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2013年5月

2013年5月30日 (木)

95「地殻災害の軽減と学術・教育」、学術会議学術フォーラム

Cimg1165  これは自宅の玄関の下に自然に生えてきた卯の花。食卓にもってきたが、花の散るのが早く。不評であった。書斎の入り口のところで撮影。右上に小さくみえる写真は、若い頃の歴史学研究会の中世史部会の仲間たちと。みんながみれば見分けがつくかもしれない。
 さて、私も関係して学術会議に提案していた「地殻災害の軽減と学術・教育」というテーマの学術フォーラムの開催が承認されたという連絡があった。学術会議第一部史学委員会委員長の木村茂光氏と第三部地球惑星科学委員会委員長永原裕子氏との連名での提案で、趣旨は下記のようなもの。地震学、火山学、防災学、歴史学、教育学などから報告者がでる予定。
 次が企画趣旨。
 東日本大震災の後、地震学・火山学を中心とした自然科学分野と実学としての人文社会科学の相互連携の必要が明瞭となっている。人文社会科学の側からいえば、歴史地震・噴火の史料や発掘痕跡の分析などの災害要因にかかわる文理融合研究、地球科学の発展と地震列島における防災教育・地学教育の在り方の再検討、地殻災害の予知・警告や危機管理に関わる情報論、減災と経済計画・国土計画の在り方についての抜本的な検討など、さまざまな課題が明らかになっている。自然科学の側からは、まれにしか発生しない大規模地震や火山噴火に関する不確かな情報をどのように社会に伝えるかが問われている。これらの課題は実際には緊密に結びついた問題領域をなしており、フォーラム「地殻災害の軽減と学術・教育」を提案するのは、そのためである。ここで、「地殻災害」とは地震、火山噴火、津波など地殻の活動に誘因される自然災害のことを指す。この間、人文社会科学をこえて問題を検討してきた人々が一堂に会し、地球科学の側の研究の状況、学際領域における文理融合的な研究への要求を直接に聞き、今後の地震・火山噴火をめぐる文理の融合と連携をどのように実現するかを議論したい。現在、地殻災害をめぐって、学術の鼎の軽重が問われている状態にあるといってよいなかで、どのような研究計画と学術体制が必要になっているかについて前進的な提案をすることを目的とする。なお、科学技術学術審議会・測地学分科会・地震火山部会・次期計画検討委員会において2014年よりの五ヶ年の地震・火山噴火予知に関する観測・研究計画を検討中であり、秋にはまとめられる予定である。科学技術審議会の建議によれば、この計画も防災研究との連携や文理融合的研究を強調するものになるはずであり、その趣旨をふまえて学界における討議を行いたいと考える。

 こちらからみていると、社会科学の側からの地震学・火山学との協力の体制への取り組みは、経済学・法学などの社会科学の中枢部分では弱いように感じる。法学・経済学が動かなければ、社会科学は動きようがないだろう。彼らは社会科学の中枢にいるという認識が薄いのではないかというのが、ここ20年ほどの、私の一貫した疑い。

2013年5月22日 (水)

