以下は、『HUMAN』Vol3、2012年12月(人間文化研究機構編)に書いたもの。
「平安・鎌倉時代の災害と地震・山津波」
二・三年前から、この列島を襲う集中豪雨によって各地で山地が地盤崩壊を起こしているという。地質学・土木工学の研究者は、それを深層崩壊(deep-seated landslide)と呼んで国土の安全の保守について警告を発している。とくに二〇一一年三月一一日の東日本太平洋岸地震の揺れは、福島県の葉の木平で、とても地崩れが起こるとは思えないような緩斜面を一挙に崩壊させ、大きな被害を出した。また九月には豪雨が紀伊半島を襲い、和歌山県十津川で谷間の村が対岸の山の深層崩壊によって埋没したことも記憶に新しい。
このような山地の地盤崩壊は、ただの山崩れというよりも山津波というべきものであろう。集中豪雨は温暖化にともなう気候の不安定化の表現であり、海水温の上昇が直接のきっかけになるという。そして地震がしばしば地盤を揺することが、その深層崩壊に結びつくこともいうまでもない。もちろん、これらは、まずは二〇世紀に進行した国土の乱開発の結果であると考えなければならないが、同時に、温暖化の中で地震の活発期が到来したという条件が、それを倍加しているのである。国土の保守ということが身近な話題となる時代が到来しており、歴史学もそれと無縁ではいられないと思う。
堰止め湖の形成と決壊
さて、先日刊行した『歴史のなかの大地動乱ー奈良・平安の地震と天皇』(岩波新書、二〇一二年八月)で述べたように、八・九世紀も地震の頻発と温暖化の時代であった。八六九年(貞観十一)に発生した陸奥海溝地震(「貞観地震」)は、三・一一東日本太平洋岸地震とほぼ同じ震源と起震構造をもっていた。私は、この地震の規模が、ここ一〇年ほどの地質学者の調査によって震災前にすでに明らかとなっていたことを知らず、あわてて研究に取り組み始めたが、その中で、この時代、しばしば地震や噴火による山間での堰止め湖の形成とその決壊による災害が起きていたことを知った。それは現在起きている問題と基本的に相似した、まさに山津波=深層崩壊の問題である。右の拙著で概観したように、七一五年(和銅八)の遠江・三河地(M6,5-7,5)震にともなう洪水、八一八年(弘仁九)の北関東地震(M7,5以上)にともなう「水潦」(洪水)、八八七年(仁和三)の南海トラフ地震(M8~8,5)にともなう八ヶ岳山体の崩壊によって形成された古千曲湖の決壊にともなう大洪水などは、その明瞭な事例である。
さて、このような山地の地盤崩壊の問題を八・九世紀の史料に即して初めて指摘したのは、『古地震』(東京大学出版会、一九八二年)にのった論文「弘仁九年七月地震」(萩原尊禮・山本武夫)であろう。この論文は右にあげた八一八年の北関東地震の史料に「上野等の境、地震災をなし、水潦相仍り」とあることを詳しく論じた。それまでの地震学の見解では、この史料のいう「水潦」は津波と誤解されていたが、史料編纂所の山本武夫は、「水潦」とは「洪水」を意味する語であり、この記事は上野国あたりで山地に堰止め湖が形成され、その決壊によって洪水が発生したのであろうと解釈したのである。それまで地震学の側では、南関東も津波に襲われたと考えていた訳であるが、山本氏の歴史地震研究への参加によって、この地震は北関東の内陸地震であることが確定したのである。
また現在の状況との関係で重要なのは、最後にあげた八八七年の東海南海大津波地震による大洪水であろう。この地震が東海南海大地震であることを論証したのは石橋克彦の論文「文献史料からみた東海・南海巨大地震」(『地学雑誌』一〇八号4、一九九九)であるが、石橋は、この論文で、同時に、『日本紀略』に記された翌八八八年の信濃の大洪水は、この地震によって信濃の北八ヶ岳の山体の一部が崩壊して、千曲川に塞き止め湖ができ、それが梅雨時に決壊して引き起こしたものと推定した。そして、現在では、この提言をうけて、考古学・土木工学の全体の研究が進み、この大洪水の規模が明らかとなっている。
