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2013年4月28日 (日)

地震火山92淡路島の地震と『源氏物語』明石の巻

 たしか2月頃だったか、三田村雅子さんと河添房江さんの御二人と座談会をもった。御二人のやっている『源氏物語をいま読み解く』というシリーズの4冊目『天変地異と源氏物語』(翰林書房)に載る。昨日再校がきてお返ししたから、もう若干のことを記してもよいだろう。
 4月13日の淡路島地震は人命にかかわる災害がなかったのがよかったが、しかし、兵庫県南部地震の強さと繰り返し性を考えさせられた。それにしても、右の座談会で、三田村さんが、須磨から明石は地震が多い境界地帯として平安時代にも認識されていたのではないかといわれていたのを思い出した。
 『源氏物語』と地震というと、どういう関係かということであるが、右の翰林書房の本は、5月にはでるのではないだろうか。目次をみると、これは平安時代災害史にとっては画期的なものとなる本である。歴史学では平安時代の災害史はなにしろ史料が僅少なためもあって、なかなかむずかしいところがあるが、文学史研究の側から新しい見通しがでてくるというのは心強いことだと思う。
 さて、下記は、3月に東京歴史教育者協議会の総会で講演した記録。これも、先日、テープ起こしがきて四苦八苦して補筆した。これも5月には册子になってでるのだろうと思う。右の座談会で教えられたことをさっそく講演でふれさせていただいた。
 
 先日、文学史の三田村雅子さんと河添房江さんと『源氏物語』に描かれた天変地異というテーマで座談会をした時、地震は『宇治拾遺物語』にはあるのに『源氏物語』には一つも出てこないことを確認しました。しかし、人死にはなかったものの、この時代にも地震はあったことは先に述べた通りです。そして、10世紀までの記憶にもとづく不安の雰囲気も強く社会と文化の中に残っていたようです。それが『源氏物語』の天変地異の記述に反映していたらしいのです。
 たとえば、どういうふうに天変地異が出てくるかというと、もっとも重要なのは、明石の巻だろうと思います。つまり光源氏が父の桐壺帝の死後、き須磨に流罪になりますが、暴風雨と雷が起き「高潮」が明石によってくる。京都の宮廷でも明石でもこれは一体どういうことだろうと「あやしき物のさとし」とされたという訳です。そのしばらく後、また高潮がおきて、御座所近くまで潮が満ち波が寄ってきて落雷も激しいということになった夜、源氏は夢を見ます。その夢は、源氏の父の桐壺帝が大波とともに「海に入り、渚に上り、内裏に奏すべきことのありて上る」というものです。桐壺帝は死んでいるわけですが、それが海に入って渚に上り明石に上って京都まで上るということで、桐壺帝の霊が天変地異の背後にいたというわけです。
 死霊が海の中から渚に上ってくる。これは桐壺帝が黄泉の国から上ってきたことを意味します。重要なのは、三田村さんが、須磨の屋敷は「海面やや入りて」「山中」とされているのに、そのそばまで潮がやってきたというのは、津波が示唆されているのではないかとされたことです。たしかに、津波の場合はしばしば海面が発光するという、地震発光かと思われるような記載が多いのですが、この場面でも「海面は光り満ちて」とありますし、「高潮といふものになむ。とりあへず人そこなわると聞けど、いとかかることはまだ知らず」(高潮であっという間に人をそこなう)という描写も津波を思わせます。
 つまり、明示されている訳ではないものの、三田村さんがおっしゃるとおり、津波が示唆されていると考えることは可能だろうと思います。つまりここには黄泉国の怨霊が地震・津波をおこすという観念が踏まえられていた。とくにここはまさに播磨国の海岸ですから、海神=地神であって同時に「黄泉国=根の国」の主であるスサノヲのイメージがふまえられていた可能性が非常に高いように思います。そして、これが非常に微妙な王権内部の問題をかたる背景にされているのが興味深い訳です。京都にいた冷泉帝(実際には源氏の息子)も、同じ桐壺帝の「さとし」によって驚かされ、源氏は明石から京都に呼び返されることになります。私は、右の座談会でおしえられて、こういう『源氏物語』の叙述は、やはりたいへん見事なものであることを再認識しました。
 ただここで注意しておきたいのは、三田村さんもそう考えられていますが、あるいは紫式部は須磨から明石という土地が地震や津波に縁が深いということを認識していたのではないでしょうか。1596年(文禄5)の地震では須磨明石に津波がよっていますし、この前の阪神大震災でも須磨断層が動いています。そして、もし式部の経験の範囲内に須磨の津波ということがあったとすると、10世紀から11世紀の初頭のある時に大阪湾内で津波があったかもしれないということになります。この時期の地震史で最大の謎になっているのは、だいたい100年に一度はあるはずであるということになっている南海トラフ地震の史料がないことです。そして石橋克彦氏によれば南海トラフ地震の大きな特徴が大阪湾における津波であるということですから、あるいは、現在は特定できないとしても、やはりこの時期、南海トラフ地震が起きていたのかもしれないと想像するのです。これはあくまでも想像ですが、桐壺帝の死霊が須磨の海岸に上ってくると云うのは、簡単には黙過できない問題であることは強調しておきたいと思います。