形而上学という訳をした御仁を「呪う」ーー一つの訳語問題

 少しともかくも時間があって楽しいのは、「哲学」遊びができることである。いま考えているのはメタフィジクスの訳である。「形而上学」という訳語はいつどのように生まれたのかを点検していないが、ここに一種の訳語問題があることは明らかである。私は日本社会の歴史的構造論を議論するのには「封建制」というカテゴリーは使えないという意見を述べたが(『歴史学の見つめなおす』)、ほとんど反応がない。これは明瞭には代案を示していない以上当然のことであるが、これが喫緊の問題であることは明らかなように思う。封建制という用語をいまでも使用しているのは、自然科学でいえばプレートテクトニクスの時代に、過去のパラダイム、たとえば褶曲説を主張しているようなものである。
 しかし、この点では、哲学者は、歴史学者以上に鈍感である。ともかくもメタという言葉は、いまでは普通の言葉になっている。たとえばマンガでメタ発言というと、マンガ世界にとっての絶対者、つまり作者が、マンガ世界に介入してきて、主人公の言動についてあれこれ書き込むことであるという。手塚治虫でいえば、ヒョウタンツギである。だから、形而上学的などという言葉を使うより、メタ的の方がまだ意味が通じ、かつ正確であるということになっている訳である。こういうことになっているのは、日本の哲学者には文学者という感じの人は少なくなってしまったからやむをえないのであろうか。悪口をいえば、外から見ているかぎりでは、翻訳と哲学史以外にはほとんど無用の学問である。
 ただ、実際に論理用語としての「メタフィジクス」をどう訳すかは難しい。というよりも詳しく点検しなければならない。たとえば「超感覚的、超肉体的、超物理的」などという言葉は、「メタフィジクス」の原義には近いとしても、一種の思想態度としての意味ももつようになった「メタフィジクス」の訳語としては使えない。つまり、哲学書や理論書で「形而上学=メタフィジクス」とある部分を、その訳語に置き換えてみて違和感がないということが必要なのである。もう一つは、「メタフィジクス」に関連する用語、トランセンデンシャルであるとか、ディアレクティクなどの用語の訳語も一挙に考えなければならない。そしてそれは「哲学用語」全体の切換の問題に連なっていく。
 しかし、そこまで問題が大きいとすると、逆に、これは素人でも発言していいような問題であるということである。そこで、私案をだすとメタフィジクスは、超越論的ではどうだろうか。あるいは超次元論的あるいは異次元論的ではどうだろうか。ただ、その場合、以前、しばしば先験論的と翻訳していたトランセンデンシャルが、最近では超越的と訳されていることと衝突する。先験論というのも、もの凄い言葉であって。それが超越的と翻訳されるようになったのはよいことであるが、そういうことならもっと徹底的にやってくれればいいものをと思うのは、素人のひが目か。
 そうすると、メタフィジクスを超越論的、トランセンデンシャルを超次元的とするのはどうだろうか。どういっても、メタとトランスが日常語になっている世界では小難しい感じになるが、それはあきらめるとして、哲学書・理論書で実際に置き換えをやってみて、どうするのがいいかを考えるほかないのだろう。
 たとえばマルクスの商品論ではどういうことになるだろうか。よく議論になるのは「形式論理」と「形而上学」の関係であって、流通常識だと、形而上学のうちでも形式論理は必要である。形式論理なくして『資本論』冒頭は読めないなどという意見である。しかし、形而上学(ではない超越論)的な視点は、商品分析にそのまま必要であるというのが『資本論』の論理である。つまり、商品というものはメタの存在なので、それを分析するためにはメタの力がいるというのがマルクスの商品の呪物性(フェティシズム)論のテーゼであると思っている。たしかに形而上学は状況からの超越であり、瞑想・観想であるから、現実を静的にとらえることになり、それによって形式論理が一般化する。それ故にそれだけでは駄目なのであるが、しかし、状況からの純粋超越なしには、つまりプラトンなしには、哲学は出発しなかったのではないだろうか。私は国際キリスト教大学出身なので、大学時代にイリアスとプラトンの『国家』を読まされたことをいまでもありがたく思っている。
 問題は、このようなメタの視点を前提にして労働論をやるとどうなるのかであるが、私はドゥルーズがやろうとしたのは、そういう問題につらなっているのではないかと思う。「力能」ピュイサンスをどう考えるかということである。
 さて、私などにとって、一番問題なのは「ディアレクティク=弁証法」をどう訳すかである。堀田善衛に「ウルティマ」というエッセイがあって(『天上大風』)、スペインで生活していたとき、日常の些事で自己主張をせざるをえなくなって、筋は通したのだが、口喧嘩の相手に「セニョールは議論の仕方が下手だ」といわれてムッときたという話がある。この議論の仕方というのに「Dilectica」という言葉をそんなところで使われたことのショックもあったというのが堀田の説明。それは「ディアレクティカ、ダイアレクティクとは、私のアタマのなかでは”弁証法”なる、荘厳にしてかつ深淵なる哲学用語として居座っていたということを意味したであろう。かねて私は、この言葉を”弁証法”などという、面倒かつ得態の知れぬ日本語に訳した仁を呪っていたものであったが、それでもなおかつ、ディアレクティカ=弁証法として私のアタマは、この言葉を操作していたもののようである。哲学用語を日常語から隔離して、矢鱈に荘厳かつ深遠なことにしていたのでは、哲学の前途も危うしということになりかねないであろう」というのが堀田の観想である。
 私なども、もう弁証法という言葉が頭に染みついている世代である。それがすべて悪いこととは思わない。哲学というのはやはり「覚り」のための近代的な御経という側面があるから、御経の言葉として弁証法というのが頭にしみついているのであろうと思う。しかし、考えてみると、世代がちょっと違うと、つまり高校生のころにそれこそ「深遠な」ものとして弁証法その他の哲学の用語をきき、それに毒されてしまったというのは、私などの世代までなのであろうと思う。ここからどうにかしないと哲学どころか、学術の未来全体がないのかも知れないと思う。堀田は「議論術」とでもしておけばよかったのにというが、文脈的な落ち着きを考えると、やはり「矛盾論的」というのが一番いいのだろうか。

2013年5月13日 (月)

ジル・ドゥルーズの『差異と反復』を少し翻訳してみる。

130512_1313401  本当に久しぶりに自転車ででる。空ははれても心は闇という訳ではないが、気持ちはよいものの、疲れるようで途中で帰ってくる。
 連休は調子を崩して仕事が進まなかったが、少し必要があってジル・ドルーズの『差異と反復』を読んでいる。妻にはあきれられたが、歴史学の労働よりは、いろいろなものをひっくり返して探さなくてよいので楽なのです。彼の「時間論」は「歴史哲学」に関係するので、そのうち検討してみたいと思っている。しかし、翻訳が読みにくく、私はフランス語は駄目なので、英訳を買って、どうしようもないところは自分なりに翻訳しながら読んでいる。ともかく『差異と反復』という書名からしてわかりいくい。私とて、「差異」という問題が現代思想の基本にすわっているらしいということは知っている。私の世代はヘーゲルから読んだので、「差異?、それなに」という感じなので、ともかくどういう感じのものかということをつかむまで、もうしばらく時間がかかるだろう。
 以下は、序論「反復と差異」の最初の部分を自分で訳したもの。「反復」という言葉だが、「再帰・再現・回帰・持続・繰り返し」などのいろいろなニュアンスが入っているように感じて、repetitionとあっても、文脈と表現の中で勝手に訳している。哲学というものは、この程度まで日本語化しないと、どうしようもないのではないかとも思う。

