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2013年3月 7日 (木)

平安時代における奥州の規定性

 以下は昨年秋の東北史学会での報告の要約。投稿済み
 「平安時代における奥州の規定性」はきわめて大きいというのが9世紀陸奥海溝地震の分析をした結果の副産物であった。日本史にとって「蝦夷」問題はきわめて大きい。遅まきながら、本当に遅まきながら、それを初めて実感した。私が直接の影響をうけてきた人々でいえば、大石、遠藤、入間田、菅野、斉藤の諸氏が何を感じ、何を考えてきたのかがはじめて分かったということである。何でこういう周回遅れの結果になるのか。何をやっていたのか。
 9世紀陸奥海溝地震の分析が遅れた歴史学内在的な原因・遠因は、学界が、東北史の位置づけを間違っていた、とまでいわないとしても熟考に欠けていたことである。少なくとも私は、それをやはり地域史ととらえていた。この間違いは思想的な間違いである。
 歴史分析は「後からついてくる」。ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」とはいうが、実感としていえば、それが「後知恵」となるのは、歴史学者の姿勢、あるいは歴史学が置かれている社会的条件によるのであって、歴史学の知恵は、より早くから発動することが可能なのである。それが事態に遅れてしまった歴史学者としての実感である。しかし、最近の『歴史学研究』や『環境の日本史』(吉川弘文館)をみていると、歴史学はさすがなもので、急速に事態にキャッチアップしようとしていることが感じられる。

平安時代における奥州の規定性
 昨年の三・一一の衝撃の中で、平安時代における北方史の規定性ということを考え続けた。研究史を点検した結論は、九世紀以降に「古代帝国」が消失するという石母田正の理解の問題性である。石母田のいう奈良王朝の世界性は、むしろ最終段階における民族複合国家の特徴であり(保立『黄金国家』)、本格的な「小帝国化」は光仁王朝において蝦夷戦争の強行とともに開始された。光仁の蝦夷戦争は防衛戦として開始されたものではなく、むしろ王統の交替の政治不安の中で周到に計画された侵略戦争であった。それ故に光仁期に形を整えた万世一系イデオロギーは、日本における帝国のイデオロギーであった可能性がある。最近刊行された『中世英仏関係史』は中近世ヨーロッパにおける帝国構造を論じているが、これ以降、日本も帝国性を持ち続けたと考えられる。それは平川新のいうように江戸期にまで持続する。
 この「小帝国」は、三八戦争の戦後体制として形成されたが、王権の超然主義、無答責体制の下で、一〇世紀に確定した摂関家の外交代行権が奥羽における摂関家の勢力を規定した。とくに大石直正がいうように、栗原荘が「宇治殿領」にさかのぼるのは重要で、摂関家が奧六郡の南の境界地帯をおさえており、それはおそらく冷泉王統による東国庄園の掌握の中で位置づける必要がある(蜷河荘、三崎荘、波多野荘など)。
 熊谷公男が論じたように、蝦夷戦争の戦後体制は荒ぶる領域を抱え込んだが、院政期にこれが平泉権力として自立した境界権力となる。斉藤利男の言い方では「都市の平和」と「辺境の平和」。王権が津軽・北海道の支配と抑圧を自律的に請け負わせ、内国の「平和」を確保しつつ、諸利益を独占するという体制である。この都市王権と境界権力が相互に支え合う構造は従来の「求心性」という用語では理解できない。
 このような辺境権力の中枢に存在した軍事身分ー「武士」をどう理解するかは、平安時代史研究の根本問題である。斉藤がいわゆる武士職能論を批判して「古代~中世における武士形成の歴史の上で北方の蝦夷支配問題が果たしていた役割」こそが重要であり、「武士職能論を論ずるならば、「都の武士」ではなく、蝦夷追討のための戦士集団という面の解明こそ、第一義的課題になるはずである」としたことに賛成したい。かつて戸田芳実は「武士=刑吏=夷狄説」ともいうべき理解を提起したが、そもそも奈良時代の「武士」の深層には、刑吏=「物部」の職能があった。彼らは、京都の衛門府や市庭などの刑吏としてのモノノフの伝統をひき、一〇世紀以降には、その中から検非違使ー長吏ー非人という指揮系統が明瞭になる。他方で、陸奥における物部氏の広汎な分布にも注意する必要があり、彼らは『陸奥話記』の段階まで跡をおうことができる。京都の刑吏、モノノフは「都市の平和」の裏側、陸奥のモノノフは「辺境の平和」の裏側にいるものとして対応するのではないか。彼らは、本来的に「帝国の武士」というべきものであったと考える。
 ただし、三八年戦争の終了と同時に、九世紀の大地動乱の時代が始まった。小川弘和が「復興行政の臨機応変な実施を目的に国府の裁量権拡大と長官への権限集中」と述べているように、平安期の陸奥の体制は、一つの災害後体制でもあった。そこでは「民・夷」の協力と反発の双方が存在したろう。ここで注目しておきたいのは、蝦夷の祖先を鬼王「安日」(アッヒ)であったとする『曾我物語』の神話である。このアッピが高橋富雄のいうように糠部の「アッピ(安比)」であったとすると、入間田宣夫が「糠部巫女」と『馬医草子』に登場する巫女・大汝(オオナムチ)のイメージを重ねることが重大になる。オオナムチは地震の神であるから、地震を起こす地霊=アッピという観念が存在した可能性を考えてみたい。ここに、遠藤巌のいう鎌倉幕府の夷島成敗権に対応する蝦夷神話の形成をみてよいのではないだろうか。

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