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2013年4月

2013年4月28日 (日)

地震火山92淡路島の地震と『源氏物語』明石の巻

 たしか2月頃だったか、三田村雅子さんと河添房江さんの御二人と座談会をもった。御二人のやっている『源氏物語をいま読み解く』というシリーズの4冊目『天変地異と源氏物語』(翰林書房)に載る。昨日再校がきてお返ししたから、もう若干のことを記してもよいだろう。
 4月13日の淡路島地震は人命にかかわる災害がなかったのがよかったが、しかし、兵庫県南部地震の強さと繰り返し性を考えさせられた。それにしても、右の座談会で、三田村さんが、須磨から明石は地震が多い境界地帯として平安時代にも認識されていたのではないかといわれていたのを思い出した。
 『源氏物語』と地震というと、どういう関係かということであるが、右の翰林書房の本は、5月にはでるのではないだろうか。目次をみると、これは平安時代災害史にとっては画期的なものとなる本である。歴史学では平安時代の災害史はなにしろ史料が僅少なためもあって、なかなかむずかしいところがあるが、文学史研究の側から新しい見通しがでてくるというのは心強いことだと思う。
 さて、下記は、3月に東京歴史教育者協議会の総会で講演した記録。これも、先日、テープ起こしがきて四苦八苦して補筆した。これも5月には册子になってでるのだろうと思う。右の座談会で教えられたことをさっそく講演でふれさせていただいた。
 
 先日、文学史の三田村雅子さんと河添房江さんと『源氏物語』に描かれた天変地異というテーマで座談会をした時、地震は『宇治拾遺物語』にはあるのに『源氏物語』には一つも出てこないことを確認しました。しかし、人死にはなかったものの、この時代にも地震はあったことは先に述べた通りです。そして、10世紀までの記憶にもとづく不安の雰囲気も強く社会と文化の中に残っていたようです。それが『源氏物語』の天変地異の記述に反映していたらしいのです。
 たとえば、どういうふうに天変地異が出てくるかというと、もっとも重要なのは、明石の巻だろうと思います。つまり光源氏が父の桐壺帝の死後、き須磨に流罪になりますが、暴風雨と雷が起き「高潮」が明石によってくる。京都の宮廷でも明石でもこれは一体どういうことだろうと「あやしき物のさとし」とされたという訳です。そのしばらく後、また高潮がおきて、御座所近くまで潮が満ち波が寄ってきて落雷も激しいということになった夜、源氏は夢を見ます。その夢は、源氏の父の桐壺帝が大波とともに「海に入り、渚に上り、内裏に奏すべきことのありて上る」というものです。桐壺帝は死んでいるわけですが、それが海に入って渚に上り明石に上って京都まで上るということで、桐壺帝の霊が天変地異の背後にいたというわけです。
 死霊が海の中から渚に上ってくる。これは桐壺帝が黄泉の国から上ってきたことを意味します。重要なのは、三田村さんが、須磨の屋敷は「海面やや入りて」「山中」とされているのに、そのそばまで潮がやってきたというのは、津波が示唆されているのではないかとされたことです。たしかに、津波の場合はしばしば海面が発光するという、地震発光かと思われるような記載が多いのですが、この場面でも「海面は光り満ちて」とありますし、「高潮といふものになむ。とりあへず人そこなわると聞けど、いとかかることはまだ知らず」(高潮であっという間に人をそこなう)という描写も津波を思わせます。
 つまり、明示されている訳ではないものの、三田村さんがおっしゃるとおり、津波が示唆されていると考えることは可能だろうと思います。つまりここには黄泉国の怨霊が地震・津波をおこすという観念が踏まえられていた。とくにここはまさに播磨国の海岸ですから、海神=地神であって同時に「黄泉国=根の国」の主であるスサノヲのイメージがふまえられていた可能性が非常に高いように思います。そして、これが非常に微妙な王権内部の問題をかたる背景にされているのが興味深い訳です。京都にいた冷泉帝(実際には源氏の息子)も、同じ桐壺帝の「さとし」によって驚かされ、源氏は明石から京都に呼び返されることになります。私は、右の座談会でおしえられて、こういう『源氏物語』の叙述は、やはりたいへん見事なものであることを再認識しました。
 ただここで注意しておきたいのは、三田村さんもそう考えられていますが、あるいは紫式部は須磨から明石という土地が地震や津波に縁が深いということを認識していたのではないでしょうか。1596年(文禄5)の地震では須磨明石に津波がよっていますし、この前の阪神大震災でも須磨断層が動いています。そして、もし式部の経験の範囲内に須磨の津波ということがあったとすると、10世紀から11世紀の初頭のある時に大阪湾内で津波があったかもしれないということになります。この時期の地震史で最大の謎になっているのは、だいたい100年に一度はあるはずであるということになっている南海トラフ地震の史料がないことです。そして石橋克彦氏によれば南海トラフ地震の大きな特徴が大阪湾における津波であるということですから、あるいは、現在は特定できないとしても、やはりこの時期、南海トラフ地震が起きていたのかもしれないと想像するのです。これはあくまでも想像ですが、桐壺帝の死霊が須磨の海岸に上ってくると云うのは、簡単には黙過できない問題であることは強調しておきたいと思います。

 播磨から摂津に地震はきわめて重要だろうと思う。いま読んでいる茂木清夫『地震予知を考える』(岩波新書)には神戸の断層がきわめて活発なものであることが強調されている。興味深いのは「六甲断層系と淡路島北部の断層が明石海峡でつながるが、このつながりがスムースなものではない」とされていて、この接合の仕方に、この地域の地震の激しさが求められていることである(33頁)。
 
 なお、私は、『歴史のなかの大地動乱』で、9世紀の播磨地震が、摂津の六甲断層系も大きく揺らしたことについて、それまで注目されていなかった摂津広田社・生田社に関する「宣命」を解釈して論じた。地震学の人が、この史料を解釈してこなかったのは、彼等の読みにくい宣命の記述のためであったが、それにもふれて、右の講演では、下記のようにも論じている。