 再帰性ということと一般性ということは違っていて、いくつかの点で区別されるのであるが、困ったことにどういう規定をする場合でも、これを混同することになってしまうことは多い。たとえば、われわれは「この二つのものは二つの水滴のように類似している」という。そしてまた私たちは「一般性についてのみ科学は存在する」ということと「再帰性においてのみ科学は存在する」ということも同じ意味としてしまう。しかし、再帰性と類似ということはまったく違うことだと、私は思う。
 つまり、まず、あるものが一般的なものであるというのはふたつのレヴェルをふくんでいる。質的なレヴェルでの類似ということと量的な意味での等置である。数学で言えば、前者はサイクルによって象徴され、後者は等号によって象徴されるといえばいだろうか。ともかく、一般性の観点というものは、数式の右側と左側が交換あるいは置換可能であるということである。個別的なものを別のものに交換し、置換してしまうということがわれわれの行動が一般的であるということそのものなのである。このようにして経験主義者は、個別的な観念の中に、それ自体として一般的な観念を定義するのであるが、彼等は、それらの個別的な観念を言葉の上での類似によって他の観念と置き換え可能である限りは、そこに何の問題もないという訳である。これとは逆に、われわれの行動がくりかえし回帰するような性格をもつというのは、それが必要で正当な行動であって、他のものに置き換えられないような場合にいわれることである。再帰的に行動すること、それは回帰とか再生とかいう考え方であるといってもよいであろうが、それは交換不能・置換不能であるような特別な事柄にかかわって生まれる。反省する、真似する、生き写しである、そして霊魂などというものは類似だとか、等置されるだとかいうこととは別の世界のことである。だいたい、一卵性双生児であっても互いに置き換わることはできないように、人が相互に霊魂を交換するということはできない。もし、交換ということが普遍性の指標であるとすれば、物の贈与あるいは盗みこそが再現し回帰することの指標であるといってもよい。そこには経済関係の相違もひそんでいることになる。
 再帰すること、それは一つの行動のスタイルである。ただし、類似物も等価物もないようなユニークで特別なことについての行動である。そしてこの外的行動の反復は、より密やかな震えがもっと深く響きわたるような内面の反復をもたらしているはずである。祝祭は明瞭なパラドクスのなかにある。それは繰り返すことができないようなことを繰り返すのである。繰り返しは、第一回目の祝祭に二回目、三回目を追加するということはできない。しかし、それは第一回目のそれにいわばn乗の力を加えていくのだ。この力との関係で、事柄は、いわば内側で再生し、すべてを巻き戻してしまう。ペギーがいったように、パリ祭がバスティーユの陥落を記念し再現するのではなく、バスティーユの陥落がすべてのパリ祭を祝い再帰させるものとして、毎回、新たに登場するのである。またはモネの最初の睡蓮がすべての睡蓮の中で反復されているのを発見するのである。こうして、個別的なものが一般化するという意味での一般性と、特別なものこそが普遍的な意味をもって回帰するという再帰性は反対する位置にあることになるのである。芸術の再現は認識的な枠組みからはずれた特別なものであって、詩が暗唱の繰り返しによって心にきざまれるものであるということはけっして偶然的なことではない。頭脳は交換の器官であるが、心は繰り返しにひたってしまう器官である(もちろん、再生には頭脳もかかわっているが、しかしまさにそれは頭脳にとっては一つの恐怖となり、既視感というパラドクスとなる)。ピウス・セルヴィアンは正当にも言語のあり方を二つに区分した。一つは科学の言語であって、等号によって支配され、その右項も左項も他の項によって代置されうるものである。もう一つは詩的な言語であって、どの項も代置されることはできず、ただ暗唱し再現されることしか可能でないものである。もちろん、再現は、極限的な類似、完全な等価として再構成されることはできる。しかし、人が次第に一つの事柄からもう一つの事柄に移ることができるからといって、それは二つの事柄が根本的に違うものであるという事態をなくすことはできないのである。

 歴史家にとってフランス現代思想の評価はむずかしいが、バタイユが肉体の唯物論だとすればドルーズには思考の唯物論という面があるように思う。その唯物論はモンテーニュの伝統とでもいうのか、人間主義的でシニカルでおもしろいと思う。サルトルよりはわかりやすい。どんなものでしょうか。

2013年5月12日 (日)

94九世紀の地震と現代は似ているのではないか。

 ある週刊誌から、「現在と九世紀の地震の状況は似ているのではないか。歴史学者としてどういう予測ができるか」という取材をうけた。以下は、それをテープにとったものを起こしたもの(感謝)。

 私は地震学者でも火山学者でもないので、地震・火山について具体的な議論をしたり、予測をしたりすることはできません。ただ、歴史学者として強調しておきたいのは、明治以降千人を超える死者が出た震災というのは十二回あることです。つまり一八九一年(明治二四)の濃尾地震は七二七三人の死者が出ていますが、以来一二〇年ですから、大体十年に一度、千人を超える人が亡くなった地震が起きていることになります。これは驚くべきことですが、3、11の前、私はこれを正確に認識しておらず、地震学の方にいわれてはずかしい思いをしました。このことは国民、市民の中に深い歴史知識として位置づいていないのではないかと思います。
 こういう死者の数は文明や技術が進んだからといって必ずしも減少するということはなく、むしろさらに大きくなる可能性は高いわけです。高度経済成長以降、一種金儲け優先の社会になってきていますから、国土や都市は脆弱になっていて、より多数の被害が起こる可能性を否定できません。
 それは結局のところ、国土計画や都市計画をどうしていくか、また日本の国土についての国民的な知識のあり方をどうしていくか、そのような問題に対して学術がどのような奉仕が出来るか、といった問題に関わってくると思います。そういう風に考えた上で、九世紀の地震を考えることがどう役に立つかということですが、歴史学者の立場からの見方なので、自然科学的には確定していない部分もあるかと思います。ただ、歴史学者の歴史感覚と判断で考えることは無意味ではないと思ってはいます。

