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2013年4月23日 (火)

地震火山90地震学の用語法(ターミノロジー)ー(4)「予知と予測」について

130413_1519281 今日は久しぶりに稲毛の浜にでて、花見川の自転車ルートをさかのぼる。うしろから追い抜かれたので、先行する自転車をおおて、しばらく全力で追いかけたが、結局はるかかなたまで行ってしまってみえなくなる。

 この写真は背中が汗びっしょりになって公園で寝ていた時、上の方にみえた若枝。

 以下は、昼ご飯を食べたところで書きはじめたもの。夜になってもうまくかけず、あきらめて早い時間に一度寝たが、さすがに目がさめて、いま3時前。ともかく書けたので載せる。書くのに躊躇した事情は文末を参照されたい。他分野のことに意見をいうのは緊張する。

 日本地震学会の広報誌、『ないふる』(93号2013年四月)に地震学会会長の加藤照之氏の「何が違う? 地震の『予知』と『予測』」という文章がのっている。
 しかし、問題を「地震の予知と予測はどう違うか」という形で提出するのは適当であろうか。私は、「予知と予測」にはニュアンスの相違はあるものの、言葉としては共通する側面がある以上、「予知と予測というのは意味が違います」という形で問題を説明するのは、あまりのぞましいことではないと思う。これは学術的な内容の問題ではなく、あくまでも用語法の問題にすぎないが、以下、若干の意見を述べたいと思う。
 『ないふる』は、日本地震学会のホームページにのっていて誰でもみることができるから、その趣旨を確認することができるが、まずはこの文章の冒頭の要約をみていただくのがよいだろう。それは次のようなものである。

「地震の「予知」と「予測」はどう違うのかについて簡単に解説します。「予知」は警報が出せるくらい確度の高いもの、「予測」は確率で表現され日常的に公表可能なものというように言葉を整理して使うと誤解がなくなるように思います。地震が起きる確率が限りなく100%に近づいて行って警報が出せるようになれば、それは「予知」と言ってよいかもしれません。そのような意味で「予知」の概念は「予測」の中の極めて特殊な場合と言ってよいでしょう。

 つまり、「予知」は、「予測」とは違って、警報がだせるくらいに確度の高いものをいうという訳である。これは本文に「“地震予知”という言葉の定義として使われてきたのは『場所、大きさ、時間を指定して、地震の発生を正確に予測すること』でした」とあることに対応している。そして、これは1962年のいわゆるブループリントに「地震を予知するといえば、時・所・大きさの三つの要素をかなり細かく指定しなければ意味が少ない」とあることを引き継いでいる。私も歴史地震の研究をはじめた時に一読したが、いうまでもなく、ブループリントとは、当時の地震学会の中で組織された「地震予知研究グループ」(世話人、坪井忠二・和達清夫・萩原尊礼)が執筆して「地震予知計画」を社会に提案した文章である。
 つまり、加藤氏の文章は地震学会の伝統的な意見を維持し、代表しており、その意味では自然な見解であると思う。「予知」と「予測」には、日本語の語法としても、たしかにニュアンスの相違がある。予知は「あらかじめ知る」、予測は「あらかじめ推測する」という意味であるから予知の方が強い言葉であると理解することもできる。予知というと、予言という言葉とも連接していて、語感に重みがあることは事実である。
 加藤氏の文章が、ここを重視して「予知」という言葉をほぼ警告と同じ言葉であるとしているのも、それ自身は自然なことかもしれない。ブループリントのいう「(地震発生の)時・所・大きさの三つの要素をかなり細かく指定する」ということは、実際上、社会的には警告ということである。加藤氏はこれについても次のように的確に述べている。

「地震の発生予測は確率を与えますが、発生の直前にはほぼ100%間違いなく地震が発生するという状況が捉えられ、警報が出せるかもしれません。この状況を“予知”と呼ぶことは差し支えないでしょう」。