シミュレーションによれば、JR松原湖駅付近の河道閉塞によって形成された古千曲湖は、湛水高一三〇メートル、湛水量五.八億トン、その決壊時の洪水流の流量は約三.五万平方メートル/秒、流速一.六から五.〇メートル/秒(井上公夫ほか「八ヶ岳大月川岩屑なだれによる天然ダムの形成(八八七)と決壊」(『日本の天然ダムと対応策』、古今書院、二〇一一年)。そしてその洪水によって佐久・埴科・更級の千曲川流域一帯にひろがる広大な九世紀の条里水田が埋没し、回復不能なほどのダメージを受けた。それを明らかにした長野県の考古学関係者による、この五〇年ほどの営々とした発掘調査の成果は、柳澤亮がまとめている(「仁和の洪水と善光寺平の開発」(『考古学からみた災害と復興』東国古代遺跡研究会、二〇一二年)。予想される南海トラフを震源とする地震が東海地震と連動するかは不明であるが、この九世紀の東海南海連動地震の引き起こした大洪水の詳細は多くの人々に伝えるべき歴史地質学の知識であると思う。
但馬国伊由庄百姓の解状
このような山津波というべき災害は、この地震列島ではしばしば発生していたに違いない。ただ、右にみた八・九世紀は六国史によって、地方史料が編纂物に残されるルートが存在したが、平安・鎌倉時代には、そのようなルートは失われた。それ故に、それを探るためには文献史学の範囲を越えて、地質学・地震学・考古学の学際的な協力が期待されるが、文献史学の立場からも精細な調査を試みるべきものと思う。京都の貴族は首都圏の外のことを自分の日記に書く必要を感じていないが、しかし、当時の社会は、けっして無文字社会ではなく、むしろ災害が発生すれば、必ず文字に書かれて活発に伝達される社会である。それ故に、史料の探索と読み込みによって災害史の史料を発見する可能性はまだ残っているのである。
ここではまず筆者が気づいた但馬国朝来郡の伊由庄の史料に残る大洪水の史料を紹介してみたい。それは藤原為隆という平安時代末期の貴族の貴族の日記の紙背に残された伊由庄百姓の解状である(『京都大学文学部博物館の文書、一一輯 永昌記紙背文書』思文閣出版、一九九三年)。それによれば、鎌倉時代初めの一一九九年(正治一)六月二日から八月六日にかけて、伊由庄では六六日間も干天が続き激しい旱魃となっていた。ところが、伊由庄百姓が、その事情を訴えた申状を提出した直後、今度は、八月十八日の子剋(夜一二時)から十九日にかけての豪雨に襲われたのである。その直後、百姓たちは洪水の被害を訴え年貢の減免のための調査を訴える二度目の解状を提出した。
現在残っているのは、この二度目の解状であるが、その末尾では、但馬国の惨状を、飢餓に襲われた「食を求めて得がたきの人々、食物を貪る事、餓鬼に異ならず」と報告している。伊由庄は但馬から播磨へぬける生野峠の麓の荘園であって、摂関家がこの地域をおさえていたことからも交通の要衝として豊かな生業をもっていたものと思われる。そこに但馬国の飢えた人々がやってきたというのは事実であったと考えても問題ないと思う。そして、洪水は「国中流死人数千余人、以牛馬以同也、流失在(以下欠)」という被害をもたらしたという。もちろん、「数千人」という死者数には若干の誇張があったろう。この一節の続きの部分は、この申状が日記の料紙として切りそろえて利用された関係で欠けているのも残念である。しかし、申状が、「先生の業因を知らざるか」「たとえるに蹄叫地獄の如し」などと述べていることのすべてを誇張ということはできず、この洪水の規模がなまなかなものでなかったことは確実である。
この但馬国洪水が発生した一一九九年は鎌倉時代の初め、つまり八・九世紀から一二世紀くらいまで世界中で続いたとされる「中世温暖期」の最末期にあたる(参照、西谷地晴美『日本中世の気候変動と土地所有』校倉書房書房、二〇一二年)。但馬国で六十六日も日照が続いたという記事は虚偽とすべきではないだろう。ここには温暖化の中での日照の連続が海水温の上昇などをもたらし、激しい集中豪雨が発生したという状況を想定してよいように思われる。