 まず、九世紀の大地動乱との類似点についてですが、八六九年の陸奥沖地震と二〇一一年の東日本太平洋岸地震は同じ震源、同じ規模の地震であった可能性があります。東日本太平洋岸地震のマグニチュードは9.0、陸奥沖地震はマグニチュード8.3とも8.6とも言われていましたが、再評価が進んだ結果、M9.0に近い規模のものであった可能性がでてきています。九世紀には、陸奥沖地震の約10年後に南関東地震が起きています。この地震は関東大震災と同様の構造を持っており、相模トラフが動いた結果として相模、武蔵に大きな被害をもたらしたとされています。地震調査研究本部は、今後三〇年で同様の地震が起こる確率が高いとしており、この予測結果が正しいとするならば、今後、九世紀と同様に南関東地震が発生する可能性は確かにあると言えます。
 九世紀と同じ周期でこの地震が起こると仮定すると、二〇一一年の次に地震が起こるのは二〇二一年となります。これは一九二三年に起こった関東大震災の、約百年後ということになります。南関東地震にどういう周期性があるのかという点について、私ははっきりとしたことをいうことはできませんが、関東大震災の前に起こった同様の大きな地震は、七〇年ほど前の幕末の地震になります。これらのことから考えると、地震学的な見地から見ずとも、経験則からいって地震発生の恐れがあり、警戒する必要があるという構えは必要だろうと思います。
 さらに九世紀には南海トラフ地震が陸奥沖地震の三十年後に起こっています。これは非常に巨大な地震で、八ヶ岳で山体崩壊が起こっています。この地震があった年には、信濃の国で大洪水が発生しました。石橋克彦氏が最初に歴史史料の読みから推定した訳ですが、ここ20年以上の信州の考古学界の総力をあげた調査で、この洪水は地震による山体崩壊によって出来た堰き止め湖が、その後の梅雨と台風によって破裂したことによって引き起こされたものであることが確定しています。災害の復元図も作成されています。この事実は日本の歴史学会と考古学会にとって大きな衝撃でした。この巨大地震は、日本全国に影響を及ぼしていたことが史料からも明らかになっており、土佐沖、紀州沖での津波にもつながっていることから、この地震が東海地震の領域にも繋がっていたことは確実です。
 もし現代に於いて、この地震が九世紀と同じように30年後に起こると仮定すると、二〇四一年に発生するということになります。これは、一九四四年に起きた東南海地震、一九四五年の三河地震、一九四六年の南海地震の三つの地震の約百年後ということになります。三十年内に南海地震が発生する確率が六十%であるという、地震調査研究本部による試算と、南海トラフの地震発生周期が大体百年に一度、ということからも南海地震がいずれ起きるということは確実です。
 仮に地震調査研究本部の予測通りに地震が起きるとすると、陸奥沖での地震(M9.0)と南海トラフ地震という大規模なプレート間地震が二、三十年内に連続して起こるという、九世紀に起こった地震のテンポと非常に似通っているということになるといわざるをえません。プレート間地震の発生の様子が、九世紀と二一世紀で、非常に似ているということは、歴史的な知識として非常に重要なものだと思います。さらに、最近の地震学の研究として、内陸で発生する地震にも、プレートの動きが何らかの影響を与えている可能性が高いという見解が出てきているようです。単純に活断層が単独で動くのではなく、活断層の動きと、プレート間地震の間に関連性があるのではないかということです。このことから、内陸部で発生した地震の構造についても、九世紀と二一世紀で似通っている可能性があると言えます。
 九世紀と二一世紀の地震のもう一つの共通点として、逆に、地震の静穏期の問題があります。歴史学者としては、こちらの方にむしろ関心があるといってもよいのですが、明治から現在までの約百二十年の間に起きた十二回の地震の内、大正時代の関東大震災(一九二三年)から福井地震(一九四八年)までの二十五年間に、八回もの千人以上の死者を出した地震災害が集中しており、その後は一九九五年の阪神淡路大震災まで五十年間、大きな被害地震は発生しませんでした。つまり、地震の激しかった二十五年間は戦争に向けて社会が傾斜し、敗戦というみじめな結果をもたらした時代であり、その後の五十年は、いわゆる高度経済成長の時代で、よく言われるように、偶然大地が静かな時代だったということです。
 これは、九世紀でも同じようなことが起こっています。九世紀は平安時代の最初の一世紀にあたりますが、その前の奈良時代、八世紀の前半には、大仏の建立にも影響を与えたとされる河内・大和地震を筆頭に、地震が相当多い時代でした。しかし、その後半の五十年は、七九四年の長岡京地震まで、相対的に地震が静かだった時代です。歴史学の立場から見ると、大仏の建立に影響を与えた河内・大和地震や、長岡京から平安京への都の移転の最終的な後押しをした長岡京地震など、奈良時代の政治に地震が大きな影響を及ぼしていることが分かります。私は、この長岡京地震が大体百年に一度起こると言われる南海トラフ地震であった可能性があると想定しています。この前後から、七八八年の大隅国霧島岳御鉢噴火、七九六年阿蘇山神霊池異常、七九九年常陸国遠地津波、八〇〇年、八〇二年富士山噴火と続き、八一八年には北関東地震が起きます。この北関東地震が九世紀の大地動乱の最初のきっかけであったといってよいと思います。
そして、827年に京都群発地震。830年に出羽秋田地震、832年に伊豆国火山噴火。837年に陸奥国鳴子火山噴火、838年に伊豆神津島大噴火。839年に出羽国鳥海山噴火。841年に信濃国地震、北伊豆地震が連発。そして、850年には出羽庄内地震、855年には東大寺大仏の仏頭が落下した地震ということで立て続けになります。863年には越中・越後地震、そして864年には富士山が噴火を起こし、同じ年、少し遅れて阿蘇山神霊池噴火。866年には豊後国鶴見岳噴火。阿蘇山噴火という様子ですから、これは相当のものです。
 この、一時静穏期があったのち、9世紀第一四半期から地震が立て続けになるというのが、日本の20世紀の状況と似ているように思います。たしかに奈良時代後期から、平安時代前期にかけての時代は、ある種の高度成長の時代であったと思います。九世紀に起きた南海トラフ地震で起こった八ヶ岳の山体崩壊によって引き起こされた大洪水の下から、条里制の遺構が確認されており、このことは八世紀の半ば頃から進んでいた国土の開発が、九世紀後半の大洪水で覆われたことを示しています。一般的な歴史の常識として、この時代は、社会が乱れ多くの災害の被害を受けるなど、一種の貧困化が進んだ時代であるというイメージがありますが、現代の歴史家の見方としては、実際にはむしろ相当な発展期であったと捉える事が出来ます。気候的には温暖化の影響で旱魃が進み、地震や噴火に見舞われたにも関わらず、これだけの発展を成し遂げたというのは驚くべきことです。この発展が成し遂げられた理由としては、温暖化の影響はありましたが、逆に灌漑施設の準備があれば田地の開墾が可能であったこと、全国的な国家が出来あがり、富の移動と開発政策がとられたこと等が挙げられます。
 このような発展の時代の後、九世紀から地震の発生が再び起こり始めた。これにはやはり、現代との類似性を感じます。こういうのは安易な感じ方だという批判はあろうかと思いますが、しかし、大地の静穏の時期と動乱の時期が繰り返され、その周期が社会に影響を与えてきたのは事実です。これは日本の歴史にとって非常に大事なことであり、日本の国土と歴史の中で、このようなことが常に起こってきた、ということを歴史の常識として持っているべきであると強く感じています。