問題は868年伴善男が死んだ年に播磨地震が起きたことで、これが善男の怨霊の引き起こしたものであるということになった訳です。この地震は同日に京都も大きくゆらした、M七,〇以上とされる大地震で、その震源は播磨国の大断層、山崎断層であったことが断層の掘削調査で確定しています。『歴史のなかの大地動乱』では、地震学者の読みにくい宣命であったためにデータの集成からもれていた摂津広田社・生田社の史料も挙げて、この前後に摂津も相当にゆれていることを明らかにしました。ここからすると、地震学的に確定している訳ではありませんが、山崎断層の北西部と南西部の全体が連動したものかもしれません。なおその後に山崎断層が動いた地震として「鎮増私聞書」(『兵庫県史』史料編中世四)に記録された一四一二年(応永一九)の地震があります。その震源は山崎断層本体よりも少し南に外れているかもしれませんが、九世紀からみると、その間は543年。そして、その時から1984年の山崎断層の竜野市北東のあたりを震源とするM5,6の地震までは572年です。これをとって、『日本歴史地名大系』(兵庫県)は、600年弱の周期で山崎断層が動いているのではないかとしています。ただ、1984年の地震はそんなに大きくありませんし、山崎断層は非常に長いものですので、すぐそういえるのかどうかは私にはわかりませんが、気になる点です。
 というのは、播磨地震の翌年869年5月に、今回の3,11の歴史的な原型とされる陸奥海溝地震が起きています。つまり陸奥沖で大きなプレート境界型の大地震が起きている訳ですが、この陸奥沖プレート境界地震は次に1454年(享徳三)に発生していて、間が585年。さらにその地震から今回の3,11までは558年で、どちらも600年弱だからです。
 これは地震の超周期性といわれる繰り返し性の問題で、地震学的にはまだ仮説の段階のようですが、ともかく九世紀に山崎断層の大地震と陸奥海溝地震がほぼ同時に発生したことは九世紀の地震の旺盛期といわれるものの規模を物語っているように思われます。なお、今日は九世紀陸奥海溝地震と、その三,一一太平洋岸津波との地震学的な共通性などについて詳しくふれることはしませんが、それについては、右の超周期性の仮説をふくめて佐竹健治「どんな津波だったのか」(『東日本大震災の科学』東京大学出版会)を参照いただきたいと思います。

 なお、この『東日本大震災の科学』は勉強になった。

2013年4月25日 (木)

地震火山91平安・鎌倉時代の災害と地震・山津波

以下は、『HUMAN』Vol3、2012年12月(人間文化研究機構編)に書いたもの。

「平安・鎌倉時代の災害と地震・山津波」

 二・三年前から、この列島を襲う集中豪雨によって各地で山地が地盤崩壊を起こしているという。地質学・土木工学の研究者は、それを深層崩壊(deep-seated landslide)と呼んで国土の安全の保守について警告を発している。とくに二〇一一年三月一一日の東日本太平洋岸地震の揺れは、福島県の葉の木平で、とても地崩れが起こるとは思えないような緩斜面を一挙に崩壊させ、大きな被害を出した。また九月には豪雨が紀伊半島を襲い、和歌山県十津川で谷間の村が対岸の山の深層崩壊によって埋没したことも記憶に新しい。
 このような山地の地盤崩壊は、ただの山崩れというよりも山津波というべきものであろう。集中豪雨は温暖化にともなう気候の不安定化の表現であり、海水温の上昇が直接のきっかけになるという。そして地震がしばしば地盤を揺することが、その深層崩壊に結びつくこともいうまでもない。もちろん、これらは、まずは二〇世紀に進行した国土の乱開発の結果であると考えなければならないが、同時に、温暖化の中で地震の活発期が到来したという条件が、それを倍加しているのである。国土の保守ということが身近な話題となる時代が到来しており、歴史学もそれと無縁ではいられないと思う。

堰止め湖の形成と決壊

 さて、先日刊行した『歴史のなかの大地動乱ー奈良・平安の地震と天皇』(岩波新書、二〇一二年八月)で述べたように、八・九世紀も地震の頻発と温暖化の時代であった。八六九年(貞観十一)に発生した陸奥海溝地震(「貞観地震」)は、三・一一東日本太平洋岸地震とほぼ同じ震源と起震構造をもっていた。私は、この地震の規模が、ここ一〇年ほどの地質学者の調査によって震災前にすでに明らかとなっていたことを知らず、あわてて研究に取り組み始めたが、その中で、この時代、しばしば地震や噴火による山間での堰止め湖の形成とその決壊による災害が起きていたことを知った。それは現在起きている問題と基本的に相似した、まさに山津波=深層崩壊の問題である。右の拙著で概観したように、七一五年(和銅八)の遠江・三河地(M6,5-7,5)震にともなう洪水、八一八年(弘仁九)の北関東地震(M7,5以上)にともなう「水潦」(洪水)、八八七年(仁和三)の南海トラフ地震(M8~8,5)にともなう八ヶ岳山体の崩壊によって形成された古千曲湖の決壊にともなう大洪水などは、その明瞭な事例である。
 さて、このような山地の地盤崩壊の問題を八・九世紀の史料に即して初めて指摘したのは、『古地震』(東京大学出版会、一九八二年)にのった論文「弘仁九年七月地震」(萩原尊禮・山本武夫)であろう。この論文は右にあげた八一八年の北関東地震の史料に「上野等の境、地震災をなし、水潦相仍り」とあることを詳しく論じた。それまでの地震学の見解では、この史料のいう「水潦」は津波と誤解されていたが、史料編纂所の山本武夫は、「水潦」とは「洪水」を意味する語であり、この記事は上野国あたりで山地に堰止め湖が形成され、その決壊によって洪水が発生したのであろうと解釈したのである。それまで地震学の側では、南関東も津波に襲われたと考えていた訳であるが、山本氏の歴史地震研究への参加によって、この地震は北関東の内陸地震であることが確定したのである。
 また現在の状況との関係で重要なのは、最後にあげた八八七年の東海南海大津波地震による大洪水であろう。この地震が東海南海大地震であることを論証したのは石橋克彦の論文「文献史料からみた東海・南海巨大地震」(『地学雑誌』一〇八号4、一九九九)であるが、石橋は、この論文で、同時に、『日本紀略』に記された翌八八八年の信濃の大洪水は、この地震によって信濃の北八ヶ岳の山体の一部が崩壊して、千曲川に塞き止め湖ができ、それが梅雨時に決壊して引き起こしたものと推定した。そして、現在では、この提言をうけて、考古学・土木工学の全体の研究が進み、この大洪水の規模が明らかとなっている。
 シミュレーションによれば、JR松原湖駅付近の河道閉塞によって形成された古千曲湖は、湛水高一三〇メートル、湛水量五.八億トン、その決壊時の洪水流の流量は約三.五万平方メートル/秒、流速一.六から五.〇メートル/秒(井上公夫ほか「八ヶ岳大月川岩屑なだれによる天然ダムの形成(八八七)と決壊」(『日本の天然ダムと対応策』、古今書院、二〇一一年)。そしてその洪水によって佐久・埴科・更級の千曲川流域一帯にひろがる広大な九世紀の条里水田が埋没し、回復不能なほどのダメージを受けた。それを明らかにした長野県の考古学関係者による、この五〇年ほどの営々とした発掘調査の成果は、柳澤亮がまとめている(「仁和の洪水と善光寺平の開発」(『考古学からみた災害と復興』東国古代遺跡研究会、二〇一二年)。予想される南海トラフを震源とする地震が東海地震と連動するかは不明であるが、この九世紀の東海南海連動地震の引き起こした大洪水の詳細は多くの人々に伝えるべき歴史地質学の知識であると思う。

