる。昨年、人にたのまれた用があって、久しぶりに電話で声を聞いたが、もう10年以上、御会いしていないと思う。最後に御会いした記憶があるのは、青山で歴史学研究会の大会があった時ではないか。あの時、たしか女性史の部会があって報告をされたのではなかったか。
 やはりみてよかった。雷鳥の記念館は雷鳥が籠もった信州にある。見事な風景である。いつかいってみたい。
 番組の途中の田中さんと上野千鶴子さんの対談も興味深かった。お二人が、『青鞜』の時代以降の歴史というものの意味を実感をこめた語ることに共感した。それらの一つ一つのことがあって、今がある。お二人が、「雷鳥・房枝の生涯を面前にすると忸怩たるものがある。現在の女性と社会をとりまく様子に直面していて十分なことができずにいると感じる」とこもごも述べるのを聞くと共感というほかない。私たちの世代は誰も同じであろう。

 さて、最近の就寝時の本が上野千鶴子・前・田中の『ドイツのみえない壁』であった。この本には上野さんの肉声が聞こえるようで、今日の話とかさねると興味深い。米田さんと上野千鶴子さんは少し似ているというのが発見である。そこで、今日は、この本の感想を書こうとしたのだが、珍しく学校に向かう娘と電車で一緒になり、彼女にこの本面白いよといって渡したら、読み始めたので取り返すのも悪い。これはまた後に。

 かわりに茅野蕭々の訳したリルケの詩、「女たちが詩人にあたえる歌」。飛躍するようだが、番組の中でエレン・ケイがでてきたからいいだろう。リルケのフェミニズムはエレン・ケイのフェミニズムとどこかで通底している。

 すべてが開かれるのを御覧なさい。私たちもそうです。
 私たちはさうした祝福に外ならない。
 獣の中で血と闇とであったものは
 私たちの中で魂に育った。そして

 さらに魂として叫んでいる。あなたへも。
 あなたは勿論それを風景のように
 眼に入れるだけだ。軟らかく、欲望もなく。
 それ故私たちは思ふ、あなたは
 
 呼ばれる人ではないと。しかし、あなたは
 私たちが残りなく全く身を捧げた人ではないのか。
 あなたの外、誰の中で私たちはより多くなれるというのか。
  
 学者、とくに歴史学者などというのは、「見る人」であって、自己の内部のものに突き動かされて行動する人ではない。「呼ばれる人」ではない。けれども、この国の近代の思想史の中心にいた女たちの声は聞こえる。
 いま、火曜昼。

2013年1月24日 (木)

深谷さんの『東アジアの法文明圏の中の日本史』と「史論史学」

130120_124450yato  日曜日に久しぶりに自転車。さすがに気持ちがよい。千葉の奧の谷戸田の周辺にはこの前の雪が少し残っている。殿山ガーデンという乗馬クラブの柵の外から乗馬を見学。
 火曜、朝の総武線。深谷克己さんにいただいた御著書『東アジアの法文明圏の中の日本史』。先週末から目を通していて、日曜日にだいたい読んだ。最後の一節を、いま読んだ。やはり共感するところが多い。
 もちろん、意見を異にすることもある。残念ながら、奈良時代から鎌倉時代の捉え方は承服できない点が多い。そして最後に述べるように、日本の歴史社会の構造の捉え方についても賛同できない点がある。

 しかし、深谷さんの本で共感を呼ぶのは、第一に「東アジアの中での日本」の論じ方であり、第二にその「史論史学」ともいうべき側面である。

130122_135602hukaya  まず第一の点は、日本は東アジア型の国家社会であり、それが江戸時代に一つの到達点にまでいったという捉え方である。これは村井章介氏も、同じ捉え方で、彼は、どこかで江戸時代になって日本は東アジアレベルに追いついたといっていたと思う。私もそう思う。深谷さんは、これを平川新氏の議論をも援用しながら、東アジアにおける日本をイベリア・インパクトからウェスタン・インパクトへの展開の中で位置づけるという議論を展開してみせた。もし、これでよいのならば、1980年代から続いてきた東アジア論も日本史との関係では、一つの落ち着き先がみえてきたということになる。
 もっとも端的な文章はいま読んだ部分(284頁)。