 この後、868年に、播磨地震・京都群発地震が起こり、そして869年に陸奥沖海溝津波と肥後国地震・大和地震が連続して発生します。そして二年後の871年には出羽国鳥海山が噴火しました。この噴火は東北の地震によって、プレートが沈み込んだ影響により引き起こされたものであることは確実でしょう。これはプレートテクトニクスの考え方と、現代の地震学の見地からも、マグニチュード9.0前後の地震の直後には必ず大噴火が起こる、ということのいい例であると言えます。先にふれたように、この直前には富士山の噴火も起こっています。火山の噴火と、プレート間地震の間には何らかの関係性があるといってよいのだろうと思います。さらにこの後の874年には、薩摩開聞岳噴火が起こっています。この十年後には南関東地震、八八〇年には出雲・京都で群発地震、三十年後に南海トラフ地震とふたたび立て続けになります。

 歴史学の立場から見ると、このように九世紀の地震と現在の地震の状況が、似通っていると捉えることが出来ますが、地震学の立場からこのような地震発生の類似性が、九世紀の1200年後に起きたことに何らかの法則性があるのかどうか、これはきわめてむずかしい問題のようです。地震の活発期が起こるというのも、ある一定の時期に集中して起こりやすいとする説や、活動期と静穏期のような周期があるとする説、そうではなく、全くのランダムで起こるとする説など諸説あり、決定的なものがないのが現状です。
 つまり、陸奥沖海溝地震と東海南海地震の間に、やく1200年経っている訳ですが、この間にいわゆるスーパーサイクルはあるのかとういことです。つまり、しばしば「大地動乱の時代」といわれますが、そういうものがある程度の期間で、一定の周期をもってやってくるのか。あるいは阪神大震災の後に「大地動乱の時代」に入ったということを自然科学の立場からいえるのかどうかという問題です。これはいわゆる「地震予知」にとってももっとも根本的な問題だろうと思います。
 これについては地震研の佐竹健治氏がスーパーサイクルモデルを提唱しています(「どんな津波だったのか」『東日本大震災の科学』東京大学出版会)。このモデルを当てはめて考えると、九世紀の貞観地震、一五世紀に起こった一四五四年の奥州津波、二〇一一年の東日本太平洋岸地震と大体七〇〇年のスーパーサイクルで地震が起こっていることが分かります。このモデルが本当に正しいのかということについて、全力を挙げて調査をするべきであると考えます。今の時代が、長い日本の自然史の中でどのような位置にあるのか、ということを把握し、七〇〇年サイクルというこのモデルが本当に正しいのか、ということを確定させることが出来れば、七〇〇年後、千年後には現在の知識を役立てることが可能になります。そのためにも今、この問題を確定させ、国民的な知識として定着させることは非常に大きな意味のあることであると思います。
 さらに、このスーパーサイクルが、南海トラフなどの他の地域においても存在するのか、ということも確認する必要があります。特に南海トラフには他の地域との連動という問題が存在しています。歴史史料を見ると、南海トラフ巨大地震は、まず東海で起こり、その後に南海で起こる傾向にあることが見て取れますが、このことは科学的に証明が可能なのか、また、百年単位で南海トラフ地震が起こるということがかなり早い時期から言われていましたが、これを自然科学的にプレートテクトニクスの理論によって客観的にあとづけることはできるのか、といった点が重要になってきます。
 その上、一〇〇年単位での南海トラフ地震が一定の理由があって発生するとした場合、それと整合的にスーパーサイクルを理解できるのか、ということです。東北での地震に七〇〇年のスーパーサイクルがあると仮定した上で、 南海トラフにもスーパーサイクルが存在し、それが東北と連動して同一時期に発生するとなるというようなことがいえるのかということです。まったく理学的な知識がない人間がいうのは躊躇はしますが、このことを明らかにするためにも、スーパーサイクルは本当に存在するのか、また東北以外の場所でもこのスーパーサイクルは存在しているのか、を確定させることは非常に重要な問題であると感じます。
 なにしろ、プレート間地震の周期性を、科学的に証明する、あるいは考えること自身がなかなか難しいようです。そして、その周期性を考えるためには、現代の観測データと、過去の地震についての文献史料、各地の考古学的な資料、及び地質データについて一件一件照合を行い、確認して行く作業が必要となります。この調査研究は、日本の地震学者にしかなし得ない研究ですが、その文献史料、そして考古学的な地震痕跡の調査も同じように日本史を研究する歴史学者にしかできないことですので、少しでも役に立ちたいということです。