但馬国伊由庄百姓の解状

 このような山津波というべき災害は、この地震列島ではしばしば発生していたに違いない。ただ、右にみた八・九世紀は六国史によって、地方史料が編纂物に残されるルートが存在したが、平安・鎌倉時代には、そのようなルートは失われた。それ故に、それを探るためには文献史学の範囲を越えて、地質学・地震学・考古学の学際的な協力が期待されるが、文献史学の立場からも精細な調査を試みるべきものと思う。京都の貴族は首都圏の外のことを自分の日記に書く必要を感じていないが、しかし、当時の社会は、けっして無文字社会ではなく、むしろ災害が発生すれば、必ず文字に書かれて活発に伝達される社会である。それ故に、史料の探索と読み込みによって災害史の史料を発見する可能性はまだ残っているのである。
 ここではまず筆者が気づいた但馬国朝来郡の伊由庄の史料に残る大洪水の史料を紹介してみたい。それは藤原為隆という平安時代末期の貴族の貴族の日記の紙背に残された伊由庄百姓の解状である(『京都大学文学部博物館の文書、一一輯 永昌記紙背文書』思文閣出版、一九九三年)。それによれば、鎌倉時代初めの一一九九年(正治一)六月二日から八月六日にかけて、伊由庄では六六日間も干天が続き激しい旱魃となっていた。ところが、伊由庄百姓が、その事情を訴えた申状を提出した直後、今度は、八月十八日の子剋(夜一二時)から十九日にかけての豪雨に襲われたのである。その直後、百姓たちは洪水の被害を訴え年貢の減免のための調査を訴える二度目の解状を提出した。
 現在残っているのは、この二度目の解状であるが、その末尾では、但馬国の惨状を、飢餓に襲われた「食を求めて得がたきの人々、食物を貪る事、餓鬼に異ならず」と報告している。伊由庄は但馬から播磨へぬける生野峠の麓の荘園であって、摂関家がこの地域をおさえていたことからも交通の要衝として豊かな生業をもっていたものと思われる。そこに但馬国の飢えた人々がやってきたというのは事実であったと考えても問題ないと思う。そして、洪水は「国中流死人数千余人、以牛馬以同也、流失在(以下欠)」という被害をもたらしたという。もちろん、「数千人」という死者数には若干の誇張があったろう。この一節の続きの部分は、この申状が日記の料紙として切りそろえて利用された関係で欠けているのも残念である。しかし、申状が、「先生の業因を知らざるか」「たとえるに蹄叫地獄の如し」などと述べていることのすべてを誇張ということはできず、この洪水の規模がなまなかなものでなかったことは確実である。
 この但馬国洪水が発生した一一九九年は鎌倉時代の初め、つまり八・九世紀から一二世紀くらいまで世界中で続いたとされる「中世温暖期」の最末期にあたる(参照、西谷地晴美『日本中世の気候変動と土地所有』校倉書房書房、二〇一二年)。但馬国で六十六日も日照が続いたという記事は虚偽とすべきではないだろう。ここには温暖化の中での日照の連続が海水温の上昇などをもたらし、激しい集中豪雨が発生したという状況を想定してよいように思われる。

円山川の大洪水
 
 この申状の日付は八月二十三日。八月十八日、十九日の豪雨による洪水の直後である。伊由庄の住人が二三人も連署しているから、現地で執筆されたものと思われる。伊由庄という荘園は、但馬国を南北に貫流する円山川の最上流、生野銀山の北に広がる細長い谷間の土地に立地している。この谷間の土地を、いわゆる鉄砲水が襲ったのであろう。解状は「作物、旱魃のため、皆損すと雖も、将来の作を募り、餓?の思いを忍び、踵を廻らすの思いをなすのところ」「将来の蓄、東西失い了」とある。つまり旱魃で田畠は皆損の状態となったが、飢えながらもどうにか生活を組み立てようとしていたところ、洪水によってすべてを失ってしまったというのである。洪水によって「平地の在家、桑・漆・柿・胡桃子など底を払って流失」、つまり家も樹木も一切が流されてしまった。申状は「日神・水神(のために)、一期の財産奪い取られ了」と嘆いている。
 「山崩のため突き埋めらる名の佃人」とあることから、山崩れによって山際の田地の農民が犠牲になったこともわかる。洪水の規模は、辰戌(東南東から西北西)の方向に流れる川が、幅二・三町(二〇〇から三〇〇メートル)、長さ二〇町(二キロ)ほどが水に埋まったという。これは方位からいって、伊由庄を貫流して、円山川に流れ込む伊由谷川のことであろう。そして荘園の「東境川上」の「伊由坂」の付近から「山際」にかけての「洪水の深さ」は「或所は五丈、或所は三・四丈」に達したという。伊由坂とは現在の伊由峠だとすると、そこかを水源とする伊由谷川は、上流ではむしろ東北から南西にかけて流れているから、それが荘園の東境にあたるというのは了解しやすい。一丈を三メートルとすると、高さ一〇メートルから一五メートルの洪水に襲われたことになる。
 この時の但馬国の大洪水では、本流の円山川に流れ込む、この伊由谷川のような、いくつかの河川が流れる山間で山崩が起き、それによってできた小さな堰止め湖が決壊することによって発生した洪水によって災害が拡大したのではないだろうか。たまたま史料が残ったのは伊由谷川だけであるが、「数千人」が死んだ大洪水となれば、それ以外にも何本かの河川で同じようなことが起きたと考えるのが自然だと思う(伊由谷川の南で円山川に流入する多々良木川の上流には、現在、人造ダムができているが、たとえばそれに重なるような堰止め湖が山崩れによって形成され、それが決壊したのではないだろうか)。円山川は、豊岡・城崎を通って北に流れ、日本海に流れ入っているが、若干の誇張があるだろうとはいえ、「数千人」の死者を出したといわれる洪水は山間地でのこの種の溢水なしには考えられない。

『発心集』入間川の大洪水

 次に参照しておきたいのは、鎌倉時代の説話集、鴨長明編の『発心集』(巻四)に伝えられる、武蔵国の入間川の大洪水の話である。説話集であるためもあって、いつ頃のことかは記していないが、入間川のほとりに大堤を築いて集落ができていた。ところが、五月雨のころ「水いかめしう出たりけり。されど、未だ年ごろ、この堤の切れたることなければ、さりとも驚かず」にいた。しかし、雨が降り続く中で、その堤が「雷の如く、よに恐ろしく鳴り響む声」とともに決壊したという。驚いて外をみると「二・三町ばかり白み渡りて、海の面と異らず」という状態になっており、家は根こそぎ流されてしまう。主人の男は家の屋根にのって漂ったが、途中で飛び降りて泳ぎださざるをえなかった。その時、幸い流れ残った蘆の葉で少し黒みがかった場所を発見して、そこに辿り着くと、それは実は「水に流れ行く蛇どもの、この蘆にわずかに流れかかりて、次第に鏈り連りつつ、いくらともなく蟠り居たりける」というもので、男は蛇に巻き付かれてどうしようもなくなった。そして、一度海まで流されたものの、偶然、足のつくところについて、蛇を身体から切りはなち、浜に泳ぎ戻ってどうにか助かったという。
 この武蔵国の説話は長明が、鎌倉時代の初めのころ、長明が実際に東国に下った時に集話したものではないかというから、このころ、東国に洪水伝説が存在していたことは認めてよいだろう。私が想起するのは、先に述べた北関東地震によって発生した上野国の「水潦=洪水」の話である。この『発心集』の説話の示すような内陸の大洪水説話の背景として、地震などにともなう山地の地盤崩壊と堰止め湖の決壊による大洪水があったのではないだろうか。平安時代、東国で、現在は記録に残っていない大地震があり、それとともに関東平野の中央部の低地で大洪水が起きた、『発心集』の説話はそれを伝えていると考えてみたい。先述の八ヶ岳の山体崩壊にともなう大洪水の事例などは、きわめて大規模なもので、一面の海という『発心集』の大洪水のイメージに共通している(なおそのほかの洪水伝説としては『宇治拾遺物語』三〇の「唐卒塔婆血つく事」があるが、これは『捜神記』の翻案であるため、日本の災害史史料として利用するのは、そのままでは困難である)。
 