 「近世化」では、イベリア・インパクトに対応して、非入貢が長く続いた周辺王朝としての安全強迫を、大陸侵略で乗り越えようとして、東アジアの危険存在となり、一方、「近代化」に際してもウエスタン・インパクトに対応して、政治文化的にはハイブリッド化しながら、「中華皇帝化」を目ざした。

 イエズス会の動きに象徴されるようなイベリア・インパクトの危険性を強調し、それを秀吉の朝鮮侵略の(主観的な)国際的背景条件と結びつけるのは、平川新氏の議論に依拠したものである。深谷さんの議論の特徴は、それを近代化におけるウエスタン・インパクトと対比して、「大東亜共栄圏」にまで突っ走った日本国家の運動を、東アジアにおける江戸期国家の位置づけの延長で議論したことである。
 江戸時代の研究者には、イベリア・インパクトをここまで評価するのは異論があるらしい。スペイン、ポルトガルの世界征服計画、そのイエズス会との関係などを固定的にとらえることはできないというのであろう。この段階でイベリア諸国が東アジアに対する侵略と植民地化の道に具体的に進もうとしていたということはできない。彼らに、そこまでの実力はなかったは事実であろう。しかし、こういう見方によって、ラテンアメリカと東アジアを共時的な世界の中でとらえるのは重要だろうと思う。東アジアにおける明帝国の崩壊という時代の中で、イベリア諸国の動きが重要な背景となったことは明らかである。
 古いことをいうようだが、松本新八郎氏に「聖者の胃袋」という文章がある。このザビエルを論じたエッセイは、当時の奴隷貿易の盛行との関係で、イベリア諸国の東アジア支配の欲求をきびしく論じたものである。イベリア諸国の強欲と奴隷売買に対する批判と、イエズス会の宣教師の美辞麗句の裏にある卑屈な「封建的性格」に対する嘲笑は、いま読んでも納得できるものである。私は、松本・平川・深谷の議論には一定の共通性があり、議論としては成り立ちうるものであるように思う。ともかく一五〇〇年代から一八〇〇年代まで、たしかに東アジア諸国は、ヨーロッパ勢力との諸関係の中で、同じ世界に属しながら、国家としても共軛性と連続性をもった歴史を辿ったという視点が重要なことは明らかだと思う。
 
 第二の点であるが、深谷さんの仕事には「史論史学」というべき側面がある。石母田さんはどこかで山路愛山のような「史論」というべき仕事からの影響をうけたといっていたと思う。日本の社会のもっている多様な側面、肯定的な側面、否定的な側面、一種の体質のようにみえるものなどについて歴史家として論ずる。より一般的にいえば、歴史を参照系として直接に現代を論ずる歴史家の話法というようなことである。「日本文化論」というパターン的な議論を歴史家として批判し、相対化する上でも、これは私は重要だろうと思う。
 現在、「戦後派歴史学」を皇国史観と戦争への批判、そして反封建制の意識にひきつけて理解し、さらにその方法論をイデオロギー的な「社会構成史」と考えるのが一般的である。しかし、戦後派の歴史学は、そのようなイデオロギーや方法論の問題を越えて、活発な「史論」をもっており、それによって説得性を確保していたのだと思う。深谷さんのこの本を読んでいると、それを何らかの形で取り戻した方がよいのかもしれないと考えさせられるのである。
 