 さて、最後にとくに念のために申し上げたいのは、歴史学者として現在と九世紀を比較して感じることは、少なくとも当面のところは、九世紀の地震ほど、現在の動きはきつくないということです。
 九世紀の地震が現在と似ていることは事実ですが、あまりにその類似をいって危機をあおるようなことはあってはならないと思います。もし、10年後に南関東地震が起き、30年後に南海トラフ地震が起きたとしても、少なくとも現在の状況では9世紀ほど地殻の状況はシビアではないように思います。もちろん、今後、9世紀に似た状況になるというのが最悪のシナリオで、その可能性は否定すべきではないと思いますが、現在の状況と物事を正確にみてみると、九世紀ほどの厳しい状況にはなっていません。
 九世紀に起こった大地動乱の厳しさの特徴は、三つあります。第一には、噴火が激しかったことです。事実として九世紀には、阿蘇山とと富士山が両方噴火をしています。九州を代表する火山である阿蘇と、東国を代表する火山である富士が同時期に噴火を起した、ということは当時の人々にとっては大問題であり、国家的な衝撃だったと言えます。    867阿蘇、その他にも異常を示している 800、864富士
 富士と阿蘇以外にも、火山活動は記録に残っており、九州では八七四年と八八五年に開聞岳、八四三年に霧島、八四九年と八六七年に鶴見岳等で異常が起こっています。これとは別に伊豆でも噴火が頻発しており、八三二年に伊豆のどこか、八三八年には神津島の大噴火、八八六年には新島で噴火が起きています。八五六年には安房で火山灰が降ったという記録があり、伊豆からの火山灰がそこまで届いたと考えられます。東北方面では八三七年に鳴子火山群、八三九年と八七一年に鳥海山などで噴火が記録されています。
 またこれまでに挙げた火山以外にも、赤城、日光白根、蔵王、白山、肥前国温泉岳等で異常があった可能性があるようです。『大日本地震史料』によると、これらの山の神社の位が異様な高さに到達しています。これは山々が何らかの神の力を示したために位を上げたと考えるのが合理的であろうと思います。つまり、これらの山々で噴火や火山性地震が起きていた可能性があります。
 これらをあわせてみると、九世紀には非常に多くの火山噴火が起こっていたことが分かります。もちろん、現在でも、3.11後に秋田駒ケ岳、浅間山、日光白根、箱根、焼岳、富士山などで有感地震が観測されています。また他の火山でも揺れは観測されていますが、有感地震ではありません。現代よりも多くの山で有感地震があったと予想され、このことからも九世紀の日本列島における火山活動が非常に活発だったことが推測出来ます。勿論現代においても、富士や箱根などで噴火が起これば大変なことになりますが、当面は想定されていません。九世紀においては、火山と地震が連動して起こり続け、最終的には十和田湖において有史最大の噴火まで起こっています。この火山活動の活発さが、現代と九世紀との最大の差である、と言えます。
 現代との相違点の第二には、京都と近畿地方が激しくゆれたことです。現代においても阪神大震災が起こっていますが、八,九世紀には京都は何度も大きな地震に見舞われています。京都の東側を通る花折断層によって引き起こされた、この群発地震は、当時の朝廷や政治に大きな影響を及ぼしました。これは十世紀まで続いており、平将門の乱の直前にも地震が発生し、当時の朝廷は将門の乱と地震の両方に、同様の危機感を持っていたと推測されています。列島の中央部が何度もゆれたということがどういう意味を持つことかはわかりませんが、日本の地殻の変動が、その時期に激しく起こったということの一つの重要な表現であり、地震学的にいっても重大なのだろうと思います。現在、京都では大きな地震は観測されておらず、これは九世紀との大きな差としてあげることが出来ると思います。
 第三の差異としては、九世紀には朝鮮半島まで揺れていたことがあります。貞観地震において東北が揺れ、その後に大和、肥前においても地震が発生し、その直後に朝鮮半島で地震が発生しています。朝鮮半島には地震史料として残っているものは非常に少ないため、詳しくは分かりませんが、これはユーラシアプレート全体が貞観地震の影響を受けていると言えると思います。同様の事象は、その後の一五世紀の地震においてより明確に起こっています。一四五四年の一二月に起きた奥州津波の約一月後に、朝鮮南部で大地震が起こり、多数の圧死者が出ているという記録があり、この一五世紀の地震は、九世紀よりも明確に日本列島と朝鮮半島で連動して起こっていたことが分かります。地震学の研究者によって一五世紀から一七世紀までは、東北アジアにおける地震の広域的活動期とされていますが、九世紀も同じような活動期であったことが予想されます。また、一,二世紀にも同様の地震と津波が起こっていたとする研究者もおり、ちょうど七〇〇年ごとのスーパーサイクルで地震が起こっているともいえます。このスーパーサイクルが本当に存在するものか、ということは定かではありませんが、この一連の活動期の中で、朝鮮半島もその影響を受けて地震に見舞われていたことは明らかであり、少なくとも現代において、朝鮮半島での地震が観測されておらず、現状は九世紀と比較するとそこまで厳しいものではない、と言えると思います。

 大きな地震が頻発する時期が、八世紀から十世紀まで続きましたが、この時期は、いまのところ、日本の歴史上でも最大の大地動乱期であったと言えると思います。内陸での地震発生状況などからみても、現在の状況より激しい状態であったのではないでしょうか。当時の人口が現在と比較して非常に少なかったこともあり、九世紀のような状況でも、地震による死者の数は少なかったため史料の表現も違ってきますので、単純な比較は出来ません。ただ、現在までに明らかになっている自然の動きは、九世紀ほど厳しいものではないことは確かです。
 もちろん、九世紀と現在では国土のあり方が変遷しており、九世紀ほどの規模でなくても、与える影響は大きいということはいえる訳です。そもそも九世紀の陸奥地震では一〇〇〇人の死者といわれている訳ですが、今回の3,11ははるかにそれを越え、さらに原発の被害は予断を許さない訳ですから、九世紀と現代の比較というのは問題の設定自体がむずかしいといえるのかもしれません。

2013年5月11日 (土)