『方丈記』元暦二年の大地震

 平安・鎌倉時代、ほかに洪水による田地の水損を伝える史料は多く、根本的にはその一つ一つについて河川氾濫の様子を復元していく必要があるが、山崩れをともなうような大洪水を伝える史料は、以上で尽きる。しかし、現実には、さらに多くの洪水が山地の地盤崩壊をともなって発生していたに相違ない。その点で参考になるのは、一一八五年(元暦二)の地震についての『方丈記』の記述であろう。そこには「山はくずれて、河をうずみ、海はかたぶきて陸地をひたせり。土裂けて、水湧きいで、いはほわれて谷にまろびいる」とある。これは地震にともなう山体崩壊によって河の堰止めが起きたことを示している。この一一八五年の地震はマグニチュード約七・四という激しいもので(阪神大震災はM七・二)、ボーリング調査・ジオスライサー調査によって震源は琵琶湖西岸断層帯にあったことがほぼ確証された(金田平太郎など「群列ジオスライサー調査に基づく琵琶湖西岸断層帯南部の最新活動期」『歴史地震』二三号、二〇〇八年)。別に述べたように(「平安時代末期の地震と龍神信仰」『歴史評論』七五〇号、二〇一二年)、この地震は比叡山の堅固な山頂岩盤をゆらし、その西の京都も激震となったが(震度六)、さらに琵琶湖西岸断層帯の南につらなる黄檗断層帯を揺らし、北は比良から饗庭野につらなる断層帯までをも大きく揺らしたと考えられる。そして「美濃・伯耆などの国より来る輩曰く、殊なる大動にあらず」(『中山忠親記』)という京中の噂の記録によれば、この地震の揺れが少なかった地域は美濃・伯耆以遠であったというから、逆にいえば、日本海側の伯耆と美濃の間の諸国、つまり越前・若狭・丹波・丹後・但馬・因幡の諸国では、震度3を越える場合があったという推定がなりたつのである。そして摂津の側は揺れていないから、『方丈記』のいう津波は、後の美濃あたりを震源とする「天正地震」(一五八六年)の場合と同様に、越前・若狭のあたりを襲ったものとしてよい。日本を代表する古典、『方丈記』に描かれた津波が、原発の集中の危険が問題となっている若狭を襲っていた可能性があるというのは、多くの人が知っておいてよいことだと思う。
 ともあれ、そうだとすると、右にふれた伊由庄のある、但馬国も、この一一八五年の近江・山城地震の時、相当の揺れがあったに相違ない。そして、そのほかにも、この時期、京都ではいくつかの地震が記録されている。右の近江・山城地震のほかに、さらに但馬国の地盤を揺るがす地震があったかどうかは分からないが、この時期の地震が中国山地でも山崩れの起こりやすい状態をつくっていたことは否定できないだろう。地震の被害が「地裂・山崩」と定型的に語られるのは、それなりの理由があったはずである。
 たとえば、少し時期を下るが、一三六一年(康安一)の南海地震では紀伊の熊野が大きな被害を受けた。これについて、大和法隆寺の記録『嘉元記』は「熊野山ノ山路并山河等、多以破損」としている。そしてこれと照らし合わせると『太平記』(巻三六)が、この地震によって「紀州の々程裂たる地もなければ」としているのも事実を反映しているとみてよいだろう。この地震が全体として「すべて山川・江河・林野・村落、この災いに合わずと云ふところなし」という被害をもたらしたというのも、定型句ではあるが、参考にすることが許されよう。
 これは昨年(二〇一一)九月の紀伊半島における深層崩壊の様相を、そのまま想起させる。現在進行している深層崩壊は、地質的には、この時の継続でもあるのであろう。そう考えると、今後、地震史料に登場する山崩れの史料を現地とひきあわせて詳細に検討する必要は高いと思う。

山崩れと「山姫様」伝説

 さて、本稿のテーマとしてあたえられた「災害はどう語られてきたか」については、「山崩・山津波」にしぼって考えると、柳田国男が一九三六年に発表した「妖怪談義」(『定本柳田国男集』筑摩書房、四巻)が参考になる。この論文で、柳田は木曾の川筋に残る山崩れと洪水についての伝説を記録している。それによれば、木曾山地に百人もの杣工が入って小屋をかけて泊まっていると、「この杉林だけは残して置いてくれ」という「山姫様」の夢の告げがあった。それにも拘わらず伐採に取懸かると、やがて大雨が降って山が荒れ出した。そうして、これも闇の夜中に水上の方から、「行くぞ行くぞ」と頻りに声が掛かってきた。小屋のもの一同が負けぬ気で声を合わせ、「来いよ!」と遣り返すと忽ち山は崩れ、残らず押し流されて、たった一人、この顛末を話しうるものが生き残ったという。
 こういう山崩れについての伝説が、長い歴史を通じて、この列島で語られてきたのは疑いないだろう。興味深いのは、この山津波を起こした妖怪が「山姫様」という女性であり、柳田は、これを一種の地霊とみていたのではないかと思われることである。柳田は、例の不思議な説得力のある筆致で、この地霊は本来は人々の信仰を集めていた存在であったのではないかと述べている。そして、このような山の女神の例としては、中国地方有数の活火山、石見国三瓶山西麓にある「浮布池」に鎮座する邇幣姫神社の女神の伝承が興味深い。
 野本寛一の紹介によれば、この山に囲まれた幽邃な霊池は天武天皇の時代の七世紀南海東海連動地震による山体崩壊にともなう堰止め湖であるという伝承をもち、この池の龍神は、「田を湿す故に人民厚く水霊を崇敬し」、江戸時代までこの池を源流とする静間川流域の人々の信仰を集めていたという(『神と自然の景観論』講談社学術文庫、二〇〇六年)。三瓶山の埋没林調査では、七世紀の噴火や山体崩壊の証拠はでていないようであるが(光谷拓実「年輪年代法と文化財」『日本の美術』四二一号、二〇〇一年)、ともかくも、人々は、この神社は三瓶火山の女神が移座したものと考えていたのだろう。江戸時代の人々は、はるか昔、流域の奧に聳える火山の女神が身を震わせて堰止め湖を作りだし、人々の生業を助けたのだという信仰を伝えていたのである。

