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2013年1月24日 (木)

深谷さんの『東アジアの法文明圏の中の日本史』と「史論史学」

130120_124450yato  日曜日に久しぶりに自転車。さすがに気持ちがよい。千葉の奧の谷戸田の周辺にはこの前の雪が少し残っている。殿山ガーデンという乗馬クラブの柵の外から乗馬を見学。
 火曜、朝の総武線。深谷克己さんにいただいた御著書『東アジアの法文明圏の中の日本史』。先週末から目を通していて、日曜日にだいたい読んだ。最後の一節を、いま読んだ。やはり共感するところが多い。
 もちろん、意見を異にすることもある。残念ながら、奈良時代から鎌倉時代の捉え方は承服できない点が多い。そして最後に述べるように、日本の歴史社会の構造の捉え方についても賛同できない点がある。

 しかし、深谷さんの本で共感を呼ぶのは、第一に「東アジアの中での日本」の論じ方であり、第二にその「史論史学」ともいうべき側面である。

130122_135602hukaya  まず第一の点は、日本は東アジア型の国家社会であり、それが江戸時代に一つの到達点にまでいったという捉え方である。これは村井章介氏も、同じ捉え方で、彼は、どこかで江戸時代になって日本は東アジアレベルに追いついたといっていたと思う。私もそう思う。深谷さんは、これを平川新氏の議論をも援用しながら、東アジアにおける日本をイベリア・インパクトからウェスタン・インパクトへの展開の中で位置づけるという議論を展開してみせた。もし、これでよいのならば、1980年代から続いてきた東アジア論も日本史との関係では、一つの落ち着き先がみえてきたということになる。
 もっとも端的な文章はいま読んだ部分(284頁)。

 「近世化」では、イベリア・インパクトに対応して、非入貢が長く続いた周辺王朝としての安全強迫を、大陸侵略で乗り越えようとして、東アジアの危険存在となり、一方、「近代化」に際してもウエスタン・インパクトに対応して、政治文化的にはハイブリッド化しながら、「中華皇帝化」を目ざした。

 イエズス会の動きに象徴されるようなイベリア・インパクトの危険性を強調し、それを秀吉の朝鮮侵略の(主観的な)国際的背景条件と結びつけるのは、平川新氏の議論に依拠したものである。深谷さんの議論の特徴は、それを近代化におけるウエスタン・インパクトと対比して、「大東亜共栄圏」にまで突っ走った日本国家の運動を、東アジアにおける江戸期国家の位置づけの延長で議論したことである。
 江戸時代の研究者には、イベリア・インパクトをここまで評価するのは異論があるらしい。スペイン、ポルトガルの世界征服計画、そのイエズス会との関係などを固定的にとらえることはできないというのであろう。この段階でイベリア諸国が東アジアに対する侵略と植民地化の道に具体的に進もうとしていたということはできない。彼らに、そこまでの実力はなかったは事実であろう。しかし、こういう見方によって、ラテンアメリカと東アジアを共時的な世界の中でとらえるのは重要だろうと思う。東アジアにおける明帝国の崩壊という時代の中で、イベリア諸国の動きが重要な背景となったことは明らかである。
 古いことをいうようだが、松本新八郎氏に「聖者の胃袋」という文章がある。このザビエルを論じたエッセイは、当時の奴隷貿易の盛行との関係で、イベリア諸国の東アジア支配の欲求をきびしく論じたものである。イベリア諸国の強欲と奴隷売買に対する批判と、イエズス会の宣教師の美辞麗句の裏にある卑屈な「封建的性格」に対する嘲笑は、いま読んでも納得できるものである。私は、松本・平川・深谷の議論には一定の共通性があり、議論としては成り立ちうるものであるように思う。ともかく一五〇〇年代から一八〇〇年代まで、たしかに東アジア諸国は、ヨーロッパ勢力との諸関係の中で、同じ世界に属しながら、国家としても共軛性と連続性をもった歴史を辿ったという視点が重要なことは明らかだと思う。
 
 第二の点であるが、深谷さんの仕事には「史論史学」というべき側面がある。石母田さんはどこかで山路愛山のような「史論」というべき仕事からの影響をうけたといっていたと思う。日本の社会のもっている多様な側面、肯定的な側面、否定的な側面、一種の体質のようにみえるものなどについて歴史家として論ずる。より一般的にいえば、歴史を参照系として直接に現代を論ずる歴史家の話法というようなことである。「日本文化論」というパターン的な議論を歴史家として批判し、相対化する上でも、これは私は重要だろうと思う。
 現在、「戦後派歴史学」を皇国史観と戦争への批判、そして反封建制の意識にひきつけて理解し、さらにその方法論をイデオロギー的な「社会構成史」と考えるのが一般的である。しかし、戦後派の歴史学は、そのようなイデオロギーや方法論の問題を越えて、活発な「史論」をもっており、それによって説得性を確保していたのだと思う。深谷さんのこの本を読んでいると、それを何らかの形で取り戻した方がよいのかもしれないと考えさせられるのである。
 