 たとえば、深谷さんは、維新期の大久保利通の「浪速(大阪)首都移転論」にふれて、最初は明治の元勲には誰ひとりとして東京(江戸)を首都としようと考えたものはいなかった。それはパークスの秘書をつとめていた前島密の建白にはじめて現れるものであり、この建白の背景には貿易の便や安全を考えたパークスの意向もあるのではないかという。少なくとも、「蝦夷地を視野に入れれば江戸は帝国の中央になる」という前島の建白に国際的な契機を読みとるのは容易だろう。
 これをうけて大久保が東京案に傾き、東京への遷都論に向かっていくことになるが、深谷さんは「その矛盾をふくんだ結果はいまも続いている」という。対外関係の条件が東京が首都になる上で大きな意味があったというのは考えたことがなかった。
 ともかくも大阪と東京というのは矛盾含みの関係であるというのは現在もかわらないように思う。いま大阪は橋下氏、東京は石原氏という変わった知事がいる訳であるが、こういう事態も「矛盾をふくんだ結果はいまも続いている」という側面があるのかも知れない。
 考えてみれば、1960年代のいわゆる革新自治体の動きというのは、大阪と東京が先行していた。大阪も東京も大都市として「中央」に対する抵抗意識や優位意識が爆発する要素をつねにもっているのであろう。いま起こっている大阪と東京の「中央」に対する反発というのは、なかば格好だけのものにすぎないが、こういう政治力学の働きは、日本国家における大都市の独特な位置という問題があるのかもしれないと思うのである。
 橋下氏と石原氏は一種のファシズム的な不気味な要素をもっていると思うが、それが日本を代表する二つの大都市の生理のようなものに根づいているのではないかというのが怖い。
 私は、日本社会にはよい意味でのナショナリズムが存在しないと考えている。このナショナリズムの不在という現象は、きわめて都市的な現象ではないだろうか。農山漁村とそのネットワークが国の中軸にあれば、こういうナショナリズムの不在、沖縄と福島を無視するかのようなナショナルなものの不在というのは考えがたいように思うのである。橋下氏は、沖縄に行って「基地は我慢せよ」に等しいことをいった。
 深谷さんの著書から、話しが脇に脇にずれてきたが、ともかく、我々は昔の人々と同じ自然的な条件、あるいは地政学的な条件の下にいるのだから、こういう「政論」「史論」というものは必要なものかもしれない。

 さて、私などは研究経歴の最初、つまり70年代のいわゆる民衆運動史研究の時期、民衆的社会史の時期の最初に深谷さんの影響をうけた。それ故に、本書で深谷さんが現在の視点の下に広い視野をもった議論を展開され、あとがきで「高齢残余の時間を宿題解答にあてることを約束させていただき」と述べられるのを読むと感慨が大きい。私は日本史の本で最初に感心して読んだのは、佐々木潤之介『大名と百姓』であった。つぎに佐々木さんの『幕藩権力の基礎構造』を読んだが、佐々木さんの理論的、構造的な議論はむずかしく、途中で挫折した。そして、むしろ佐々木さんを批判しながら、室町以前の議論、つまり峰岸純夫さんや戸田芳実さんの議論にも言及していた、あの時期の歴史科学協議会の深谷さんの大会報告に大きな影響をうけた。実際には、深谷さんの報告を読んでから、戸田さんの著書を手にとったような記憶がある。

 とくに私にとって、今でも外せない論点は、あの頃の深谷さんが、峰岸純夫氏の議論をうけて、「東アジアの共通分母」、東アジアの社会構成における共通性としての「地主制」という議論を展開したことである。
 しかし、この論点を深谷さんは封印されたらしい。去年、峰岸さんの著書の書評をした時、記憶にのこっていた文章を、深谷さんの著作集で確認しようとしたが、深谷さんの「地主制」論は、以前の著作でも、今回の著作集でも削除されていることを知った。もちろん、今回の『東アジアの法文明圏の中の日本史』でも「東アジアの共通分母」という問題意識が中心的なものとして維持されていることはよく分かるが、しかし、深谷さんは、本書でも「地主制」論にふれることはない。今度、久しぶりに御会いする機会もあるので、この点、今はどう御考えなのかを聞いてみようと思う。
 冒頭にふれた「日本の歴史社会の構造の捉え方について賛同できない点」というのは、このことである。地主論なしの江戸期社会論というのは、私には了解できない。それではいわゆる「小農社会論」になってしまって、江戸期封建制論と枠組みはかわらなくなる。それは以前と表現は違うが、さらに江戸期社会を、あまりに「明るく」、あるいは建前で論ずる方向に近寄るということになりかねない。江戸期社会を「暗黒」の封建制という用語の中に押し込めようとするのではないが、江戸期社会が、現代社会と同じように、あるいはそれ以上に矛盾の多い社会であることは本書の中で、深谷さんも強調されているが、問題はその構造的な捉え方である。