貞観の大災害の伝承

 こういう議論を追跡していくことによって、この災害の多い列島に棲み、生活を続けてきた人々の生きた自然意識あるいは自然史に対する意識を追跡していくことはきわめて重要であろう。しかし、歴史学が、そこで十分な役割を果たすためには、本来、奈良・平安時代から江戸時代までの、時代や専攻を超えた歴史家の協同が必要である。しかし、歴史学の現状をみていると、残念ながら、それはまだまだ将来の課題であるといわざるをえない。そこでここでは、最後にもう一度、但馬国伊由庄の文書にもどって若干の検討をつけ加えておくことにしたい。
 実は、この庄司解の冒頭には、「住人など、謹んで古風を承るに、貞観の旱魃の古体承り及ぶところなり、今来は今□□年の旱なり」とあった。「貞観の旱魃」とは九世紀の貞観年間(八五九~七七)に激しかった旱魃ということである。これは鎌倉時代まで有名であったらしいことは『吉田経房記』に一一八五年(元暦二)七月のある貴族の日記に、「貞観の旱」(貞観の日照りの災害)が、この時におきた地震と同じくらい被害が大きかったと回顧されていることでもわかる。先にも述べたように、九世紀は地震の頻発の時代であると同時に、中世温暖期の最初期にあたり、旱魃と飢饉、それに誘発された疫病の流行によって、日本社会は大きな危機の中にあった。
 何よりも興味深いのは、貴族の日記ではなく、地域で作成されたと考えられるこの文書に「貞観の旱魃」が激しかったという伝承が伝えられていることであろう。もちろん、それは中央での記憶を再度持ち込んだものである可能性もあるが、前述のように、この百姓解文は洪水の直後に現地で書かれたものである。この文書の料紙が生漉で非繊維物質(柔細胞)が多く少し黄色がかっているというのも、この解状が伊由庄現地で書かれたことを物語っているといってよい。執筆者は百姓の一人か、その中にいる僧形の人物か、あるいは庄家政所に所属する公文のような一定のリテラシーをもっていた人物であろうか。それは分からないが、いずれにせよ地域社会にいる人物が、現在の大旱魃について訴える上で、約三〇〇年の時をこえて過去の大旱魃の伝承を利用しているのである。
 こういう議論を追跡していくことによって、この災害の多い列島に棲み、生活を続けてきた人々の生きた自然意識あるいは自然史に対する意識を追跡していくことはきわめて重要であろう。しかし、歴史学が、そこで十分な役割を果たすためには、本来、奈良・平安時代から江戸時代までの、時代や専攻を超えた歴史家の協同が必要である。しかし、歴史学の現状をみていると、残念ながら、それはまだまだ将来の課題であるから、ここでは、最後にもう一度、但馬国伊由庄の文書にもどって若干の検討をつけ加えておくに止めざるをえない。
 
祇園御霊会の発祥

 とくに注意しておきたいのは、貞観年間の災害が平安・鎌倉時代の歴史にとって実際に大きな意味をもっていたことである。それは、これが祇園御霊会の開始と関わっていたことに象徴されている。つまり祇園御霊会は貞観年間における旱魃と飢饉、そして疫病の流行、さらには八六八年(貞観一〇)の播磨地震(M7・0)、翌八六九年(貞観一一)年の陸奥海溝地震(M8・3)などの地震の頻発という未曾有の災害の中で、それをうち払うようにして始まったものである。よく知られているように御霊会は八・九世紀の王家の内紛の中で怨霊化し、天皇の身体に祟る呪能をもつとされた人々を鎮める祭りであり、しかも、この怨霊こそが、地震・疫病から旱魃までを引き起こすものと考えられていた。そして河音能平が、その概略を描き出したように、続発する災害の中で、むしろこの怨霊を村落に迎え取って地主神に祭り上げ、同時に、その呪能をもって支配層に対して抵抗するアジールを形成しようという村落レベルでの民衆的な動きが存在したのである。河音によれば、この祇園さらには北野に由来をひく天王社、天神社こそが平安時代以降の村落の地主神の主流をなしたのである(「王土思想と神仏習合」『岩波講座日本歴史4』一九七六年、後に『河音能平著作集2』、文理閣、二〇一一年)。河音はアジールという言葉を使わず、「自由の精神の拠点」といっているが、この図式は網野善彦のいう「無縁の自覚化」というアジール論と実質上、同じもので、網野も河音の見解が自説の前提であることを認めている(『無縁・久界・楽』平凡社、一九七六年)。私は、この怨霊の村落への迎え入れと地主神化という民衆的な動きが、日本社会が神話の時代から離陸していく上で決定的な位置をもったと考えている。
 祇園御霊会の発祥は八六九年(貞観一一)、陸奥海溝地震の発生した直後の六月と伝えられている。『歴史のなかの大地動乱』で論じたように、祇園御霊会は、折りからの旱魃・飢饉・疫病を鎮めるのみでなく、直接にはこの大地震や前年の播磨地震を鎮めるという背景をもって開始された。そもそも祇園御霊会は、播磨の広峰神社から牛頭天王=素戔鳴尊が京都にやってきて始まったとされているが、それは陸奥地震の前年の播磨地震が播磨山崎断層を震源として発生したことぬきには考えられない。山崎断層は広峰神社の近くを通って摂津にいたるが、地震はそこから跳ね返って京都を揺らした。人々が地震を引き起こした巨大な地霊は播磨から京都までやってきたという幻想を描いたに違いない。そして、これも小著で論じたように、この地震を引き起こした怨霊は、この播磨地震と同年に伊豆で死去した伴善男以外に考えられない。もちろん、六国史はそのような事情について語らないが、内裏応天門焼失事件の犯人として処断された伴善男が、恨みを呑んで、疫神となっていることは『今昔物語集』に明らかなのである。

村落の伝承と人々の力

 「貞観の旱魃」という言葉は、このような事情の下に朝野で長く記憶されたのである。もちろん、これはたとえば但馬国の人々が御霊会の開始時期として「貞観」という時代を意識し、三〇〇年前の災害と危機の時代を歴史的に位置づけていたということではない。しかし、今津勝紀の論文「古代の災害と地域社会」(『歴史科学』一九六号、二〇〇九年)によれば、貞観年間の旱魃は、とくに中国地方において猛威をふるい、しばしば村落が丸ごと消えてしまうほどの被害をあたえたという。それ故に、「貞観の旱魃」が、但馬国というレヴェルでは、それなりに伝承されていた可能性は否定できないのである。
 我々は、平安・鎌倉時代の荘園村落というと、村落の記憶や伝承などをもたない一時的な結合にすぎないものと考えがちになるのではないだろうか。しかし、伊由庄百姓解のそれなりに整った文字と文面をみていると、それは現代人の一種の偏見にしかすぎないのではないかと感じる。荘園村落の人々がたとえば旱魃の時にあたって自己の要求を摂関家に対して堂々と提出する力量をもっていたということは、彼らが、その経験や記憶においても相当の蓄積をもっていたことを意味しているのである。もちろん、現在残された文献史料には、そのような事情はまったくの片鱗としてしか現れない。また彼らの意識のスタイルは、たとえば柳田が述べたような伝説的な形態をとっていたかもしれない。しかし、生活を作っていくために必要な伝承は、彼らの中に確実に存在していたように思うのである。