歴史用語について、ふたたび

 以下はしばらく前にかいたもの。授業で話したことの一部

 今日はある大学で話。残務の処理に史料編纂所に寄る予定であったが、準備している間に思わぬ問題がでてきて、それを詰めて点検している間に、時間がなくなって直行する。
 学生との世代的な違いがありすぎるという感じが強く、どういう話ができるかとは思っていたが、自由にいいたいことを話していると、それなりに時間は過ぎていき、若干、時間をオーバーする。
 彼は金融論というI君がレポートをしてくれたので、それへのコメント。専攻とは違う、奈良時代の政治史について精細なレポートをしてくれる。
 私は、学術としての歴史学にとって歴史用語の読みなどはなかばどうでもいいことであると考えている。しかし、固有名詞の読みはレポートの途中で、おのおの指摘せざるをえず、どうも、申し訳ないので、レポートの後にまず歴史学と固有名詞についての業界的な説明をする(ただしこれは私の感覚なので業界一般である保証はない。
 まず、研究者の名前について。社会的には名前をまちがえるのは失礼であるが、研究作業にとっては一つの符丁なので気にしなくてよい。「あれ、これは非常識だったかなどと感じる必要はない。研究者は相互に学問の中身だけが問題なので、名前の読みは二次的な問題。もちろん、研究者としての相互関係は、「この門を入るものは一切の希望をすてよ」という訳ではない。同じ地獄に入っているという訳ではない。しかし一種の修道院に入っているようなものであるということは今も昔も変わらない。専門性におうじて社会関係との関わりは多様で、一筋縄ではないが、こういう感覚は出発点の一つだと思う。
 その後は、まず元号・年号について説明する。そもそも王の在位期間や恣意によって時間を区切るなどという思想は、時間の客観性を追求するのが第一の役割である歴史学にとっては不愉快な「子供だまし」である。しかし、元号は日本史の史料をあつかう以上、手間だが、それなりに覚えざるをえない。たとえば弘仁・承和・貞観の前後関係ぐらいは徐々に覚えざるをえないが、それは日本史とつき合う以上、やむをえないということである。そこは醒めているということになるが、歴史の客観的な経過は、(もちろん改元により雰囲気をかえようという動きはあるとはいえ)改元では変化しない。それ故に、まずは西暦に変換するくせをつけることが必要である。そのためにはワープロで西暦と元号の変換を登録しておくとよい。この西暦変換をやりながら、時間の客観性を感じながら物事を考えるというのが前近代の日本史研究ではとくに必須の習性になる。
 その上で、元号で歴史上の事件を呼ぶのは非学問的な行為であることの説明もする。たとえば「承和の変」というのは、それ自身として無内容な用語であって、無駄な記憶の賦課を歴史知識体系にかける。「薬子の変」は平城上皇クーデター、「承和の変」は恒貞廃太子事件などと呼ぶべきものであることを説明する。しかし、学界の側がターミノロジーを一致させるということは、結局、研究によって「事件」の実像をどこまで明瞭にできるかにかかっている。そして、そもそも歴史学界というのも業界なので、ムラの業界用語を自己批判的に点検するということはなかなかむずかしく、そういう点では、すべてを疑うという原則が必要となるという実情も伝える。
 こうやっていくと社会的な歴史常識においては元号を記憶する賦課がへるが、問題は、ぎゃくに記憶するべき人名がふえていくことで、従来は「承和の変」のみ覚えていればよくて、恒貞などという名前は覚えなくてよかったものが、少なくとも経過的には「承和の変」と同時に恒貞という名前を覚えるという手間が生じる。こうして関係の人名リストが増えていくことになるが、これはしょうがないとあきらめるほかはない。
 ただ、人名に関係する固有名詞として『小右記』だとか『中右記』だとかいう史料名がある。『小右記』というのは小野宮実資が右大臣を極官としたのによる、「小」と「右」をとって日記名としたもので、これは歴史家にとっては不要な言葉である。ただ、歴史家としては、これも必要悪で覚えざるをえないし、論文でも引用せざるをえないから、同じように、変換データを作っておいて、『小右記』と入れて変換すると、『藤原実資日記』となるようにしておくと便利であるなどという。なお、『小右記』というのは教科書などにもでてくるが、これは本来教科書にはのせるべきでない。
 こうして、こういう固有名詞は、結局、歴史分析の中では、相当部分が「人物史」「個人史」の分野の問題に関わってくる。どれだけ、その個人のイメージを明瞭にできるかということが勝負になる。その場合、たとえば聖武天皇をとってみれば明らかなように、人物史の常識的な評価には相当の問題があることを前提としておいた方がよい。「すべてを疑え」である。いわゆる「人物史」は要するにすべて政治史の理解に関わってくる。歴史学一般で、「すべてを疑え」というのが学術的な原則であるが、歴史学でとくに疑うべきなのは政治史である。
 というような話をした。ここまではわかりやすい話。
 その上で、むしろ必要なのは、一般名詞、とくに動詞や形容詞などのいわゆる用言の理解になることも説明する。これはうまく話せなかった。具体的な例にそくして話さないとだめであろう。
 ともかく、われわれの世代からは小学館の『国語大辞典』の位置が大きくて、名詞の理解は相当初心者でもできるようになった。この点では、50年・60年前に研究をはじめた人には信じられないような研究用具の改善があった。これを全面的に利用することが必要である。人文系の学問は、所詮、言葉の学問というところがある。その上で、研究の現状からいって、形容詞・動詞は、まだまだ議論は可能で、しかも用言の方が、前近代人の日常意識は反映している。その細部を読む訓練に集中し、どうでもいい固有名詞を記憶するのは徐々に貯まっていく記憶の成り行きにまかせるという構え方が必要になるという、これも一般的な説明をした。
 さて、これを書いていて、あるい尊敬する研究者が、ほとんど固有名詞を知らない。それで本当に歴史をやっているのと娘さんにいわれたといっていたことを思い出した。ともかくも、私は、固有名詞に対するある種の嫌悪ともいうべき感情が、歴史を細部においてみるという研究姿勢において決定的に重要であり、かつその延長線上に歴史の理論的な理解の道が開いているものだと思う。これが史料を読むというところから歴史の方法に直通していく道であるのだと思う。
  前回は、「史料を読む」「歴史の方法を考える」「通史」という三つの事柄は、歴史学にとってはつながっている。「史料の細部を読む」ことは、歴史の方法的な考察につながり、さらにその先に、全体像と通史というものがあるのであろうと思う。

2013年5月 9日 (木)

93地震痕跡の標準的調査方法(『考古学からみた災害と復興』)