 いま行っていることは、予測であって、その研究の発展によっては警報がだせる可能性があり、その状況を「予知」という訳である。逆にいうと、地震学者が行っているのは、予測であって、その結果としていますぐにではないが、将来に「予知」=「警報」が可能になることを目的としているという説明である。このように、地震学がいま現実に行っているのは「予測」であって、「警報・警告」という意味での「予知」はまだまだ将来の課題であると述べるのは、いうまでもないことながら、内容としては、私も正しいと思う。

 さて以上のように、私は、加藤氏の文章に賛成でとくに「警報」という要素を明言していることは大事だと思う。しかし、考えてみると、この「予知」の定義、つまり「予知=警報」という定義は、「予知」という言葉について、地震学界が作ってきた特殊な定義である。そもそも加藤氏の文章には次のような付図がついていて、「確度の低い予測」という説明のついた「予測」が大きな楕円になっていて、その中に「確度の高い予測」という説明のついた「予知」という小さな楕円がふくまれている。2 そしてこの「確度の高い予測」というのは加藤氏のいうところでも、ようするに「警報」ということであるのはいうまででもない。
 これ自身は重要であり、かつ、「予知」という言葉は「警報」というニュアンスをふくむことができる。しかし、それは「予知」という言葉の一つのニュアンスであって、一般に通用している「予知」という言葉を、地震についてはとくにこういう意味で限定して使ってほしいという要請は、なかなかむずかしい。言葉は学界が所有しているものではなく、社会が所有し、社会が言語体系の中で、その意味を決めているものである。また言葉の理解というのは、常に主観的な要素を含む。そういう言葉の意味について、学界が、特別な理解を社会に求めるのは無理が多いのではないだろうか。こういう意味で、「予知と予測というのは意味が違います」という形で問題を説明するのはむずかしいことだと思うのである。

 問題は、「予知」という言葉をもっぱら「警報」が可能になった局面という限定した意味にしてしまうのは、「予知」という言葉をつかうメリットを少なくしてしまうのではないだろうかということである。その意味で、ブループリントが計画の名称を「地震予知計画」としたのは正しかったが、しかし、「地震予知」という言葉の狭い定義をあたえ、それを「発生の日時と震源地、そして規模を示す」としたのは、用語法として正しくなかった。
 「地震予知計画」という計画の名称は、むしろさまざまな意味と要素をふくむことができるのがメリットであると思う。まず第一に、「予知」は「予測」という要素を含むことができる。「予測」=「あらかじめ推測する」という言葉は、「予知」よりも一般的で、仮説をふくむ即物的な感じがする。それを研究者が日常的に使うもあたりまえだと思う。「予測」を、実際、科学の方法論として、「予測科学」とはいうが「予知科学」とはいわないのは、そのためである。社会の側も、地震の「予測」といえば、それは確率的なものであるということを明瞭に理解している。
 「予知」という言葉は、第二に地震の発振機構を知るという意味も含むことができる。たとえば「東北地方での地震を予知する」といえば、「東北地方での地震を予測する」よりも広く、地震発生の仕組みそれ自体を知るというニュアンスがふくまれる。「地震予知研究」といえば、それは地震の基礎的・応用的な研究をふくむことができるのである。「地震予測研究」では、どうしてもそういう要素よりも直接に限定的な警告の実用性がとわれる。
 そして、第三に、「地震予知計画」といえば、社会の地震についての理解能力を高めるという要素もふくむことも可能になると思う。「地震の予測」といえば地震学の専門性に属する問題であるが、「地震をあらかじめ知っておく」ということならば、歴史学をふくむ他の諸学も、それなりの役割をおのおの負うことが出来ると思う。「予知」とは専門家のみの作業ではなく、社会全体の能力の総和でもあるといえるかもしれない。少なくとも、地震についての社会的なリテラシーをどう確保するかは「地震予知研究」の重要な側面である。これを「地震警報計画」といっては、そういう要素は含まれない。
 そして、第四に「地震予知」は、加藤氏の文章がブループリントをうけて強調するように「地震についての警報」というニュアンスもふくむことができるのである。
 以上のように、「地震予知」=「あらかじめ知る」「あらかじめ知っておく」という言葉には、大ざっぱにいっても以上の四つの意味があって、いわば未来についての知識の総称という意味がある。たしかに「予知」という言葉には強すぎる意味や曖昧な要素があるから、そういう一般的な意味で使うのは科学者としては避けたいという気分が生まれることはあるだろうが、しかし素人からすると、「予知」という言葉を使うことのメリットは大きいように感じる。図でかけば、下記のようになるといってよいだろうか。加藤氏のそれとは、形式の上では、丁度反対になるが、趣旨はそう違うとは思わない。Photo