「災害はどのように語られてきたか」史料の問題

 さて、右にふれた但馬国伊由庄の洪水についての史料は、「山崩」という用語をふくむという点でも貴重なものである。この用例は、データベースを検索しても、平安・鎌倉時代における地方社会での「山崩」という用語の用例としては唯一のものである。編者の竹内理三先生の御遺族の御許可をいただいて、『平安遺文』(平安時代の全古文書集)は科研で、『鎌倉遺文』(鎌倉時代の全古文書集)は、私のいる史料編纂所の事業としてフルテキスト化して、データベースとして公開された。ただ、この伊由庄百姓解はヒットしない。それは、この文書が翻刻されたのは、竹内先生が『鎌倉遺文』を編纂された後のことであったためである。しかし、この史料が、「山崩」という用語一つをとっても、データベース化されるべき貴重な史料であることは明らかである。同データベースは、現在、「協調作業環境下での中世文書の網羅的収集による古文書学の再構築」プロジェクト(近藤成一代表、科研、基盤(A))によって追補の計画が進んでおり、その成果が期待されているところである。
 石橋克彦を代表とする科研「古代・中世の全地震史料の校訂・電子化と国際標準震度データベース構築に関する研究」によって作成された「[古代・中世]地震・噴火データベース」は、文理融合を実質化するためには歴史史料のデータベース化が基礎となることを鮮明に示した。これによって各地の人々がその地域で起きた「古代・中世」の地震について原データを入手できるようになったことの意味は計り知れないものがある。そして、今後の国土保全を考えると、それを様々な側面で発展させることはアカデミーの責任であると思う。 
 「災害はどう語られてきたか」という問題は、実は、このような問題、つまり、それを今後、どのような準備と態勢で語るべきかということに関わってくる。それにしても、歴史家としては、こういう貴重な史料を残してくれた伊由庄の住人たちに感謝し、この文書を提出して、都の摂関家に訴えた後、彼らが安穏な生活を確保したということを願いたくなるのである。

2013年4月23日 (火)

地震火山90地震学の用語法(ターミノロジー)ー(4)「予知と予測」について

130413_1519281 今日は久しぶりに稲毛の浜にでて、花見川の自転車ルートをさかのぼる。うしろから追い抜かれたので、先行する自転車をおおて、しばらく全力で追いかけたが、結局はるかかなたまで行ってしまってみえなくなる。

 この写真は背中が汗びっしょりになって公園で寝ていた時、上の方にみえた若枝。

 以下は、昼ご飯を食べたところで書きはじめたもの。夜になってもうまくかけず、あきらめて早い時間に一度寝たが、さすがに目がさめて、いま3時前。ともかく書けたので載せる。書くのに躊躇した事情は文末を参照されたい。他分野のことに意見をいうのは緊張する。

 日本地震学会の広報誌、『ないふる』(93号2013年四月)に地震学会会長の加藤照之氏の「何が違う? 地震の『予知』と『予測』」という文章がのっている。
 しかし、問題を「地震の予知と予測はどう違うか」という形で提出するのは適当であろうか。私は、「予知と予測」にはニュアンスの相違はあるものの、言葉としては共通する側面がある以上、「予知と予測というのは意味が違います」という形で問題を説明するのは、あまりのぞましいことではないと思う。これは学術的な内容の問題ではなく、あくまでも用語法の問題にすぎないが、以下、若干の意見を述べたいと思う。
 『ないふる』は、日本地震学会のホームページにのっていて誰でもみることができるから、その趣旨を確認することができるが、まずはこの文章の冒頭の要約をみていただくのがよいだろう。それは次のようなものである。

「地震の「予知」と「予測」はどう違うのかについて簡単に解説します。「予知」は警報が出せるくらい確度の高いもの、「予測」は確率で表現され日常的に公表可能なものというように言葉を整理して使うと誤解がなくなるように思います。地震が起きる確率が限りなく100%に近づいて行って警報が出せるようになれば、それは「予知」と言ってよいかもしれません。そのような意味で「予知」の概念は「予測」の中の極めて特殊な場合と言ってよいでしょう。

 つまり、「予知」は、「予測」とは違って、警報がだせるくらいに確度の高いものをいうという訳である。これは本文に「“地震予知”という言葉の定義として使われてきたのは『場所、大きさ、時間を指定して、地震の発生を正確に予測すること』でした」とあることに対応している。そして、これは1962年のいわゆるブループリントに「地震を予知するといえば、時・所・大きさの三つの要素をかなり細かく指定しなければ意味が少ない」とあることを引き継いでいる。私も歴史地震の研究をはじめた時に一読したが、いうまでもなく、ブループリントとは、当時の地震学会の中で組織された「地震予知研究グループ」(世話人、坪井忠二・和達清夫・萩原尊礼)が執筆して「地震予知計画」を社会に提案した文章である。
 つまり、加藤氏の文章は地震学会の伝統的な意見を維持し、代表しており、その意味では自然な見解であると思う。「予知」と「予測」には、日本語の語法としても、たしかにニュアンスの相違がある。予知は「あらかじめ知る」、予測は「あらかじめ推測する」という意味であるから予知の方が強い言葉であると理解することもできる。予知というと、予言という言葉とも連接していて、語感に重みがあることは事実である。
 加藤氏の文章が、ここを重視して「予知」という言葉をほぼ警告と同じ言葉であるとしているのも、それ自身は自然なことかもしれない。ブループリントのいう「(地震発生の)時・所・大きさの三つの要素をかなり細かく指定する」ということは、実際上、社会的には警告ということである。加藤氏はこれについても次のように的確に述べている。

「地震の発生予測は確率を与えますが、発生の直前にはほぼ100%間違いなく地震が発生するという状況が捉えられ、警報が出せるかもしれません。この状況を“予知”と呼ぶことは差し支えないでしょう」。

 いま行っていることは、予測であって、その研究の発展によっては警報がだせる可能性があり、その状況を「予知」という訳である。逆にいうと、地震学者が行っているのは、予測であって、その結果としていますぐにではないが、将来に「予知」=「警報」が可能になることを目的としているという説明である。このように、地震学がいま現実に行っているのは「予測」であって、「警報・警告」という意味での「予知」はまだまだ将来の課題であると述べるのは、いうまでもないことながら、内容としては、私も正しいと思う。