円山川の大洪水
この申状の日付は八月二十三日。八月十八日、十九日の豪雨による洪水の直後である。伊由庄の住人が二三人も連署しているから、現地で執筆されたものと思われる。伊由庄という荘園は、但馬国を南北に貫流する円山川の最上流、生野銀山の北に広がる細長い谷間の土地に立地している。この谷間の土地を、いわゆる鉄砲水が襲ったのであろう。解状は「作物、旱魃のため、皆損すと雖も、将来の作を募り、餓?の思いを忍び、踵を廻らすの思いをなすのところ」「将来の蓄、東西失い了」とある。つまり旱魃で田畠は皆損の状態となったが、飢えながらもどうにか生活を組み立てようとしていたところ、洪水によってすべてを失ってしまったというのである。洪水によって「平地の在家、桑・漆・柿・胡桃子など底を払って流失」、つまり家も樹木も一切が流されてしまった。申状は「日神・水神(のために)、一期の財産奪い取られ了」と嘆いている。
「山崩のため突き埋めらる名の佃人」とあることから、山崩れによって山際の田地の農民が犠牲になったこともわかる。洪水の規模は、辰戌(東南東から西北西)の方向に流れる川が、幅二・三町(二〇〇から三〇〇メートル)、長さ二〇町(二キロ)ほどが水に埋まったという。これは方位からいって、伊由庄を貫流して、円山川に流れ込む伊由谷川のことであろう。そして荘園の「東境川上」の「伊由坂」の付近から「山際」にかけての「洪水の深さ」は「或所は五丈、或所は三・四丈」に達したという。伊由坂とは現在の伊由峠だとすると、そこかを水源とする伊由谷川は、上流ではむしろ東北から南西にかけて流れているから、それが荘園の東境にあたるというのは了解しやすい。一丈を三メートルとすると、高さ一〇メートルから一五メートルの洪水に襲われたことになる。
この時の但馬国の大洪水では、本流の円山川に流れ込む、この伊由谷川のような、いくつかの河川が流れる山間で山崩が起き、それによってできた小さな堰止め湖が決壊することによって発生した洪水によって災害が拡大したのではないだろうか。たまたま史料が残ったのは伊由谷川だけであるが、「数千人」が死んだ大洪水となれば、それ以外にも何本かの河川で同じようなことが起きたと考えるのが自然だと思う(伊由谷川の南で円山川に流入する多々良木川の上流には、現在、人造ダムができているが、たとえばそれに重なるような堰止め湖が山崩れによって形成され、それが決壊したのではないだろうか)。円山川は、豊岡・城崎を通って北に流れ、日本海に流れ入っているが、若干の誇張があるだろうとはいえ、「数千人」の死者を出したといわれる洪水は山間地でのこの種の溢水なしには考えられない。
『発心集』入間川の大洪水
次に参照しておきたいのは、鎌倉時代の説話集、鴨長明編の『発心集』(巻四)に伝えられる、武蔵国の入間川の大洪水の話である。説話集であるためもあって、いつ頃のことかは記していないが、入間川のほとりに大堤を築いて集落ができていた。ところが、五月雨のころ「水いかめしう出たりけり。されど、未だ年ごろ、この堤の切れたることなければ、さりとも驚かず」にいた。しかし、雨が降り続く中で、その堤が「雷の如く、よに恐ろしく鳴り響む声」とともに決壊したという。驚いて外をみると「二・三町ばかり白み渡りて、海の面と異らず」という状態になっており、家は根こそぎ流されてしまう。主人の男は家の屋根にのって漂ったが、途中で飛び降りて泳ぎださざるをえなかった。その時、幸い流れ残った蘆の葉で少し黒みがかった場所を発見して、そこに辿り着くと、それは実は「水に流れ行く蛇どもの、この蘆にわずかに流れかかりて、次第に鏈り連りつつ、いくらともなく蟠り居たりける」というもので、男は蛇に巻き付かれてどうしようもなくなった。そして、一度海まで流されたものの、偶然、足のつくところについて、蛇を身体から切りはなち、浜に泳ぎ戻ってどうにか助かったという。
