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2013年2月17日 (日)

地震火山82自然科学者はなぜ全力で地震学を応援しないのか。

130217_214842_2   地震学を応援しなければならない時期だと思う。自然科学研究機構がハワイに巨大望遠鏡建設をうちだしたという東京新聞1月8日夕刊の記事をみてそう思った。
 「地球外生物を探せ」ということらしい。これは自然科学研究機構がすでにいわゆる中期計画で打ち出していることが具体的になってマスコミに情報が流されているということである。自然科学研究機構の内部的な事情としては、これはある意味で当然のことであろう。つまり、自然科学研究機構は、天文学、生命科学、とエネルギー(核融合科学)の5研究機関が集まっているところだから、5研究機関相互に共通のプロジェクトを打ち出すとしたら、こういうことになるのであろう。いろいろな再編と組織いじりがあって、自然科学研究機構が現在のような形になったのは、10年くらい前だったであおろうか。これはその頃から計画されていたものとは思えないから、ようするに「寄り合い事態」の組織が寄り合う中で検討課題をみつけていくという日本的なパターンである。
 もちろん、この研究課題に意味がないなどというのではない。その予算に意味がないというのでもない。しかし、日本がいどむべき自然科学の課題のうちで、いまもっとも重視しなければならないのは、地球科学そのものではないのだろうか。
 東日本太平洋岸地震ののちに、自然科学者の中から地震学を応援しようという声があまり聞こえないように思う。外側にいるものには事情がわからないところがあるという部分もあろうが、同じ自然科学者ならば今は地震学を全力で応援するべきなのではないだろうか。そういう雰囲気を感じない。
 とくに日本の自然科学界は、原発の燃え残り廃材の処理をどうするかの見通しをたてなければならないはずである。それは福島原発を安全に廃炉にもっていくための徹底的研究と原理的には共通する課題である。
 私も原子力科学の責任ある立場の人の話しを面と向かって個人的に聞いたことがあるが、彼らは本当にプレートの内部、地下深くに核燃料の廃材を埋蔵処理する積もりである。これが本当に可能なのか。
 太平洋プレート・フィリピン海プレート・ユーラシアプレートがぶつかり合う、地球最大の沈み込み帯の列島の地下に、そんなものを埋めて平気なのかというのは、原子力科学と地球科学の最大の協同研究課題のはずである。核燃廃材を他国にもっていくことはできない以上、これは日本の自然科学界が原発に賛成か反対かを問わず、その責任として負っている最大の課題であろう。
 危険な原発廃材を本当にプレートの地下に埋め込むことが可能なのか、一流の原子力科学者と一流の地球科学者が全力をあげて討議し、研究し、暫定的なものでも結論をだし、この列島に棲むものに対して報告をするのは当然のことだろう。これを給料分の仕事と思わず、無理難題だと思うような学者は、学者失格であると思う。
給料分というと下世話な言い方になるが、そもそも学問は役に立つかどうか不明な営みを行うことを社会的に許されている存在なのであるから、逆にいえば学者はいわば無限責任である。
 もちろん、きわめて少なかったといっても原発に反対の研究者が存在したことはよく知られるようになった。しかし、彼ら自身が「この仕事で給料をもらってきた以上、大きな責任はある」いっていることは重要である。つまり原発は予算、政府・企業との関係などを通じて、自然科学の研究体制の中枢に位置してきた。それを「原子力ムラの問題」だと自然科学者が切り捨てることは倫理的に許されないのである。

 NKHの番組で、地質学の高知大学の岡本氏が南海トラフ地震にともなう大津波の痕跡を探りあてた経過をみたことがある。その時、岡本氏が「私たちの学問は長い時間を相手にしている学問です」といっていたのが、強く印象に残っている。歴史学も同じように長い時間を相手にする学問であるが、その単位は、100年単位である。それに対して地球科学はは、1000年、10000年単位の時間を感じる能力を鍛える学問なのだと思う。そして、宇宙科学はもっと長い時間を対象とする学問である。1億年、1光年ーーーー。
 しかし、普通の人間からみれば、地球科学も宇宙科学も、目のくらむような長い時間を扱っているという点では同じ科学である。つまり自然科学者は永遠というものを相手にしている学問であるはずなのだと思う。そういう意味でも、いま、日本の自然科学者は地球科学と地震学・地質学を全力をあげて応援するべきだと思う。それをいましておかないと、いつか自然科学の全体がしっぺ返しをくらうということは考えておいた方がよいと思う。
 上に写真を載せた『地震の2000年史』という本は、20日頃にでるという。その「あとがき」に、私は、「いま学術の最前線で奮闘している地震学・火山学の研究者に敬意を表明したい。頑張っていただきたいと思う」と書いた。そこでは書きたかったことは、もっと明瞭にいえば上記のようなことである。地震学・地質学の側は自然科学の学界の中で正面から上記のような主張をする権利があると思う。

 2月16日、土曜、総武線の中。帰宅途中である。今日は、一日仕事がうまく進んだ。来週のお寺への出張準備も一応順調である。そこで、ブログを書こうということになって、今日の朝の東京新聞の「地震学は一種のやけぶとりである」という特集記事を思い出した。そして、その関係で上の文章の下書きがPCの中で書きかけになっているのを思い出して、それをさわっているうちに、だんだん、朝読んだ新聞記事について怒りがたまりはじめた。
 東京新聞の記事は、これまで地震学はできもしない「予知」をするといって研究予算をとってきた。東日本大震災でもまた同じことをやっている。それは「焼け太り」である云々というものである。そこまでいうのならば、ジャーナリズムの側は、何をやってきたかということが問われると思う。

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