 さて以上のように、私は、加藤氏の文章に賛成でとくに「警報」という要素を明言していることは大事だと思う。しかし、考えてみると、この「予知」の定義、つまり「予知=警報」という定義は、「予知」という言葉について、地震学界が作ってきた特殊な定義である。そもそも加藤氏の文章には次のような付図がついていて、「確度の低い予測」という説明のついた「予測」が大きな楕円になっていて、その中に「確度の高い予測」という説明のついた「予知」という小さな楕円がふくまれている。2 そしてこの「確度の高い予測」というのは加藤氏のいうところでも、ようするに「警報」ということであるのはいうまででもない。
 これ自身は重要であり、かつ、「予知」という言葉は「警報」というニュアンスをふくむことができる。しかし、それは「予知」という言葉の一つのニュアンスであって、一般に通用している「予知」という言葉を、地震についてはとくにこういう意味で限定して使ってほしいという要請は、なかなかむずかしい。言葉は学界が所有しているものではなく、社会が所有し、社会が言語体系の中で、その意味を決めているものである。また言葉の理解というのは、常に主観的な要素を含む。そういう言葉の意味について、学界が、特別な理解を社会に求めるのは無理が多いのではないだろうか。こういう意味で、「予知と予測というのは意味が違います」という形で問題を説明するのはむずかしいことだと思うのである。

 問題は、「予知」という言葉をもっぱら「警報」が可能になった局面という限定した意味にしてしまうのは、「予知」という言葉をつかうメリットを少なくしてしまうのではないだろうかということである。その意味で、ブループリントが計画の名称を「地震予知計画」としたのは正しかったが、しかし、「地震予知」という言葉の狭い定義をあたえ、それを「発生の日時と震源地、そして規模を示す」としたのは、用語法として正しくなかった。
 「地震予知計画」という計画の名称は、むしろさまざまな意味と要素をふくむことができるのがメリットであると思う。まず第一に、「予知」は「予測」という要素を含むことができる。「予測」=「あらかじめ推測する」という言葉は、「予知」よりも一般的で、仮説をふくむ即物的な感じがする。それを研究者が日常的に使うもあたりまえだと思う。「予測」を、実際、科学の方法論として、「予測科学」とはいうが「予知科学」とはいわないのは、そのためである。社会の側も、地震の「予測」といえば、それは確率的なものであるということを明瞭に理解している。
 「予知」という言葉は、第二に地震の発振機構を知るという意味も含むことができる。たとえば「東北地方での地震を予知する」といえば、「東北地方での地震を予測する」よりも広く、地震発生の仕組みそれ自体を知るというニュアンスがふくまれる。「地震予知研究」といえば、それは地震の基礎的・応用的な研究をふくむことができるのである。「地震予測研究」では、どうしてもそういう要素よりも直接に限定的な警告の実用性がとわれる。
 そして、第三に、「地震予知計画」といえば、社会の地震についての理解能力を高めるという要素もふくむことも可能になると思う。「地震の予測」といえば地震学の専門性に属する問題であるが、「地震をあらかじめ知っておく」ということならば、歴史学をふくむ他の諸学も、それなりの役割をおのおの負うことが出来ると思う。「予知」とは専門家のみの作業ではなく、社会全体の能力の総和でもあるといえるかもしれない。少なくとも、地震についての社会的なリテラシーをどう確保するかは「地震予知研究」の重要な側面である。これを「地震警報計画」といっては、そういう要素は含まれない。
 そして、第四に「地震予知」は、加藤氏の文章がブループリントをうけて強調するように「地震についての警報」というニュアンスもふくむことができるのである。
 以上のように、「地震予知」=「あらかじめ知る」「あらかじめ知っておく」という言葉には、大ざっぱにいっても以上の四つの意味があって、いわば未来についての知識の総称という意味がある。たしかに「予知」という言葉には強すぎる意味や曖昧な要素があるから、そういう一般的な意味で使うのは科学者としては避けたいという気分が生まれることはあるだろうが、しかし素人からすると、「予知」という言葉を使うことのメリットは大きいように感じる。図でかけば、下記のようになるといってよいだろうか。加藤氏のそれとは、形式の上では、丁度反対になるが、趣旨はそう違うとは思わない。Photo

 さて、例によって長くなったが、予知というのはようするに警報であるということならば、最初からそういえば問題はすっきりする。そもそも「予知と予測はどう違うか」という問題の設定は、予知=警報ということになれば、「警報と予測はどう違うか」という問題設定と同じことであるということになって意味がないことになる。警報と予測が違うことなのは言葉の使い方として当然のことだからである。
 そして、「警報」ということなれば、地震学会は総力をあげて地震の警報システムを作ってきたではないか。もちろん、これは地震学者の学術の論理からみれば初歩的なもので、震源における「地震」断層破壊の発生にともなう地盤の動揺の波及、(P波とS波の波長の相違を利用して)「地震動」の波及を予測するというものにすぎないということであろう。しかし、これは明らかに社会的に有用なものであって、「警報」という社会的効果においては共通するものである。
 無責任な局外者やジャーナリズムは、地震学会はできもしない「予知計画」を表に立てて予算をとってきたなどというが、「予知計画」の予算の一定部分が、この警報システムの維持に使われたことが明らかな以上、何の遠慮が必要だろうか(これについては「地震学の用語法(ターミノロジー)」の(1)にもすでに書いた)。そして、日本の社会にとって、この列島に棲むものにとって、広い意味での「予知」が必要なことは明らかであるから、地震学会が「地震予知」を目標にして社会的に活動するのは当然のことである。それは50年後に少し前進し、100年後には相当前進するが、全体としては200年立っても若干の前進にとどまるというものかもしれない。あるいは1000年かかるかもしれない。しかし、それを目標とし続けることは、この列島に人類が棲みつづけようとする以上、当然のことである。地震学が「実用科学」としての側面をもつ以上、そういう社会的必要に答えようとするのは当然のことである。地震学会が「予知計画」という名前で、社会的な役割を担おうとするのは尊重すべきことであれ、批判するべきことではない。私は、これについてはアカデミーが声をあわせて主張し、地震学の立場を擁護する必要があると思う。

 最後に、この文章を書くにあたって少し躊躇したことがあり、それについても書いておきたい。それは地震学会の代表の文章について、他分野のものがブログのような任意の場所で意見をいうのは、必ずしも適当なことではないのではないかということである。分野は違っても、研究者として社会的存在をゆるされている点は同じなのだから、意見が違うのならば学会のルートを通じて、あるいは論文などによって議論をすることにつとめなければならない。それは諸学の融合ということを大事にする以上、当然のことであり、また社会的に重要な問題であるならばなおさらであるということになる。
 これが従来の学者の感じ方であろう。たしかに他分野の専門性に属する問題についての発言はできるかぎり抑制的でなければならない。それについて責任がとれない部分がある以上、発言に慎重になるのは当然のことであって、それは学術世界の倫理であり、さらに専門職一般に共通する倫理であると思う。
 けれども、学術の中身ではなく、その社会的な説明、あるいはその社会的な位置や効果については、率直に、どういう場でも議論することは必要だと思う。それなしには専門職と社会の関係は分離してしまう。社会と学術、社会と専門職の間に万里の長城をもうけないためには、学問や専門性の社会的な位置に関することはむしろ全面的にオープンに議論することがのぞましいと思う。そもそもネットワーク社会の意味は、それによって専門性と社会の間の距離が大きく縮まることにあるはずだからである。我々の世代の感覚からいうと、いわゆる「専門馬鹿」に研究者がならないための技術的保障がネットワークによって強制的にあたえられたのだと思う。(なお、それでも躊躇があって、若干加筆しました。20130423)

