メロディー、ハーモニー、リズム。理論はハーモニー
正月はもっぱら論文。こういうもの。永原批判の続きであるが、大論文になっていって収拾がとれない。以降は電車執筆に切換である。
正月に、池辺晋一郎氏と高樹のぶ子さんの対談を読む。高樹さん云く、「私は音楽の3要素であるメロディーとハーモニーとリズムを小説に置き換えていくんです。メロディーは小説のストーリー、ハーモニーはテーマ、リズムというのは文章なんですね」と。これを歴史叙述に置き換えるとメロディーはやはりストーリー(論文の編別構成)、ハーモニーは理論、そしてリズムは史料と史料解釈だろうか。私の年末正月論文は現在のところ、ストーリー(編別構成)はどうにか通り、リズム(史料)は一応そろったが、ハーモニーがまだ乱調であって、これは論文が完成しても聞きやすいものにはならないのではないかと予想される。メロディーは急ぎすぎ、リズムはいい加減に刻み、ハーモニーもなくて聞いていて不愉快ということにならないことを望むのみである。原稿は天才の楽譜とはまったく乱雑さ。
こういうように置き換えてみると、メロディーとハーモニーとリズムというのは、精神労働には、どの場合も同じようなことがあるのかもしれないと思う。そしてどうみてももっとも困難なのはハーモニーである。
上記論文の対象は貨幣論なのだが、ハーモニーをとるための準備が不足で、書きながらいろいろなものをひっくり返した。もっとも勉強になったのは黒田明伸氏の貨幣論で、東アジアの卑金属少額貨幣(銅銭)のことは、彼の理解で処理していけばどうにかなるという結論になった。そして井原今朝男氏のいう計算貨幣論である。
私は19世紀型の研究者で、マルクス・ウェーバー・大塚久雄先生を基本的な理論道具としているが、そういうことでは論文のハーモニーがとれない。もちろん、依然として古典学説に接ぎ木していくというのが私の立場で、古典学説を延長しているということなのだが、そのときに発生する破調な不協和音を聞き取るのはたいへんに興奮する。大塚先生の「局地的市場圏」の理論を黒田氏の「地域流動性」論で解くということなのだが、これではまだまるで暗号である。
問題の性格からいってポランニーを読まねばならないのだが出てこないので、柄谷行人氏の『世界史の構造』で代用し有益であった。森本芳樹先生の大著『西欧中世形成期の農村と都市』を引っ張り出して読んでいると、古典学説レヴェルでも、ここらへんの理論は正確につめておかねばならなかったことを実感する。森本先生はなくなられたが、正確にお話しをしておくのだったと思い、寂寥がふえる。
歴史理論というものが試論でもいいからあった方がよいと思うのはこういうときである。
別にいわゆるグランドセオリーということではない。隣同士の研究が共通して引証できるような簡単なハーモニーが必要なのである。文化の周縁の深み、あるいは学術の隅っこの方から最初は小さく響くだけだが、徐々に全体が声をそろえる。そういう歌声が必要なのであるが、それはかならずつねに転調するポニフォニーでなければならないというのが、19・20世紀の学術世界の最大の教訓であると思う。
日本の政治の世界は危険な乱調である。古典的な見方では、この程度のことならば、保守がもう少ししっかりしていればよいということだが、日本社会には構造的にそういう保守は存在しないというのがすでに誰でもわかるはずの鉄則。今後も存在しえないであろう。もちろん、個人の問題は別。社会的な勢力や政党の問題。別の社会的立場の人間が、「保守」の役割も担わなければならないというのが歴史的な経験であり、冷厳な事実。我々の世代は「いつか来た道・戦前のような全体主義と戦争への道」がまた来るというフレーズを「聞き飽きた」世代である。私は、そういう形での繰り返しはありえないと今でも考えており、上記の決まり文句には違和感がある。しかし、それでは国家・社会の異様化はまったくありえないのかということになれば、けっしてそういうことはない。現状ではありえないが、何が起こるかは分からない。そういう危険水域があるということは考えておく必要があるのだと思う。
とくに「中近東」を見ていると他人事とは思えないのである。「世界」には軍国主義と紛争の許容量のようなものがあるのだと思う。もちろん、各地でつらいことはあったが、全体としては、それをパレスチナと中近東に押しつけてきたというのが「戦後」社会。その深い闇が移動する可能性はつねにある。
それにしてもエジプトはどうなるのであろうか。大統領ムハンマド・ムルシーはムスリム同朋団の中での序列は低く、同朋団の院政が敷かれている様子がいよいよ明らかになってきた。
どのような場合でも議会政党は国家中枢に入った場合、国家元首と政党党首が人格として一致していなければならない。その政党の政権政党・議会政党としての誤りは、当時に結社としての政党の誤りでなければならない。「院政」ということがあってはならない。この原則をとれない政党が(自称社会主義ではそうであった)、宗教の側にバックをもっているという事態が、エジプトにおいてもさらに続くというのはなかなかつらい話である。
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