この武蔵国の説話は長明が、鎌倉時代の初めのころ、長明が実際に東国に下った時に集話したものではないかというから、このころ、東国に洪水伝説が存在していたことは認めてよいだろう。私が想起するのは、先に述べた北関東地震によって発生した上野国の「水潦=洪水」の話である。この『発心集』の説話の示すような内陸の大洪水説話の背景として、地震などにともなう山地の地盤崩壊と堰止め湖の決壊による大洪水があったのではないだろうか。平安時代、東国で、現在は記録に残っていない大地震があり、それとともに関東平野の中央部の低地で大洪水が起きた、『発心集』の説話はそれを伝えていると考えてみたい。先述の八ヶ岳の山体崩壊にともなう大洪水の事例などは、きわめて大規模なもので、一面の海という『発心集』の大洪水のイメージに共通している(なおそのほかの洪水伝説としては『宇治拾遺物語』三〇の「唐卒塔婆血つく事」があるが、これは『捜神記』の翻案であるため、日本の災害史史料として利用するのは、そのままでは困難である)。
『方丈記』元暦二年の大地震
平安・鎌倉時代、ほかに洪水による田地の水損を伝える史料は多く、根本的にはその一つ一つについて河川氾濫の様子を復元していく必要があるが、山崩れをともなうような大洪水を伝える史料は、以上で尽きる。しかし、現実には、さらに多くの洪水が山地の地盤崩壊をともなって発生していたに相違ない。その点で参考になるのは、一一八五年(元暦二)の地震についての『方丈記』の記述であろう。そこには「山はくずれて、河をうずみ、海はかたぶきて陸地をひたせり。土裂けて、水湧きいで、いはほわれて谷にまろびいる」とある。これは地震にともなう山体崩壊によって河の堰止めが起きたことを示している。この一一八五年の地震はマグニチュード約七・四という激しいもので(阪神大震災はM七・二)、ボーリング調査・ジオスライサー調査によって震源は琵琶湖西岸断層帯にあったことがほぼ確証された(金田平太郎など「群列ジオスライサー調査に基づく琵琶湖西岸断層帯南部の最新活動期」『歴史地震』二三号、二〇〇八年)。別に述べたように(「平安時代末期の地震と龍神信仰」『歴史評論』七五〇号、二〇一二年)、この地震は比叡山の堅固な山頂岩盤をゆらし、その西の京都も激震となったが(震度六)、さらに琵琶湖西岸断層帯の南につらなる黄檗断層帯を揺らし、北は比良から饗庭野につらなる断層帯までをも大きく揺らしたと考えられる。そして「美濃・伯耆などの国より来る輩曰く、殊なる大動にあらず」(『中山忠親記』)という京中の噂の記録によれば、この地震の揺れが少なかった地域は美濃・伯耆以遠であったというから、逆にいえば、日本海側の伯耆と美濃の間の諸国、つまり越前・若狭・丹波・丹後・但馬・因幡の諸国では、震度3を越える場合があったという推定がなりたつのである。そして摂津の側は揺れていないから、『方丈記』のいう津波は、後の美濃あたりを震源とする「天正地震」(一五八六年)の場合と同様に、越前・若狭のあたりを襲ったものとしてよい。日本を代表する古典、『方丈記』に描かれた津波が、原発の集中の危険が問題となっている若狭を襲っていた可能性があるというのは、多くの人が知っておいてよいことだと思う。
ともあれ、そうだとすると、右にふれた伊由庄のある、但馬国も、この一一八五年の近江・山城地震の時、相当の揺れがあったに相違ない。そして、そのほかにも、この時期、京都ではいくつかの地震が記録されている。右の近江・山城地震のほかに、さらに但馬国の地盤を揺るがす地震があったかどうかは分からないが、この時期の地震が中国山地でも山崩れの起こりやすい状態をつくっていたことは否定できないだろう。地震の被害が「地裂・山崩」と定型的に語られるのは、それなりの理由があったはずである。
たとえば、少し時期を下るが、一三六一年(康安一)の南海地震では紀伊の熊野が大きな被害を受けた。これについて、大和法隆寺の記録『嘉元記』は「熊野山ノ山路并山河等、多以破損」としている。そしてこれと照らし合わせると『太平記』(巻三六)が、この地震によって「紀州の々程裂たる地もなければ」としているのも事実を反映しているとみてよいだろう。この地震が全体として「すべて山川・江河・林野・村落、この災いに合わずと云ふところなし」という被害をもたらしたというのも、定型句ではあるが、参考にすることが許されよう。