 日本が東アジアにどこまで追いついたかという、さきほどの論点でいえば、私は、その極点は江戸期になるとしても、室町時代には日本も相当程度東アジアに追いついていたという意見である。そして、そもそも平安時代・鎌倉時代も東アジア型の都市・地主型国家としての側面をもつという意見である。以下、峰岸さんの著書に対する私の書評の最後の部分を引用しておきたい。

私は、峰岸もいう集団的階級構成を前提として、この列島社会の社会構造が展開したことからいっても、東アジア型の都市・地主制国家を考えることがむしろ妥当ではないかと考えている。もとより、それを立論するためには、平安期から室町期にいたる国家・貴族的領主制・地域地主制の三者の相互関係を追跡しておくことが必須ではあるが、少なくとも、永原のいうように江戸期社会が領主制の極限的展開とそれにともなう自己否定を経過したものであるとすれば、それは封建制とはいいがたいのではないだろうか。実際、それは封建制というにはあまりに組織的・集団的な構成であって、東アジア型の「非封建的な」社会構成というほかないものである。峰岸らの「アジアの共通分母としての地主制」という提案は、そう考えてこそ生きるのではないだろうか。

 

江戸時代研究者にも、江戸期社会を封建制という範疇で捉えるのかどうか、そろそろ、結論をだしてほしいものである。それが研究史に対する責任というものであろう。
 木曜日、帰宅の総武線。

2013年1月19日 (土)

「茶道」の勉強と歴史学研究会座談会

 年度末が近づき、忙しくて、ブログを書く時間もない。今日は週末、金曜の朝、いま総武線、小岩。この間、電車の中で時間をつかっていたのは歴史学研究会の80周年の記念册子が企画されているが、そこに載せるために、いわゆる社会史研究についての座談会というのがあって、その報告準備だった。そして、1月末には原稿をといわれている科研の報告書のための準備もあって、どうしようもない。後者は、「茶道」にも関係し、その関係もあって公務の編纂にも関係するので、どうしてもやらねばならない。
Nagasima130119_122247  永島福太郎先生の、こういう本である。永島先生は、いちど、あることがあって、食事をご馳走になったことがあるが、このノートは追ってなかった。ともかく、これを確認しておかねばどうしようもない。

 ともかく見通しはついたのだが、次は、先月の『源氏物語』についての座談会のゲラの直しである。ゲラをよんでいると、自分の発言がまったく文章になっていないのに赤面する。以前、私は、池享氏と一緒に網野善彦さん、石井進さんをかついで静岡県磐田市の一の谷中世墳墓群の保存運動にとり組んだが、その時、市民の方々が、石井進さんの講演の起こしをやるので、それを手伝ったことがある。これは、見事なもので講演のテープ起こしが、ほとんどそのまま原稿になる。頭のよい人というのはいるものである。

 歴史学研究会の報告はレジュメでよいといわれていたのだが、私はレジュメというのが駄目である。頭が悪く、整理の悪い人間は、文章によって論理が固定されていないと、話しの接ぎ穂が急にみえなくなることがある。
 
 この座談会の記録は五月の歴史学研究会の大会にはでるのだろう。私は、20代はじめから歴史学研究会の大会にはいつもでていたが、一昨年はどうしようもない事情があって、はじめてでなかった。今年は出れると思うが、定年後はじめての学会ということになる。
 他の学問分野の人にはわからないかもしれないが、歴史学研究会というと、いわゆる戦後派の正統歴史学の印象が強い。批判的な社会派歴史学という印象も強いようである。しかし、実際は、歴史学研究会大会というのは歴史家の年一回のお祭りのようなもので、そこに行けば多くの友人に会えるので行くという性格の大会である。
 歴史家は、だいたい一人一人で仕事をするので、本質的には、あまり集まることが必要でない人種であり、職種である。だから逆に人恋しさがつのるのであろうか。少なくとも私の世代では、歴史学研究会の大会は同窓会のようなものであった。京都で行われる日本史研究会も同じような性格をもっているが、歴史学研究会の方は、日本史のみでなく西洋史・東洋史の人々と会うことになる。一日目は各時代別部会の懇親会があるので、そこにでるが、二日目の全体懇親会の後は、三々五々、呑みに出かけることになり、その場では世界史混成で、こちらが面白かった。
 右の社会史研究についての座談会も、ヨーロッパ史・中国史の方々と日本史の全体での座談会なので、どういう話しになるのか検討もつかないが、しかし、こういうのがいわゆる歴史学研究会らしいということになる。それにしても、ヨーロッパ史、中国史のことはわからないので、電車の中では、しばらくその種の勉強につとめなければならない。

