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2013年2月26日 (火)

地震火山85歴史地震の学際的研究センターの必要

 朝日新聞の取材。歴史地震の資料や調査結果を「どのように社会的に生かしていくのか」という質問をしたいということで御受けした。金曜日に一時間ほど説明する。まず伝えたのは、地震学の動きである。つまり、地震学の側では、この間の経過の中で、歴史地震の史料解析の位置づけに弱い部分があったということがほぼ全体の認識となった。その結果、たとえば学術審議会の地震火山部会で議論されている次期研究計画では歴史地震の研究の強化が課題となっている。また産業総合研究所の地震・活断層研究センターが推進した9世紀陸奥海溝地震による津波痕跡の地質学的調査がもった意味も大きく、地質学との間に歴史地震分析との関係と同じような問題があったという指摘もある。
 私の説明では限界があるから十分に伝わったかどうかは心配だが、その上で、歴史地震の研究を推進し、それを社会的に生かしていくためには、第一に、歴史地震の学際的な研究センターが必要であることをいう。これは早くから石橋克彦氏が主張していることであるが、地震学・火山学・変動地形学・地質学などと文献史学・考古学の研究者をふくみ、情報機能・アーカイヴズ機能・技術組織をもったセンターは、やはり是非必要であると思う。
 産総研のメンバーが、八六九年(貞観一一)年陸奥地震の研究をもう少し早く展開していれば、予定されていた宮城県沖地震の再評価が早くなっていたろう。メンバーが、そうすれば、三・11の迎え方が若干であれ違ったのではないかと慨嘆していたのを聞いたことがある。9世紀陸奥海溝地震による津波痕跡の地質学的調査について、三,一一後にはじめて知った私にとっては、これは大きなショックだった。そして、その延長線上で、より早くから、つまり石橋提言があったのは二〇年以上前であるから、その時から、右のようなセンターの設置計画が動き出していれば、三,一一を迎える体制はやはり大きく異なっていたろうと感じる。
 事柄の性格からして、このようなセンターの設置を抜きにしては「歴史地震研究を社会的に生かす」ことはできないだろう。その課題は出来合いのものをもってくればよいというようなものではなく、長期的な課題なのである。
 第二に、そのようなセンターを前提にした研究体制の中で、自然科学的な観測データ・地質学的データと史料データの三つを同一レヴェルのデータとしてつき合わせることがはじめて可能となる。とくにそこでは全国で毎年毎年行われている考古学的な発掘の中で蓄積される地盤液状化・噴砂・断層などの遺構の調査を系統的に蓄積することが必要である。そこでは文献史学と考古学のデータ解析を自然科学が利用可能なデータに転換する厳密な方法が議論されなければならないのだと思う。
 そして第三に、それらがデータベース、知識ベースとして公開的に蓄積されなければならないのは明らかである。安土桃山時代までは石橋科研によって日本地震史料のデータがデータベース化されて静岡大学から公開されている訳であるが、このデータベースを基礎にさらに充実する必要があることは明らかである。そして、それらのデータは大規模な地理情報システムの上に載せて、特定地域の地震・地盤データをみれる状態をつくることが必要である。そこには、地盤液状化・噴砂・断層などについての考古学的なデータ、文献データ、そして断層図や、すぐにはむずかしいとしても地震の周期性や確立予測などを載せることが必要だろう。これは国土認識のあり方を大きく変えることであり、国土の利用の仕方にも影響するから、さまざまなむずかしい問題をはらむに違いないが、アカデミーは、その必要を主張せざるをえない立場であると思う。
 朝日の記者には、だいたい、こんなことをいい、この間、歴史学の分野でも資料ネットを中心とした文化財の保全の運動が大規模に展開しており、地震史や災害史、環境史の研究が急速に進展していることを伝えた。そして自分の分担する時代の地震について知っていること、いま興味をもっていることを話した。
 
 今は日曜、夜の総武線。今日は東京歴教協での講演ののちに職場にでて仕事。しかし、講演というのはうまくいかないものである。そして、歴史地震の研究を歴史学の研究と教育に根づかせるためにはさらに研究を深め、さらに明瞭な議論をしていく必要をあらためて感じた。