これは昨年(二〇一一)九月の紀伊半島における深層崩壊の様相を、そのまま想起させる。現在進行している深層崩壊は、地質的には、この時の継続でもあるのであろう。そう考えると、今後、地震史料に登場する山崩れの史料を現地とひきあわせて詳細に検討する必要は高いと思う。
山崩れと「山姫様」伝説
さて、本稿のテーマとしてあたえられた「災害はどう語られてきたか」については、「山崩・山津波」にしぼって考えると、柳田国男が一九三六年に発表した「妖怪談義」(『定本柳田国男集』筑摩書房、四巻)が参考になる。この論文で、柳田は木曾の川筋に残る山崩れと洪水についての伝説を記録している。それによれば、木曾山地に百人もの杣工が入って小屋をかけて泊まっていると、「この杉林だけは残して置いてくれ」という「山姫様」の夢の告げがあった。それにも拘わらず伐採に取懸かると、やがて大雨が降って山が荒れ出した。そうして、これも闇の夜中に水上の方から、「行くぞ行くぞ」と頻りに声が掛かってきた。小屋のもの一同が負けぬ気で声を合わせ、「来いよ!」と遣り返すと忽ち山は崩れ、残らず押し流されて、たった一人、この顛末を話しうるものが生き残ったという。
こういう山崩れについての伝説が、長い歴史を通じて、この列島で語られてきたのは疑いないだろう。興味深いのは、この山津波を起こした妖怪が「山姫様」という女性であり、柳田は、これを一種の地霊とみていたのではないかと思われることである。柳田は、例の不思議な説得力のある筆致で、この地霊は本来は人々の信仰を集めていた存在であったのではないかと述べている。そして、このような山の女神の例としては、中国地方有数の活火山、石見国三瓶山西麓にある「浮布池」に鎮座する邇幣姫神社の女神の伝承が興味深い。
野本寛一の紹介によれば、この山に囲まれた幽邃な霊池は天武天皇の時代の七世紀南海東海連動地震による山体崩壊にともなう堰止め湖であるという伝承をもち、この池の龍神は、「田を湿す故に人民厚く水霊を崇敬し」、江戸時代までこの池を源流とする静間川流域の人々の信仰を集めていたという(『神と自然の景観論』講談社学術文庫、二〇〇六年)。三瓶山の埋没林調査では、七世紀の噴火や山体崩壊の証拠はでていないようであるが(光谷拓実「年輪年代法と文化財」『日本の美術』四二一号、二〇〇一年)、ともかくも、人々は、この神社は三瓶火山の女神が移座したものと考えていたのだろう。江戸時代の人々は、はるか昔、流域の奧に聳える火山の女神が身を震わせて堰止め湖を作りだし、人々の生業を助けたのだという信仰を伝えていたのである。
貞観の大災害の伝承
こういう議論を追跡していくことによって、この災害の多い列島に棲み、生活を続けてきた人々の生きた自然意識あるいは自然史に対する意識を追跡していくことはきわめて重要であろう。しかし、歴史学が、そこで十分な役割を果たすためには、本来、奈良・平安時代から江戸時代までの、時代や専攻を超えた歴史家の協同が必要である。しかし、歴史学の現状をみていると、残念ながら、それはまだまだ将来の課題であるといわざるをえない。そこでここでは、最後にもう一度、但馬国伊由庄の文書にもどって若干の検討をつけ加えておくことにしたい。
実は、この庄司解の冒頭には、「住人など、謹んで古風を承るに、貞観の旱魃の古体承り及ぶところなり、今来は今□□年の旱なり」とあった。「貞観の旱魃」とは九世紀の貞観年間(八五九~七七)に激しかった旱魃ということである。これは鎌倉時代まで有名であったらしいことは『吉田経房記』に一一八五年(元暦二)七月のある貴族の日記に、「貞観の旱」(貞観の日照りの災害)が、この時におきた地震と同じくらい被害が大きかったと回顧されていることでもわかる。先にも述べたように、九世紀は地震の頻発の時代であると同時に、中世温暖期の最初期にあたり、旱魃と飢饉、それに誘発された疫病の流行によって、日本社会は大きな危機の中にあった。