 さて、例によって長くなったが、予知というのはようするに警報であるということならば、最初からそういえば問題はすっきりする。そもそも「予知と予測はどう違うか」という問題の設定は、予知=警報ということになれば、「警報と予測はどう違うか」という問題設定と同じことであるということになって意味がないことになる。警報と予測が違うことなのは言葉の使い方として当然のことだからである。
 そして、「警報」ということなれば、地震学会は総力をあげて地震の警報システムを作ってきたではないか。もちろん、これは地震学者の学術の論理からみれば初歩的なもので、震源における「地震」断層破壊の発生にともなう地盤の動揺の波及、(P波とS波の波長の相違を利用して)「地震動」の波及を予測するというものにすぎないということであろう。しかし、これは明らかに社会的に有用なものであって、「警報」という社会的効果においては共通するものである。
 無責任な局外者やジャーナリズムは、地震学会はできもしない「予知計画」を表に立てて予算をとってきたなどというが、「予知計画」の予算の一定部分が、この警報システムの維持に使われたことが明らかな以上、何の遠慮が必要だろうか(これについては「地震学の用語法(ターミノロジー)」の(1)にもすでに書いた)。そして、日本の社会にとって、この列島に棲むものにとって、広い意味での「予知」が必要なことは明らかであるから、地震学会が「地震予知」を目標にして社会的に活動するのは当然のことである。それは50年後に少し前進し、100年後には相当前進するが、全体としては200年立っても若干の前進にとどまるというものかもしれない。あるいは1000年かかるかもしれない。しかし、それを目標とし続けることは、この列島に人類が棲みつづけようとする以上、当然のことである。地震学が「実用科学」としての側面をもつ以上、そういう社会的必要に答えようとするのは当然のことである。地震学会が「予知計画」という名前で、社会的な役割を担おうとするのは尊重すべきことであれ、批判するべきことではない。私は、これについてはアカデミーが声をあわせて主張し、地震学の立場を擁護する必要があると思う。

 最後に、この文章を書くにあたって少し躊躇したことがあり、それについても書いておきたい。それは地震学会の代表の文章について、他分野のものがブログのような任意の場所で意見をいうのは、必ずしも適当なことではないのではないかということである。分野は違っても、研究者として社会的存在をゆるされている点は同じなのだから、意見が違うのならば学会のルートを通じて、あるいは論文などによって議論をすることにつとめなければならない。それは諸学の融合ということを大事にする以上、当然のことであり、また社会的に重要な問題であるならばなおさらであるということになる。
 これが従来の学者の感じ方であろう。たしかに他分野の専門性に属する問題についての発言はできるかぎり抑制的でなければならない。それについて責任がとれない部分がある以上、発言に慎重になるのは当然のことであって、それは学術世界の倫理であり、さらに専門職一般に共通する倫理であると思う。
 けれども、学術の中身ではなく、その社会的な説明、あるいはその社会的な位置や効果については、率直に、どういう場でも議論することは必要だと思う。それなしには専門職と社会の関係は分離してしまう。社会と学術、社会と専門職の間に万里の長城をもうけないためには、学問や専門性の社会的な位置に関することはむしろ全面的にオープンに議論することがのぞましいと思う。そもそもネットワーク社会の意味は、それによって専門性と社会の間の距離が大きく縮まることにあるはずだからである。我々の世代の感覚からいうと、いわゆる「専門馬鹿」に研究者がならないための技術的保障がネットワークによって強制的にあたえられたのだと思う。(なお、それでも躊躇があって、若干加筆しました。20130423)

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