 たとえば、深谷さんは、維新期の大久保利通の「浪速(大阪)首都移転論」にふれて、最初は明治の元勲には誰ひとりとして東京(江戸)を首都としようと考えたものはいなかった。それはパークスの秘書をつとめていた前島密の建白にはじめて現れるものであり、この建白の背景には貿易の便や安全を考えたパークスの意向もあるのではないかという。少なくとも、「蝦夷地を視野に入れれば江戸は帝国の中央になる」という前島の建白に国際的な契機を読みとるのは容易だろう。
 これをうけて大久保が東京案に傾き、東京への遷都論に向かっていくことになるが、深谷さんは「その矛盾をふくんだ結果はいまも続いている」という。対外関係の条件が東京が首都になる上で大きな意味があったというのは考えたことがなかった。
 ともかくも大阪と東京というのは矛盾含みの関係であるというのは現在もかわらないように思う。いま大阪は橋下氏、東京は石原氏という変わった知事がいる訳であるが、こういう事態も「矛盾をふくんだ結果はいまも続いている」という側面があるのかも知れない。
 考えてみれば、1960年代のいわゆる革新自治体の動きというのは、大阪と東京が先行していた。大阪も東京も大都市として「中央」に対する抵抗意識や優位意識が爆発する要素をつねにもっているのであろう。いま起こっている大阪と東京の「中央」に対する反発というのは、なかば格好だけのものにすぎないが、こういう政治力学の働きは、日本国家における大都市の独特な位置という問題があるのかもしれないと思うのである。
 橋下氏と石原氏は一種のファシズム的な不気味な要素をもっていると思うが、それが日本を代表する二つの大都市の生理のようなものに根づいているのではないかというのが怖い。
 私は、日本社会にはよい意味でのナショナリズムが存在しないと考えている。このナショナリズムの不在という現象は、きわめて都市的な現象ではないだろうか。農山漁村とそのネットワークが国の中軸にあれば、こういうナショナリズムの不在、沖縄と福島を無視するかのようなナショナルなものの不在というのは考えがたいように思うのである。橋下氏は、沖縄に行って「基地は我慢せよ」に等しいことをいった。
 深谷さんの著書から、話しが脇に脇にずれてきたが、ともかく、我々は昔の人々と同じ自然的な条件、あるいは地政学的な条件の下にいるのだから、こういう「政論」「史論」というものは必要なものかもしれない。

 さて、私などは研究経歴の最初、つまり70年代のいわゆる民衆運動史研究の時期、民衆的社会史の時期の最初に深谷さんの影響をうけた。それ故に、本書で深谷さんが現在の視点の下に広い視野をもった議論を展開され、あとがきで「高齢残余の時間を宿題解答にあてることを約束させていただき」と述べられるのを読むと感慨が大きい。私は日本史の本で最初に感心して読んだのは、佐々木潤之介『大名と百姓』であった。つぎに佐々木さんの『幕藩権力の基礎構造』を読んだが、佐々木さんの理論的、構造的な議論はむずかしく、途中で挫折した。そして、むしろ佐々木さんを批判しながら、室町以前の議論、つまり峰岸純夫さんや戸田芳実さんの議論にも言及していた、あの時期の歴史科学協議会の深谷さんの大会報告に大きな影響をうけた。実際には、深谷さんの報告を読んでから、戸田さんの著書を手にとったような記憶がある。

 とくに私にとって、今でも外せない論点は、あの頃の深谷さんが、峰岸純夫氏の議論をうけて、「東アジアの共通分母」、東アジアの社会構成における共通性としての「地主制」という議論を展開したことである。
 しかし、この論点を深谷さんは封印されたらしい。去年、峰岸さんの著書の書評をした時、記憶にのこっていた文章を、深谷さんの著作集で確認しようとしたが、深谷さんの「地主制」論は、以前の著作でも、今回の著作集でも削除されていることを知った。もちろん、今回の『東アジアの法文明圏の中の日本史』でも「東アジアの共通分母」という問題意識が中心的なものとして維持されていることはよく分かるが、しかし、深谷さんは、本書でも「地主制」論にふれることはない。今度、久しぶりに御会いする機会もあるので、この点、今はどう御考えなのかを聞いてみようと思う。
 冒頭にふれた「日本の歴史社会の構造の捉え方について賛同できない点」というのは、このことである。地主論なしの江戸期社会論というのは、私には了解できない。それではいわゆる「小農社会論」になってしまって、江戸期封建制論と枠組みはかわらなくなる。それは以前と表現は違うが、さらに江戸期社会を、あまりに「明るく」、あるいは建前で論ずる方向に近寄るということになりかねない。江戸期社会を「暗黒」の封建制という用語の中に押し込めようとするのではないが、江戸期社会が、現代社会と同じように、あるいはそれ以上に矛盾の多い社会であることは本書の中で、深谷さんも強調されているが、問題はその構造的な捉え方である。

 日本が東アジアにどこまで追いついたかという、さきほどの論点でいえば、私は、その極点は江戸期になるとしても、室町時代には日本も相当程度東アジアに追いついていたという意見である。そして、そもそも平安時代・鎌倉時代も東アジア型の都市・地主型国家としての側面をもつという意見である。以下、峰岸さんの著書に対する私の書評の最後の部分を引用しておきたい。

私は、峰岸もいう集団的階級構成を前提として、この列島社会の社会構造が展開したことからいっても、東アジア型の都市・地主制国家を考えることがむしろ妥当ではないかと考えている。もとより、それを立論するためには、平安期から室町期にいたる国家・貴族的領主制・地域地主制の三者の相互関係を追跡しておくことが必須ではあるが、少なくとも、永原のいうように江戸期社会が領主制の極限的展開とそれにともなう自己否定を経過したものであるとすれば、それは封建制とはいいがたいのではないだろうか。実際、それは封建制というにはあまりに組織的・集団的な構成であって、東アジア型の「非封建的な」社会構成というほかないものである。峰岸らの「アジアの共通分母としての地主制」という提案は、そう考えてこそ生きるのではないだろうか。

 

江戸時代研究者にも、江戸期社会を封建制という範疇で捉えるのかどうか、そろそろ、結論をだしてほしいものである。それが研究史に対する責任というものであろう。
 木曜日、帰宅の総武線。

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