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2013年2月12日 (火)

地震火山82ラフカディオ・ハーンとTsunami

 『津波の後の第一講』(岩波書店)の中の今福龍太氏の文章を読んでいて、ラフカディオ・ハーンの津波についての英文につきあたった。下記のようなもの。入れてくれた子供に感謝。

From immemorial time the shores of Japan have been swept, at irregular intervals of centuries, by enormous tidal waves, tidal waves caused by earthquakes or by submarine volcanic action. These awful sudden risings of the sea are called by the Japanese tsunami. The last one occurred on the evening of June 17, 1896, when a wave nearly two hundred miles long struck the northeastern provinces of Miyagi, Iwate, and Aomori, wrecking scores of towns and villages, ruining whole districts, and destroying nearly thirty thousand human lives. The story of Hamaguchi Gohei is the story of a like calamity which happened long before the era of Meiji, on another part of the Japanese coast.

 世界中で、いま、津波のことはTsunamiというのは知っていたが、その最初がハーンの、この英文であったことは知らなかった。地震学の人にとっては有名な話であるに違いないが、むしろ人文系の私などが知らない。
 それにしても不思議なことだと思う。この話、津波の説明の入った説話は「生神様」。後に今村明恒によって有名になる「イナムラの火」の話である。そして、ハーンが、この英文を書いたのは1896年のこと。つまり、三万人の死者を出した明治三陸大津波の直後。ハーンは、それを妻のセツに読んでもらった新聞記事で知ったという。私がまったく知らなかったのは、アイルランド人を父とし、ギリシャ人を母として生まれたハーンの生涯が不思議なほど自然災害とむすびついていたということで、たとえば、彼はカリブ海のマルティニク島の首都、サン・ピエールを壊滅させたプレー火山の噴火の前兆を語る滞在記を書いているという。そして辿り着いた日本で津波を知り、それを世界に伝えたという訳である。
 ハーンにとってそれがどういう経験であったかは、今福氏の達意の文章をぜひ参照されたいが、これはどういうことなのであろう。
 つまり、ハーンが日本滞在の中で、経験した明治三陸津波の知覚が世界に広がった脈絡が、2011年3月11日の事件を通って、そして今福氏の思考と執筆を通じて、先日、この薄紫色の本を通じて、私のこの頭に入ってきて、いま、この指を通じて電子情報化されて、PCに打ち込まれ、近いうちにブログにのり、そしてWEBを通じて読むことが可能になっていく。明治三陸津波の死者が、こういうルートで、あらためて私の中に入ってくるということはどういうことなのだろうということである。
 こうして、ハーンの生活が、私によって再発見されるのだが、それは再発見の連鎖の最近の局面として存在している。Tsunamiという言葉は、ハーンを通じて、世界中の地球科学・地震学の研究者によってある時期に利用されるようになり、それを通じて、科学者のコミュニティで使われ、実態としての津波と地震の科学をささえ、そしてその研究成果を私が知って、私は、そこに人文社会学の研究者として何らかの参加をしようとしている。このような円環構造は、一種の現象学的な全体ということになる。
 こういう無限の連鎖によって世界は満ちており、誰もがその一端に連なっている。こういう事態は、結局のところ、たとえば私の昨日食べたものを分子・原子レヴェルにさかのぼると、世界中を経過してやってきているということと対になる事柄である。そしてそれは客観的な歴史に対応している。つまり、今日の朝たべたトマトの一片は16世紀の世界の食料革命の最重要な内実をなした南アメリカの物産のヨーロッパへの収奪を媒介としており、そのような歴史を我々は食べている。これは当人が知ろうと知るまいとそういうことなのである。
 この『津波の後の第一講』は、成田龍一氏に教えられて読んでみたのだが、その序文で、今福氏は、次のように述べている。

 たしかに人間は、過去の真の意味を、事後的にしか知ることができないという宿命のもとにある。前の人間には見えていなかったものをはじめて見出す後の人間。だがそこには、後の人間の認識的な「優越」という思い込みもかくされている。だからこそ、私たちは、後の人間であることの傲慢をも同時にいま放擲せねばならない。進展した倫理学と、より精密な科学技術をもったはずの私たち。だが、その現代人にも、「いま」のなかでは見ることができず、未来の人間によってはじめて発見されるしかないものがある。

  この文章に共感しない人はいないだろう。私もそう感じるのだが、それにしても、こういう分析を前にして歴史学者が何を考えるべきか。
 歴史家の仕事は、過去を知ることによって、過去と現在の円環するかのような構造を社会意識・自己意識の日常になるようにつとめることにある。しかし、それだけでなく、その仕事は、その過去・現在の円環構造を突きぬけて進むために何が必要かを考えることにある。そこまでを仕事と考えていなくては、私たちの仕事には意味がない。
 おそらくそういう感じ方については、今福氏の感じ方と違ってくるところがあるのだろうと思う。そうはいっても、まずは円環構造に囚われること、その様相を感性的にも知ることなくしては、歴史家の仕事は始まらない。その意味で、この文章は「自然」を前にして歴史学者というよりも、人間が物を考える時の原像のようなものを示している。

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