 私は歴史学研究会で育てられたという実感がある。私は国際キリスト教大学という大学で、一年から四年までは武田清子先生をアドヴァイザーとし、卒論のアドヴァイザーは大塚久雄先生であった。武田先生は近代思想史、大塚先生はヨーロッパ経済史。それなのにどういう訳か、日本の江戸時代以前の研究をやりたいということになった。そこで歴史学研究会の事務所に電話をして、平安時代くらいの勉強をしたいのだが、どうしたらよいだろうかと問い合わせをした。
 その事情は、しばらく前に歴研の「月報」(会員配布の本誌にのみ挟まれる会報のようなもの)に書いたので、その関係のところを下に、引用してみる。

 「歴史学研究会についての記憶は、大学四年の時、「日本の中世史の勉強をやりたいのだが、どうしたらいいだろうか」と事務所に電話したことである。どうしたらいいだろうかといわれても困ったのではないかと思うが、その電話に答えてくれたのは、事務局の会務担当者で(『歴研半世紀の歩み』によると松崎さんか重松さんのどちらかということになる)、中世の委員であった渡辺正樹さんを紹介してくれた。おそらく渡辺さんの電話を教えてくれたのではないかと思う。それでは『平安遺文』(平安時代の古文書集)の読み方を教えてあげるからということで、渡辺さんに高田馬場の駅のそばの喫茶店を指定された。たしか、目印に『平安遺文』をもってくるようにということであったように思う。もうほとんど記憶がないが、その後に、時々、中世史部会に出ることになり、古代史部会にもでるようになった。当時は事務所は狭かったのだと思う、よく学士会館で部会が開かれたが、大学のあった三鷹から通うと、会費のお茶代がぎりぎりのことが多くて不安だったことを覚えている。
 結局、一年留年をすることになったが、卒論は、渡辺さんに読み方を教えてもらった『平安遺文』の最初の方に並んでいた近江国大国郷の土地売券を題材にした。大塚久雄先生に話しを聞いていただいたのはありがたい限りであったが、さすがに専門は違い。卒論は、一年留年し、ほとんど無手勝流で書いた。
 歴史学研究会の大会の記憶は留年中の一九七二年の東大本郷での大会で、小谷さん、峰岸さんの全体会大会報告を聞き、部会は古代史部会の関口裕子報告の印象が残っている。大会の全体会会場のそばで、部会でやはりいろいろ教えてくれた富沢清人氏に、当時、都立大学にいらした戸田芳実さんを紹介してもらい、いわゆるテンプラで都立の院の授業にでてもいいといわれた。そして翌年、戸田さんによると英語の点がよかったということで都立大学の修士課程に入学できた。大学は大荒れの状態で、自分の将来について考える余裕はないまま、多忙かつ不節制という状態であったから、大学院というものに入れて非常にうれしかったのを覚えている」。

 今日、土曜も職場。ゆっくり仕事ができる。

2013年1月 7日 (月)