 播磨から摂津に地震はきわめて重要だろうと思う。いま読んでいる茂木清夫『地震予知を考える』(岩波新書)には神戸の断層がきわめて活発なものであることが強調されている。興味深いのは「六甲断層系と淡路島北部の断層が明石海峡でつながるが、このつながりがスムースなものではない」とされていて、この接合の仕方に、この地域の地震の激しさが求められていることである(33頁)。
 
 なお、私は、『歴史のなかの大地動乱』で、9世紀の播磨地震が、摂津の六甲断層系も大きく揺らしたことについて、それまで注目されていなかった摂津広田社・生田社に関する「宣命」を解釈して論じた。地震学の人が、この史料を解釈してこなかったのは、彼等の読みにくい宣命の記述のためであったが、それにもふれて、右の講演では、下記のようにも論じている。

問題は868年伴善男が死んだ年に播磨地震が起きたことで、これが善男の怨霊の引き起こしたものであるということになった訳です。この地震は同日に京都も大きくゆらした、M七,〇以上とされる大地震で、その震源は播磨国の大断層、山崎断層であったことが断層の掘削調査で確定しています。『歴史のなかの大地動乱』では、地震学者の読みにくい宣命であったためにデータの集成からもれていた摂津広田社・生田社の史料も挙げて、この前後に摂津も相当にゆれていることを明らかにしました。ここからすると、地震学的に確定している訳ではありませんが、山崎断層の北西部と南西部の全体が連動したものかもしれません。なおその後に山崎断層が動いた地震として「鎮増私聞書」(『兵庫県史』史料編中世四)に記録された一四一二年(応永一九)の地震があります。その震源は山崎断層本体よりも少し南に外れているかもしれませんが、九世紀からみると、その間は543年。そして、その時から1984年の山崎断層の竜野市北東のあたりを震源とするM5,6の地震までは572年です。これをとって、『日本歴史地名大系』(兵庫県)は、600年弱の周期で山崎断層が動いているのではないかとしています。ただ、1984年の地震はそんなに大きくありませんし、山崎断層は非常に長いものですので、すぐそういえるのかどうかは私にはわかりませんが、気になる点です。
 というのは、播磨地震の翌年869年5月に、今回の3,11の歴史的な原型とされる陸奥海溝地震が起きています。つまり陸奥沖で大きなプレート境界型の大地震が起きている訳ですが、この陸奥沖プレート境界地震は次に1454年(享徳三)に発生していて、間が585年。さらにその地震から今回の3,11までは558年で、どちらも600年弱だからです。
 これは地震の超周期性といわれる繰り返し性の問題で、地震学的にはまだ仮説の段階のようですが、ともかく九世紀に山崎断層の大地震と陸奥海溝地震がほぼ同時に発生したことは九世紀の地震の旺盛期といわれるものの規模を物語っているように思われます。なお、今日は九世紀陸奥海溝地震と、その三,一一太平洋岸津波との地震学的な共通性などについて詳しくふれることはしませんが、それについては、右の超周期性の仮説をふくめて佐竹健治「どんな津波だったのか」(『東日本大震災の科学』東京大学出版会)を参照いただきたいと思います。

 なお、この『東日本大震災の科学』は勉強になった。

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