著書

twitter

公開・ダウンロード可能論文

無料ブログはココログ

« メロディー、ハーモニー、リズム。理論はハーモニー | トップページ | 深谷さんの『東アジアの法文明圏の中の日本史』と「史論史学」 »

2013年1月19日 (土)

「茶道」の勉強と歴史学研究会座談会

 年度末が近づき、忙しくて、ブログを書く時間もない。今日は週末、金曜の朝、いま総武線、小岩。この間、電車の中で時間をつかっていたのは歴史学研究会の80周年の記念册子が企画されているが、そこに載せるために、いわゆる社会史研究についての座談会というのがあって、その報告準備だった。そして、1月末には原稿をといわれている科研の報告書のための準備もあって、どうしようもない。後者は、「茶道」にも関係し、その関係もあって公務の編纂にも関係するので、どうしてもやらねばならない。
Nagasima130119_122247  永島福太郎先生の、こういう本である。永島先生は、いちど、あることがあって、食事をご馳走になったことがあるが、このノートは追ってなかった。ともかく、これを確認しておかねばどうしようもない。

 ともかく見通しはついたのだが、次は、先月の『源氏物語』についての座談会のゲラの直しである。ゲラをよんでいると、自分の発言がまったく文章になっていないのに赤面する。以前、私は、池享氏と一緒に網野善彦さん、石井進さんをかついで静岡県磐田市の一の谷中世墳墓群の保存運動にとり組んだが、その時、市民の方々が、石井進さんの講演の起こしをやるので、それを手伝ったことがある。これは、見事なもので講演のテープ起こしが、ほとんどそのまま原稿になる。頭のよい人というのはいるものである。

 歴史学研究会の報告はレジュメでよいといわれていたのだが、私はレジュメというのが駄目である。頭が悪く、整理の悪い人間は、文章によって論理が固定されていないと、話しの接ぎ穂が急にみえなくなることがある。
 
 この座談会の記録は五月の歴史学研究会の大会にはでるのだろう。私は、20代はじめから歴史学研究会の大会にはいつもでていたが、一昨年はどうしようもない事情があって、はじめてでなかった。今年は出れると思うが、定年後はじめての学会ということになる。
 他の学問分野の人にはわからないかもしれないが、歴史学研究会というと、いわゆる戦後派の正統歴史学の印象が強い。批判的な社会派歴史学という印象も強いようである。しかし、実際は、歴史学研究会大会というのは歴史家の年一回のお祭りのようなもので、そこに行けば多くの友人に会えるので行くという性格の大会である。
 歴史家は、だいたい一人一人で仕事をするので、本質的には、あまり集まることが必要でない人種であり、職種である。だから逆に人恋しさがつのるのであろうか。少なくとも私の世代では、歴史学研究会の大会は同窓会のようなものであった。京都で行われる日本史研究会も同じような性格をもっているが、歴史学研究会の方は、日本史のみでなく西洋史・東洋史の人々と会うことになる。一日目は各時代別部会の懇親会があるので、そこにでるが、二日目の全体懇親会の後は、三々五々、呑みに出かけることになり、その場では世界史混成で、こちらが面白かった。
 右の社会史研究についての座談会も、ヨーロッパ史・中国史の方々と日本史の全体での座談会なので、どういう話しになるのか検討もつかないが、しかし、こういうのがいわゆる歴史学研究会らしいということになる。それにしても、ヨーロッパ史、中国史のことはわからないので、電車の中では、しばらくその種の勉強につとめなければならない。

 私は歴史学研究会で育てられたという実感がある。私は国際キリスト教大学という大学で、一年から四年までは武田清子先生をアドヴァイザーとし、卒論のアドヴァイザーは大塚久雄先生であった。武田先生は近代思想史、大塚先生はヨーロッパ経済史。それなのにどういう訳か、日本の江戸時代以前の研究をやりたいということになった。そこで歴史学研究会の事務所に電話をして、平安時代くらいの勉強をしたいのだが、どうしたらよいだろうかと問い合わせをした。
 その事情は、しばらく前に歴研の「月報」(会員配布の本誌にのみ挟まれる会報のようなもの)に書いたので、その関係のところを下に、引用してみる。

 「歴史学研究会についての記憶は、大学四年の時、「日本の中世史の勉強をやりたいのだが、どうしたらいいだろうか」と事務所に電話したことである。どうしたらいいだろうかといわれても困ったのではないかと思うが、その電話に答えてくれたのは、事務局の会務担当者で(『歴研半世紀の歩み』によると松崎さんか重松さんのどちらかということになる)、中世の委員であった渡辺正樹さんを紹介してくれた。おそらく渡辺さんの電話を教えてくれたのではないかと思う。それでは『平安遺文』(平安時代の古文書集)の読み方を教えてあげるからということで、渡辺さんに高田馬場の駅のそばの喫茶店を指定された。たしか、目印に『平安遺文』をもってくるようにということであったように思う。もうほとんど記憶がないが、その後に、時々、中世史部会に出ることになり、古代史部会にもでるようになった。当時は事務所は狭かったのだと思う、よく学士会館で部会が開かれたが、大学のあった三鷹から通うと、会費のお茶代がぎりぎりのことが多くて不安だったことを覚えている。
 結局、一年留年をすることになったが、卒論は、渡辺さんに読み方を教えてもらった『平安遺文』の最初の方に並んでいた近江国大国郷の土地売券を題材にした。大塚久雄先生に話しを聞いていただいたのはありがたい限りであったが、さすがに専門は違い。卒論は、一年留年し、ほとんど無手勝流で書いた。
 歴史学研究会の大会の記憶は留年中の一九七二年の東大本郷での大会で、小谷さん、峰岸さんの全体会大会報告を聞き、部会は古代史部会の関口裕子報告の印象が残っている。大会の全体会会場のそばで、部会でやはりいろいろ教えてくれた富沢清人氏に、当時、都立大学にいらした戸田芳実さんを紹介してもらい、いわゆるテンプラで都立の院の授業にでてもいいといわれた。そして翌年、戸田さんによると英語の点がよかったということで都立大学の修士課程に入学できた。大学は大荒れの状態で、自分の将来について考える余裕はないまま、多忙かつ不節制という状態であったから、大学院というものに入れて非常にうれしかったのを覚えている」。

 今日、土曜も職場。ゆっくり仕事ができる。

« メロディー、ハーモニー、リズム。理論はハーモニー | トップページ | 深谷さんの『東アジアの法文明圏の中の日本史』と「史論史学」 »