2013年4月 6日 (土)

89地震学の用語法(ターミノロジー)ー(3)「地殻災害」とGeohazards

 「地殻災害」という言葉はこれまでの地球科学や災害研究の用語の中にはないが、『歴史学研究』の2013年3月号(903号)の論文「自然災害史研究の射程」で、峰岸純夫氏が提案した用語である。峰岸さんは、自然災害を(1)気象災害(a風水害、b干ばつ・冷害)、(2)地殻災害(a地震・津波、b火山爆発)、(3)虫・鳥獣害(a昆虫の大量発生、b鳥獣の作物荒らし)と区分することを提案されている。
 峰岸さんの著書、『中世災害・戦乱の社会史』を点検してみても、この「地殻災害」という用語は使用されていないから、最近、使われるようになったということらしい。ただ、右の著書におさめられた1995年の論文「自然環境と生産力からみた中世史の時期区分」に「自然災害のなかには火山爆発、地震などの地殻構造変化にもとづくものがある」(34頁)という記述があり、また同書の「はじめに」では、自然災害を「風水害、干ばつ・冷害」などと、「地震・津波・噴火」に大別しているから、峰岸さんは、このような考え方を早くからもっていたようである。
 そこに自然災害には「第二に、日本列島の地殻構造に起因する地震・津波・火山爆発などである」としてプレートテクトニクスの学説からみると、日本列島が「地震・火山列島」というべき性格をもっていること、「日本列島の歴史は、この地震・火山災害との戦いの歴史でもあった」ことが強調されていることは、私などにとっても直接の前提であった。
 さて、地殻災害という言葉を使って地震学・災害研究の方と話していたところ、Geohazardという言葉はあるが、地殻災害という用語は聞いたことがない。新鮮な言葉で利用できるかもしれないということであった。
 Geohazardsというのはgeology、地質学的なハザードで、Geohazardsの日本語訳はないようであるが、しいて翻訳すれば地質災害であろうか。しかし、日本語の語感では、地震・津波・噴火を地質災害とはいいにくい。地質というともう少し大地の表層部分をいうような漢字がある。それに対して、地殻というと、大地の深部、岩盤部分を明瞭にふくむ。それだからGeohazardsの語感は地質災害よりも地殻災害という方が受けとめやすいと思う。
 Geohazardsというと、山崩れ、土砂崩れを含むし、あるいは場合によっては雪崩などもなどをふくむような気がする。日本語の語感だと、山崩れというのは、表層的な被害で、地殻災害とはいいにくいようであるが、しかし、最近の山崩れはDeep-seated Landslide(深層崩壊)といって、地層深部における変異に関係しているということであるから、地殻災害といってもよいのかもしれない。あるいはアメリカでシェールガスの採掘が地表に広範囲な汚染Polutionをもたらしているというが、これも広い意味でのGeohazards=地殻災害といってよいのだろう。千葉九十九里のいわし博物館の爆発事故も天然ガスの床下蓄積であったことも記憶に新しい。
 以下、訳語問題の議論に移ると、峰岸さんのいう、自然災害の三類型のうち、第一番目の気象災害はMeteorological Hzardsということになり、第三番目の虫・鳥獣害は、より広くBiological hazards=生態災害といったほうがよいのかもしれない。これが欧米の自然災害の一般的な類別のようである。疫病なども広い意味でのBiological hazards=生態災害に入れられている。私は『歴史のなかの大地動乱』で、8・9世紀を温暖化・パンデミック・大地動乱の三つが同時に日本列島を襲ったという図式を描いてみたが、日本の災害研究では、ここら辺の問題や用語法はどうなっているのだろう。

2013年4月 3日 (水)

88地震火山 「安全神話」という言葉について、東大の広報紙「淡青」

 小平邦彦さんのエッセイが好きで、一時よく読んだ。面白かったのは「数覚」という言葉で、それは数学者の中に自然に芽生えてくる感覚なのだという。歴史学でいえばそれは何だろうと考えてきたが、「時覚」という言葉だろうかと思うようになった。
 私は一昨年から火山と地震の歴史の研究にとり組んでいる。3月に定年で史料編纂所を去るいまになって、地震研究所の歴史地震の研究に協力してきた先輩の仕事の意味を実感したのも、自分の人生についての一つの「時覚」というものかもしれないが、いま興味をもっているのは、紀元前後に南海トラフの連動型地震によって発生した巨大津波である。テレビで、海辺の潟湖の底泥の分析によって、この津波の規模を突きとめた高知大学の岡村真氏が、「我々の仕事は長い時間を扱うことです」というのを聞いた。地球科学ほどではないが、歴史学も個人の生活からみれば圧倒的に長い時間を扱う学問である。これがまさに「時覚」ということだと思う。そして、この「時覚」を養うためには文理の融合的な研究が必要だというのが最近の結論である。
 ところで、紀元前後といえば、日本の神話の創成期である。この時期の大地震が神話に反映している可能性は高い。実際、『古事記』には、海神スサノヲが怒って天に上る時に「山川ことごとく動み、国土みな震りぬ」とある。海神が地震神となるのは、ギリシャ神話のポセイドンでも同じであるという。スサノヲのいる地底の国が「根の鍛(かた)すの国」と呼ばれていることも重要で、つまり地底には鍛冶場があって、ヴァルカンのような鍛冶神がいるという訳である。
 そして、周知のように、青年神・オオナムチは地底を訪問し、そこでスサノヲの娘と仲良くなり、二人でスサノヲの「琴」を盗んで逃げ出すのだが、その琴が「樹に払れて地動鳴みき(とよみき)」という。この琴はスサノヲのもつ地震を起こす力を象徴するものだったのである。スサノヲは、火山噴火口から地上に逃げだしたオオナムチに対して、坂の上から「おまえは宝物を使って地上の王者となれ。そして、大国主命と名乗れ」と叫んだ。オオナムチの「ナ」とは、「ウブスナ(産土)」の「土」(な)のことで自然としての大地という意味であるから、彼が「大国主」となったというのは大地の神が国王となったというような意味であることになる。この神話は、この列島に棲む人類にとって重要な意味をもっているのではないだろうか
 さて、最近、危惧をもっているのは、ほとんどの人が「安全神話」という言葉を、原発について何の疑問もなく使っていることである。実態は「安全宣伝」としかいいようのないものに神話という用語を使うのは、人文学者としては大きな抵抗がある。これでは、民族的な遺産としての神話のもつ力は台無しである。大学が、社会的な要請を正面から受けとめて、本格的な文理融合に進むためには、ここらへんの感じ方から議論しなければならないのではないだろうか。私たちが責任をもつべき時間は、神話の時代をふくんでほとんど永遠に近い過去から未来まで続いているのだから。

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