何よりも興味深いのは、貴族の日記ではなく、地域で作成されたと考えられるこの文書に「貞観の旱魃」が激しかったという伝承が伝えられていることであろう。もちろん、それは中央での記憶を再度持ち込んだものである可能性もあるが、前述のように、この百姓解文は洪水の直後に現地で書かれたものである。この文書の料紙が生漉で非繊維物質(柔細胞)が多く少し黄色がかっているというのも、この解状が伊由庄現地で書かれたことを物語っているといってよい。執筆者は百姓の一人か、その中にいる僧形の人物か、あるいは庄家政所に所属する公文のような一定のリテラシーをもっていた人物であろうか。それは分からないが、いずれにせよ地域社会にいる人物が、現在の大旱魃について訴える上で、約三〇〇年の時をこえて過去の大旱魃の伝承を利用しているのである。
こういう議論を追跡していくことによって、この災害の多い列島に棲み、生活を続けてきた人々の生きた自然意識あるいは自然史に対する意識を追跡していくことはきわめて重要であろう。しかし、歴史学が、そこで十分な役割を果たすためには、本来、奈良・平安時代から江戸時代までの、時代や専攻を超えた歴史家の協同が必要である。しかし、歴史学の現状をみていると、残念ながら、それはまだまだ将来の課題であるから、ここでは、最後にもう一度、但馬国伊由庄の文書にもどって若干の検討をつけ加えておくに止めざるをえない。
祇園御霊会の発祥
とくに注意しておきたいのは、貞観年間の災害が平安・鎌倉時代の歴史にとって実際に大きな意味をもっていたことである。それは、これが祇園御霊会の開始と関わっていたことに象徴されている。つまり祇園御霊会は貞観年間における旱魃と飢饉、そして疫病の流行、さらには八六八年(貞観一〇)の播磨地震(M7・0)、翌八六九年(貞観一一)年の陸奥海溝地震(M8・3)などの地震の頻発という未曾有の災害の中で、それをうち払うようにして始まったものである。よく知られているように御霊会は八・九世紀の王家の内紛の中で怨霊化し、天皇の身体に祟る呪能をもつとされた人々を鎮める祭りであり、しかも、この怨霊こそが、地震・疫病から旱魃までを引き起こすものと考えられていた。そして河音能平が、その概略を描き出したように、続発する災害の中で、むしろこの怨霊を村落に迎え取って地主神に祭り上げ、同時に、その呪能をもって支配層に対して抵抗するアジールを形成しようという村落レベルでの民衆的な動きが存在したのである。河音によれば、この祇園さらには北野に由来をひく天王社、天神社こそが平安時代以降の村落の地主神の主流をなしたのである(「王土思想と神仏習合」『岩波講座日本歴史4』一九七六年、後に『河音能平著作集2』、文理閣、二〇一一年)。河音はアジールという言葉を使わず、「自由の精神の拠点」といっているが、この図式は網野善彦のいう「無縁の自覚化」というアジール論と実質上、同じもので、網野も河音の見解が自説の前提であることを認めている(『無縁・久界・楽』平凡社、一九七六年)。私は、この怨霊の村落への迎え入れと地主神化という民衆的な動きが、日本社会が神話の時代から離陸していく上で決定的な位置をもったと考えている。
祇園御霊会の発祥は八六九年(貞観一一)、陸奥海溝地震の発生した直後の六月と伝えられている。『歴史のなかの大地動乱』で論じたように、祇園御霊会は、折りからの旱魃・飢饉・疫病を鎮めるのみでなく、直接にはこの大地震や前年の播磨地震を鎮めるという背景をもって開始された。そもそも祇園御霊会は、播磨の広峰神社から牛頭天王=素戔鳴尊が京都にやってきて始まったとされているが、それは陸奥地震の前年の播磨地震が播磨山崎断層を震源として発生したことぬきには考えられない。山崎断層は広峰神社の近くを通って摂津にいたるが、地震はそこから跳ね返って京都を揺らした。人々が地震を引き起こした巨大な地霊は播磨から京都までやってきたという幻想を描いたに違いない。そして、これも小著で論じたように、この地震を引き起こした怨霊は、この播磨地震と同年に伊豆で死去した伴善男以外に考えられない。もちろん、六国史はそのような事情について語らないが、内裏応天門焼失事件の犯人として処断された伴善男が、恨みを呑んで、疫神となっていることは『今昔物語集』に明らかなのである。