 今は月曜朝、総武線。ともかく歴史学の教師の方たちの前での講演は緊張する。そもそも話しているうちに、話の前提にある様々な私見が学界の中でいわゆる「通説」としての位置をもっている訳ではないということを意識してしまう。平安時代の王権論の捉え方、具体的な一々の「事実」(と私が述べたもの)についても必ずしも承認されている訳ではないということを意識すると、中途半端な説明をしてしまう。そうすると、地震の事実についてのザッハリッヒな説明の部分が背景に退いていって、ついつい、神話・怨霊そして政治史を細かく解説することになる。
 たとえば、私は8世紀の長屋王の怨霊化と菅原道真の怨霊化は連続して理解するべきである。奈良王朝から平安王朝への王家内部のはげしい政争は連続的なものであると考えているが、これは通説ではないい。それ故に、歴史教育の中で、このような問題を取り上げることにどういう意味があるかという議論そのものが必要になってくる。そして、この種のいくつもの前提とすべきことを、先生方の前で説明なしに話しているということに気づいてくると、だんだん、こういう話しが何らかの役に立つものであろうかという気分になっていく。去年、栃木県の国語教育協議会で話した時は、そんな気分にはならなかったから、これは専門性を同じくするものの間での討議、意見交流というものの難しさを意味しているのであろうと思う。
 翌日になって、こういうように昨日の講演の経験の意味を何となく納得しているが、しかし、講演はむずかしいものである。講演のスライドは、スライドシェアに載せた。WEBPAGEをみられたい。
 講演のあとの質問はさすがにするどいもの。一つは、記紀神話から「中世神話」への変容が講演の中でどうなっているのか、神話というものはいつも同じものではないはずあるという質問である。『歴史のなかの大地動乱』では、神話体系が怨霊が疫神・地霊などになっていく中で、変容していったと説明をしてあり、それを繰り返した。詳しくいえば、奈良・平安時代には、怨霊が地震を起こし、火山を噴火させ、疫病をはやらせ、自然の順調な営みをくずしていくというイデオロギーが実態になっていく。しかし、それは、そのまま表現されるのではない。そういう眼前の王家や政治の実態から直接に災害を説明する論理は、なかば深層に隠されて、表面には古い神話の神々が再登場するという形で説明されるのである。
 ただ、問題は、神話が歴史的に変化するということと同時に、神話の構造がそれなりの連続性をもって生き延びていくということにある。現在の通説は「中世神話」は記紀神話とは別のものできわめて密教的な性格が強いとする。それは正しい側面もあるのだが、しかし、記紀神話における自然神のイメージは日本列島の自然に根づいたものであるだけに、その枠組みは連続性をもって室町時代くらいまでは続くのだと思う。
 第二の質問は、政治や神話の話しは重要ではあるが、社会経済との関係はどういうようになっているのかという質問。律令国家から王朝国家への変化の時期、災害などの全体の位置づけはどうなっているのかということであった。私見は『歴史のなかの大地動乱』に書いた通りで、この時代の大地動乱、疫病流行、温暖化と旱魃の頻発という自然条件の中で、地震は、(津波をのぞいて現実の人的被害は少なかったとしても)、そういう自然の不順を代表する「地妖」としてイメージされた。しかし、人々にとって、そして社会的生産にとってもっとも大きな問題であったのは、「旱魃」とそれにともなう飢饉・疫病の発生であった。人々は、それに対して、山地を開発し、さらに灌漑水路を確保するなどの営為にとり組む中で、温暖化という条件を乗り切ったのである。温暖化は灌漑による水利用のシステムの開発によって、ぎゃくに生産諸力の発展の条件にも転化したということもできる。そして、その地域の村落は、自分たちの村落をまもるために、怨霊をむしろ積極的にムラに迎え入れ、王権もおそれる怨霊を祭るムラとして租税年貢などに対する特権を確保し、自己のムラをアジールにしようとしたということになる。
 しかし、これを律令国家から王朝国家への変化という全体の中で議論するというのはむずかしいことで、倉卒のあいだにうまく御答えすることはできなかった。8・9・10世紀における国家・政治・社会の変化の中で自然史と災害をどう位置づけるかについては、さらに議論をして、整理をしていくべき問題であろう。
 第三の質問は厳しいもので、何故、地震史や災害史の研究が遅れたのか、現在行われているような研究は阪神大震災後にあってもよかった研究ではないのかというもの。これは先日でた『地震の2000年史』の座談会でも話題になったことであるが、ここ20年ほどの研究の総括が必要な問題であってお答えに窮する。もちろん、地震や災害史の研究は、峰岸純夫氏を代表として、平安時代後期以降では重要な研究動向となっていたが、全体としては遅れていたことは否定できない。
 実は朝日の記者にも同じことを質問された。その時は、第一に自然史を歴史学の側で取り上げていく上での理論の不足、第二にそもそも文理融合の体制というのは、日本のアカデミーの中では成熟していなかったこと、そして第三に自然科学的なデータを取り扱っていく史料論がなかったことなどを答えた。東京歴教協でも同じことを申し上げた。
 
『歴史学研究』の3月号が届いた。峰岸純夫さんの提言「自然災害史研究の射程」がのっている。また私に専攻の近いところでは外岡慎一郎氏の「天正地震の史料をよむーー若狭湾に津波は襲来したか」がのっている。
 これは「シリーズ3,11からの歴史学」の第一回目で、今後、毎年2回、3月と9月に特集を組むということである。「今後、息長く議論を続けることで、今までの議論の遅れを必ず回復させたいと考えている」とある。さすが歴史学研究会である。
 いま、総武線、津田沼。

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