メロディー、ハーモニー、リズム。理論はハーモニー

130107_125922  正月はもっぱら論文。こういうもの。永原批判の続きであるが、大論文になっていって収拾がとれない。以降は電車執筆に切換である。
 正月に、池辺晋一郎氏と高樹のぶ子さんの対談を読む。高樹さん云く、「私は音楽の3要素であるメロディーとハーモニーとリズムを小説に置き換えていくんです。メロディーは小説のストーリー、ハーモニーはテーマ、リズムというのは文章なんですね」と。これを歴史叙述に置き換えるとメロディーはやはりストーリー(論文の編別構成)、ハーモニーは理論、そしてリズムは史料と史料解釈だろうか。私の年末正月論文は現在のところ、ストーリー(編別構成)はどうにか通り、リズム(史料)は一応そろったが、ハーモニーがまだ乱調であって、これは論文が完成しても聞きやすいものにはならないのではないかと予想される。メロディーは急ぎすぎ、リズムはいい加減に刻み、ハーモニーもなくて聞いていて不愉快ということにならないことを望むのみである。原稿は天才の楽譜とはまったく乱雑さ。
 こういうように置き換えてみると、メロディーとハーモニーとリズムというのは、精神労働には、どの場合も同じようなことがあるのかもしれないと思う。そしてどうみてももっとも困難なのはハーモニーである。
 上記論文の対象は貨幣論なのだが、ハーモニーをとるための準備が不足で、書きながらいろいろなものをひっくり返した。もっとも勉強になったのは黒田明伸氏の貨幣論で、東アジアの卑金属少額貨幣(銅銭)のことは、彼の理解で処理していけばどうにかなるという結論になった。そして井原今朝男氏のいう計算貨幣論である。
 私は19世紀型の研究者で、マルクス・ウェーバー・大塚久雄先生を基本的な理論道具としているが、そういうことでは論文のハーモニーがとれない。もちろん、依然として古典学説に接ぎ木していくというのが私の立場で、古典学説を延長しているということなのだが、そのときに発生する破調な不協和音を聞き取るのはたいへんに興奮する。大塚先生の「局地的市場圏」の理論を黒田氏の「地域流動性」論で解くということなのだが、これではまだまるで暗号である。
 問題の性格からいってポランニーを読まねばならないのだが出てこないので、柄谷行人氏の『世界史の構造』で代用し有益であった。森本芳樹先生の大著『西欧中世形成期の農村と都市』を引っ張り出して読んでいると、古典学説レヴェルでも、ここらへんの理論は正確につめておかねばならなかったことを実感する。森本先生はなくなられたが、正確にお話しをしておくのだったと思い、寂寥がふえる。
 歴史理論というものが試論でもいいからあった方がよいと思うのはこういうときである。
 別にいわゆるグランドセオリーということではない。隣同士の研究が共通して引証できるような簡単なハーモニーが必要なのである。文化の周縁の深み、あるいは学術の隅っこの方から最初は小さく響くだけだが、徐々に全体が声をそろえる。そういう歌声が必要なのであるが、それはかならずつねに転調するポニフォニーでなければならないというのが、19・20世紀の学術世界の最大の教訓であると思う。

 
 日本の政治の世界は危険な乱調である。古典的な見方では、この程度のことならば、保守がもう少ししっかりしていればよいということだが、日本社会には構造的にそういう保守は存在しないというのがすでに誰でもわかるはずの鉄則。今後も存在しえないであろう。もちろん、個人の問題は別。社会的な勢力や政党の問題。別の社会的立場の人間が、「保守」の役割も担わなければならないというのが歴史的な経験であり、冷厳な事実。我々の世代は「いつか来た道・戦前のような全体主義と戦争への道」がまた来るというフレーズを「聞き飽きた」世代である。私は、そういう形での繰り返しはありえないと今でも考えており、上記の決まり文句には違和感がある。しかし、それでは国家・社会の異様化はまったくありえないのかということになれば、けっしてそういうことはない。現状ではありえないが、何が起こるかは分からない。そういう危険水域があるということは考えておく必要があるのだと思う。
 とくに「中近東」を見ていると他人事とは思えないのである。「世界」には軍国主義と紛争の許容量のようなものがあるのだと思う。もちろん、各地でつらいことはあったが、全体としては、それをパレスチナと中近東に押しつけてきたというのが「戦後」社会。その深い闇が移動する可能性はつねにある。
 それにしてもエジプトはどうなるのであろうか。大統領ムハンマド・ムルシーはムスリム同朋団の中での序列は低く、同朋団の院政が敷かれている様子がいよいよ明らかになってきた。
 どのような場合でも議会政党は国家中枢に入った場合、国家元首と政党党首が人格として一致していなければならない。その政党の政権政党・議会政党としての誤りは、当時に結社としての政党の誤りでなければならない。「院政」ということがあってはならない。この原則をとれない政党が(自称社会主義ではそうであった)、宗教の側にバックをもっているという事態が、エジプトにおいてもさらに続くというのはなかなかつらい話である。

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