 連休前後は少し調子を悪くして出ることもできなかったが、歴史地震の文理融合的な研究のあり方について考えることが多い。歴史地震の文理融合的な研究にとっては地震学・地質学・考古学・文献史学の協同が決定的な意味をもっていることをあらためて考えている。
 その延長もあり、明日話しをせねばならないこともあって、818年(弘仁9)の北関東地震について勉強。『歴史のなかの大地動乱』では枚数の制約もあってほとんど書けなかったが、この地震は広域的な考古学的な地震痕跡の調査が成功していて、被害の実態がよくわかる事例のトップにある。ここには東国の考古学関係者の実力がよく現れているように思う。私の本などは、ともかく大枠を歴史学の側から描いてみるという性格の本なので、こういう考古学の仕事には頭が上がらない。
 それをよく示しているのが、昨年2月に行われた東国古代遺跡研究会の主催で行われたシンポジウムの記録『考古学からみた災害と復興』の論文のうち、山下歳信「赤城南麓の災害と開発」、田中広明「弘仁の大地震と地域社会」、高井佳弘「弘仁の地震と上野国の瓦葺き建物」の三論文である。どれも、北関東における818年地震の考古学的な分析を行っており、興味深い。明日は、それを要約して他人のレポートに追加説明をする予定。
 山下氏の論文は全体的な概況の展望、田中氏の論文は竪穴住居と倉庫に対する地震被害の痕跡の詳細な追究、そして高井氏の論文は瓦からみた上野国分寺の地震災害の復元的な分析で、どれも有益なものである。

1  この画像は、田中論文にのっている竪穴住居が地割れによって「側方流動」した様子を示す図面である。「古墳は巨大な地震計」というのは、地震が古墳の整った形を壊すことからとった地震考古学の寒川旭さんの名言であるが、同じように「竪穴住居は小さな地震計」である様子がよくわかる。
 そして、この田中氏の論文は地震学の人にとっても重要なものだと思う。

 つまり、田中氏は、考古学的な発掘によって、地震の局所震度、局地的震度を厳密に考えることが必要であるという前提にたって発掘・記録・研究の方法論を展開している。
 つまり、遺跡の地震痕跡分析においては、(1)液状化現象によって壊された遺構はどこに立地するのか(被害の実態は遺跡単位ではとらえられない)、(2)液状化現象による噴砂はどこに砂脈を形成したか(噴砂の走行は堆積層と震度の複雑なメカニズムが存在する)、(3)地盤の形成層と砂脈の幅は関係するか(砂脈の幅を砂脈ごとに記録する)、(4)液状化現象によって断層が生じたか(遺跡底面・床面に上下の食い違いがみられるか、また床面傾斜がみられるか)、(5)液状化現象で側面流動が発生したか(遺跡の平面的な食い違いがみられるか)。
 この五点を正確に調査・記録して局所震度を判断する。それは次のようなものだという。

震度5弱 遺跡に残る液状化現象は確認しにくい。
震度5強 旧河道、後背湿地などに液状化現象がみられる。
震度6弱 自然堤防上の集落遺跡で液状化現象の痕跡を確認できる。一部に上下の断層がある。
震度6強以上 自然堤防上の集落遺跡では、液状化現象で側方流動が生じた。地表に陥没が起こり、旧表土ごと沈み込む。

 これは明解な規定である。こういう規定を地震学・地質学・考古学で共有して精密な震度測定をしていくことが必要なのであろうと思う。これを十分な人員と費用と体制をかけて100年やれば、相当に正確な歴史地震の震度分布図ができあがるのだと思う。これによって寒川旭氏の仕事のあとを継ぐことが可能になるのだと思う。
 以前、このブログの地震火山11で寒川旭氏の『地震考古学』の紹介をすると同時に、次のように述べた。

 これは日本の考古学の新しい社会的役割が発見されたということでもあるように思う。それまでも、考古学は地面と地盤を調査するという意味では地質学と深く関係するものではあったが、これによって地震の痕跡を調査し記録するという新しい役割が生まれた。国家や各自治体は、それを十分に認識しているだろうか。遺跡調査がなぜ必要かということを自治体や市民に説明することはおうおうにして困難をともなうが、これは絶対的な必要であるように思う。考古学の位置づけを考え直さないとならないし、調査体制の強化が実際上の必要であることが強調されてよいと思う。
 千葉では幕張と美浜町で液状化が起きているが、自宅近くをみても各地で液状化が起きているに相違ない。現代の通常の生活では、地盤というものを意識することがないように思うが、これは地域で共有しなければならないものなのかもしれないと思う。表面の利用・占有は私的に行われるものだが、地盤それ自身は共通するものだから、何らかの意味での共有を考えざるをえない。いわゆるコモンズ(社会的共通財)であるということの意味を正確に考える必要があるのだと思う。コモンズとしての土地・大地というと、ことあたらしいが、歴史学では従来からいう「共同体所有」あるいは網野善彦さんが強調した「無縁」の問題が、これにあたる。

 この記事は二年前の3,21。東日本太平洋岸地震の10日後である。あの時、こう考えたことの内容が徐々に自分でもはっきりしてきているというのは一つの進歩であると思うが、しかし、自分にとってはあまりに遅い。
 
 なお、高志書院から『古代の災害復興と考古学』が高橋一夫、田中広明編ででるらしい。これは編者からみて上記のシンポジウムを反映したものであろうか。5月末の発行予定となっているから、歴史学研究会の大会には間に合うのだろうか。文献史学、地震学・地質学関係者にとっても有益な本であるに違いないと思う。
 アマゾンでは「遺跡には災害のさまざまな情報が凝縮されている。本書では、考古学・歴史学等の研究者が遺跡のもつ多様な情報から古代の災害と復興の実態を克明に考察する。喫緊の課題である減災に向けて、考古資料が発信すべき今日的役割と何か! 土地に刻まれた災害と復興の痕跡に正面から向き合い、真摯に問いかける初めての考古学論集」とある。
  

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