村落の伝承と人々の力
「貞観の旱魃」という言葉は、このような事情の下に朝野で長く記憶されたのである。もちろん、これはたとえば但馬国の人々が御霊会の開始時期として「貞観」という時代を意識し、三〇〇年前の災害と危機の時代を歴史的に位置づけていたということではない。しかし、今津勝紀の論文「古代の災害と地域社会」(『歴史科学』一九六号、二〇〇九年)によれば、貞観年間の旱魃は、とくに中国地方において猛威をふるい、しばしば村落が丸ごと消えてしまうほどの被害をあたえたという。それ故に、「貞観の旱魃」が、但馬国というレヴェルでは、それなりに伝承されていた可能性は否定できないのである。
我々は、平安・鎌倉時代の荘園村落というと、村落の記憶や伝承などをもたない一時的な結合にすぎないものと考えがちになるのではないだろうか。しかし、伊由庄百姓解のそれなりに整った文字と文面をみていると、それは現代人の一種の偏見にしかすぎないのではないかと感じる。荘園村落の人々がたとえば旱魃の時にあたって自己の要求を摂関家に対して堂々と提出する力量をもっていたということは、彼らが、その経験や記憶においても相当の蓄積をもっていたことを意味しているのである。もちろん、現在残された文献史料には、そのような事情はまったくの片鱗としてしか現れない。また彼らの意識のスタイルは、たとえば柳田が述べたような伝説的な形態をとっていたかもしれない。しかし、生活を作っていくために必要な伝承は、彼らの中に確実に存在していたように思うのである。
「災害はどのように語られてきたか」史料の問題
さて、右にふれた但馬国伊由庄の洪水についての史料は、「山崩」という用語をふくむという点でも貴重なものである。この用例は、データベースを検索しても、平安・鎌倉時代における地方社会での「山崩」という用語の用例としては唯一のものである。編者の竹内理三先生の御遺族の御許可をいただいて、『平安遺文』(平安時代の全古文書集)は科研で、『鎌倉遺文』(鎌倉時代の全古文書集)は、私のいる史料編纂所の事業としてフルテキスト化して、データベースとして公開された。ただ、この伊由庄百姓解はヒットしない。それは、この文書が翻刻されたのは、竹内先生が『鎌倉遺文』を編纂された後のことであったためである。しかし、この史料が、「山崩」という用語一つをとっても、データベース化されるべき貴重な史料であることは明らかである。同データベースは、現在、「協調作業環境下での中世文書の網羅的収集による古文書学の再構築」プロジェクト(近藤成一代表、科研、基盤(A))によって追補の計画が進んでおり、その成果が期待されているところである。
石橋克彦を代表とする科研「古代・中世の全地震史料の校訂・電子化と国際標準震度データベース構築に関する研究」によって作成された「[古代・中世]地震・噴火データベース」は、文理融合を実質化するためには歴史史料のデータベース化が基礎となることを鮮明に示した。これによって各地の人々がその地域で起きた「古代・中世」の地震について原データを入手できるようになったことの意味は計り知れないものがある。そして、今後の国土保全を考えると、それを様々な側面で発展させることはアカデミーの責任であると思う。
「災害はどう語られてきたか」という問題は、実は、このような問題、つまり、それを今後、どのような準備と態勢で語るべきかということに関わってくる。それにしても、歴史家としては、こういう貴重な史料を残してくれた伊由庄の住人たちに感謝し、この文書を提出して、都の摂関家に訴えた後、彼らが安穏な生活を確保したということを願いたくなるのである。